勝頼がこの先生きのこるには [無断転載禁止]©2ch.net
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史実では天目山で土屋らが滝川勢の猛攻を防いでいる間に勝頼親子が自害したんだと思うが、自害せずに北上して奥多摩や秩父を抜けて上野までたどり着くことができたなら生き延びる可能性もあるけど、北条領を通過しないといけないので可能性は低いと思う。 何で、新府城に引く、と言ってながら、
新府は未完成だから、岩櫃&岩殿に、ってなったの?
高遠より東には、防衛拠点無いの? ないよ。
武田信玄が甲斐領国以外でしか戦争しない方針だったから甲斐に城はなかった。
その方針を覆して勝頼が新府城作ったら大反発食らった。 あるとすれば寄り道してないで一日でも早く天目山に
つき一気に山越えて、信州に出ると(女どもは可哀想だが皆殺し)。
まだ馬場美濃守(信房の息子)が生きてたから護衛させて
岩櫃につく。上杉(目と鼻の先にいた)の援兵と併せて籠城すれば
半年はもつわ 信濃にホクト、越後に雪国まいたけがあるから甲斐は生き残れない 岩櫃なんかに行ったら昌幸に殺されるか、北条に渡されて北条が首はねて信長に渡しちゃうじゃん ・武蔵に入るまで松姫と行動を共にする
・一バチで池田恒興か元助につなぎをとり池田のとこに行く
もちろん織田には金輪際逆らいませんと誓紙付ける
勝頼は何とも言えんが信勝は助かる望みあり
できれば武井(夕)まで辿り着きたいところだが
ぶっちゃけ行ければ富士山麓に向かい富士山超えて駿河大宮コースが
良かっただろうがそこまで行くには既に遅しだから割愛 >>1
いや、木曽義昌に調略しかけられて西の守りがガラ空き同然になった時点で詰みのようなもの。
もちろん遠因は長篠・設楽ヶ原の戦いの大敗、岩村城陥落と秋山信友の処刑、高天神城陥落などが積み重なったこと。
御館の乱における北条家との断交なども影響している。
東、西、南を敵に回しては、信玄といえども如何ともしがたい事態だろう。
逆に信長の方は、上杉謙信の死去により北方の脅威が弱まり、一向一揆を根絶やしにすることで本願寺との勝ちに等しい和睦を得た。
1973年〜1978年に渡る、苛烈すぎる包囲網を耐えしのいだことが大きかった。
武田征伐は、武田家滅亡まで徹底する状況が作れたわけだ。
勝頼が西上野に落ち延びて、上杉と真田の援助を受けながら戦ったとしても、局地戦でしかなかったことと思う。
イメージとしては三木城攻防戦における別所のような感じになったのでは。
その時には、本能寺のような事変が果たして起きたかどうか。。。 >>1
織田徳川が敵な状態で北条を仇敵に回す重大さを理解せずに
上杉景虎を見捨てて上杉景勝と手を組んだ時点で詰みだよ 踏み倒す、って手法もあるんだよね
献上金受け取ったら春日山に再進軍すりゃいいんだ 御舘の乱にて
景勝「・・・・・」与六「どうか和睦を、、、武田様の傘下に入ります」
景勝「・・・・・」与六「上野国の叛徒どもを退治してくだされば国ごと献上いたします」
景勝「・・・・・」与六「謙信公の遺産である春日山の金塊を献上いたします」
景勝「・・・・・」与六「つきましては武田様の妹婿にならせていただきたく」
勝頼「よし許す」昌幸「前から岩櫃と沼田が欲しかったんですよ」
景虎「ちょ待てよ!」「兄貴助けに来てー」「ひでぶ」
氏政「おのれ勝頼裏切ったなー」義重「他人に任せず自分がさっさと弟を助けに行っとけばw」
家康「もしかして馬鹿?>勝頼」信長「安心してください、後で滅ぼしますよ」
以後オワコン化まっしぐら 上杉景勝を頼って越後に逃げる。
信玄も「いざとなったら謙信を頼れ」と遺言するほど義の家だし
御館の乱で世話になってるからそう邪険には扱うまい。
本能寺の変後甲信に返り咲く。 >>11
松姫は女だから見逃されて甲斐から武蔵まで逃げられただけで
勝頼が甲斐から武蔵まで無傷で逃げ切れるわけがない
しかも武蔵に着いたからって北条が勝頼をどう料理するか分からんわけで >>19
河越夜戦で敗走した上杉実憲は一応、客将として長くもてなされていたから
期を待てば可能性があったかな?
ただ周りは敵だらけ無事にたどり着けるかどうか??? 昌幸のいうとおり岩櫃城だったらいざとなれば越後に逃げられた。
岩殿城だったからもう逃げ場がなかった。仮に小山田信茂が裏切らなくても
大月市では敵中に完全に孤立してるから長くは持たない。 それにしてもなぜ信玄は嫡男義信を犠牲にしてまで駿河に侵攻したのか?
大河ドラマ「武田信玄」ではバカっぽく描かれてたけどその器量を惜しまぬ者はいなかったという。
少なくとも諏訪勝頼と違って宿老との対立はなかっただろうからあれほど悲惨に負けなかっただろう。
今川氏真とは織徳同盟のごとく「同盟だけど実質家来」状態にして
武田軍三万と今川軍二万で西上してれば織田に圧勝できてただろうに。 ・
おなにい城主オナ虎の城に逃げ込めば
久しぶりの肉棒だって歓迎されるぞ ふと思ったが昌幸は岩櫃に兵を幾ら込める気で居たんだろ?
斎藤憲広と争奪戦やってる頃はそれこそ攻守互いに500人未満
だったんだし兵糧は3年分用意したとはいえど、どう考えてたのか。
まあ麓全体に作事を施したという解釈でいいのか? そこは田舎大名。実際にやってたらあっという間に落城しただろう。
武田攻めや四国征伐や九州征伐で大した抵抗もなく進撃できたのは
上方の兵の大軍とハイテク装備を見ただけで戦意を喪失したから。
北条氏政も伊達政宗も石垣見ただけで度肝を抜かれてたし。 岩櫃は暫定的に潜伏するための捨て城だよ
折を見て信長と和議を結ぶか越後に亡命するかと考えたんじゃないの?
沼田に本拠地を移したとしても独立を保てるかは怪しい
豊臣政権下で真田が独立を保てたのはほとんど奇跡
昌幸がそうとうの財を使って豊臣政権や朝廷に取り入ったのかもね
財源はおそらく鉱物資源、硫黄かな?火薬の原料だし 甲相同盟がなくなった時点で終わり。織田方の粘り勝ち。 ・
秀吉は百姓だったから百姓の使い方がうまい
城攻めは特に百姓にやらせれば簡単に落ちることを知っていた
東国の武士は百姓を人間扱いせず、武士の数で勝敗を決めていたから弱かった
信長は戦闘専門の武士集団を整備したが、合戦にはあまり強くなかった
ただ、最新の武器の使用が可能になった
武士集団とそれを補佐する半百姓集団が秀吉軍の強さの秘密 素朴な疑問ですが天目山以後、御旗・盾無はどうなったのでしょうか? >>31ググれカス
楯無鎧は甲斐源氏の始祖新羅三郎義光以来、甲斐源氏の惣領武田氏の家宝として相伝された「楯無」の号を持つ鎧で、御旗(みはた)と呼ばれる義光から受け継いだ日章旗と対になっている。御旗は甲州市塩山上萩原の雲峰寺に所蔵されている。 >>31
武田氏滅亡に際して武田勝頼の家臣の田辺左衛門尉により向嶽寺の杉下に埋められたという。その後、甲斐を領した徳川家康により回収され再び菅田天神社に戻され、江戸時代には盗難に遭い破損し、寛政10年(1798年)には補修、文政10年(1827年)に補修が行われたという。 ・
結局、ごくつぶしの旗本7万騎を有した徳川幕府は、大村益次郎の非武士集団に壊滅させられた
秀吉の武士否定はまだ早すぎたのが原因で滅びたのかもね >>32
ありがとうございます。
すると大河ドラマで勝頼が御旗を立ててないのは史実に反するのでしょうか? >>27
奇跡的っていうわけでもない。
実際に信州や上州にいた豪族は、降伏後は所領安堵された者も多い。
(甲斐にいた武田旧臣は、見つかった者は処断されていたが…。)
織田勢も、甲信2か国の諸豪族を殲滅するまで時間はかけたくなかっただろう。
また秀吉に帰順したのも、昌幸のウルトラCってわけではない。
他の大名も同じ流れをたどっている。歯向かった佐々ですら、統一前だったから許されている。
真田昌幸のすごいところっていうのは、1982年から85年にかけて、織田・徳川・北条・上杉と
散々渡り合っていながら、その途中で敗北しなかったことだ。
第1次上田合戦で負けなかったことが大きいね。
(なんと言っても小牧・長久手で秀吉に負けなかったことで、意気上がる徳川勢を相手にして…だ。) 旧武田家家臣団の皆様お疲れ様でした。お帰りはこちらからどうぞ。
新府
↓21:16発 JR中央本線・甲府行
甲府【21:33着】
↓21:36発 JR中央本線・高尾行
高尾【23:00着】
↓23:11発 JR中央線各停・東京行
八王子【23:17着】(駅寝)
↓04:45発 八高線・川越行
高麗川【05:26着】
↓05:29発 八高線・高崎行
高崎【06:50着】
↓07:25発 吾妻線・万座鹿沢口行き
郷原【08:30着】 北に逃げればよかった
川中島あたりで高梨とか村上とか上杉家臣になった
かつての敵に頭を下げて仲介を頼む 武田家が廃れても勝頼さえ生き残ればいいなら北かな
小山田、真田に裏切られた時点で武田としては詰んでたと思う ところで武田家家臣って小山田と真田しかいないのか? 北条殿、真田昌幸、阿部勝寳、跡部勝資など家来を引き連れ、越後へ落ち延びること、これである
換言すれば米沢武田家の祖になることにほかならない
このようにして上杉家では上條、山浦、武田が亡命貴人三家として偶せられることになるのである それにしても、甲駿盟約に拘る石頭の武田義信と、必要とあれば義理の祖父に当たる旧関東管領や妹を抹殺する上杉景勝が逆になれば 武田義信の路線通り同盟を堅守すれば良かったじゃない?
財政的に厳しいかもしれんが近隣との戦争が減る
必要ならなりふり構わないやり方は信玄ー勝頼の二代で結論出してるし >>51
絶対駄目。
長年の仇敵武田に対する信長の怒りはものすごく、
逍遥軒信廉を始め係累のほぼ全員が惨殺されてる。
晩年の信長は天正伊賀の乱など異常なまでに虐殺ばかりするようになったから
生かしておいてもらえるとはとても思えない。
上杉景勝も魚津城に柴田勝家、春日山城に滝川一益が迫るので
本能寺の変が起きなかったら早期に滅亡していただろうけど。 >>54
おっしゃる通り。
1976年には岩村城を落として、遺恨のある秋山虎繁とおつやの方を
長良川河畔で逆さ磔にして処刑しているからな…。
散々苦しめられてきた武田を、そうおいそれと許そうはずがない。
(武田との通謀容疑で、家康の嫡男と正妻を始末するように言うくらいだぞ。)
上杉景勝も、本能寺の変がなかったら東西と南から侵攻して、生かしてはおかなかっただろう。
(西は、景勝に謀反をした新発田重家のことね。)
武田・上杉に長年恐怖していたほどだから。
そう言えば、真田丸を見てKOEI協力の勢力マップを見ると、
新発田重家が謀反した新発田近辺は、上杉領になっていないのな。
しっかりしているなぁと第1回めから観て思ったよ。 >>55
岩村城落城したのがオレが生まれたあとのことか きのこる方法としては、御坊勝長に武田家家督を相続させ、木曽福島に加封 >>55
発達障害の方かな?
世紀はともかく方角って間違えようがないしな 長篠の後に武田は劣勢を立て直して第二次信長包囲網の時に信長から武田に和睦を求めて来てるんだよね
この時はまさか数年で謙信が死ぬとは考えてなかっただろうし、信長の事だから難癖付けて来て一時凌ぎにしかならなかった可能性も高いけど、もし同盟を結んでいたらその後の情勢がどうなってたか非常に気になる 家康も上洛させて殺すつもりだったからね
信長ほど信用できない武将は居ない そもそも武田の領地が最大に広がったのは勝頼の代になってからなんだからこれまでのドラマでアホに描かれ過ぎなんだよ
長篠も最近では「鉄砲の三段撃ちなど無かった」説や「武田騎馬隊の突撃など無かった」説もあって謎が多い 武田軍が出てきても、織田信長は不利と見れば徳川家康の援軍要請を聞こえぬふりをして出て来ず、決着をつけることができないでいた
それがとうとう長篠まで出てきてくれた。勝頼としてはこのまま放置しておけば織田と武田の国力は開く一方でやるなら早めに勝負する必要性を痛感し、
15000の寡兵ながら、38000の連合軍と合戦をしたのである
佐久間信盛が寝返るとかいう噂を撒いておびき寄せた >>66
最近では三方ヶ原の時に織田が2万の援軍を出したという説が出てるけどね
徳川勢と一緒に行動してたのが一部だけで援軍の本隊が三河で待ち構えて
徳川と連携して武田の挟み撃ちを狙ってたが、家康が誘い出されて潰されたとか 勝頼が上杉、北条、毛利あたりの後継者ならもっとうまく立ち回れてたと思う
後を引き継いだ状況と位置が悪過ぎた >>67
あの状況の織田に二万もの余力があったなんてどんな新説だよ >>69
ない方がおかしい
信玄が徳川領に攻め込んだ時から信長が美濃に戻ってて、朝倉浅井への備えは
封鎖線の完成もあって秀吉など一部の部隊に任せてたから本国には相当な兵力が残ってる 本能寺の変の理由について、長宗我部元親黒幕説が近年有力視されている。
元親は光秀を通じ「最初から降伏して家来になってくれたら本領安堵」でまとまっていたはずなのに
信長の気まぐれで「やっぱり征伐、滅亡してね」になったから光秀をそそのかしたというもの。
東に武田という強敵が控えていたから背後の四国はなるべく穏便にという方針だったのが
勝頼があっけなく滅亡してくれたので四国が惜しくなったのかと想像してみる。 注目をあびる優れた諏訪勝頼がこの先生きのこるには? >>70
尾張・美濃の両本国に相当な兵力はあっただろうが、北は浅井・朝倉、西に将軍家と三好一党、
南には何度も煮え湯を飲まされてきた伊勢長島の一向門徒がいて、兵力が分散されていたのは確か。
信長自身は武田信玄との戦いに勝機を見出していたとは思えないので、一気に2万もの軍勢を三河方面へ
向けるとは思えない。そこで一敗地にまみれたら、包囲網は俄然活気づくし、尾張本国を一気に突かれるからだ。
(信長は自領では戦わないというポリシーがあったようだから、武田との決戦をどう考えていたのか…。)
但し、勝機ありと見ると一気呵成に2万もの軍を展開したりするわけだ。
信玄亡き後、朝倉義景はこれでまたたく間に滅ぼされてしまった。
越前兵は強いという世評だったにも関わらず…。(宗滴が偉大すぎたのかな。) 岩村城の信友を早く撤退させるべき(長篠の前にでも)だったよね。
謙信が
生きてるうちに同盟組んで、立場をはっきりさせておく
のも悪くはないし。結局御館は上田長尾が全部を独力で制圧したから >>75
>尾張・美濃の両本国に相当な兵力はあっただろうが、北は浅井・朝倉、西に将軍家と三好一党、
浅井朝倉が虎御前山砦を突破できずと朝倉が諦めて帰国したぞ
義昭が挙兵したのは三方ヶ原での武田戦勝の知らせを受け取った後
一向一揆はそもそも発生地から遠くへの侵攻は難しい
あとこの時期の信長は5万以上の兵を動員できる >>77
浜松にそんな大軍を送ったら本城に兵が残らない。
浜松が突破されたら終わりが丸裸だろ。
いい加減な自説はもういい。 >>67
その新説を唱えたやつって、お前だけ?
そんなことができたら、お前が考えつくより450年くらい早くに実行してる。 >>79
2年ほど前磯田道史が読売新聞で発表した記事
いくつかの史料を列挙して三方ヶ原の織田援軍の数を考証した >>81
いろんな説があるけど新聞に載っただけで信じるなよ。
信玄はそんな作戦に引っかかるようなバカじゃない。
さらに武田軍3万相手に尾張兵二万では全然足りない。
設楽原みたいな狭隘な地形ならまだしも
騎馬の強みが生かせる三河の平野では勝ち目ない。
だいたい将は誰なんだ?二万ならそれこそ佐久間信盛に預けるだろ >>83
武田騎馬隊とか言ってる時点で説得力ゼロだぞ >>83
武田3万対織田2万とは誰も言ってない
徳川に1万以上の軍があるから、織田徳川連合軍が武田と数の上では互角 >>84
「誰かがとなえた説がある」というのも説得力ゼロだけどな。
誰かが新説をとなえると、その説の根拠も知らず、すぐに新説を信じ込むのもどうかと思うよ。 昨日も民放で林修氏に東大教授が講義、なんて番組やってたけど
民放エンターテイメントは意外性を強調するためにトンデモ説になりやすい。 >>86
言葉狩りじゃなく、騎馬の利点云々言ってる時点で何もわかってない
わかってない人が一次史料を漁って考証した人の説を新聞に載っただけで信用できないって説得力ゼロだぞ
>>87
記事読めば何を根拠にどの一次史料を根拠にしたのかわかるのに、読まないから根拠も知らない
知らないのにそのレス書いちゃただのブーメランだぞ >>89
記事は読んだことがあるよ。
でも、記事は単に可能性を述べているだけで、断定できる一次資料の根拠など
まったく示されていないけど。 >>90
読んでないだろうw
記事は可能性を言ってるが、根拠の史料と通説の史料やそれ以外の数字を示した史料を列挙して
当時の状況を分析した上2万の可能性はあったと言ってた >>91
おまえこそよんでないだろ。一次資料なんてどこにも出てきてないだろ?
前橋酒井家ナントカいう記述年代不明の文書のどこが一次資料なんだ?
甲陽軍鑑の記述を否定するには至ってないだろ。 >>92
読んでないのバレバレ
甲陽軍鑑では西三河に1万8千の織田援軍があるという記述だぞw 数で言えばそれこそ長篠なんか半分の数しかない武田勢が、
陣城に隠れてるとはいえ二倍の織田徳川勢に捨て身の攻撃
ってのも解せないよな。信長の名前きいて勝頼はまともな判断が
出来なくなったのかね?老臣が止めたから云々は子供じゃないからな
あり得ない >>94
織田徳川の後詰めはただ見てるだけで攻勢に出てないから、長篠落としてから撤退するつもりが
鷲ノ巣砦が落とされて孤立してしまったから目の前の織田徳川軍に突っ込むことで活路を見出そうとした
だったりして
武田が攻勢に出たのは鷲ノ巣砦が落とされたあとだし >>93
浜松城は西三河ではなく遠江だぞ。
遠江にいる軍が三方ヶ原で戦うことはむり。 間違えた。
>>93
浜松城は西三河ではなく遠江だぞ。
三河にいる軍が三方ヶ原で戦うことはむり。 >>98
挟撃の申し合わせができていたなら、家康が誘い出されたというのは無理がある。 >>99
通説を思い出せ
平手佐久間はこのままやり過ごせと進言したのに家康は目の前の敵をやり過ごすは武人の恥と
撥ね付けて武田の背後を狙って出撃したが、老練な信玄に負けた
通説通り織田は3000の援軍しか出せない状況なら、このまま信玄をやり過ごすと尾張まで危なくなるから
織田家にとってここは家康に頑張って信玄を食い止めるのが普通なのに、やり過ごすように進言した
西に織田援軍の本隊が居ると辻褄が合う >>100
>家康は目の前の敵をやり過ごすは武人の恥
この通説での発言が本当なら、挟撃の申し合わせはなかったことの証拠だろ。
挟み撃ちする手はずになってたなら「武人の恥」などになるわけがない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています