勝頼がこの先生きのこるには [無断転載禁止]©2ch.net
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素朴な疑問ですが天目山以後、御旗・盾無はどうなったのでしょうか? >>31ググれカス
楯無鎧は甲斐源氏の始祖新羅三郎義光以来、甲斐源氏の惣領武田氏の家宝として相伝された「楯無」の号を持つ鎧で、御旗(みはた)と呼ばれる義光から受け継いだ日章旗と対になっている。御旗は甲州市塩山上萩原の雲峰寺に所蔵されている。 >>31
武田氏滅亡に際して武田勝頼の家臣の田辺左衛門尉により向嶽寺の杉下に埋められたという。その後、甲斐を領した徳川家康により回収され再び菅田天神社に戻され、江戸時代には盗難に遭い破損し、寛政10年(1798年)には補修、文政10年(1827年)に補修が行われたという。 ・
結局、ごくつぶしの旗本7万騎を有した徳川幕府は、大村益次郎の非武士集団に壊滅させられた
秀吉の武士否定はまだ早すぎたのが原因で滅びたのかもね >>32
ありがとうございます。
すると大河ドラマで勝頼が御旗を立ててないのは史実に反するのでしょうか? >>27
奇跡的っていうわけでもない。
実際に信州や上州にいた豪族は、降伏後は所領安堵された者も多い。
(甲斐にいた武田旧臣は、見つかった者は処断されていたが…。)
織田勢も、甲信2か国の諸豪族を殲滅するまで時間はかけたくなかっただろう。
また秀吉に帰順したのも、昌幸のウルトラCってわけではない。
他の大名も同じ流れをたどっている。歯向かった佐々ですら、統一前だったから許されている。
真田昌幸のすごいところっていうのは、1982年から85年にかけて、織田・徳川・北条・上杉と
散々渡り合っていながら、その途中で敗北しなかったことだ。
第1次上田合戦で負けなかったことが大きいね。
(なんと言っても小牧・長久手で秀吉に負けなかったことで、意気上がる徳川勢を相手にして…だ。) 旧武田家家臣団の皆様お疲れ様でした。お帰りはこちらからどうぞ。
新府
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郷原【08:30着】 北に逃げればよかった
川中島あたりで高梨とか村上とか上杉家臣になった
かつての敵に頭を下げて仲介を頼む 武田家が廃れても勝頼さえ生き残ればいいなら北かな
小山田、真田に裏切られた時点で武田としては詰んでたと思う ところで武田家家臣って小山田と真田しかいないのか? 北条殿、真田昌幸、阿部勝寳、跡部勝資など家来を引き連れ、越後へ落ち延びること、これである
換言すれば米沢武田家の祖になることにほかならない
このようにして上杉家では上條、山浦、武田が亡命貴人三家として偶せられることになるのである それにしても、甲駿盟約に拘る石頭の武田義信と、必要とあれば義理の祖父に当たる旧関東管領や妹を抹殺する上杉景勝が逆になれば 武田義信の路線通り同盟を堅守すれば良かったじゃない?
財政的に厳しいかもしれんが近隣との戦争が減る
必要ならなりふり構わないやり方は信玄ー勝頼の二代で結論出してるし >>51
絶対駄目。
長年の仇敵武田に対する信長の怒りはものすごく、
逍遥軒信廉を始め係累のほぼ全員が惨殺されてる。
晩年の信長は天正伊賀の乱など異常なまでに虐殺ばかりするようになったから
生かしておいてもらえるとはとても思えない。
上杉景勝も魚津城に柴田勝家、春日山城に滝川一益が迫るので
本能寺の変が起きなかったら早期に滅亡していただろうけど。 >>54
おっしゃる通り。
1976年には岩村城を落として、遺恨のある秋山虎繁とおつやの方を
長良川河畔で逆さ磔にして処刑しているからな…。
散々苦しめられてきた武田を、そうおいそれと許そうはずがない。
(武田との通謀容疑で、家康の嫡男と正妻を始末するように言うくらいだぞ。)
上杉景勝も、本能寺の変がなかったら東西と南から侵攻して、生かしてはおかなかっただろう。
(西は、景勝に謀反をした新発田重家のことね。)
武田・上杉に長年恐怖していたほどだから。
そう言えば、真田丸を見てKOEI協力の勢力マップを見ると、
新発田重家が謀反した新発田近辺は、上杉領になっていないのな。
しっかりしているなぁと第1回めから観て思ったよ。 >>55
岩村城落城したのがオレが生まれたあとのことか きのこる方法としては、御坊勝長に武田家家督を相続させ、木曽福島に加封 >>55
発達障害の方かな?
世紀はともかく方角って間違えようがないしな 長篠の後に武田は劣勢を立て直して第二次信長包囲網の時に信長から武田に和睦を求めて来てるんだよね
この時はまさか数年で謙信が死ぬとは考えてなかっただろうし、信長の事だから難癖付けて来て一時凌ぎにしかならなかった可能性も高いけど、もし同盟を結んでいたらその後の情勢がどうなってたか非常に気になる 家康も上洛させて殺すつもりだったからね
信長ほど信用できない武将は居ない そもそも武田の領地が最大に広がったのは勝頼の代になってからなんだからこれまでのドラマでアホに描かれ過ぎなんだよ
長篠も最近では「鉄砲の三段撃ちなど無かった」説や「武田騎馬隊の突撃など無かった」説もあって謎が多い 武田軍が出てきても、織田信長は不利と見れば徳川家康の援軍要請を聞こえぬふりをして出て来ず、決着をつけることができないでいた
それがとうとう長篠まで出てきてくれた。勝頼としてはこのまま放置しておけば織田と武田の国力は開く一方でやるなら早めに勝負する必要性を痛感し、
15000の寡兵ながら、38000の連合軍と合戦をしたのである
佐久間信盛が寝返るとかいう噂を撒いておびき寄せた >>66
最近では三方ヶ原の時に織田が2万の援軍を出したという説が出てるけどね
徳川勢と一緒に行動してたのが一部だけで援軍の本隊が三河で待ち構えて
徳川と連携して武田の挟み撃ちを狙ってたが、家康が誘い出されて潰されたとか 勝頼が上杉、北条、毛利あたりの後継者ならもっとうまく立ち回れてたと思う
後を引き継いだ状況と位置が悪過ぎた >>67
あの状況の織田に二万もの余力があったなんてどんな新説だよ >>69
ない方がおかしい
信玄が徳川領に攻め込んだ時から信長が美濃に戻ってて、朝倉浅井への備えは
封鎖線の完成もあって秀吉など一部の部隊に任せてたから本国には相当な兵力が残ってる 本能寺の変の理由について、長宗我部元親黒幕説が近年有力視されている。
元親は光秀を通じ「最初から降伏して家来になってくれたら本領安堵」でまとまっていたはずなのに
信長の気まぐれで「やっぱり征伐、滅亡してね」になったから光秀をそそのかしたというもの。
東に武田という強敵が控えていたから背後の四国はなるべく穏便にという方針だったのが
勝頼があっけなく滅亡してくれたので四国が惜しくなったのかと想像してみる。 注目をあびる優れた諏訪勝頼がこの先生きのこるには? >>70
尾張・美濃の両本国に相当な兵力はあっただろうが、北は浅井・朝倉、西に将軍家と三好一党、
南には何度も煮え湯を飲まされてきた伊勢長島の一向門徒がいて、兵力が分散されていたのは確か。
信長自身は武田信玄との戦いに勝機を見出していたとは思えないので、一気に2万もの軍勢を三河方面へ
向けるとは思えない。そこで一敗地にまみれたら、包囲網は俄然活気づくし、尾張本国を一気に突かれるからだ。
(信長は自領では戦わないというポリシーがあったようだから、武田との決戦をどう考えていたのか…。)
但し、勝機ありと見ると一気呵成に2万もの軍を展開したりするわけだ。
信玄亡き後、朝倉義景はこれでまたたく間に滅ぼされてしまった。
越前兵は強いという世評だったにも関わらず…。(宗滴が偉大すぎたのかな。) 岩村城の信友を早く撤退させるべき(長篠の前にでも)だったよね。
謙信が
生きてるうちに同盟組んで、立場をはっきりさせておく
のも悪くはないし。結局御館は上田長尾が全部を独力で制圧したから >>75
>尾張・美濃の両本国に相当な兵力はあっただろうが、北は浅井・朝倉、西に将軍家と三好一党、
浅井朝倉が虎御前山砦を突破できずと朝倉が諦めて帰国したぞ
義昭が挙兵したのは三方ヶ原での武田戦勝の知らせを受け取った後
一向一揆はそもそも発生地から遠くへの侵攻は難しい
あとこの時期の信長は5万以上の兵を動員できる >>77
浜松にそんな大軍を送ったら本城に兵が残らない。
浜松が突破されたら終わりが丸裸だろ。
いい加減な自説はもういい。 >>67
その新説を唱えたやつって、お前だけ?
そんなことができたら、お前が考えつくより450年くらい早くに実行してる。 >>79
2年ほど前磯田道史が読売新聞で発表した記事
いくつかの史料を列挙して三方ヶ原の織田援軍の数を考証した >>81
いろんな説があるけど新聞に載っただけで信じるなよ。
信玄はそんな作戦に引っかかるようなバカじゃない。
さらに武田軍3万相手に尾張兵二万では全然足りない。
設楽原みたいな狭隘な地形ならまだしも
騎馬の強みが生かせる三河の平野では勝ち目ない。
だいたい将は誰なんだ?二万ならそれこそ佐久間信盛に預けるだろ >>83
武田騎馬隊とか言ってる時点で説得力ゼロだぞ >>83
武田3万対織田2万とは誰も言ってない
徳川に1万以上の軍があるから、織田徳川連合軍が武田と数の上では互角 >>84
「誰かがとなえた説がある」というのも説得力ゼロだけどな。
誰かが新説をとなえると、その説の根拠も知らず、すぐに新説を信じ込むのもどうかと思うよ。 昨日も民放で林修氏に東大教授が講義、なんて番組やってたけど
民放エンターテイメントは意外性を強調するためにトンデモ説になりやすい。 >>86
言葉狩りじゃなく、騎馬の利点云々言ってる時点で何もわかってない
わかってない人が一次史料を漁って考証した人の説を新聞に載っただけで信用できないって説得力ゼロだぞ
>>87
記事読めば何を根拠にどの一次史料を根拠にしたのかわかるのに、読まないから根拠も知らない
知らないのにそのレス書いちゃただのブーメランだぞ >>89
記事は読んだことがあるよ。
でも、記事は単に可能性を述べているだけで、断定できる一次資料の根拠など
まったく示されていないけど。 >>90
読んでないだろうw
記事は可能性を言ってるが、根拠の史料と通説の史料やそれ以外の数字を示した史料を列挙して
当時の状況を分析した上2万の可能性はあったと言ってた >>91
おまえこそよんでないだろ。一次資料なんてどこにも出てきてないだろ?
前橋酒井家ナントカいう記述年代不明の文書のどこが一次資料なんだ?
甲陽軍鑑の記述を否定するには至ってないだろ。 >>92
読んでないのバレバレ
甲陽軍鑑では西三河に1万8千の織田援軍があるという記述だぞw 数で言えばそれこそ長篠なんか半分の数しかない武田勢が、
陣城に隠れてるとはいえ二倍の織田徳川勢に捨て身の攻撃
ってのも解せないよな。信長の名前きいて勝頼はまともな判断が
出来なくなったのかね?老臣が止めたから云々は子供じゃないからな
あり得ない >>94
織田徳川の後詰めはただ見てるだけで攻勢に出てないから、長篠落としてから撤退するつもりが
鷲ノ巣砦が落とされて孤立してしまったから目の前の織田徳川軍に突っ込むことで活路を見出そうとした
だったりして
武田が攻勢に出たのは鷲ノ巣砦が落とされたあとだし >>93
浜松城は西三河ではなく遠江だぞ。
遠江にいる軍が三方ヶ原で戦うことはむり。 間違えた。
>>93
浜松城は西三河ではなく遠江だぞ。
三河にいる軍が三方ヶ原で戦うことはむり。 >>98
挟撃の申し合わせができていたなら、家康が誘い出されたというのは無理がある。 >>99
通説を思い出せ
平手佐久間はこのままやり過ごせと進言したのに家康は目の前の敵をやり過ごすは武人の恥と
撥ね付けて武田の背後を狙って出撃したが、老練な信玄に負けた
通説通り織田は3000の援軍しか出せない状況なら、このまま信玄をやり過ごすと尾張まで危なくなるから
織田家にとってここは家康に頑張って信玄を食い止めるのが普通なのに、やり過ごすように進言した
西に織田援軍の本隊が居ると辻褄が合う >>100
>家康は目の前の敵をやり過ごすは武人の恥
この通説での発言が本当なら、挟撃の申し合わせはなかったことの証拠だろ。
挟み撃ちする手はずになってたなら「武人の恥」などになるわけがない。 >>101
日本語通じない人?
敵をそのままやり過ごして三河で挟み撃ちにしよう→目の前の敵を無視して城に篭ってやり過ごすのは武人の恥だ!
弱冠20歳の若武者が挑発に乗って作戦を無視して誘い出されただけの話 >>102
つまりそれは、挟撃の申し合わせができていなかった証拠だろ。
申し合わせができていたならそういう行動は取らないし、
申し合わせに反して三方が原に出陣して敗退したなんてことになったら、
織田信長は激怒する。 >>103
作戦の打ち合わせができても挑発に乗って作戦無視したらそれまで
人間は機械じゃないから
そして作戦があっても無視して挑発に乗った例は古今東西数知れず >>104
一方が承知してないなら「申し合わせ」とは言わないな。
第一、息子を殺すほどビビってた信長の命に背くとも思えない。 さらに言うと、家康が出撃した理由についても諸説があるが
戦うつもりはなく流れでああなったという意見は結構多い
例えば当代記でも物見の小競り合いがエスカレートして戦闘になったという記述があるし >>105
評定で承知した→状況変化してやはり出るというのは別におかしくない
最初も籠城戦の準備を進めてたし
あと、近年では家康が信康を殺したのは信長の命令じゃなく、浜松派と岡崎派の内紛の結果という説の方が主流ね >>6
女たちは皆殺しって…
勝頼に最後まで付き従った女たちは正室北条夫人とその侍女たちなんだから
解放してあげればよいだけの話
北条夫人は殺されることなく北条家が迎えをよこしただろうに >>107
信長からの命令の有無に関わらず、信長からの圧力、あるいは徳川側の一方的な気兼ねが
なかったという説などないだろ。
岡崎と浜松の確執があったにせよ、信長への気兼ねはあっただろ。
それにすぐに「主流」とかいうけど、どうやって主流か反主流か見極めるんだ? >>109
>岡崎と浜松の確執があったにせよ、信長への気兼ねはあっただろ。
だから違うって
信長に信康を殺す理由はないし圧力もかけた証拠もない
信長の命令だという三河物語と同時期の当代記やもっと前の時代の史料では
信康の問題点や家康との不仲、そして家康が信康を殺した理由についての記述がある
それらでは信康は「逆心」という理由で家康が処断しようとしたと書いてある
信長への気兼ねがあるとすれば信康は信長の婿だから、処断することで
信長との関係に亀裂が入らないようにあらかじめ信長に相談したぐらい
信玄が義信を処断して今川家と断交状態になったし >>198
違わない。
>信長に信康を殺す理由はないし圧力もかけた証拠もない
殺す理由はあるだろ。築山殿とともに武田に内通したのであれば、
十分に「逆心」だし、殺す理由になる。
いずれにせよ、どの説も一次資料などないわけで、どの説が主流とか、
どの説が正しいとか言えるようなものではないのに、信じ込むのは愚かしい。 >>111
通説に疑問点だらけだから、少しでも注意すれば矛盾に気付くのに気付かない人だな
築山殿と武田に内通なら、築山殿もセットで処分しろと言うはずなのに信長の返答は築山殿には触れてないし
信康についても「家康の思い通りにせよ」と
そもそも三河物語より早い時期の信長公記や同時期の当代記では信長が圧力をかけた記述はない 上杉謙信を頼れと遺言したといっても、そうしたら復活した甲相同盟に響く筈で、その点信玄さんはどう考えていたのかが気になる >>110
同感です。長篠で大敗して死に体の武田側の調略に岡林信康がホイホイ乗るとは思えない 築山殿が今川家の人間だから、どう考えても武田に内通するなんてありえない
今川を滅ぼしたのは武田だし、氏真が徳川に降っても武田と戦い続けてた 信康の如何にも不自然な処分から色々あるよね。やはり
親父家康との確執があったのか、いやいやそういう操作だと
いう話もあるね。信康に男の子が産まれてればもっと判りやすかったが 結果論だが、晩年の信玄が上洛にこだわったことが武田家滅亡の遠因じゃないか。
自分の健康状態や家中での勝頼の地盤が盤石じゃないことを考えると、将来の強敵になる家康を三方ヶ原で完膚なきまでに叩いた後、甲斐に戻っていれば、武田の存亡だけでなく、日本の歴史は大きくかわっていた。 >>119
天下を取らずに甲斐・信濃の田舎大名におさまり続けていても、
いずれ誰かが天下を取った時には潰されると思ったんじゃないかな。 >>121
関ヶ原で選択肢を間違えなければ佐竹はずっと常陸の大名だったよ
同じ三郎義光の家系でしかも山の中の武田なら慎重に外交すれば幕末まで大名として存続したと思う >>122
雪の峠じゃないが、関東に外様の大藩を置くとは思えない。
関が原の時点で加増して遠国に国替えか、後年難癖つけられて
改易か減封、どこかの外様の大藩の改易の後釜で国替えさせられると思う。 武田家が残っていれば、関ヶ原合戦の功績により、甲斐から、伯耆米子に移封 上杉は米沢
佐竹は秋田
武田が西日本なんてあり得ない
若狭や米子なんて京大阪にすぐ行ける もっとも江戸時代に高家として再興を果たした武田家は江戸府内に在住していたけど。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています