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[再]光る君へ(20)望みの先に★3

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0039公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 13:50:42.04ID:74WfjJKj
>>14
すごいわ
枕草子って、宮中に備えてる時かと思ったけど
落ちぶれた時に書いたって思うとすごい
0040公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 13:50:51.87ID:TqdPfx7M
実資は何でも日記に書いてしまう
伊周のみっともない抵抗も
道長の高慢ちきぶった歌も
0042公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 13:51:29.20ID:hBrIh8Jc
とても面白くてありがたいが
このドラマみるときだけ字幕ONにしないと内容が伝わってこないのがつらい
0044公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 13:51:57.18ID:/6wwsKHB
いちおつ

前スレで書きそびれた

髪なんかーーーーいい!!
0047公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 13:52:07.64ID:FOE+NykR
定子てもう子供産んでるんだっけ?
0048公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 13:52:14.13ID:Rlj5VzyB
>>39
定子様に元気になってもらいたくて書いたんだろうなあ
なんかもう枕草子読んだら泣きそうになるかも
0051公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 13:52:41.20ID:iaRzq84n
>>39
彰子紫式部、定子清少納言とライバルといいつつ時期的にずれてるのも知らなかった…
色々知れて楽しいい
0052公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 13:52:51.97ID:uGSsltlw
下鴨茶寮とかの下鴨神社 歴史
賀茂建角身命・八咫烏伝承  当神社がまつられたのは、崇神天皇の7年(BC90)に神社の瑞垣の修造がおこなわれたという記録があり、それ以前の古い時代からまつられていたとおもわれます。
先年糺の森周辺の発掘調査で縄文時代の土器や弥生時代の住居跡がたくさん発掘され、それを裏付けています。また社伝や歴史書に、お祭、社殿、ご神宝等の奉納などが記録されています。
『続日本紀』の文武天皇二年(698)には、葵祭に見物人がたくさん集まるので警備するように、という命令が出された、という記事があります。このことから、奈良時代より前から当神社が大きなお社で、盛大なお祭がおこなわれていたことがわかります。
平安時代には、国と首都京都の守り神として、また皇室の氏神さまとして、特別の信仰を受け、別項に記します式年遷宮や斎王の制度などがさだめられていた特別な神社であったことがしられます。
そして『源氏物語』や『枕草子』など王朝文学にしばしば登場いたしますように、この時代の文化、宗教の中心地の一つとして栄えました。
平安時代末期になりますと全国に60余箇所もの荘園、御廚が寄進され神社をささえました。 鎌倉時代、室町時代、そして戦乱の世になっていくにつれ、各地の荘園も連絡が次第に絶えて行きますが、代わって国民の信仰が神社をささえていくようになりました。
神殿守(殿司)とよばれる人々が全国をまわってご神徳を説いていくのもこのころです。当神社を舞台とする、数多くの能(謡曲)などに、そのころの様子がうかがわれます。また国の重要な出来事には、かならずご祈願が行われました。 江戸時代にも、国と国民の幸福を祈願する神社として、神社の運営のため幕府より領地が寄せられました。 明治初年、全国の神社の代表として、官幣大社の首位におかれ、今日まで国と国民のための祈願を日々おこなっています。
0053公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 13:52:58.39ID:hBrIh8Jc
>>40
ペンは剣よりも強し
そういうので歴史が正しく伝わるのはすばらしいこと
よって実況民もどんどん実況スベシ
0054公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 13:53:17.94ID:Rlj5VzyB
>>46
うん、そう(´・ω・`)
応天の門は、業平が高子様との駆け落ち失敗した後の話だね
0056公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 13:53:52.89ID:74WfjJKj
>>48
春は曙のイメージが変わってくるわ
中学時代、大河ドラマ見てから古文の授業受けたかった
0058公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 13:54:07.89ID:iaRzq84n
>>42
字幕オンにすると下の文字見てる間にドラマの内容見逃しちゃうこと多いんだよね
1秒もないのに二度見した時に見逃しに気付いてびっくりした
0059公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 13:54:15.97ID:VtJxno4N
>>35
この時代の感覚としては京都以外はアフリカかニューギニアみたいなもの
さらに国司としての赴任なら税収納の仕事もあるので搾取やり放題というご褒美がつくが役人としての赴任では持ち出しの方が多いくらいで全然稼げない
0060公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 13:54:18.47ID:Yb7mruWk
今回の大河のおかげで歴女が大量生産されそうな予感
0062公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 13:54:41.65ID:uGSsltlw
>>52 創祀

創祀の年代を特定することは出来ないが、『日本書紀』神武天皇2年(BC658)2月の条に、当神社御祭神、賀茂建角身命を奉斎していた一系流「葛野主殿県主部」との氏族の名がみえる。
この氏族は、賀茂建角身命の先の代、天神玉命を祖神とする鴨氏と同じ氏族であったことで知られている。 また、『賀茂神宮賀茂氏系図』には、賀茂建角身命の子、鴨建玉依彦命より11代後の大伊乃伎命の孫、大二目命が鴨建角身命社を奉斎していたことが記されている。その社が、今日の賀茂御祖神社の始源の社の一社であろうとされている。

崇神天皇七年(BC90)には、社の瑞垣が造営(『鴨社造営記』)され、垂仁天皇27年(BC28月には、御神宝が奉られている。
(『同書』)また、緩靖天皇(BC580)の御世より御生神事が行われた(『旧記』)との伝承があり、欽明天皇5年(544)4月から賀茂祭(葵祭)(『本朝月令』『年中行事抄』)が行われていることからみて、創祀は西暦紀元をはるかに遡るものとみられている。
0063公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 13:55:00.58ID:74WfjJKj
>>42
それこそ、この実況とか
考察のYouTubeとか見るといいよ
俺は武士道チャンネル見てる
0065公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 13:55:26.01ID:iaRzq84n
>>56
今なら古文も興味深く見れるよね
和歌成分ももうちょっと分かりやすく入れてくれないかなあ
0066公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 13:55:27.76ID:ZJxvWr3O
先週も呪詛の件で終わった後もかなり論争してたけど
やったのはユースケで姉は乗っかっておっとり奥方は察した口か。
0067公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 13:55:54.25ID:hBrIh8Jc
>>56
ある意味でのリスキリング
今からでも知識をつけるのはいいことだ

>>58
家のテレビの問題だがそもそも字幕に黒背景がつくから邪魔になるのよ
とはいえ古語儀式地名的なセリフが字幕が無いとわからんくて
0068公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 13:56:24.66ID:/1Q8nS43
>>35
地球から火星や木星に行かされる感覚なのかも
0069公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 13:56:28.72ID:iaRzq84n
>>60
いや~今は見てて楽しいけど
もともと興味ある人じゃないとまずドラマ自体を見てないと思う
0070公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 13:56:48.49ID:Rlj5VzyB
>>61
陰陽師は小説で読んでたけど、自分も応天の門はコミックだけだし続けて読んでる
絵がとても好きだし、結構ためになる
0071公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 13:56:52.10ID:VtJxno4N
>>56
ひたすら楽しい話書いてんだよな、なお紫式部日記ではあいつ賢いつもりで頭悪い奴とボロクソに書かれている模様
0072公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 13:57:26.76ID:hBrIh8Jc
>>60
視聴率的にそれは無いんじゃね?
X(Twitter)の盛り上がりがそれなりだからワンチャンあるとはおもいつつも難しそう

>>63
武士道かあ
俺そこまでネトウヨでもなくてなあ
0073公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 13:58:28.10ID:74WfjJKj
>>72
武士道は全然ネトウヨじゃないよ
あまり右左はない
0074公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 13:59:03.57ID:gmN3wqMO
>>18
髪は女の命、とか知らん人?
あ、男性にも命かな。

と言う訳で、再放送も視聴しました。
改めてみたら、道長は姉上が何かやらかすの分かってそうだった。
自演の病気で自演の呪詛ですな。
0075公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 13:59:27.94ID:iaRzq84n
>>66
ミステリー要素入れるならちゃんと正解とヒントを分かるように流さないとならないよ
推測だけじゃ決着つかないもの
SNSウケというか視聴者に議論させるつもりなのかもしれないけど
0077公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 14:00:21.82ID:uGSsltlw
>>46 阿保親王と芦屋 https://kobecco.hpg.co.jp/6439/
阿保親王と芦屋 カテゴリ:住環境, 芦屋 芦屋翠ヶ丘に暮らす 翠ヶ丘の「翠」とは、阿保親王の御陵とされる親王塚を包む森に生い茂る
翠松に由来するともいわれている。一体、阿保親王とはどんな人物なのだろう。
 阿保親王は平安遷都の2年前の延暦11年(792)に、平城(へいぜい)天皇の第一皇子として生誕。桓武天皇の孫にあたり、在原業平の父でもある。本来なら天皇になるべき人物であったが、不運にも平城天皇が寵愛していた藤原薬子(くすこ)が平城京の再遷都を画策し破れた薬子の変(810年)に関わったとされて太宰府に流された。その後、弘仁15年(824)に叔父にあたる淳和天皇の恩詔により帰京を許され、宮内卿や兵部卿などを歴任。
承和9年(842)の承和の変の際には弾正尹(だんじょういん)(風紀取締の長官)として謀反を察知して未然に防いだという功績をあげたが、同年に打出にて51歳で薨去したと伝えられる。
 そんな阿保親王には、芦屋周辺を所領地にしたという言い伝えがある。延暦4年(785)に淀川と神崎川を繋ぐ水路が開削されて京から尼崎へ船で出るルートが開かれると、風光明媚な芦屋の地は「都心に一番近いシーリゾート」として貴族たちに愛顧されるようになったが、阿保親王もまたここに別邸を構えていたのであろう。
阪神間モダニズムも都心に近い別荘地として評価されたことが発展の契機となったが、ある意味親王は千年以上時代を先取りしていたのだ。
 親王はこの地とこの土地の人々を愛し、親王塚に黄金一千枚と金のかわら一万枚を埋めて飢饉の際には掘り出して穀物と換えるようにと伝えたという伝説も残っている。
0078公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 14:00:48.56ID:6A4ALvgW
>>67
かなり現代語訳口調だけど、朝廷関連用語も普通に登場するし
ドラマあまり作られてなくて馴染み薄いかも
0079公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 14:02:03.45ID:uGSsltlw
>>77 >>46
また、当時の芦屋は今より海岸線が内陸にあり親王塚は海からも望めたが、その沖を行く船は帆を下げて親王に敬意を表したともいわれている。
 戦国の西の雄、毛利氏は大江音人(おとひと)の末裔にあたるが、(一説によると)音人の実父とされる阿保親王を祖と仰ぎ、江戸時代に長州藩が親王塚の大改修をおこなっている。
 一方で、阿保親王が芦屋一帯を所領した、打出で没したという記録は正史にみられない。親王とこの地を結ぶのは伝説や伝承による部分が大きいが、今なお芦屋の人々は阿保親王に親しみを覚えている。
0080公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 14:02:13.24ID:/1Q8nS43
>>66
女院が関与してない倫子単独犯だと、女院が都合よく病に倒れてくれないと呪詛が成立しないからな
0081公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 14:02:27.66ID:74WfjJKj
>>67
また枕草子読んでみようかな
あと源氏物語も
0082公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 15:42:32.29ID:uGSsltlw
御由緒と御神紋 | 賀茂別雷神社(上賀茂神社:かみがもじんじゃ)公式Webサ https://www.kamigamojinja.jp/about/yuisho/
上賀茂神社について   御由緒と御神紋   御由緒
神代の昔、本殿の背後北北西に位置する秀峰・神山に御降臨になり、第四十代 天武天皇六年(677)には、山背国により賀茂神宮が造営され、現在まで殆ど変容することのない御社殿の基が築かれました。
第五十代 桓武天皇による平安京遷都以降は、皇城鎮護の神・山城国一之宮として歴代の天皇が行幸・奉幣祈願され、明治時代以降大東亜戦争終戦まで伊勢の神宮に次いで全国神社のなかでも官幣大社の筆頭となりました。
古より皇族はもとより、貴族、武家の社参相続き、現在も多くの人々に崇敬されています。
平成六年には二十三万坪の境内全域が「古都・京都の文化財」の一つとして世界文化遺産に登録されました。
上賀茂神社から見た神山   御神紋    上賀茂神社 御神紋
上賀茂神社は、社殿のそこかしこに葵(二葉葵)の文様が刻まれた金具で飾られています。また北東の杜には二葉葵が群生し、訪れる人々を迎えます。
葵は古く「あふひ」と読み、「ひ」とは「神霊」神を意味し、葵とは「神と逢うこと」であり、また「逢う日」でもあるのです。
御祭神降臨の際に「葵」を飾り祭りをせよとの御神託があったことから、御神紋となり社殿を飾り、神と人とを結ぶ草として古来大切に守られてきた植物でもあります。
0083公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 15:45:55.80ID:uGSsltlw
>>82 上賀茂神社について    御神話  御神話
上賀茂神社 御神話1 太古の昔、神代の時代に遡ること天上で雷鳴が轟き、一本の丹塗矢にぬりのやが降って参りました。
上賀茂神社 御神話2 山背國に移り住んだ賀茂一族の姫である賀茂玉依比売命かもたまよりひめのみことが石川の瀬見の小川(現在の賀茂川の上流)で身を清めているとき、川上より流れて来たその丹塗矢を不思議に思いお持ち帰りになられます。
上賀茂神社 御神話3上賀茂神社 御神話4
その矢を丁重に扱われ、床に祀りおやすみになられたところ、矢に籠もっていた不思議な力によってご懐妊され、立派な御子をお産みになられました。
お生まれになった神を当初は御子神みこがみと申し上げ、御子が元服を迎えしとき、祖父であり一族の長である賀茂建角身命かもたけつぬみのみことが八尋殿やひろどのを造り、数多の神々を招き七日七夜の祝宴を催されます。
祝宴の席で賀茂建角身命が御子に対し「父と思う神に盃をすすましめよ」申され盃を渡したところ、御子神は「我が父は天津神あまつかみなり」と言って盃を天上に向けて投げ、甍いらかを破って雷鳴とともに天へ昇ってしまわれました。
0084公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 15:47:28.23ID:uGSsltlw
>>83 >>82
上賀茂神社 御神話5 残された賀茂建角身命、賀茂玉依比売命が再び御子に会いたいと乞い願っていたある夜、賀茂玉依比売命の夢枕に御子が顕れ「吾れに逢はんとは、天羽衣・天羽裳を造り、火を炬き鉾を捧げ、又走馬を餝り、奥山の賢木を採りて阿札に立て、種々の綵色を垂で、また葵楓の蔓を造り、厳しく餝りて吾をまたば来む」とのお告げを聞き、その御神託に従って神迎の祭をしたところ、立派な成人のお姿となり、天より神として神山に御降臨されたと伝わっております。

この御子神が当神社の御祭神「賀茂別雷大神かもわけいかづちのおおかみ」であり、そこで祭りが始まった事が上賀茂神社の起源であります。
『「釋日本紀」所引、山城國風土記逸文』、『賀茂舊記』より
0086公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 19:16:07.59ID:uGSsltlw
歴史 | 紫野 今宮神社http://www.imamiyajinja.org/history/
古きより子宝祈願を斎行し良きしるしの兆すことを願う人々で賑わう、若宮社の変遷
この紫野の地には平安建都の以前より疫神を祀る社があったと伝わります。
当時には愛宕(おたぎ)郡鷹峯に鎮座した愛宕社の神が、その疫神の鎮さえの神であったとされています。
愛宕社は伊弉那美神を御祭神とし、子宝・安産の御神徳を以って信仰の篤い社です。天応元年(781)、鷹峯の愛宕社は慶俊僧都・和気清麻呂により王城鎮護の神として今の愛宕山上へと遷されていましたが、その遷座にあたって御分霊をこの紫野の地にいただき、疫社相殿の若宮神として創祀することとなりました。
弘仁元年(810)、薬子の変収束のあと、嵯峨天皇は戦勝祈願の誓いをもって有智子内親王を斎王とし、紫野雲林院村に座所をおかれました(※)。これが賀茂斎院の始まりであり、その座地の名から紫野斎院とも呼ばれました。紫野に斎院を興すにあたっては、薬子の変に処罰された藤原薬子や藤原仲成らの御霊を恐んで、鎮疫の若宮神が相坐す紫野の疫社に併せ鎮め祀ったと考えられます。
長保元年(1001)、都に蔓延する疫病を鎮めるため朝廷は疫神を祀る紫野の地において御霊会を修しました。新たに神殿を造営して疫神とともに三神を創祀し、この新たな社を今宮と号しました。このとき、疫社の相殿神として祀られていた若宮神並びに御霊神(現在向かって左に若宮と号す)は別社に遷し合せ祀られ、ここに今宮社が成立するとともに境内末社としての若宮社が形成されることとなりました。
建暦二年(1212)、紫野斎院は廃絶され、歴代賀茂斎王の霊は斎院の創祀に由縁のある紫野の若宮社へと合祀されました。こののち若宮社は若宮神・御霊神・紫野斎院の相殿神の社となり、お社の名が紫野斎院とも呼ばれるようになっていきました。
0087公共放送名無しさん
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2024/05/25(土) 19:17:40.01ID:uGSsltlw
>>86 元禄六年(1693)から翌七年にかけて、徳川五代将軍綱吉の生母桂昌院の肝いりで大規模な境内造営が行われ、ほぼ現在の境内社殿配置が整えられました。当社に伝わる『元禄六年戴日記』には「古之本社アラマシ之図」としてその桂昌院造営前の境内図が残されています。
図には、本社殿の北西の辺り鷹峯を指す方に相殿と記され、若宮社と紫野斎院が相殿の社として祀られていたことがわかります。
元禄の御造営で、若宮社は本社殿の北西から南西の方東の正門に向い合う位置へと遷され、社殿の再配置に色濃く反映された桂昌院の願いの中でも若宮社には格別な思いが込められていたことが伺えます。
この頃には、今宮社への信仰はかつての御霊鎮めから、桂昌院の愛郷の思いが示すように氏子地域の護霊すなわち護り神へとその性格を変えていきました。それとともに若宮社も子宝・安産の神としての信仰が強まっていったものと思われます。桂昌院の一番の心配は綱吉に世継ぎの男子がいないことでした。
古来、子宝授けの信仰篤い愛宕神・若宮社を遷営し、併せて拝殿を造営した桂昌院の思いは、氏神の社今宮に対する崇敬は固よりとして、若宮の社への世継の誕生の願いにほかならないのです。
今宮祭の御車として今も巡幸する御牛車が、桂昌院より寄進されています。
現在、御車は若宮社の相殿神若宮の神霊を戴いて、かつて賀茂斎院がおかれていたあたり、西社の町の人々によって供奉され巡幸しております。
若宮社の成り立ちは時代とともに変遷を辿ってきましたが、御祭神への子宝信仰は古より変わらず続いており、そして今もまた、その神前に子宝祈願祭を斎行し良きしるしの兆すことを願う人々で賑わっています。
※ 薬子の変(810)に際し、嵯峨天皇は賀茂大神に対して、対立する平城上皇との争いに勝利することができたならば、大神に皇女を捧げ神迎えの
  儀式に奉仕させましょうとの祈願をかけました。
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