>>24
長年武田と戦い続けた地っていうのは、主に三河と遠江なんだが…。
甲斐と信濃が主戦場になったのって、織田・徳川の甲州征伐(甲州崩れ)ってことが分からないの?
北条の戦線が伸びきっていたのは、真田丸にあった通り。
ただ北条にとっては甲斐より上野方面の方がはるかに重要な拠点だったってことだ。
上杉謙信との抗争以来だからな。宿願の地だったわけだ。

欲張って甲斐・信濃に手を伸ばしたが、いささか甲斐に軍勢を向けるのが徳川に一歩も二歩も遅れた。
岩殿(大月)方面に早くから侵攻していれば良かったんだが…。
(攻めるにはちょっと地理的に厳しいところ。北条氏綱は山中湖方面から甲斐へ侵攻しようとした経緯はあったけれども。)

ちなみに北条と佐竹は、長年争ってきた間柄ではあるが、そっちと泥沼で戦していたわけではない。
むしろ家康の方がどちらかというと分が悪かったと見るべきだろう。
北条との和睦は渡りに船。このあたりにも家康の運を感じてしまう。
1983年から1984年の秀吉の膨張ぶりはハンパないぞ…。