●★大蔵卿局★●戒名は智勝院桂宗春大禅定尼

戒名が、まったく、人柄と正反対なので、あほらしくなった。

大野定長の妻で、淀殿や豊臣秀頼の乳母を務めた。豊臣秀吉の死後、正室である高台院とその従者の孝蔵主が大坂城から去ると権力を握った。

大蔵卿局 / 大蔵局(おおくらきょうのつぼね / おおくらのつぼね、? - 慶長20年5月8日(1615年6月4日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。
丹後国の地侍・大野定長の妻。子に大野治長・大野治房・大野治胤・大野治純。

★孝蔵主
「表のことは浅野長政が、奥のことは孝蔵主が」と言われるほどの権威を持っていた。
豊臣秀吉の辞世の句「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」は天正16年(1588年)4月に後陽成天皇を聚楽第に迎えた際に詠んだものだが、この句をしたためた短冊を後々まで預かっていたのが孝蔵主である。

慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、慶長4年(1599年)に高台院と共に大坂城を退去し、京の三本木(現在の祇園付近)に移る。その後は高台院執事として大津城の戦いの講和交渉役や
徳川家康との折衝役などを務める。しかし慶長19年(1614年)、大坂の陣の直前に駿府に赴き、その後は徳川秀忠から江戸城下に屋敷を与えられ、寛永2年(1625年)10月23日には河内国深井村に200石の領地を与えられる。
秀忠からの200石を公式に拝領した寛永2年10月は高台院の一周忌明けであった。

寛永3年(1626年)に死去。生涯未婚であったため子はいなかったが、末弟・川副正俊(大坂の陣で討死)の嫡子である重次が養子となり200石を嗣いだ。墓所は東京都荒川区西日暮里の南泉寺。 👀
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