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[再]光る君へ(20)望みの先に★3

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0078公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 14:00:48.56ID:6A4ALvgW
>>67
かなり現代語訳口調だけど、朝廷関連用語も普通に登場するし
ドラマあまり作られてなくて馴染み薄いかも
0079公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 14:02:03.45ID:uGSsltlw
>>77 >>46
また、当時の芦屋は今より海岸線が内陸にあり親王塚は海からも望めたが、その沖を行く船は帆を下げて親王に敬意を表したともいわれている。
 戦国の西の雄、毛利氏は大江音人(おとひと)の末裔にあたるが、(一説によると)音人の実父とされる阿保親王を祖と仰ぎ、江戸時代に長州藩が親王塚の大改修をおこなっている。
 一方で、阿保親王が芦屋一帯を所領した、打出で没したという記録は正史にみられない。親王とこの地を結ぶのは伝説や伝承による部分が大きいが、今なお芦屋の人々は阿保親王に親しみを覚えている。
0080公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 14:02:13.24ID:/1Q8nS43
>>66
女院が関与してない倫子単独犯だと、女院が都合よく病に倒れてくれないと呪詛が成立しないからな
0081公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 14:02:27.66ID:74WfjJKj
>>67
また枕草子読んでみようかな
あと源氏物語も
0082公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 15:42:32.29ID:uGSsltlw
御由緒と御神紋 | 賀茂別雷神社(上賀茂神社:かみがもじんじゃ)公式Webサ https://www.kamigamojinja.jp/about/yuisho/
上賀茂神社について   御由緒と御神紋   御由緒
神代の昔、本殿の背後北北西に位置する秀峰・神山に御降臨になり、第四十代 天武天皇六年(677)には、山背国により賀茂神宮が造営され、現在まで殆ど変容することのない御社殿の基が築かれました。
第五十代 桓武天皇による平安京遷都以降は、皇城鎮護の神・山城国一之宮として歴代の天皇が行幸・奉幣祈願され、明治時代以降大東亜戦争終戦まで伊勢の神宮に次いで全国神社のなかでも官幣大社の筆頭となりました。
古より皇族はもとより、貴族、武家の社参相続き、現在も多くの人々に崇敬されています。
平成六年には二十三万坪の境内全域が「古都・京都の文化財」の一つとして世界文化遺産に登録されました。
上賀茂神社から見た神山   御神紋    上賀茂神社 御神紋
上賀茂神社は、社殿のそこかしこに葵(二葉葵)の文様が刻まれた金具で飾られています。また北東の杜には二葉葵が群生し、訪れる人々を迎えます。
葵は古く「あふひ」と読み、「ひ」とは「神霊」神を意味し、葵とは「神と逢うこと」であり、また「逢う日」でもあるのです。
御祭神降臨の際に「葵」を飾り祭りをせよとの御神託があったことから、御神紋となり社殿を飾り、神と人とを結ぶ草として古来大切に守られてきた植物でもあります。
0083公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 15:45:55.80ID:uGSsltlw
>>82 上賀茂神社について    御神話  御神話
上賀茂神社 御神話1 太古の昔、神代の時代に遡ること天上で雷鳴が轟き、一本の丹塗矢にぬりのやが降って参りました。
上賀茂神社 御神話2 山背國に移り住んだ賀茂一族の姫である賀茂玉依比売命かもたまよりひめのみことが石川の瀬見の小川(現在の賀茂川の上流)で身を清めているとき、川上より流れて来たその丹塗矢を不思議に思いお持ち帰りになられます。
上賀茂神社 御神話3上賀茂神社 御神話4
その矢を丁重に扱われ、床に祀りおやすみになられたところ、矢に籠もっていた不思議な力によってご懐妊され、立派な御子をお産みになられました。
お生まれになった神を当初は御子神みこがみと申し上げ、御子が元服を迎えしとき、祖父であり一族の長である賀茂建角身命かもたけつぬみのみことが八尋殿やひろどのを造り、数多の神々を招き七日七夜の祝宴を催されます。
祝宴の席で賀茂建角身命が御子に対し「父と思う神に盃をすすましめよ」申され盃を渡したところ、御子神は「我が父は天津神あまつかみなり」と言って盃を天上に向けて投げ、甍いらかを破って雷鳴とともに天へ昇ってしまわれました。
0084公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 15:47:28.23ID:uGSsltlw
>>83 >>82
上賀茂神社 御神話5 残された賀茂建角身命、賀茂玉依比売命が再び御子に会いたいと乞い願っていたある夜、賀茂玉依比売命の夢枕に御子が顕れ「吾れに逢はんとは、天羽衣・天羽裳を造り、火を炬き鉾を捧げ、又走馬を餝り、奥山の賢木を採りて阿札に立て、種々の綵色を垂で、また葵楓の蔓を造り、厳しく餝りて吾をまたば来む」とのお告げを聞き、その御神託に従って神迎の祭をしたところ、立派な成人のお姿となり、天より神として神山に御降臨されたと伝わっております。

この御子神が当神社の御祭神「賀茂別雷大神かもわけいかづちのおおかみ」であり、そこで祭りが始まった事が上賀茂神社の起源であります。
『「釋日本紀」所引、山城國風土記逸文』、『賀茂舊記』より
0086公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 19:16:07.59ID:uGSsltlw
歴史 | 紫野 今宮神社http://www.imamiyajinja.org/history/
古きより子宝祈願を斎行し良きしるしの兆すことを願う人々で賑わう、若宮社の変遷
この紫野の地には平安建都の以前より疫神を祀る社があったと伝わります。
当時には愛宕(おたぎ)郡鷹峯に鎮座した愛宕社の神が、その疫神の鎮さえの神であったとされています。
愛宕社は伊弉那美神を御祭神とし、子宝・安産の御神徳を以って信仰の篤い社です。天応元年(781)、鷹峯の愛宕社は慶俊僧都・和気清麻呂により王城鎮護の神として今の愛宕山上へと遷されていましたが、その遷座にあたって御分霊をこの紫野の地にいただき、疫社相殿の若宮神として創祀することとなりました。
弘仁元年(810)、薬子の変収束のあと、嵯峨天皇は戦勝祈願の誓いをもって有智子内親王を斎王とし、紫野雲林院村に座所をおかれました(※)。これが賀茂斎院の始まりであり、その座地の名から紫野斎院とも呼ばれました。紫野に斎院を興すにあたっては、薬子の変に処罰された藤原薬子や藤原仲成らの御霊を恐んで、鎮疫の若宮神が相坐す紫野の疫社に併せ鎮め祀ったと考えられます。
長保元年(1001)、都に蔓延する疫病を鎮めるため朝廷は疫神を祀る紫野の地において御霊会を修しました。新たに神殿を造営して疫神とともに三神を創祀し、この新たな社を今宮と号しました。このとき、疫社の相殿神として祀られていた若宮神並びに御霊神(現在向かって左に若宮と号す)は別社に遷し合せ祀られ、ここに今宮社が成立するとともに境内末社としての若宮社が形成されることとなりました。
建暦二年(1212)、紫野斎院は廃絶され、歴代賀茂斎王の霊は斎院の創祀に由縁のある紫野の若宮社へと合祀されました。こののち若宮社は若宮神・御霊神・紫野斎院の相殿神の社となり、お社の名が紫野斎院とも呼ばれるようになっていきました。
0087公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 19:17:40.01ID:uGSsltlw
>>86 元禄六年(1693)から翌七年にかけて、徳川五代将軍綱吉の生母桂昌院の肝いりで大規模な境内造営が行われ、ほぼ現在の境内社殿配置が整えられました。当社に伝わる『元禄六年戴日記』には「古之本社アラマシ之図」としてその桂昌院造営前の境内図が残されています。
図には、本社殿の北西の辺り鷹峯を指す方に相殿と記され、若宮社と紫野斎院が相殿の社として祀られていたことがわかります。
元禄の御造営で、若宮社は本社殿の北西から南西の方東の正門に向い合う位置へと遷され、社殿の再配置に色濃く反映された桂昌院の願いの中でも若宮社には格別な思いが込められていたことが伺えます。
この頃には、今宮社への信仰はかつての御霊鎮めから、桂昌院の愛郷の思いが示すように氏子地域の護霊すなわち護り神へとその性格を変えていきました。それとともに若宮社も子宝・安産の神としての信仰が強まっていったものと思われます。桂昌院の一番の心配は綱吉に世継ぎの男子がいないことでした。
古来、子宝授けの信仰篤い愛宕神・若宮社を遷営し、併せて拝殿を造営した桂昌院の思いは、氏神の社今宮に対する崇敬は固よりとして、若宮の社への世継の誕生の願いにほかならないのです。
今宮祭の御車として今も巡幸する御牛車が、桂昌院より寄進されています。
現在、御車は若宮社の相殿神若宮の神霊を戴いて、かつて賀茂斎院がおかれていたあたり、西社の町の人々によって供奉され巡幸しております。
若宮社の成り立ちは時代とともに変遷を辿ってきましたが、御祭神への子宝信仰は古より変わらず続いており、そして今もまた、その神前に子宝祈願祭を斎行し良きしるしの兆すことを願う人々で賑わっています。
※ 薬子の変(810)に際し、嵯峨天皇は賀茂大神に対して、対立する平城上皇との争いに勝利することができたならば、大神に皇女を捧げ神迎えの
  儀式に奉仕させましょうとの祈願をかけました。
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