【真田丸】寺島進の出浦昌相がカッコ良すぎ! [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
寺島進の当たり役だな。
これから真田の家臣となって隠密集団のボスになるってのもピッタリな雰囲気。 >>4
ホント、それまじ同意。
俺もあんな家臣が欲しい 堺雅人と大泉洋が人畜無害すぎるので、寺島の凄みが余計に引き立つな。 かっこいいよね
でもクール過ぎてたまに笑えてくる
チンピラの役みたいに大声で誰かを怒鳴りつけてほしくもなる >>5
乙にござる!
関西視聴率更新お願いします。
17.4%
https://pbs.twimg.com/media/CdiZtX1UAAI-64C.jpg
因みに長野視聴率は6話が31.0%、10話が29.2%
7〜9話は調査していない。
本日の信濃毎日新聞 35面より 佐助がかなりやり手の忍びって刷り込みがあるから、比較でそれを子ども扱いする出浦すごすぎって印象になるなw 朝7時半の番組も見てるけど、とても中の人が同じとは思えないw 孤独のグルメにゲスト出演された時も、かなりいい加減な感じのハワイアンシェフやってたね
「うさんくさい」と「何か裏がある」をシリアスな演技をするかしないかで使い分けてる感じ 「とんぼ」で長渕剛に耳を切断された時からしたら
出世したよな〜 確かに雲黒斎そっくりだな。
そもそも真田丸ってちょっとリアルな忍たま乱太郎の世界。 史実じゃ信幸の家来のまま沼田に留まるんだが、幸村に
ついていく方が何かと便利な人だしな。どーすんだろ。 今週は徳川の刺客を出浦が葬るシーンがあるから盛り上がりそう。 >>20
忍たま乱太郎の実写版では山田先生役をやってたよね あの役なら誰がやってもカッコ良く見えるが
寺島はかなりさまになっているよね。 >>9
ミナミの帝王のVシネマでの
木村会の篠原役はよかったわ
もう10年くらい前やけど 小柄なのが逆に忍のボスって感じだよな。今回は棒手裏剣まで
投げてたし 苦無まで使ってて、THE忍な感じだった。
彼は史実でも隠密のボスだったのか? 途中で死んじゃうのかな?
霧隠才蔵と改名して最後まででてください >>38
考証担当の丸島氏の本によると、史実の「忍城」攻めで活躍したのが、
いつのまにか「忍びとして活躍した」ことになってた、とか書いていたけど・・・・ 史実の「忍城」攻めで活躍
→誤記で「忍びとして活躍」した事として伝わり
→架空の忍者「出浦盛清」が誕生し
史実とごっちゃになり現在に至る。
って事かな? じゃあ、忍城の甲斐ちゃんもそのうちくノ一で出てくるね 主人公を助ける忍はかっこよく見えるもんだよなぁ。
水戸黄門の弥七みたいなもの。 >>44
比べちゃダメだよ…。
でも夏八木さんだと殺されたり姦られたりされても泣き寝入りするなぁ…。
意外と西村さんの殺られ演技も大したもの。ここは寺島さんの殺陣演技もセットで。 昌相カッコイイな
『八重』のチョコモナカ西郷に匹敵する渋さ 出浦さん、本によると、史実ではこの後ずっと、信幸付きになるみたいだけど、ドラマではどうなるんだろう
昌幸とコンビで悪の限りをつくして欲しいけど、真面目な信幸との凸凹コンビもみたい気がする 寺島さんって殺陣師に長年習っているんでしょ。
徳川の刺客を一瞬で片づけるシーンにはシビレタ! >>41
忍城で活躍
→忍で活躍
→忍者
という単純な話だろうな… 出浦の瞬殺シーン、良かったね。
カッチョイイ!!!
ああいうのをまた見たいな。 風林火山では今回家康やってる奴に殺されたから徳川には強い意地があるんだろうなw 土スタの寺島はお茶目だった ただ芝居の話になると真剣だと思った 役作りの為、木刀で殺陣を思いながら練習したらしいね >>8
なんか、めちゃくちゃ頼りになりそうな雰囲気出てる。 遅ればせながらさっき11話を見たけど出浦がメチャよかったな。 >>61
長渕に耳を削ぎ落とされたチンピラからずいぶんと出世したよなw 寺島ってキムタクみたいに何やっても寺島なんだよな〜
そういう意味で寺島らしさをストレートに引き出してる三谷は上手い 出浦氏って真田の被官なんでしょ?あんな対当な態度だったのかなと
寺島さんはたけしのブラザーって映画の死んじゃうヤクザがかっこよかったな >>69
武田家臣時代は同僚だったから、あれでも良いんじゃない?
三十郎をどつく佐助みたいに、割と上下間緩そうだし、
後に信之が40歳過ぎても「吾が後見」と言っていたくらいだから。 出浦と佐助を一緒にすなwww
昌幸と出浦はほぼ同格
佐助は農民や足軽、三十郎ははるか雲の上 出浦はへりくだって家臣って称してるが
同士みたいな関係だろ
芝居とは言え国衆会議じゃ辛辣な批難してたし なるほどみんな小県の土豪だからそんなもんかもね スッパの棟梁みたいな書き方もよくわからんが >>70
出浦は、前世下野守だったから、安房守と同格という説もある 同じ国人領主で小県郡共有オーナーが社長と部下になったんですな インザヒーローで戦隊もののピンク(女優のスタント)をやってた人とは思えないw 横谷幸重は出ないのか
出浦と横谷は真田忍びのツートップという印象があるが >>40
丸島氏は真田家の文書をよく検証してないんじゃないかな?
出浦対馬守幸久名義で忍者としてのエピソードがちゃんと載ってるのに
坂城と松代にある幸久の墓も検証してないんじゃないかな >>81
それが架空の話じゃないかって事だろ?
「出浦対馬守昌相」と署判している文書が複数あるのに
幸久名義の文書が1つも無い。
お前が言う真田家の文書は「本藩名士小伝」の事だと思うが、
1800年代の成立だし、実名の間違いや親子が逆になっていたりと
明らかな間違いも多い。
ドラマは忍者の方が面白いから全然OKだけどさ >>82
幸久の父親が頼幸になってる系図は間違ってるが、
後で書かれた幸久の父親が四郎左衛門になってる系図は合ってるよ
それと、幸久の墓に刻んである命日、戒名、それとその系図は一致してるよ
その系図に幸久の忍者としての話が付随してるわけだから、
そっちのほうが信憑性高いだろ >>85
出浦対馬守は元和元年〜2年は「昌相」と名乗っていた。
「昌」は世代的に武田氏からの偏緯だろうから、それ以前もそうだろう。
そうすると「幸久」って言う名前は
・後世の真田家臣が、昌相をモデルに真田忍者の活躍をくっ付けた
真田幸村みたいな架空の人物
・真田幸綱が幸隆とされてきたみたいな道号が名前と間違われた
のどっちかじゃないかと思うんだ。
「真田幸村」だって命日、戒名、系図は信繁と一致してるだろ?
>>86
盛清も一次史料にはいないんだよ。
1531年の村上家の御目見え列に「出浦守清」という人物がいるけど
昌相は1546年生まれなんで…
これ以上書くと史実厨とか言われそうだからこの辺にしておくけど、
俺はドラマの昌相はカッコイイし、この後どういう経緯で
昌幸を離れて信幸付きになるのか楽しみしてる >>87
坂城と松代に幸久名義の墓碑
群馬の原町に幸久名義の位牌
系図に詳細
これでも架空なのかね?
昌相名義の書状は調べたら慶長十九年〜元和八年みたいだけど、
対馬守だけじゃなく昌相って書いてあるのかな? >>89
わざわざありがとう
参考になるわ
幸久に関して調べた結果は
松代墓所 対馬幸久(守がない) 円光院殿泰山宗智居士 元和九年八月十八日没
原町誌、真田家文書 対馬守幸久 円光院殿泰山宗智居士 元和九年八月十八日没 七十八才
wikiとかに掲載されてる昌相の命日と幸久の命日って同じだよね >>89
追伸
年代考証や命日からして昌相=幸久としか思えないよ
あと不可解なのは、
上杉氏文禄三年定納目録に山浦(村上源五国清)同心として出浦対馬が載ってること
系図によっては親父にあたる対馬守盛清が存在したのかな? >>91
まだ史実ネタ続けるの?一応出浦スレだからいいのかな…
止めろと言う意見があったら止めます。
それがおそらく、昌相の父の出浦対馬守とされている人物で、
天正10年6月19日、北条氏直から同じ村上一門の屋代越中守(正国?)を通して
室賀兵部(正武)と共に知行宛行の調略を受けた出浦対馬守と同一人物だと思われる。
村上景国が海津城の城将となった際に副将となった屋代秀正が、
天正11年3月14日に弟の室賀満俊と共に上杉を裏切って徳川へ臣従するけど、
出浦氏がここまで屋代氏らと行動を共にしていたのなら、上杉方にいた事自体は不可解ではない。
そうでなくてもこの時点で出浦の本領埴科は上杉方の支配下にある。
この後、同5月14日に村上景国は謀反の疑いで越後に召還される。
また、同9月12日に真田昌幸に臣従したのは出浦氏は「出浦上総介」で
「在所を退かれ」その「御忠節」に対して30貫文の扶持分をもらっているので
上総介は領地を捨てて真田に臣従し、堪忍料として30貫文もらってるという事になる。
そして>>91で指摘の文禄3年9月「上杉家文録三年定納員数目録」
これらの事からこの「出浦対馬」は、山浦(村上)景国の家臣として越後にそのまま残り続けたのだと思う。
屋代・室賀兄弟や出浦上総介と違って、世代的に村上義清の家臣だっただろうからね。
で、この「出浦対馬」は誰だろうと村上関連を探したら、
天文年間に高野山に納められた「村上氏一門十九将鎧合わせの図」に
出浦対馬守成為(もしくは盛為)という人物がいた。
この中には村上義清の副将格だとされる出浦清種がいないから、その後の世代?
上記対馬守と世代的には同じようだが「盛清」でも「守清」でもなかった。 更級郡埴科郡人名辞書では盛為=幸久という見解だね。
「幸久(さざれ石、甲越信戦録 盛為とする)と称し対馬守と号す。出浦主計頭清種の子である。
出浦系図清種の子清房に作る、幸久の幼名である。」
村上氏一門十九将鎧合わせの図は後年に写し書かれたとされていて、創作の可能性もあるがね。
まぁ、命日が書いてある幸久名義の墓と、幸久自身が開基した寺の位牌に幸久という名前が残っているということは、
昌相=幸久で、本当(もしくは最終的)の諱は幸久だったと考えるのが妥当だろうね。
伝承が誤ってるとは考え難い。
昌相名義の墓が見つかれば別だが。
別人とすると、生没年日も見直さなければならなくなる。 最後の発給文書。元和9年4月4日付で「出浦対馬守昌」とある
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/BookletView/2000710100/2000710100100010/2401/?pagecode=18
これ以降、一次史料から姿を消す。
そろそろスレタイ読んで、お前のブログかなんかでやってよ。
俺はニワカなんで、この話題からは撤収するから 演技力は新人並みなのに
態度は大御所気取りだね
この人
大根具合はMAKIDAIといい勝負 大河で良い役をもらったな。
大河ドラマでは主人公を助けるひと癖ある人物は人気が出る。 史実に詳しい方がいるのでご存知でしたら教えて下さい。
出浦昌相、盛清、幸久の墓の情報はネットの情報でなく確かなものですか?
群馬原町の幸久の位牌の存在は確かです。坂城は上杉方についた清正の子孫の墓で松代は昌相の子孫の墓でした。共に江戸中期以降のものです。
Wikiのノートに出ている幸久の墓と石碑の詳しい場所が知りたいのです。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています