20××年 大河ドラマ 「千姫」 [無断転載禁止]©2ch.net
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20××年 大河ドラマ 「千姫」
徳川家の娘として波乱万丈の生涯を歩んだ戦国最後のヒロイン 第一回「誕生」
慶長2年(1597年)4月11日
山城国伏見城内の徳川屋敷
今、まさに1人のおなごが赤子を産み落とそうとしていた。
そのおなごの名は江(ごう)
父は浅井長政、母はお市の方の3女にあたる姫君である。
”おぎゃー!”
”おぎゃー!”
お付の女中が叫ぶ
”生まれましたぞ!姫君じゃ!” 脚本は誰?
間違っても三谷とかはないだろうね!
ジェームスにしてね 「江」みたいなコメディはイヤだな
幼少期も大人が演じるとか マジ勘弁 隣の部屋から待ちかねたように人の良さそうな男が
入ってきた。
「ごう!でかしたぞ!」
この男は、まじまじと赤子の顔を眺め・・・
「なんと麗しき顔立ちの姫じゃ・・・うん、うん・・・
さすが絶世の美女と謳われた、お市の方
様の血を引く姫君じゃ、ははは・・・でかした。
でかしたぞ・・・」
なんとも言えない表情である。
この人の良さそうな男の名は秀忠
豊臣政権の五大老のひとり徳川家康の嫡男である。 しばらくして、秀忠は紙と筆を持って来させて
一つの文字を書いた。
「赤子の名は”千”といたす」
この「千」と名づけられた赤子こそ後に波乱万丈の生涯を歩む
千姫、この物語の主人公である。
翌日、江の舅である徳川家康が、豊臣秀吉、側室の淀、
嫡男の拾丸(後の秀頼)を伴って祝いの品を持って駆けつけた。
豊臣秀吉の側室、淀の方は江の実姉、つまり嫡男の拾丸は
江にとっては甥、千姫とは従兄弟通しになる。 家康
「ごう、でかしたぞ・・・」
江
「父上、ありがとうございまする・・・しかし、父上は嫡男を
望んでおられたのでは・・・?」
そこに秀吉が割って入る。
秀吉
「ごう・・・案ずるな、最初の子は、おなごのほうが豊臣に
とっても徳川にとっても、むしろ良かったのじゃ。
家康殿、もう良いじゃろう・・・」
秀吉が家康に目で合図した。
家康
「実はのう・・・ごう、殿下から、ごうの子が、おなごであれば
拾丸様の正室に、お迎えしたいとのことなのじゃ。拾丸様
は将来、関白豊臣家を継がれる方、つまり次の天下人、その
奥方として姫を迎えたいということなのじゃ・・・これは、豊臣や
徳川のためだけでは無い。早く戦の無い世を造っていかねば
ならぬ・・・天下泰平、天下万民のため・・・豊臣と徳川の
絆を、より強固なものにいたすのじゃ・・・どうじゃ、ごう・・・」 江
「わたくしも、このお話、とても嬉しゅうございまする・・・
のう・・・姉上・・・」
淀
「ふむ・・・われら浅井姉妹は、早くに父、母を亡くし
つらい日々を送ってまいりました・・・親と子、兄弟が袂を分かって
命のやりとりをする・・・そのような戦国の世は、早く終わらせねば
なりませぬ・・・天下泰平に向かうのであれば喜んで拾丸の嫁と
してお迎えいたしましょう・・・拾丸!この千姫が、そなたの
嫁となるのじゃ・・・」
拾丸(後の秀頼)
「はい」
4歳になったばかりの拾丸に、そのことの重大性が、わかろうはず
は無かった。ただ、この婚姻が将来両家にとって最悪の結末を
迎えようとは、このとき誰が想像したであろうか?
第一話 おわり 第二回「秀吉死す」
慶長3年(1598年)3月15日、醍醐寺諸堂の再建を命じ、庭園を造営。
各地から700本の桜を集めて境内に植えさせて秀頼や奥方たちと一日
だけの花見を楽しんだ(醍醐の花見)。
千姫が誕生して1年の月日が流れた・・・
ある日の秀忠と江、千姫の寝顔を見つめながら話す。
江
「殿、太閤殿下、随分お悪いようでございまするね・・・もう、長くないのでは?」
秀忠
「うん・・・そのようじゃな・・・まだ秀頼様は幼いのにもかかわらず・・・
どうしたものか?父上が後見人となられるので案ずることは
無かろうが・・・」
江
「もし太閤殿下が、お亡くなりになられたら幼い秀頼様で政(まつりごと)
は成り立ってまいりますでしょうか?」 秀忠
「ふむ・・・さて、そのへんのことは、太閤殿下にお任せするほか無かろうなあ・・・」
江
「殿・・・わたくし不安なのでございます。もしや父上は太閤殿下亡き後
天下を狙うて動かれるなどとゆうことは、ございませんでしょうなあ・・・
さすれば再び天下は戦国の世に逆戻り・・・やっと天下が治まると
思っておりましたのに・・・」
秀忠
「ははははは・・・ごう、それは心配ござるまい・・・若き頃の父上ならともかく
父上も既にお年、今更天下人になったとて仕方あるまい。」
江
「そうでございまするね・・・ふふふ・・・いらぬ心配ばかり・・・殿、千姫が
生まれて1年ほどになります・・・体の調子もそろそろ良くなってまいりました。
次こそは嫡男を産みとうございます。それにしても1年も側室を持たず、よう辛抱なされ
ましたなあ・・・ふふふ・・・」
秀忠
「ふむ・・・はよう跡取りを設けねばのう・・・」
こうして2人は久しぶりに夫婦の営みを行った。
1年後、江は2人目の子を無事出産・・・
しかし嫡男ではなく、姫であった。
この姫は、珠姫と名づけられ3歳で前田藩(前田利常)に輿入れすることになる。
自分の死が近いことを悟った秀吉は7月4日に居城である伏見城に徳川家康ら
諸大名を呼び寄せて、家康に対して秀頼の後見人になるようにと依頼した。
8月5日、秀吉は五大老宛てに二度目の遺言書を記す。秀吉の病は、前年に
秀吉の命令で甲斐善光寺から京都方広寺へ移されていた信濃善光寺の本尊
である阿弥陀三尊の祟りであるという噂から、三尊像は8月17日に信濃へ向け
て京都を出発したが、8月18日、秀吉はその生涯を終えた。
死因については現在も不明である。
第二話 おわり 第二十X回 「千姫輿入れ」
慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原
(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた天下分け目の
関が原の戦いは、徳川方の勝利となり
秀頼、淀殿に対しては「女、子供のあずかり知らぬところ」として咎めず領地も
そのままだったが、論功行賞により各大名家の領地に含めていた太閤蔵入地
(豊臣氏の直轄地)は諸将に分配された。その結果、豊臣氏は摂津国・河内国
・和泉国の3ヶ国65万石の一大名となり、家康は天下人としての立場を確立した。 慶長8年(1603年)2月12日、後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として伏見城
に派遣。朝廷より六種八通の宣旨が下り、家康を征夷大将軍、淳和奨学両院別
当、右大臣に任命した。同年3月12日、伏見城から二条城に移り、3月21日、衣冠
束帯を纏い行列を整えて御所に参内し、将軍拝賀の礼を行い、年頭の祝賀も述
べた。3月27日、二条城に勅使を迎え、重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の
儀を行った。また4月4日から3日間、二条城で能楽が行われ諸大名や公家衆を饗
応した。これにより征夷大将軍徳川家康は武家の棟梁となる地位を確立した。
そして・・・
このままでは、徳川家に天下を奪われると懸念した豊臣秀頼の母・淀殿
は豊臣秀吉が生前、成立させていた秀頼と千姫の婚約を履行させた。
千姫は慶長8年(1603年)7月豊臣秀頼に輿入れをすることになった。
秀頼11歳、千姫7歳 千姫が大阪に向かう前日・・・
千姫は、父である秀忠と母である江のもとを訪れた。
輿入れといっても実際は、豊臣の人質であるため
父母は同行せず乳母の刑部卿局(ぎょうぶきょうのつぼね)
が同行する。
徳川秀忠
「姫、息災にな・・・」
千姫
「はい・・・父上、母上も息災に、お暮らし下さいませ。」 江
「秀忠殿・・・本当に、これで良いのでございましょうや・・・太閤殿下との
お約束とはいえ、今は父上が天下人・・・豊臣は、これで納得して
くれましょうや・・・徳川将軍家の孫娘の婿として次期将軍となるつもり
だと聞いておりまする。」
徳川秀忠
「困ったものじゃ・・・父上は、近いうちに将軍職を、わしに譲って
将軍職は徳川の世襲ということを示されるだろうな・・・既に天下は
徳川のもの・・・しっかり、わかっていただかねば・・・」 江
「まさか、徳川と豊臣で戦などということは、ありますまいな・・・」
徳川秀忠
「父上次第じゃろうなあ・・・豊臣が1大名として傘下にさえ入って従って
くれれば、何の問題も無かろうが・・・
戦したとて大阪方には勝ち目はあるまい・・・
それぐらいのこと、わかっておるじゃろうて・・・」
翌日、千姫一行は大阪に向け出発した。
第二十X話 おわり >>24
どうでもいいが江は千姫輿入れ時に妊婦の身の上で伏見城まで千姫に同行しているだろう
そのまま江戸へ帰ってこれずに臨月となり伏見城で初姫を出産している
そもそも20]回で千姫がまだ7歳ってその間ずっと何をやるんだろう? 第四十X回 「大阪落城」
慶長20年5月7日
昼過ぎ・・・戦場から真田幸村討ち死にの知らせが入った。
淀と秀頼は、お互い向かい合って相槌をうつ・・・
淀
「やはり無理であったか・・・最後の望みも絶たれたようじゃ・・・」
秀頼
「母上・・・では、千を呼びまするが、本当によろしいのでござい
ますな・・・」
淀
「ああ」
淀は、微笑みながら頷いた。
千姫が部屋に入ってきて淀と秀頼の前に座る。 淀
「千、既に戦の命運は尽きたようじゃ、この城が落ちるのは時間の
問題・・・無駄な血はこれ以上流しとうない。そこで、そなたに頼みがある。」
千姫
「はい」
神妙な顔つきで頷いた。
淀
「これから、そなたが大御所の陣に出向いて直接われらの助命嘆願を
してもらいたいのじゃ・・・そなたが直接会って嘆願すれば、さすがに
命まで獲ることは無かろう。」 千姫
「はい承知いたしました母上・・・千は自分の命に替えても大御所様の
赦しを請うてまいります。」
こうして千姫を解放し大御所の陣に向かわせることを伝えると
一旦戦が止み徳川方から迎えの使者が輿を運んできた。
千姫は輿に乗り見送る淀と秀頼の姿を輿の窓を少し開け隙間から覗き込む。
なんとなく寂しそうな感じがした。嫌な予感がする。
しかし一刻の猶予も無い・・・
早く、大御所の下に行って助命嘆願をせねば・・・ 大御所の陣に到着し千姫が輿から降りると祖父の家康と父の秀忠が満面の
笑みで迎えた。
家康は千姫を抱きしめ・・・
「よう無事で帰ってこられたのう・・・良かった、良かった。」
秀忠も横から・・・
「本当に、良かった・・・千にもしものことがあったら江(ごう)に何と言われるか・・・
ははは・・・」
千姫
「おじじ様、父上、どうか豊臣の母上や秀頼様のこと命ばかりは、お助け
下さいませ。」
家康は満面の笑みで・・・
「わかっておる、わかっておる・・・既に、使者を立て投降するよう伝えたわ・・・
一旦は領地召し上げになるであろうが、いずれ、どこかに身の立つぐらいの
領地は与えようと思うておる。」 大阪城落城後に10代くらいの女優から
晩年まで演じる壮年の女優にチェンジですね
タイミングとしては家康か秀忠との対面時かな
(お千、ショックで老けたのぅ・・・) その時、鉄砲の音が鳴り響いた。
”ダーン!”
鉄砲隊が投降を促すため立てこもっている籾蔵の方に鉄砲を撃ちかけた。
しばらくして籾蔵の中の様子を探りに行くと・・・
秀頼は淀殿らとともに籾蔵の中で勝永に介錯され自害していた。
自害した様子が伝えられた。
「われらが籾蔵の中の様子を探りに行った時には、秀頼様、淀殿は
既に自害されておりました。最初から覚悟の上、千姫様を帰された
ものと思われます。」
その場で千姫は気を失った。
こうして大阪の陣は、最悪の形で幕が引かれることになった。
第四十X回 おわり 第四十九回 「助命・千姫の決意」
家康の怒りは尋常では無かった・・・
幕府に弓を引く豊臣家を許し存続させようと苦慮してきたにも
かかわらず最後は自害という形で裏切られたのだ。
そこに秀頼の側室の子の国松と女子が潜伏している所を捕らえられ
たという報が入った。
家康
「あい、わかった。両名即刻首を刎ねよ!」
隣で聞いていた秀忠は真っ青になって・・・
「父上!しばらくお待ち下され!何も幼子の命までも奪わなくとも!」 家康
「許すことまかりならぬ!豊臣家がこうなった以上豊臣の血筋を残す
わけにはまいらぬ!平家が源氏の遺児を助命したため滅ぼされた
例もあるゆえ不憫ではあるがのう・・・」
秀忠
「父上!今や徳川の天下!今更何も・・・!」
家康と秀忠は、お互い掴み合って険悪な表情で向き合った。
それを観ていた本多忠政が中に割って入り何とかその場を
収めた。
翌日、改めて話し合いが持たれる事になった。 翌日、秀忠は千姫と高台院(秀吉の正室)伴って、話し合いの
場に現れた。
家康
「おお・・・高台院殿、お久しゅうございまするなあ・・・」
家康は、秀吉の死後も秀吉の婦人を大切にし
婦人が大阪城を出た後、高台寺を建立、そこの住職
とした。非常に聡明で美しかった秀吉の婦人、おね
には一目置いているのだ・・・ 高台院
「ほんとうですこと・・・家康殿も息災なご様子・・・
こたび豊臣家は残念なことになりもうしたが
家康殿には、罪はござらぬ・・・よく耐えてくださり
もうした。信長公ならとっくに潰されておったろうのう・・・
そこでじゃが・・・家康殿と見込んで無理を承知で
お頼み申す。
秀頼殿の遺児のことじゃが、国松は男子ゆえ
諦め申すが、姫は、おなごゆえ許してもらえぬか?
もちろん子孫が徳川に刃を向けぬよう
出家させ生涯独り身で過ごすことにはなるがのう。
これで、どうか・・・折れてくださらぬか・・・」
家康は腕組みをして
「う〜ん・・・」 千姫
「おじじ様、姫をわたくしの養女とすることで
助命していただけませんでしょうか・・・?」
秀忠
「父上、わたくしからも、お頼み申し上げ
まする。もし叶わぬなら、豊臣の嫁であった千も
罰せねばなりませぬゆえ・・・」
家康
「承知いたした。千よ一つだけ、わしの頼みを
聞いてもらいたい・・・そなたは
桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻に再嫁
すること・・・これが受け入れられねば、助命は
叶わぬゆえ・・・どうじゃ?」 千姫
「承知いたしました。おじじ様、ほんに、ほんに・・・
ありがとうございまする。」
こうして
国松は処刑、また娘の天秀尼は僧籍に入ることで助命された。
第四十九回 おわり >>50
家康の命令により京都で軟禁状態だった高台院がワープしまくってるぞw 木村重成が千姫を大阪城から脱出させるとか ラブロマンスはなかったのか 第五十回 「歳月」 最終話
寛文6年(1666年)2月6日
大阪夏の陣が終わり約50年の歳月が流れた。
千姫は大阪夏の陣の翌年 本多忠刻に嫁ぎ
長女 勝姫、長男 幸千代を授かるが
幸千代は3歳で没し、その後
夫・忠刻、姑・熊姫、母・江が次々と没するなど不幸が続き、
本多家を娘・勝姫と共に出ることとなった。
江戸城に入り、出家して天樹院と号す。
出家後は娘と2人で竹橋御殿で暮らした。寛永5年(1628年)に勝姫が
父・秀忠の養女として池田光政の元へ嫁ぎ、一人暮らしとなる。
寛永9年(1632年)、父・秀忠が薨去。寛永16年(1639年)、光政と勝姫の
嫡男・池田綱政(千姫の外孫)が誕生した。 現在、千姫は江戸場内で暮らし
もうすぐ70を迎える・・・
その日、千姫は自室から外の景色を眺めながら
うとうと眠り始めた。
千姫は、いつのまにか18歳の頃の姿になり大阪城内で秀頼と桜の木の下を
手を繫いで歩いていた。
桜の花が満開である。
秀頼
「千、千は父上や母上は恋しゅうないか?」
千姫
「いえ、こちらには淀の母上もおられますし、秀頼様もおられますゆえ
寂しゅうございませぬ・・・」 秀頼
「それは良かった。ははは・・・
ここでは、誰とでも会いたいと思うたらすぐ会えるのじゃ・・・
千は、誰と会ってみたい?」
千姫
「そうでございまするね・・・父上、母上・・・でも一番会いたいのは・・・」
秀頼
「ははは・・・ここの世界では、隠し事は出来ぬ世界・・・」
1人の若武者が千姫の前に現れた・・・家光?
似ているが、もう少し体格が良く顔立ちも勇ましい・・・
もしや”幸千代”? 幸千代
「母上!お久しゅうございまする・・・」
千姫
「やはり、幸千代なのですね・・・」
親子は、しっかり抱き合った。
女中が昼餉の準備に部屋を訪れた時には既に
眠るように息を引き取っていたという。
享年69歳
亡くなった夜、曾祖母於大の方の菩提寺である小石川伝通院
に納められ導師知鑑(知恩院37世)により葬儀が行なわれた。
墓所は傳通院と茨城県常総市の天樹院弘経寺にあり、また
徳川家(松平家)が三河時代から帰依していた浄土宗の
総本山である京都の知恩院に定例により分骨され宝塔に
納められた。知鑑は後に位牌や遺物を祭るため伊勢に
「寂照寺」を開いた。
戒名「天樹院殿栄譽源法松山禅定尼」。 千姫が本多忠刻と暮らした10年間が一番幸福だったと言われているのに
最後に思い出すのが豊臣秀頼って酷くないか?
忠刻は千姫が将軍の娘というのもあり生涯千姫一人を妻として守り
他に側室を持たなかった
一方、秀頼には複数の側室・妾があり2人の子はそれぞれ別の側室が産んでいる >>67
千姫は忠刻に嫁ぐ前に寺入りして淀殿・秀頼の供養と同時に
豊臣の千の弔いもして「まだ未婚のままの」家康の孫娘の体で忠刻に嫁いでる。
ちなみに姑になる忠刻の母はあの信康の熊姫なので、千姫の父秀忠の姉。
秀頼と千姫も従兄妹同士どうしの結婚だったが、忠刻とも同じ。
忠刻との嫡子が早世したので千姫は再び寺で淀殿と秀頼の供養をしてる。
祟りが心底怖かったんだろう。 >>70
違うぞ
信康と秀忠が兄弟なので、熊姫は秀忠の姉ではなく姪
千姫と忠刻は従兄妹同士ではなく、千姫と熊姫が従姉妹同士
信康と秀忠がかなり年の離れた異母兄弟なので世代が一世代ぐらい違う
豊臣の妻のままでは徳川の世では生き辛いので
家康が本多へ嫁いでいた孫娘の熊姫に頼んでその嫡子と再婚させたと言われている
幸千代が死んだときには実際に霊能力者に秀頼の祟りだと言われて千姫はこれを信じ
姫路に千姫が創建した千姫天満宮に江戸城から嫁入り道具として持参した豪華な羽子板数枚を納め
秀頼の供養を行って千姫が本多家で幸せに暮らし嫡子を産むことを許してほしいと祈願した
しかし結局千姫と忠刻の間に幸千代以降子は誕生せず
忠刻は側室を持たなかったため本多家の家督は忠刻の弟が継いだ 大河も朝ドラもモデル、モチーフがあっても
ほとんど妄想で成り立つもの。 スピン・オフ 真田幸村
幸村最後の戦(いくさ)・・・1/3
その日、幸村は茶臼山の陣で戦況を伺っていた。既に豊臣方は
後藤基次や木村重成などの主だった武将が相次いで討死し、
疲弊していった・・・
”もはやこれまでか・・・”
幸村は、目を閉じて腕組みをしつぶやいた。
”もう、この手しか、あるまい・・・”
幸村は、うしろを振り返り叫ぶ。
”狙うは徳川家康の首ただひとつのみ!
みなのもの!昨日の打合せどおり、これから最後の大いくさを
しかける。生きて帰ること無き、大いくさじゃ!死にたくなき者は
去ってよし!いっさい咎めだてはせぬ!・・・”
もちろん、去るものはいない。
味方の1人が叫んだ。
”幸村様!われら大阪の陣に参加したときから幸村様に命は
おあずけ申しておりまするぞ!
ひとあわ、大御所に吹かせてやりましょうぞ!
わっはははは・・・!”
陣内に大きな歓声が沸きあがった! 幸村最後の戦(いくさ)・・・2/3
幸村は槍を手に持ち馬に飛び乗った。
他の者たちも次々と馬に飛び乗っていく・・・
幸村隊、50数名が幸村を取り囲み同じ赤色の甲冑に身につけ
一塊(ひとかたまり)になって越前隊(松平忠直)の大軍
めがけて真一文字に家康本陣へ突撃を開始した。
数(かず)のうえでは、圧倒的に徳川軍優勢であるが、少人数で1つにまとまって
いる分、的は小さく、通り道を遮る兵のみを防げば良いわけである。
ただ時間勝負・・・・長引けば長引くほど、不利になるのは目に見えている。
家康本陣にさえたどり着ければ・・・槍の使い手である幸村に勝機はある。
家康本陣が見えてきた・・・既に幸村隊は幸村1人になっていた。
”みなのもの、かたじけない・・・”
”大御所のみしるし頂戴仕る!”
幸村は叫びながら、家康めがけて突進していく・・・幸い、本陣の、ほとんどが
出払っていて数名の供がいるのみである。
まず2、3人の供を槍でなぎ倒し家康の目の前に迫った・・・その時、家康の
前に槍を持って立ちはだかった武将がいた。見覚えの、ある顔・・・
滝川三九朗であった。三九朗は幸村の妹の婿、つまり義理の弟である。
今回の戦では、徳川家康護衛の旗本として警備にあたっていた・・・
三九朗は見事な槍さばきで幸村を食い止め、その隙に家康は馬で逃れた。
援護に駆けつけた十数名の鉄砲隊が幸村に鉄砲を打ち掛けた・・・ 幸村最後の戦(いくさ)・・・3/3
”すまぬ・・・兄上・・・”
”三九朗ならば・・・やむおえず・・・”
と二人は言葉をかわし鉄砲で深手を負ったまま幸村は去っていく・・・
その後、幸村は
四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内
にたどりつき、馬から降りて、どっかと腰を降ろした。
肩と腹に銃弾を受けたらしい・・・血が流れていた。
そこに越前隊鉄砲組の西尾宗次が、現れた。
幸村は、宗次を見つめて一言・・・
”介錯を頼む!”と言い
その場で腹を切って果てた。
享年49
幸村最後の戦(いくさ) <おわり> 第一回「誕生」
慶長2年(1597年)4月11日
山城国伏見城内の徳川屋敷
今、まさに1人のおなごが赤子を産み落とそうとしていた。
そのおなごの名は江(ごう)
父は浅井長政、母はお市の方の3女にあたる姫君である。
”おぎゃー!”
”おぎゃー!”
お付の女中が叫ぶ
”生まれましたぞ!姫君じゃ!” しかしながら信繁はこのいくさが終われば信濃に帰るつもりですと言っておきながら
千姫が江戸に帰りたいと言ったら却下 隣の部屋から待ちかねたように人の良さそうな男が
入ってきた。
「ごう!でかしたぞ!」
この男は、まじまじと赤子の顔を眺め・・・
「なんと麗しき顔立ちの姫じゃ・・・うん、うん・・・
さすが絶世の美女と謳われた、お市の方
様の血を引く姫君じゃ、ははは・・・でかした。
でかしたぞ・・・」
なんとも言えない表情である。
この人の良さそうな男の名は秀忠
豊臣政権の五大老のひとり徳川家康の嫡男である。 しばらくして、秀忠は紙と筆を持って来させて
一つの文字を書いた。
「赤子の名は”千”といたす」
この「千」と名づけられた赤子こそ後に波乱万丈の生涯を歩む
千姫、この物語の主人公である。 翌日、江の舅である徳川家康が、豊臣秀吉、側室の淀、
嫡男の拾丸(後の秀頼)を伴って祝いの品を持って駆けつけた。
豊臣秀吉の側室、淀の方は江の実姉、つまり嫡男の拾丸は
江にとっては甥、千姫とは従兄弟通しになる。 千姫
千姫............桐谷美玲←広瀬すず←芦田愛菜←松田芹香
豊臣秀頼.....鈴木亮平
徳川秀忠.....上川隆也
お江与.........宮沢りえ
徳川家康......江守徹
淀殿.............若村麻由美
大野治長......香川照之
片桐且元......西岡徳馬
大蔵卿局......松原智恵子
本多忠刻......尾上松也
本多忠政......松重豊
本多忠勝......伊吹吾郎
お初.............沢口靖子
徳川家光......阪本浩之
真田信繁......唐沢寿明
これくらいのキャストなら見たい 家康
「ごう、でかしたぞ・・・」
江
「父上、ありがとうございまする・・・しかし、父上は嫡男を
望んでおられたのでは・・・?」
そこに秀吉が割って入る。
秀吉
「ごう・・・案ずるな、最初の子は、おなごのほうが豊臣に
とっても徳川にとっても、むしろ良かったのじゃ。
家康殿、もう良いじゃろう・・・」
秀吉が家康に目で合図した。 >>97
千姫は70歳まで生きるのに桐谷美玲で最後でやらせるのか?
23歳で死んだ豊臣秀頼に30代半ばの鈴木亮平というのも悲劇性が伝わりにくい
>>95
天下人である豊臣秀吉が家臣の邸に駆け付けるなどありえない
しかも家臣にすぎない徳川家康が主君の秀吉、秀頼、淀殿を伴ってきたってw
また世継ぎの秀頼や世継ぎの母として重きをなしている淀殿が
自由に伏見城下へ出かけることなど許されない
行くなら江のほうが元気になってから千姫を連れて伏見城へ訪問し
養父の秀吉や世継ぎの秀頼、姉の淀殿へ挨拶だろう
毎回の事だがワープが酷い 家康
「実はのう・・・ごう、殿下から、ごうの子が、おなごであれば
拾丸様の正室に、お迎えしたいとのことなのじゃ。拾丸様
は将来、関白豊臣家を継がれる方、つまり次の天下人、その
奥方として姫を迎えたいということなのじゃ・・・これは、豊臣や
徳川のためだけでは無い。早く戦の無い世を造っていかねば
ならぬ・・・天下泰平、天下万民のため・・・豊臣と徳川の
絆を、より強固なものにいたすのじゃ・・・どうじゃ、ごう・・・」 江
「わたくしも、このお話、とても嬉しゅうございまする・・・
のう・・・姉上・・・」
淀
「ふむ・・・われら浅井姉妹は、早くに父、母を亡くし
つらい日々を送ってまいりました・・・親と子、兄弟が袂を分かって
命のやりとりをする・・・そのような戦国の世は、早く終わらせねば
なりませぬ・・・天下泰平に向かうのであれば喜んで拾丸の嫁と
してお迎えいたしましょう・・・拾丸!この千姫が、そなたの
嫁となるのじゃ・・・」
拾丸(後の秀頼)
「はい」
4歳になったばかりの拾丸に、そのことの重大性が、わかろうはず
は無かった。ただ、この婚姻が将来両家にとって最悪の結末を
迎えようとは、このとき誰が想像したであろうか?
第一話 おわり みんなの感想
投稿者:lap*****さん投稿日時:2016/12/20 11:09
投票した人:11人
千姫は豊臣家助命嘆願せず!
千姫は、とても納得した。
「姫様に豊臣家のすぺてがかかっているんです!」と、きりに懇願されつつ、大阪城を脱出したのに、
家康・秀忠の前で、全く豊臣家の助命嘆願のそぶりなし。
瞬時に状況を悟り、その場を辞したきり。
千姫が豊臣家のために嘆願したとかは、
後の徳川方の「取り繕い」と思う。
わずか1年(ひたすら驚き!)もするかしないかで、千姫は、
美男の誉れ高い本多忠刻が気に入り、再婚。10万石の化粧料つきで姫路城の主に。
子が次々に生まれるも、姫一人以外は、
全て早死。「秀頼の祟り」とか
うわさされる。
秀頼遺児の娘を助けたのは、千姫の嘆願とかいうが、それも怪しい。しょせん側室の子。
婚約者の木曽義仲の嫡男義高を、
父源頼朝に斬られて、
失意まま早死した大姫、
家康六男忠輝と離縁させられて
生涯再婚しなかった伊達政宗の娘の五郎八姫とは、全く違う。
千姫に懸想して再嫁をはばみ、
ついに刃傷沙汰で捕縛された、
板崎出羽守の逸話も、実は彼が宇喜多家の身内と知れば、「秀頼への裏切り」
に怒り抗議するやむにやまれぬ行動であった、と納得してしまうのである。
イカれ三谷信者の、いくつものID駆使して、イカれ三谷を持ち上げまくる、一日中みん感に張り付いてる、生活保護受給中のジジイが千姫までも貶める。 第二回「秀吉死す」
慶長3年(1598年)3月15日、醍醐寺諸堂の再建を命じ、庭園を造営。
各地から700本の桜を集めて境内に植えさせて秀頼や奥方たちと一日
だけの花見を楽しんだ(醍醐の花見)。
千姫が誕生して1年の月日が流れた・・・
ある日の秀忠と江、千姫の寝顔を見つめながら話す。
江
「殿、太閤殿下、随分お悪いようでございまするね・・・もう、長くないのでは?」
秀忠
「うん・・・そのようじゃな・・・まだ秀頼様は幼いのにもかかわらず・・・
どうしたものか?父上が後見人となられるので案ずることは
無かろうが・・・」
江
「もし太閤殿下が、お亡くなりになられたら幼い秀頼様で政(まつりごと)
は成り立ってまいりますでしょうか?」 江戸城を姫路城で誤魔化せないから金が掛かるこの企画は無理だな 秀忠
「ふむ・・・さて、そのへんのことは、太閤殿下にお任せするほか無かろうなあ・・・」
江
「殿・・・わたくし不安なのでございます。もしや父上は太閤殿下亡き後
天下を狙うて動かれるなどとゆうことは、ございませんでしょうなあ・・・
さすれば再び天下は戦国の世に逆戻り・・・やっと天下が治まると
思っておりましたのに・・・」
秀忠
「ははははは・・・ごう、それは心配ござるまい・・・若き頃の父上ならともかく
父上も既にお年、今更天下人になったとて仕方あるまい。」 江
「そうでございまするね・・・ふふふ・・・いらぬ心配ばかり・・・殿、千姫が
生まれて1年ほどになります・・・体の調子もそろそろ良くなってまいりました。
次こそは嫡男を産みとうございます。それにしても1年も側室を持たず、よう辛抱なされ
ましたなあ・・・ふふふ・・・」
秀忠
「ふむ・・・はよう跡取りを設けねばのう・・・」
こうして2人は久しぶりに夫婦の営みを行った。
1年後、江は2人目の子を無事出産・・・
しかし嫡男ではなく、姫であった。
この姫は、珠姫と名づけられ3歳で前田藩(前田利常)に輿入れすることになる。
自分の死が近いことを悟った秀吉は7月4日に居城である伏見城に徳川家康ら
諸大名を呼び寄せて、家康に対して秀頼の後見人になるようにと依頼した。
8月5日、秀吉は五大老宛てに二度目の遺言書を記す。秀吉の病は、前年に
秀吉の命令で甲斐善光寺から京都方広寺へ移されていた信濃善光寺の本尊
である阿弥陀三尊の祟りであるという噂から、三尊像は8月17日に信濃へ向け
て京都を出発したが、8月18日、秀吉はその生涯を終えた。
死因については現在も不明である。
第二話 おわり >>105
江の時にCGで江戸城外観を再現していたから問題ない
豊臣期の大坂城の実物が残ってないから豊臣秀吉はできないとかないし
ここのスレ主の妄想小説では無理だが
>江「嫡男が生みとうございます」
>2人は久しぶりに営みを持った
そもそもこの繰り返しはなんなんだ?
秀忠はまだこの頃10代で(秀忠は満16歳で6歳年上の江と結婚、
千姫が生まれた時には満18歳)
江以外に妻はいなかったのにセックスするのは久しぶりで
しかも嫡男を産みたいと吠えまくる江に促されて嫌々とかw 第二十X回 「千姫輿入れ」
慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原
(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた天下分け目の
関が原の戦いは、徳川方の勝利となり
秀頼、淀殿に対しては「女、子供のあずかり知らぬところ」として咎めず領地も
そのままだったが、論功行賞により各大名家の領地に含めていた太閤蔵入地
(豊臣氏の直轄地)は諸将に分配された。その結果、豊臣氏は摂津国・河内国
・和泉国の3ヶ国65万石の一大名となり、家康は天下人としての立場を確立した。 慶長8年(1603年)2月12日、後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として伏見城
に派遣。朝廷より六種八通の宣旨が下り、家康を征夷大将軍、淳和奨学両院別
当、右大臣に任命した。同年3月12日、伏見城から二条城に移り、3月21日、衣冠
束帯を纏い行列を整えて御所に参内し、将軍拝賀の礼を行い、年頭の祝賀も述
べた。3月27日、二条城に勅使を迎え、重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の
儀を行った。また4月4日から3日間、二条城で能楽が行われ諸大名や公家衆を饗
応した。これにより征夷大将軍徳川家康は武家の棟梁となる地位を確立した。
そして・・・
このままでは、徳川家に天下を奪われると懸念した豊臣秀頼の母・淀殿
は豊臣秀吉が生前、成立させていた秀頼と千姫の婚約を履行させた。
千姫は慶長8年(1603年)7月豊臣秀頼に輿入れをすることになった。
秀頼11歳、千姫7歳 千姫が大阪に向かう前日・・・
千姫は、父である秀忠と母である江のもとを訪れた。
輿入れといっても実際は、豊臣の人質であるため
父母は同行せず乳母の刑部卿局(ぎょうぶきょうのつぼね)
が同行する。
徳川秀忠
「姫、息災にな・・・」
千姫
「はい・・・父上、母上も息災に、お暮らし下さいませ。」 千姫事件をやらんとはw
あと淀が千姫との間に子供つくらせなかった話までは史実かわからんがなw 江
「秀忠殿・・・本当に、これで良いのでございましょうや・・・太閤殿下との
お約束とはいえ、今は父上が天下人・・・豊臣は、これで納得して
くれましょうや・・・徳川将軍家の孫娘の婿として次期将軍となるつもり
だと聞いておりまする。」
徳川秀忠
「困ったものじゃ・・・父上は、近いうちに将軍職を、わしに譲って
将軍職は徳川の世襲ということを示されるだろうな・・・既に天下は
徳川のもの・・・しっかり、わかっていただかねば・・・」 江
「まさか、徳川と豊臣で戦などということは、ありますまいな・・・」
徳川秀忠
「父上次第じゃろうなあ・・・豊臣が1大名として傘下にさえ入って従って
くれれば、何の問題も無かろうが・・・
戦したとて大阪方には勝ち目はあるまい・・・
それぐらいのこと、わかっておるじゃろうて・・・」
翌日、千姫一行は大阪に向け出発した。
第二十X話 おわり 第四十X回 「大阪落城」
慶長20年5月7日
昼過ぎ・・・戦場から真田幸村討ち死にの知らせが入った。
淀と秀頼は、お互い向かい合って相槌をうつ・・・
淀
「やはり無理であったか・・・最後の望みも絶たれたようじゃ・・・」
秀頼
「母上・・・では、千を呼びまするが、本当によろしいのでござい
ますな・・・」
淀
「ああ」
淀は、微笑みながら頷いた。
千姫が部屋に入ってきて淀と秀頼の前に座る。 淀
「千、既に戦の命運は尽きたようじゃ、この城が落ちるのは時間の
問題・・・無駄な血はこれ以上流しとうない。そこで、そなたに頼みがある。」
千姫
「はい」
神妙な顔つきで頷いた。
淀
「これから、そなたが大御所の陣に出向いて直接われらの助命嘆願を
してもらいたいのじゃ・・・そなたが直接会って嘆願すれば、さすがに
命まで獲ることは無かろう。」 千姫
「はい承知いたしました母上・・・千は自分の命に替えても大御所様の
赦しを請うてまいります。」
こうして千姫を解放し大御所の陣に向かわせることを伝えると
一旦戦が止み徳川方から迎えの使者が輿を運んできた。
千姫は輿に乗り見送る淀と秀頼の姿を輿の窓を少し開け隙間から覗き込む。
なんとなく寂しそうな感じがした。嫌な予感がする。
しかし一刻の猶予も無い・・・
早く、大御所の下に行って助命嘆願をせねば・・・ 大御所の陣に到着し千姫が輿から降りると祖父の家康と父の秀忠が満面の
笑みで迎えた。
家康は千姫を抱きしめ・・・
「よう無事で帰ってこられたのう・・・良かった、良かった。」
秀忠も横から・・・
「本当に、良かった・・・千にもしものことがあったら江(ごう)に何と言われるか・・・
ははは・・・」
千姫
「おじじ様、父上、どうか豊臣の母上や秀頼様のこと命ばかりは、お助け
下さいませ。」
家康は満面の笑みで・・・
「わかっておる、わかっておる・・・既に、使者を立て投降するよう伝えたわ・・・
一旦は領地召し上げになるであろうが、いずれ、どこかに身の立つぐらいの
領地は与えようと思うておる。」 その時、鉄砲の音が鳴り響いた。
”ダーン!”
鉄砲隊が投降を促すため立てこもっている籾蔵の方に鉄砲を撃ちかけた。
しばらくして籾蔵の中の様子を探りに行くと・・・
秀頼は淀殿らとともに籾蔵の中で勝永に介錯され自害していた。
自害した様子が伝えられた。
「われらが籾蔵の中の様子を探りに行った時には、秀頼様、淀殿は
既に自害されておりました。最初から覚悟の上、千姫様を帰された
ものと思われます。」
その場で千姫は気を失った。
こうして大阪の陣は、最悪の形で幕が引かれることになった。
第四十X回 おわり 第四十九回 「助命・千姫の決意」
家康の怒りは尋常では無かった・・・
幕府に弓を引く豊臣家を許し存続させようと苦慮してきたにも
かかわらず最後は自害という形で裏切られたのだ。
そこに秀頼の側室の子の国松と女子が潜伏している所を捕らえられ
たという報が入った。
家康
「あい、わかった。両名即刻首を刎ねよ!」
隣で聞いていた秀忠は真っ青になって・・・
「父上!しばらくお待ち下され!何も幼子の命までも奪わなくとも!」 家康
「許すことまかりならぬ!豊臣家がこうなった以上豊臣の血筋を残す
わけにはまいらぬ!平家が源氏の遺児を助命したため滅ぼされた
例もあるゆえ不憫ではあるがのう・・・」
秀忠
「父上!今や徳川の天下!今更何も・・・!」 大坂夏の陣で、千姫が秀頼の娘(側室の子)を自分の娘として助ける話があるな。
その後、その姫が駆け込みでの東慶寺で、天秀尼として活躍する話もいるな。、 家康と秀忠は、お互い掴み合って険悪な表情で向き合った。
それを観ていた本多忠政が中に割って入り何とかその場を
収めた。
翌日、改めて話し合いが持たれる事になった。 翌日、秀忠は千姫と高台院(秀吉の正室)伴って、話し合いの
場に現れた。
家康
「おお・・・高台院殿、お久しゅうございまするなあ・・・」
家康は、秀吉の死後も秀吉の婦人を大切にし
婦人が大阪城を出た後、高台寺を建立、そこの住職
とした。非常に聡明で美しかった秀吉の婦人、おね
には一目置いているのだ・・・ 高台院
「ほんとうですこと・・・家康殿も息災なご様子・・・
こたび豊臣家は残念なことになりもうしたが
家康殿には、罪はござらぬ・・・よく耐えてくださり
もうした。信長公ならとっくに潰されておったろうのう・・・
そこでじゃが・・・家康殿と見込んで無理を承知で
お頼み申す。
秀頼殿の遺児のことじゃが、国松は男子ゆえ
諦め申すが、姫は、おなごゆえ許してもらえぬか?
もちろん子孫が徳川に刃を向けぬよう
出家させ生涯独り身で過ごすことにはなるがのう。
これで、どうか・・・折れてくださらぬか・・・」
家康は腕組みをして
「う〜ん・・・」 千姫
「おじじ様、姫をわたくしの養女とすることで
助命していただけませんでしょうか・・・?」
秀忠
「父上、わたくしからも、お頼み申し上げ
まする。もし叶わぬなら、豊臣の嫁であった千も
罰せねばなりませぬゆえ・・・」
家康
「承知いたした。千よ一つだけ、わしの頼みを
聞いてもらいたい・・・そなたは
桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻に再嫁
すること・・・これが受け入れられねば、助命は
叶わぬゆえ・・・どうじゃ?」 千姫
「おじじ様、姫をわたくしの養女とすることで
助命していただけませんでしょうか・・・?」
秀忠
「父上、わたくしからも、お頼み申し上げ
まする。もし叶わぬなら、豊臣の嫁であった千も
罰せねばなりませぬゆえ・・・」
家康
「承知いたした。千よ一つだけ、わしの頼みを
聞いてもらいたい・・・そなたは
桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻に再嫁
すること・・・これが受け入れられねば、助命は
叶わぬゆえ・・・どうじゃ?」 千姫
「承知いたしました。おじじ様、ほんに、ほんに・・・
ありがとうございまする。」
こうして
国松は処刑、また娘の天秀尼は僧籍に入ることで助命された。
第四十九回 おわり 第五十回 「歳月」 最終話
寛文6年(1666年)2月6日
大阪夏の陣が終わり約50年の歳月が流れた。
千姫は大阪夏の陣の翌年 本多忠刻に嫁ぎ
長女 勝姫、長男 幸千代を授かるが
幸千代は3歳で没し、その後
夫・忠刻、姑・熊姫、母・江が次々と没するなど不幸が続き、
本多家を娘・勝姫と共に出ることとなった。
江戸城に入り、出家して天樹院と号す。
出家後は娘と2人で竹橋御殿で暮らした。寛永5年(1628年)に勝姫が
父・秀忠の養女として池田光政の元へ嫁ぎ、一人暮らしとなる。
寛永9年(1632年)、父・秀忠が薨去。寛永16年(1639年)、光政と勝姫の
嫡男・池田綱政(千姫の外孫)が誕生した。 現在、千姫は江戸場内で暮らし
もうすぐ70を迎える・・・
その日、千姫は自室から外の景色を眺めながら
うとうと眠り始めた。
千姫は、いつのまにか18歳の頃の姿になり大阪城内で秀頼と桜の木の下を
手を繫いで歩いていた。
桜の花が満開である。
秀頼
「千、千は父上や母上は恋しゅうないか?」
千姫
「いえ、こちらには淀の母上もおられますし、秀頼様もおられますゆえ
寂しゅうございませぬ・・・」 秀頼
「それは良かった。ははは・・・
ここでは、誰とでも会いたいと思うたらすぐ会えるのじゃ・・・
千は、誰と会ってみたい?」
千姫
「そうでございまするね・・・父上、母上・・・でも一番会いたいのは・・・」
秀頼
「ははは・・・ここの世界では、隠し事は出来ぬ世界・・・」
1人の若武者が千姫の前に現れた・・・家光?
似ているが、もう少し体格が良く顔立ちも勇ましい・・・
もしや”幸千代”? 幸千代
「母上!お久しゅうございまする・・・」
千姫
「やはり、幸千代なのですね・・・」
親子は、しっかり抱き合った。
女中が昼餉の準備に部屋を訪れた時には既に
眠るように息を引き取っていたという。
享年69歳
亡くなった夜、曾祖母於大の方の菩提寺である小石川伝通院
に納められ導師知鑑(知恩院37世)により葬儀が行なわれた。
墓所は傳通院と茨城県常総市の天樹院弘経寺にあり、また
徳川家(松平家)が三河時代から帰依していた浄土宗の
総本山である京都の知恩院に定例により分骨され宝塔に
納められた。知鑑は後に位牌や遺物を祭るため伊勢に
「寂照寺」を開いた。
戒名「天樹院殿栄譽源法松山禅定尼」。 スピン・オフ
本多平八郎忠勝伝
その日、江戸城に、朝早く馬で乗りつける武将がいた・・・・・
本多平八郎忠勝である。
”との〜”大声で叫びながら平八郎が朝食を頬張る家康に向かって来た。
家康は、目を丸くして、箸をもったまましばらく呆然としていたが、
箸を置き・・・
平八郎に向かって言った。
”いかがしたのじゃ・・・ははは・・・そなたも、朝飯は
まだじゃろ、いっしょにどうじゃ?” 平八郎は、女中の運んできた水を一気に飲み干すと
”こたびの若殿の縁組しょうふくいたしかねまつる!
豊臣から、なにゆえ若殿に、むっつも年上の、おなごを嫁に押し付けられ
ねばならぬのじゃ!わしは、悔しゅうて・・・殿は、悔しゅうござらぬか?
江殿は、こたび三度目の嫁入りと聞いておりまするぞ!しかも、子も
1人おるそうな・・・徳川を愚弄するにも程がござる!サルの魂胆は
見えすぎておりまする。淀殿の妹ぎみなら、若殿とは義姉弟、秀頼殿は
甥、先々江殿との間に姫が生まれれば、夫婦(めおと)にして豊臣
の基盤を磐石なものにしようという魂胆じゃろ” 家康は、大声で笑いながら言った。
”さすが平八郎、察しが良いのお・・・既に、内内での話じゃが、第一の姫は
秀頼殿の嫁に貰い受けたいとのことじゃ。じゃが、わしは、そう悪い縁組とは
思わんのじゃ・・・わしは、江姫のことは、信長公ご存命中からよく存じて
おって少々気が強いところは、ござるが情の深い良い姫じゃ、あれぐらい
しっかりした姫なら将来天下人の御台所として、じゅうぶんやっていけよう。” 平八郎は、腕組みをしながら、うつむいていたが、しばらくして言った。
”承知つかまつった。わしは、てっきり殿は天下を諦めて豊臣との融和策に
転じられたのかと勘違いをしたようでござった。それならば、何も申しませぬ。”
その後、平八郎も朝飯に加わり、和やかに、時が流れた。
本多平八郎忠勝伝 <おわり> スピン・オフ 真田幸村
幸村最後の戦(いくさ)・・・1/3
その日、幸村は茶臼山の陣で戦況を伺っていた。既に豊臣方は
後藤基次や木村重成などの主だった武将が相次いで討死し、
疲弊していった・・・
”もはやこれまでか・・・”
幸村は、目を閉じて腕組みをしつぶやいた。
”もう、この手しか、あるまい・・・”
幸村は、うしろを振り返り叫ぶ。
”狙うは徳川家康の首ただひとつのみ!
みなのもの!昨日の打合せどおり、これから最後の大いくさを
しかける。生きて帰ること無き、大いくさじゃ!死にたくなき者は
去ってよし!いっさい咎めだてはせぬ!・・・”
もちろん、去るものはいない。
味方の1人が叫んだ。
”幸村様!われら大阪の陣に参加したときから幸村様に命は
おあずけ申しておりまするぞ!
ひとあわ、大御所に吹かせてやりましょうぞ!
わっはははは・・・!”
陣内に大きな歓声が沸きあがった! 幸村最後の戦(いくさ)・・・2/3
幸村は槍を手に持ち馬に飛び乗った。
他の者たちも次々と馬に飛び乗っていく・・・
幸村隊、50数名が幸村を取り囲み同じ赤色の甲冑に身につけ
一塊(ひとかたまり)になって越前隊(松平忠直)の大軍
めがけて真一文字に家康本陣へ突撃を開始した。
数(かず)のうえでは、圧倒的に徳川軍優勢であるが、少人数で1つにまとまって
いる分、的は小さく、通り道を遮る兵のみを防げば良いわけである。
ただ時間勝負・・・・長引けば長引くほど、不利になるのは目に見えている。
家康本陣にさえたどり着ければ・・・槍の使い手である幸村に勝機はある。
家康本陣が見えてきた・・・既に幸村隊は幸村1人になっていた。
”みなのもの、かたじけない・・・”
”大御所のみしるし頂戴仕る!”
幸村は叫びながら、家康めがけて突進していく・・・幸い、本陣の、ほとんどが
出払っていて数名の供がいるのみである。
まず2、3人の供を槍でなぎ倒し家康の目の前に迫った・・・その時、家康の
前に槍を持って立ちはだかった武将がいた。見覚えの、ある顔・・・
滝川三九朗であった。三九朗は幸村の妹の婿、つまり義理の弟である。
今回の戦では、徳川家康護衛の旗本として警備にあたっていた・・・
三九朗は見事な槍さばきで幸村を食い止め、その隙に家康は馬で逃れた。
援護に駆けつけた十数名の鉄砲隊が幸村に鉄砲を打ち掛けた・・・ 幸村最後の戦(いくさ)・・・3/3
”すまぬ・・・兄上・・・”
”三九朗ならば・・・やむおえず・・・”
と二人は言葉をかわし鉄砲で深手を負ったまま幸村は去っていく・・・
その後、幸村は
四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内
にたどりつき、馬から降りて、どっかと腰を降ろした。
肩と腹に銃弾を受けたらしい・・・血が流れていた。
そこに越前隊鉄砲組の西尾宗次が、現れた。
幸村は、宗次を見つめて一言・・・
”介錯を頼む!”と言い
その場で腹を切って果てた。
享年49
幸村最後の戦(いくさ) <おわり> 第二十X回 「関が原」
慶長5年(1600年)9月初旬
上杉討伐に向け秀忠が江戸城を出発する日。
正室の江が生まれたばかりの珠姫を抱っこし千姫を伴って見送りに
城の表門まで出向いた。
秀忠
「では・・・江、千、珠、行ってまいる。」
江
「秀忠殿、しっかりおやりなされ!あなた様は将来天下人秀頼様の
舅となられるお方、豊臣の獅子身中の虫どもを一掃して千が安心して
秀頼様に輿入れできる様にしてくださいまし・・・」
秀忠
「ああ、承知いたした。此度は、おそらく豊臣を二分する大いくさに
なるであろう・・・
もし万が一徳川方が負けたときは、そのたの姉、淀殿に助命を申し出
るようにな。さすれば・・・そなたらの命までは獲らぬであろう。」
江
「はい、承知いたしました。道中ご無事で・・・
では、御武運を!」
こうして、千姫は秀忠を母江と共に見送った。
この戦(いくさ)こそ、将来天下分け目の戦と呼ばれた
”関が原”の始まりであった。 第一回「誕生」
慶長2年(1597年)4月11日
山城国伏見城内の徳川屋敷
今、まさに1人のおなごが赤子を産み落とそうとしていた。
そのおなごの名は江(ごう)
父は浅井長政、母はお市の方の3女にあたる姫君である。
”おぎゃー!”
”おぎゃー!”
お付の女中が叫ぶ
”生まれましたぞ!姫君じゃ!” 隣の部屋から待ちかねたように人の良さそうな男が
入ってきた。
「ごう!でかしたぞ!」
この男は、まじまじと赤子の顔を眺め・・・
「なんと麗しき顔立ちの姫じゃ・・・うん、うん・・・
さすが絶世の美女と謳われた、お市の方
様の血を引く姫君じゃ、ははは・・・でかした。
でかしたぞ・・・」
なんとも言えない表情である。
この人の良さそうな男の名は秀忠
豊臣政権の五大老のひとり徳川家康の嫡男である。 しばらくして、秀忠は紙と筆を持って来させて
一つの文字を書いた。
「赤子の名は”千”といたす」
この「千」と名づけられた赤子こそ後に波乱万丈の生涯を歩む
千姫、この物語の主人公である。 翌日、江の舅である徳川家康が、豊臣秀吉、側室の淀、
嫡男の拾丸(後の秀頼)を伴って祝いの品を持って駆けつけた。
豊臣秀吉の側室、淀の方は江の実姉、つまり嫡男の拾丸は
江にとっては甥、千姫とは従兄弟通しになる。 家康
「ごう、でかしたぞ・・・」
江
「父上、ありがとうございまする・・・しかし、父上は嫡男を
望んでおられたのでは・・・?」
そこに秀吉が割って入る。
秀吉
「ごう・・・案ずるな、最初の子は、おなごのほうが豊臣に
とっても徳川にとっても、むしろ良かったのじゃ。
家康殿、もう良いじゃろう・・・」
秀吉が家康に目で合図した。 家康
「実はのう・・・ごう、殿下から、ごうの子が、おなごであれば
拾丸様の正室に、お迎えしたいとのことなのじゃ。拾丸様
は将来、関白豊臣家を継がれる方、つまり次の天下人、その
奥方として姫を迎えたいということなのじゃ・・・これは、豊臣や
徳川のためだけでは無い。早く戦の無い世を造っていかねば
ならぬ・・・天下泰平、天下万民のため・・・豊臣と徳川の
絆を、より強固なものにいたすのじゃ・・・どうじゃ、ごう・・・」 江
「わたくしも、このお話、とても嬉しゅうございまする・・・
のう・・・姉上・・・」
淀
「ふむ・・・われら浅井姉妹は、早くに父、母を亡くし
つらい日々を送ってまいりました・・・親と子、兄弟が袂を分かって
命のやりとりをする・・・そのような戦国の世は、早く終わらせねば
なりませぬ・・・天下泰平に向かうのであれば喜んで拾丸の嫁と
してお迎えいたしましょう・・・拾丸!この千姫が、そなたの
嫁となるのじゃ・・・」
拾丸(後の秀頼)
「はい」
4歳になったばかりの拾丸に、そのことの重大性が、わかろうはず
は無かった。ただ、この婚姻が将来両家にとって最悪の結末を
迎えようとは、このとき誰が想像したであろうか?
第一話 おわり 第二回「秀吉死す」
慶長3年(1598年)3月15日、醍醐寺諸堂の再建を命じ、庭園を造営。
各地から700本の桜を集めて境内に植えさせて秀頼や奥方たちと一日
だけの花見を楽しんだ(醍醐の花見)。
千姫が誕生して1年の月日が流れた・・・
ある日の秀忠と江、千姫の寝顔を見つめながら話す。
江
「殿、太閤殿下、随分お悪いようでございまするね・・・もう、長くないのでは?」
秀忠
「うん・・・そのようじゃな・・・まだ秀頼様は幼いのにもかかわらず・・・
どうしたものか?父上が後見人となられるので案ずることは
無かろうが・・・」
江
「もし太閤殿下が、お亡くなりになられたら幼い秀頼様で政(まつりごと)
は成り立ってまいりますでしょうか?」 秀忠
「ふむ・・・さて、そのへんのことは、太閤殿下にお任せするほか無かろうなあ・・・」
江
「殿・・・わたくし不安なのでございます。もしや父上は太閤殿下亡き後
天下を狙うて動かれるなどとゆうことは、ございませんでしょうなあ・・・
さすれば再び天下は戦国の世に逆戻り・・・やっと天下が治まると
思っておりましたのに・・・」
秀忠
「ははははは・・・ごう、それは心配ござるまい・・・若き頃の父上ならともかく
父上も既にお年、今更天下人になったとて仕方あるまい。」 江
「そうでございまするね・・・ふふふ・・・いらぬ心配ばかり・・・殿、千姫が
生まれて1年ほどになります・・・体の調子もそろそろ良くなってまいりました。
次こそは嫡男を産みとうございます。それにしても1年も側室を持たず、よう辛抱なされ
ましたなあ・・・ふふふ・・・」
秀忠
「ふむ・・・はよう跡取りを設けねばのう・・・」
こうして2人は久しぶりに夫婦の営みを行った。
1年後、江は2人目の子を無事出産・・・
しかし嫡男ではなく、姫であった。
この姫は、珠姫と名づけられ3歳で前田藩(前田利常)に輿入れすることになる。
自分の死が近いことを悟った秀吉は7月4日に居城である伏見城に徳川家康ら
諸大名を呼び寄せて、家康に対して秀頼の後見人になるようにと依頼した。
8月5日、秀吉は五大老宛てに二度目の遺言書を記す。秀吉の病は、前年に
秀吉の命令で甲斐善光寺から京都方広寺へ移されていた信濃善光寺の本尊
である阿弥陀三尊の祟りであるという噂から、三尊像は8月17日に信濃へ向け
て京都を出発したが、8月18日、秀吉はその生涯を終えた。
死因については現在も不明である。
第二話 おわり 第二十X回 「関が原」
慶長5年(1600年)9月初旬
上杉討伐に向け秀忠が江戸城を出発する日。
正室の江が生まれたばかりの珠姫を抱っこし千姫を伴って見送りに
城の表門まで出向いた。
秀忠
「では・・・江、千、珠、行ってまいる。」
江
「秀忠殿、しっかりおやりなされ!あなた様は将来天下人秀頼様の
舅となられるお方、豊臣の獅子身中の虫どもを一掃して千が安心して
秀頼様に輿入れできる様にしてくださいまし・・・」
秀忠
「ああ、承知いたした。此度は、おそらく豊臣を二分する大いくさに
なるであろう・・・
もし万が一徳川方が負けたときは、そのたの姉、淀殿に助命を申し出
るようにな。さすれば・・・そなたらの命までは獲らぬであろう。」
江
「はい、承知いたしました。道中ご無事で・・・
では、御武運を!」
こうして、千姫は秀忠を母江と共に見送った。
この戦(いくさ)こそ、将来天下分け目の戦と呼ばれた
”関が原”の始まりであった。 第二十X回 「千姫輿入れ」
慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原
(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた天下分け目の
関が原の戦いは、徳川方の勝利となり
秀頼、淀殿に対しては「女、子供のあずかり知らぬところ」として咎めず領地も
そのままだったが、論功行賞により各大名家の領地に含めていた太閤蔵入地
(豊臣氏の直轄地)は諸将に分配された。その結果、豊臣氏は摂津国・河内国
・和泉国の3ヶ国65万石の一大名となり、家康は天下人としての立場を確立した。 慶長8年(1603年)2月12日、後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として伏見城
に派遣。朝廷より六種八通の宣旨が下り、家康を征夷大将軍、淳和奨学両院別
当、右大臣に任命した。同年3月12日、伏見城から二条城に移り、3月21日、衣冠
束帯を纏い行列を整えて御所に参内し、将軍拝賀の礼を行い、年頭の祝賀も述
べた。3月27日、二条城に勅使を迎え、重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の
儀を行った。また4月4日から3日間、二条城で能楽が行われ諸大名や公家衆を饗
応した。これにより征夷大将軍徳川家康は武家の棟梁となる地位を確立した。
そして・・・
このままでは、徳川家に天下を奪われると懸念した豊臣秀頼の母・淀殿
は豊臣秀吉が生前、成立させていた秀頼と千姫の婚約を履行させた。
千姫は慶長8年(1603年)7月豊臣秀頼に輿入れをすることになった。
秀頼11歳、千姫7歳 千姫が大阪に向かう前日・・・
千姫は、父である秀忠と母である江のもとを訪れた。
輿入れといっても実際は、豊臣の人質であるため
父母は同行せず乳母の刑部卿局(ぎょうぶきょうのつぼね)
が同行する。
徳川秀忠
「姫、息災にな・・・」
千姫
「はい・・・父上、母上も息災に、お暮らし下さいませ。」 江
「秀忠殿・・・本当に、これで良いのでございましょうや・・・太閤殿下との
お約束とはいえ、今は父上が天下人・・・豊臣は、これで納得して
くれましょうや・・・徳川将軍家の孫娘の婿として次期将軍となるつもり
だと聞いておりまする。」
徳川秀忠
「困ったものじゃ・・・父上は、近いうちに将軍職を、わしに譲って
将軍職は徳川の世襲ということを示されるだろうな・・・既に天下は
徳川のもの・・・しっかり、わかっていただかねば・・・」 江
「まさか、徳川と豊臣で戦などということは、ありますまいな・・・」
徳川秀忠
「父上次第じゃろうなあ・・・豊臣が1大名として傘下にさえ入って従って
くれれば、何の問題も無かろうが・・・
戦したとて大阪方には勝ち目はあるまい・・・
それぐらいのこと、わかっておるじゃろうて・・・」
翌日、千姫一行は大阪に向け出発した。
第二十X話 おわり 第四十X回 「大阪落城」
慶長20年5月7日
昼過ぎ・・・戦場から真田幸村討ち死にの知らせが入った。
淀と秀頼は、お互い向かい合って相槌をうつ・・・
淀
「やはり無理であったか・・・最後の望みも絶たれたようじゃ・・・」
秀頼
「母上・・・では、千を呼びまするが、本当によろしいのでござい
ますな・・・」
淀
「ああ」
淀は、微笑みながら頷いた。
千姫が部屋に入ってきて淀と秀頼の前に座る。 淀
「千、既に戦の命運は尽きたようじゃ、この城が落ちるのは時間の
問題・・・無駄な血はこれ以上流しとうない。そこで、そなたに頼みがある。」
千姫
「はい」
神妙な顔つきで頷いた。
淀
「これから、そなたが大御所の陣に出向いて直接われらの助命嘆願を
してもらいたいのじゃ・・・そなたが直接会って嘆願すれば、さすがに
命まで獲ることは無かろう。」 千姫
「はい承知いたしました母上・・・千は自分の命に替えても大御所様の
赦しを請うてまいります。」
こうして千姫を解放し大御所の陣に向かわせることを伝えると
一旦戦が止み徳川方から迎えの使者が輿を運んできた。
千姫は輿に乗り見送る淀と秀頼の姿を輿の窓を少し開け隙間から覗き込む。
なんとなく寂しそうな感じがした。嫌な予感がする。
しかし一刻の猶予も無い・・・
早く、大御所の下に行って助命嘆願をせねば・・・ 大御所の陣に到着し千姫が輿から降りると祖父の家康と父の秀忠が満面の
笑みで迎えた。
家康は千姫を抱きしめ・・・
「よう無事で帰ってこられたのう・・・良かった、良かった。」
秀忠も横から・・・
「本当に、良かった・・・千にもしものことがあったら江(ごう)に何と言われるか・・・
ははは・・・」
千姫
「おじじ様、父上、どうか豊臣の母上や秀頼様のこと命ばかりは、お助け
下さいませ。」
家康は満面の笑みで・・・
「わかっておる、わかっておる・・・既に、使者を立て投降するよう伝えたわ・・・
一旦は領地召し上げになるであろうが、いずれ、どこかに身の立つぐらいの
領地は与えようと思うておる。」 坂崎に奪還されて監禁。性奴隷にされる話はもうきた?
亀甲逆さ吊りされて、休むことも許されずグリグリされちゃうやつ その時、鉄砲の音が鳴り響いた。
”ダーン!”
鉄砲隊が投降を促すため立てこもっている籾蔵の方に鉄砲を撃ちかけた。
しばらくして籾蔵の中の様子を探りに行くと・・・
秀頼は淀殿らとともに籾蔵の中で勝永に介錯され自害していた。
自害した様子が伝えられた。
「われらが籾蔵の中の様子を探りに行った時には、秀頼様、淀殿は
既に自害されておりました。最初から覚悟の上、千姫様を帰された
ものと思われます。」
その場で千姫は気を失った。
こうして大阪の陣は、最悪の形で幕が引かれることになった。
第四十X回 おわり 日本国民のために命をかけて悪と戦っている警察のかたに
おしっこを出せと命令されたのにかわりに茶を出したASKA
与党の国会議員を盗聴している、本省の課長級以上の国家公務員の私邸を盗撮している、と言って
日蓮上人の正法を護持し、日本のまことの国主であり平和の王者である池田先生と創価学会をネット上で誹謗中傷していた奴ら、
おまえらは、全員ASKAと同じ精神障害者ということで警察官に逆らう詐欺師と言う事にこれではっきりとなった。
警察官の3割強はわたくし達創価会員で占められている。
ASKAは必ず再逮捕され、拘置所内で自殺と言う事で間違いなく処理される。
おれたちは絶対負けない。
創価の敵対者達は必ず仏法の力で破滅する事になる。 警察では池田先生から仏法の教えを授けられた警官が日々身命を惜しまず働いている。
ASKAの味方をする奴は全員統合失調の薬物中毒者と言う事にもうすでにもうなったんだから、
おとなしく観念しろ。
創価が与党議員を盗聴している、本省の課長級以上の国家公務員の私邸を盗撮している、
などという疑惑を流している奴らも同罪ということになる。
池田先生は魂の指導者で日本の国主なのだということは、
全世界が認めていることなのだから、
もし仮に公務員や一般国民の生活をご照覧になって指導されたとしても
それは当たり前のことだ。
このスレにそんな馬鹿は居ないと思うがASKAに肩入れして警官や盗撮の悪口を言ってるやつらは
IPアドレスから住居を突きとめて六道地獄を永久に廻る仏罰をくだしてやる。 第四十九回 「助命・千姫の決意」
家康の怒りは尋常では無かった・・・
幕府に弓を引く豊臣家を許し存続させようと苦慮してきたにも
かかわらず最後は自害という形で裏切られたのだ。
そこに秀頼の側室の子の国松と女子が潜伏している所を捕らえられ
たという報が入った。
家康
「あい、わかった。両名即刻首を刎ねよ!」
隣で聞いていた秀忠は真っ青になって・・・
「父上!しばらくお待ち下され!何も幼子の命までも奪わなくとも!」 家康
「許すことまかりならぬ!豊臣家がこうなった以上豊臣の血筋を残す
わけにはまいらぬ!平家が源氏の遺児を助命したため滅ぼされた
例もあるゆえ不憫ではあるがのう・・・」
秀忠
「父上!今や徳川の天下!今更何も・・・!」
家康と秀忠は、お互い掴み合って険悪な表情で向き合った。
それを観ていた本多忠政が中に割って入り何とかその場を
収めた。
翌日、改めて話し合いが持たれる事になった。 翌日、秀忠は千姫と高台院(秀吉の正室)伴って、話し合いの
場に現れた。
家康
「おお・・・高台院殿、お久しゅうございまするなあ・・・」
家康は、秀吉の死後も秀吉の婦人を大切にし
婦人が大阪城を出た後、高台寺を建立、そこの住職
とした。非常に聡明で美しかった秀吉の婦人、おね
には一目置いているのだ・・・ 高台院
「ほんとうですこと・・・家康殿も息災なご様子・・・
こたび豊臣家は残念なことになりもうしたが
家康殿には、罪はござらぬ・・・よく耐えてくださり
もうした。信長公ならとっくに潰されておったろうのう・・・
そこでじゃが・・・家康殿と見込んで無理を承知で
お頼み申す。
秀頼殿の遺児のことじゃが、国松は男子ゆえ
諦め申すが、姫は、おなごゆえ許してもらえぬか?
もちろん子孫が徳川に刃を向けぬよう
出家させ生涯独り身で過ごすことにはなるがのう。
これで、どうか・・・折れてくださらぬか・・・」
家康は腕組みをして
「う〜ん・・・」 千姫
「おじじ様、姫をわたくしの養女とすることで
助命していただけませんでしょうか・・・?」
秀忠
「父上、わたくしからも、お頼み申し上げ
まする。もし叶わぬなら、豊臣の嫁であった千も
罰せねばなりませぬゆえ・・・」
家康
「承知いたした。千よ一つだけ、わしの頼みを
聞いてもらいたい・・・そなたは
桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻に再嫁
すること・・・これが受け入れられねば、助命は
叶わぬゆえ・・・どうじゃ?」 千姫
「承知いたしました。おじじ様、ほんに、ほんに・・・
ありがとうございまする。」
こうして
国松は処刑、また娘の天秀尼は僧籍に入ることで助命された。
第四十九回 おわり 第五十回 「歳月」 最終話
寛文6年(1666年)2月6日
大阪夏の陣が終わり約50年の歳月が流れた。
千姫は大阪夏の陣の翌年 本多忠刻に嫁ぎ
長女 勝姫、長男 幸千代を授かるが
幸千代は3歳で没し、その後
夫・忠刻、姑・熊姫、母・江が次々と没するなど不幸が続き、
本多家を娘・勝姫と共に出ることとなった。
江戸城に入り、出家して天樹院と号す。
出家後は娘と2人で竹橋御殿で暮らした。寛永5年(1628年)に勝姫が
父・秀忠の養女として池田光政の元へ嫁ぎ、一人暮らしとなる。
寛永9年(1632年)、父・秀忠が薨去。寛永16年(1639年)、光政と勝姫の
嫡男・池田綱政(千姫の外孫)が誕生した。 現在、千姫は江戸場内で暮らし
もうすぐ70を迎える・・・
その日、千姫は自室から外の景色を眺めながら
うとうと眠り始めた。
千姫は、いつのまにか18歳の頃の姿になり大阪城内で秀頼と桜の木の下を
手をつないで歩いていた。
桜の花が満開である。
秀頼
「千、千は父上や母上は恋しゅうないか?」
千姫
「いえ、こちらには淀の母上もおられますし、秀頼様もおられますゆえ
寂しゅうございませぬ・・・」 秀頼
「それは良かった。ははは・・・
ここでは、誰とでも会いたいと思うたらすぐ会えるのじゃ・・・
千は、誰と会ってみたい?」
千姫
「そうでございまするね・・・父上、母上・・・でも一番会いたいのは・・・」
秀頼
「ははは・・・ここの世界では、隠し事は出来ぬ世界・・・」
1人の若武者が千姫の前に現れた・・・家光?
似ているが、もう少し体格が良く顔立ちも勇ましい・・・
もしや”幸千代”? マジレスさせてもらうが、大阪時代に尺とりすぎじゃないか?
姫路時代もちゃんと丹念に描くべきじゃないか? 幸千代
「母上!お久しゅうございまする・・・」
千姫
「やはり、幸千代なのですね・・・」
親子は、しっかり抱き合った。
女中が昼餉の準備に部屋を訪れた時には既に
眠るように息を引き取っていたという。
享年69歳
亡くなった夜、曾祖母於大の方の菩提寺である小石川伝通院
に納められ導師知鑑(知恩院37世)により葬儀が行なわれた。
墓所は傳通院と茨城県常総市の天樹院弘経寺にあり、また
徳川家(松平家)が三河時代から帰依していた浄土宗の
総本山である京都の知恩院に定例により分骨され宝塔に
納められた。知鑑は後に位牌や遺物を祭るため伊勢に
「寂照寺」を開いた。
戒名「天樹院殿栄譽源法松山禅定尼」。
おわり スピン・オフ 真田幸村
幸村最後の戦(いくさ)・・・1/3
その日、幸村は茶臼山の陣で戦況を伺っていた。既に豊臣方は
後藤基次や木村重成などの主だった武将が相次いで討死し、
疲弊していった・・・
”もはやこれまでか・・・”
幸村は、目を閉じて腕組みをしつぶやいた。
”もう、この手しか、あるまい・・・”
幸村は、うしろを振り返り叫ぶ。
”狙うは徳川家康の首ただひとつのみ!
みなのもの!昨日の打合せどおり、これから最後の大いくさを
しかける。生きて帰ること無き、大いくさじゃ!死にたくなき者は
去ってよし!いっさい咎めだてはせぬ!・・・”
もちろん、去るものはいない。
味方の1人が叫んだ。
”幸村様!われら大阪の陣に参加したときから幸村様に命は
おあずけ申しておりまするぞ!
ひとあわ、大御所に吹かせてやりましょうぞ!
わっはははは・・・!”
陣内に大きな歓声が沸きあがった! 幸村最後の戦(いくさ)・・・2/3
幸村は槍を手に持ち馬に飛び乗った。
他の者たちも次々と馬に飛び乗っていく・・・
幸村隊、50数名が幸村を取り囲み同じ赤色の甲冑に身につけ
一塊(ひとかたまり)になって越前隊(松平忠直)の大軍
めがけて真一文字に家康本陣へ突撃を開始した。
数(かず)のうえでは、圧倒的に徳川軍優勢であるが、少人数で1つにまとまって
いる分、的は小さく、通り道を遮る兵のみを防げば良いわけである。
ただ時間勝負・・・・長引けば長引くほど、不利になるのは目に見えている。
家康本陣にさえたどり着ければ・・・槍の使い手である幸村に勝機はある。
家康本陣が見えてきた・・・既に幸村隊は幸村1人になっていた。
”みなのもの、かたじけない・・・”
”大御所のみしるし頂戴仕る!”
幸村は叫びながら、家康めがけて突進していく・・・幸い、本陣の、ほとんどが
出払っていて数名の供がいるのみである。
まず2、3人の供を槍でなぎ倒し家康の目の前に迫った・・・その時、家康の
前に槍を持って立ちはだかった武将がいた。見覚えの、ある顔・・・
滝川三九朗であった。三九朗は幸村の妹の婿、つまり義理の弟である。
今回の戦では、徳川家康護衛の旗本として警備にあたっていた・・・
三九朗は見事な槍さばきで幸村を食い止め、その隙に家康は馬で逃れた。
援護に駆けつけた十数名の鉄砲隊が幸村に鉄砲を打ち掛けた・・・ 幸村最後の戦(いくさ)・・・3/3
”すまぬ・・・兄上・・・”
”三九朗ならば・・・やむおえず・・・”
と二人は言葉をかわし鉄砲で深手を負ったまま幸村は去っていく・・・
その後、幸村は
四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内
にたどりつき、馬から降りて、どっかと腰を降ろした。
肩と腹に銃弾を受けたらしい・・・血が流れていた。
そこに越前隊鉄砲組の西尾宗次が、現れた。
幸村は、宗次を見つめて一言・・・
”介錯を頼む!”と言い
その場で腹を切って果てた。
享年49
幸村最後の戦(いくさ) <おわり> 第一回「誕生」
慶長2年(1597年)4月11日
山城国伏見城内の徳川屋敷
今、まさに1人のおなごが赤子を産み落とそうとしていた。
そのおなごの名は江(ごう)
父は浅井長政、母はお市の方の3女にあたる姫君である。
”おぎゃー!”
”おぎゃー!”
お付の女中が叫ぶ
”生まれましたぞ!姫君じゃ!” 隣の部屋から待ちかねたように人の良さそうな男が
入ってきた。
「ごう!でかしたぞ!」
この男は、まじまじと赤子の顔を眺め・・・
「なんと麗しき顔立ちの姫じゃ・・・うん、うん・・・
さすが絶世の美女と謳われた、お市の方
様の血を引く姫君じゃ、ははは・・・でかした。
でかしたぞ・・・」
なんとも言えない表情である。
この人の良さそうな男の名は秀忠
豊臣政権の五大老のひとり徳川家康の嫡男である。 しばらくして、秀忠は紙と筆を持って来させて
一つの文字を書いた。
「赤子の名は”千”といたす」
この「千」と名づけられた赤子こそ後に波乱万丈の生涯を歩む
千姫、この物語の主人公である。
翌日、江の舅である徳川家康が、豊臣秀吉、側室の淀、
嫡男の拾丸(後の秀頼)を伴って祝いの品を持って駆けつけた。
豊臣秀吉の側室、淀の方は江の実姉、つまり嫡男の拾丸は
江にとっては甥、千姫とは従兄弟通しになる。 家康
「ごう、でかしたぞ・・・」
江
「父上、ありがとうございまする・・・しかし、父上は嫡男を
望んでおられたのでは・・・?」
そこに秀吉が割って入る。
秀吉
「ごう・・・案ずるな、最初の子は、おなごのほうが豊臣に
とっても徳川にとっても、むしろ良かったのじゃ。
家康殿、もう良いじゃろう・・・」
秀吉が家康に目で合図した。 家康
「実はのう・・・ごう、殿下から、ごうの子が、おなごであれば
拾丸様の正室に、お迎えしたいとのことなのじゃ。拾丸様
は将来、関白豊臣家を継がれる方、つまり次の天下人、その
奥方として姫を迎えたいということなのじゃ・・・これは、豊臣や
徳川のためだけでは無い。早く戦の無い世を造っていかねば
ならぬ・・・天下泰平、天下万民のため・・・豊臣と徳川の
絆を、より強固なものにいたすのじゃ・・・どうじゃ、ごう・・・」 江
「わたくしも、このお話、とても嬉しゅうございまする・・・
のう・・・姉上・・・」
淀
「ふむ・・・われら浅井姉妹は、早くに父、母を亡くし
つらい日々を送ってまいりました・・・親と子、兄弟が袂を分かって
命のやりとりをする・・・そのような戦国の世は、早く終わらせねば
なりませぬ・・・天下泰平に向かうのであれば喜んで拾丸の嫁と
してお迎えいたしましょう・・・拾丸!この千姫が、そなたの
嫁となるのじゃ・・・」
拾丸(後の秀頼)
「はい」
4歳になったばかりの拾丸に、そのことの重大性が、わかろうはず
は無かった。ただ、この婚姻が将来両家にとって最悪の結末を
迎えようとは、このとき誰が想像したであろうか?
第一話 おわり 第二回「秀吉死す」
慶長3年(1598年)3月15日、醍醐寺諸堂の再建を命じ、庭園を造営。
各地から700本の桜を集めて境内に植えさせて秀頼や奥方たちと一日
だけの花見を楽しんだ(醍醐の花見)。
千姫が誕生して1年の月日が流れた・・・
ある日の秀忠と江、千姫の寝顔を見つめながら話す。
江
「殿、太閤殿下、随分お悪いようでございまするね・・・もう、長くないのでは?」
秀忠
「うん・・・そのようじゃな・・・まだ秀頼様は幼いのにもかかわらず・・・
どうしたものか?父上が後見人となられるので案ずることは
無かろうが・・・」
江
「もし太閤殿下が、お亡くなりになられたら幼い秀頼様で政(まつりごと)
は成り立ってまいりますでしょうか?」 これは必見!!!見ると絶対に泣ける
ラストに起こる奇跡に感動と興奮が交差する世紀の大逆転劇
https://www.youtube.com/watch?v=2iF_e2mYQLA 秀忠
「ふむ・・・さて、そのへんのことは、太閤殿下にお任せするほか無かろうなあ・・・」
江
「殿・・・わたくし不安なのでございます。もしや父上は太閤殿下亡き後
天下を狙うて動かれるなどとゆうことは、ございませんでしょうなあ・・・
さすれば再び天下は戦国の世に逆戻り・・・やっと天下が治まると
思っておりましたのに・・・」
秀忠
「ははははは・・・ごう、それは心配ござるまい・・・若き頃の父上ならともかく
父上も既にお年、今更天下人になったとて仕方あるまい。」
江
「そうでございまするね・・・ふふふ・・・いらぬ心配ばかり・・・殿、千姫が
生まれて1年ほどになります・・・体の調子もそろそろ良くなってまいりました。
次こそは嫡男を産みとうございます。それにしても1年も側室を持たず、よう辛抱なされ
ましたなあ・・・ふふふ・・・」
秀忠
「ふむ・・・はよう跡取りを設けねばのう・・・」
こうして2人は久しぶりに夫婦の営みを行った。
1年後、江は2人目の子を無事出産・・・
しかし嫡男ではなく、姫であった。
この姫は、珠姫と名づけられ3歳で前田藩(前田利常)に輿入れすることになる。
自分の死が近いことを悟った秀吉は7月4日に居城である伏見城に徳川家康ら
諸大名を呼び寄せて、家康に対して秀頼の後見人になるようにと依頼した。
8月5日、秀吉は五大老宛てに二度目の遺言書を記す。秀吉の病は、前年に
秀吉の命令で甲斐善光寺から京都方広寺へ移されていた信濃善光寺の本尊
である阿弥陀三尊の祟りであるという噂から、三尊像は8月17日に信濃へ向け
て京都を出発したが、8月18日、秀吉はその生涯を終えた。
死因については現在も不明である。
第二話 おわり 第二十X回 「関が原」
慶長5年(1600年)9月初旬
上杉討伐に向け秀忠が江戸城を出発する日。
正室の江が生まれたばかりの珠姫を抱っこし千姫を伴って見送りに
城の表門まで出向いた。
秀忠
「では・・・江、千、珠、行ってまいる。」
江
「秀忠殿、しっかりおやりなされ!あなた様は将来天下人秀頼様の
舅となられるお方、豊臣の獅子身中の虫どもを一掃して千が安心して
秀頼様に輿入れできる様にしてくださいまし・・・」
秀忠
「ああ、承知いたした。此度は、おそらく豊臣を二分する大いくさに
なるであろう・・・
もし万が一徳川方が負けたときは、そのたの姉、淀殿に助命を申し出
るようにな。さすれば・・・そなたらの命までは獲らぬであろう。」
江
「はい、承知いたしました。道中ご無事で・・・
では、御武運を!」
こうして、千姫は秀忠を母江と共に見送った。
この戦(いくさ)こそ、将来天下分け目の戦と呼ばれた
”関が原”の始まりであった。 第二十X回 「千姫輿入れ」
慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原
(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた天下分け目の
関が原の戦いは、徳川方の勝利となり
秀頼、淀殿に対しては「女、子供のあずかり知らぬところ」として咎めず領地も
そのままだったが、論功行賞により各大名家の領地に含めていた太閤蔵入地
(豊臣氏の直轄地)は諸将に分配された。その結果、豊臣氏は摂津国・河内国
・和泉国の3ヶ国65万石の一大名となり、家康は天下人としての立場を確立した。 慶長8年(1603年)2月12日、後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として伏見城
に派遣。朝廷より六種八通の宣旨が下り、家康を征夷大将軍、淳和奨学両院別
当、右大臣に任命した。同年3月12日、伏見城から二条城に移り、3月21日、衣冠
束帯を纏い行列を整えて御所に参内し、将軍拝賀の礼を行い、年頭の祝賀も述
べた。3月27日、二条城に勅使を迎え、重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の
儀を行った。また4月4日から3日間、二条城で能楽が行われ諸大名や公家衆を饗
応した。これにより征夷大将軍徳川家康は武家の棟梁となる地位を確立した。
そして・・・
このままでは、徳川家に天下を奪われると懸念した豊臣秀頼の母・淀殿
は豊臣秀吉が生前、成立させていた秀頼と千姫の婚約を履行させた。
千姫は慶長8年(1603年)7月豊臣秀頼に輿入れをすることになった。
秀頼11歳、千姫7歳 千姫が大阪に向かう前日・・・
千姫は、父である秀忠と母である江のもとを訪れた。
輿入れといっても実際は、豊臣の人質であるため
父母は同行せず乳母の刑部卿局(ぎょうぶきょうのつぼね)
が同行する。
徳川秀忠
「姫、息災にな・・・」
千姫
「はい・・・父上、母上も息災に、お暮らし下さいませ。」 江
「秀忠殿・・・本当に、これで良いのでございましょうや・・・太閤殿下との
お約束とはいえ、今は父上が天下人・・・豊臣は、これで納得して
くれましょうや・・・徳川将軍家の孫娘の婿として次期将軍となるつもり
だと聞いておりまする。」
徳川秀忠
「困ったものじゃ・・・父上は、近いうちに将軍職を、わしに譲って
将軍職は徳川の世襲ということを示されるだろうな・・・既に天下は
徳川のもの・・・しっかり、わかっていただかねば・・・」 江
「まさか、徳川と豊臣で戦などということは、ありますまいな・・・」
徳川秀忠
「父上次第じゃろうなあ・・・豊臣が1大名として傘下にさえ入って従って
くれれば、何の問題も無かろうが・・・
戦したとて大阪方には勝ち目はあるまい・・・
それぐらいのこと、わかっておるじゃろうて・・・」
翌日、千姫一行は大阪に向け出発した。
第二十X話 おわり 第四十X回 「大阪落城」
慶長20年5月7日
昼過ぎ・・・戦場から真田幸村討ち死にの知らせが入った。
淀と秀頼は、お互い向かい合って相槌をうつ・・・
淀
「やはり無理であったか・・・最後の望みも絶たれたようじゃ・・・」
秀頼
「母上・・・では、千を呼びまするが、本当によろしいのでござい
ますな・・・」
淀
「ああ」
淀は、微笑みながら頷いた。
千姫が部屋に入ってきて淀と秀頼の前に座る。 淀
「千、既に戦の命運は尽きたようじゃ、この城が落ちるのは時間の
問題・・・無駄な血はこれ以上流しとうない。そこで、そなたに頼みがある。」
千姫
「はい」
神妙な顔つきで頷いた。
淀
「これから、そなたが大御所の陣に出向いて直接われらの助命嘆願を
してもらいたいのじゃ・・・そなたが直接会って嘆願すれば、さすがに
命まで獲ることは無かろう。」 千姫
「はい承知いたしました母上・・・千は自分の命に替えても大御所様の
赦しを請うてまいります。」
こうして千姫を解放し大御所の陣に向かわせることを伝えると
一旦戦が止み徳川方から迎えの使者が輿を運んできた。
千姫は輿に乗り見送る淀と秀頼の姿を輿の窓を少し開け隙間から覗き込む。
なんとなく寂しそうな感じがした。嫌な予感がする。
しかし一刻の猶予も無い・・・
早く、大御所の下に行って助命嘆願をせねば・・・ 大御所の陣に到着し千姫が輿から降りると祖父の家康と父の秀忠が満面の
笑みで迎えた。
家康は千姫を抱きしめ・・・
「よう無事で帰ってこられたのう・・・良かった、良かった。」
秀忠も横から・・・
「本当に、良かった・・・千にもしものことがあったら江(ごう)に何と言われるか・・・
ははは・・・」
千姫
「おじじ様、父上、どうか豊臣の母上や秀頼様のこと命ばかりは、お助け
下さいませ。」
家康は満面の笑みで・・・
「わかっておる、わかっておる・・・既に、使者を立て投降するよう伝えたわ・・・
一旦は領地召し上げになるであろうが、いずれ、どこかに身の立つぐらいの
領地は与えようと思うておる。」 その時、鉄砲の音が鳴り響いた。
”ダーン!”
鉄砲隊が投降を促すため立てこもっている籾蔵の方に鉄砲を撃ちかけた。
しばらくして籾蔵の中の様子を探りに行くと・・・
秀頼は淀殿らとともに籾蔵の中で勝永に介錯され自害していた。
自害した様子が伝えられた。
「われらが籾蔵の中の様子を探りに行った時には、秀頼様、淀殿は
既に自害されておりました。最初から覚悟の上、千姫様を帰された
ものと思われます。」
その場で千姫は気を失った。
こうして大阪の陣は、最悪の形で幕が引かれることになった。
第四十X回 おわり 第四十九回 「助命・千姫の決意」
家康の怒りは尋常では無かった・・・
幕府に弓を引く豊臣家を許し存続させようと苦慮してきたにも
かかわらず最後は自害という形で裏切られたのだ。
そこに秀頼の側室の子の国松と女子が潜伏している所を捕らえられ
たという報が入った。
家康
「あい、わかった。両名即刻首を刎ねよ!」
隣で聞いていた秀忠は真っ青になって・・・
「父上!しばらくお待ち下され!何も幼子の命までも奪わなくとも!」 家康
「許すことまかりならぬ!豊臣家がこうなった以上豊臣の血筋を残す
わけにはまいらぬ!平家が源氏の遺児を助命したため滅ぼされた
例もあるゆえ不憫ではあるがのう・・・」
秀忠
「父上!今や徳川の天下!今更何も・・・!」
家康と秀忠は、お互い掴み合って険悪な表情で向き合った。
それを観ていた本多忠政が中に割って入り何とかその場を
収めた。
翌日、改めて話し合いが持たれる事になった。 翌日、秀忠は千姫と高台院(秀吉の正室)伴って、話し合いの
場に現れた。
家康
「おお・・・高台院殿、お久しゅうございまするなあ・・・」
家康は、秀吉の死後も秀吉の婦人を大切にし
婦人が大阪城を出た後、高台寺を建立、そこの住職
とした。非常に聡明で美しかった秀吉の婦人、おね
には一目置いているのだ・・・ 高台院
「ほんとうですこと・・・家康殿も息災なご様子・・・
こたび豊臣家は残念なことになりもうしたが
家康殿には、罪はござらぬ・・・よく耐えてくださり
もうした。信長公ならとっくに潰されておったろうのう・・・
そこでじゃが・・・家康殿と見込んで無理を承知で
お頼み申す。
秀頼殿の遺児のことじゃが、国松は男子ゆえ
諦め申すが、姫は、おなごゆえ許してもらえぬか?
もちろん子孫が徳川に刃を向けぬよう
出家させ生涯独り身で過ごすことにはなるがのう。
これで、どうか・・・折れてくださらぬか・・・」
家康は腕組みをして
「う〜ん・・・」 千姫
「おじじ様、姫をわたくしの養女とすることで
助命していただけませんでしょうか・・・?」
秀忠
「父上、わたくしからも、お頼み申し上げ
まする。もし叶わぬなら、豊臣の嫁であった千も
罰せねばなりませぬゆえ・・・」
家康
「承知いたした。千よ一つだけ、わしの頼みを
聞いてもらいたい・・・そなたは
桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻に再嫁
すること・・・これが受け入れられねば、助命は
叶わぬゆえ・・・どうじゃ?」 千姫
「承知いたしました。おじじ様、ほんに、ほんに・・・
ありがとうございまする。」
こうして
国松は処刑、また娘の天秀尼は僧籍に入ることで助命された。
第四十九回 おわり 第五十回 「歳月」 最終話
寛文6年(1666年)2月6日
大阪夏の陣が終わり約50年の歳月が流れた。
千姫は大阪夏の陣の翌年 本多忠刻に嫁ぎ
長女 勝姫、長男 幸千代を授かるが
幸千代は3歳で没し、その後
夫・忠刻、姑・熊姫、母・江が次々と没するなど不幸が続き、
本多家を娘・勝姫と共に出ることとなった。
江戸城に入り、出家して天樹院と号す。
出家後は娘と2人で竹橋御殿で暮らした。寛永5年(1628年)に勝姫が
父・秀忠の養女として池田光政の元へ嫁ぎ、一人暮らしとなる。
寛永9年(1632年)、父・秀忠が薨去。寛永16年(1639年)、光政と勝姫の
嫡男・池田綱政(千姫の外孫)が誕生した。 現在、千姫は江戸場内で暮らし
もうすぐ70を迎える・・・
その日、千姫は自室から外の景色を眺めながら
うとうと眠り始めた。
千姫は、いつのまにか18歳の頃の姿になり大阪城内で秀頼と桜の木の下を
手を繫いで歩いていた。
桜の花が満開である。
秀頼
「千、千は父上や母上は恋しゅうないか?」
千姫
「いえ、こちらには淀の母上もおられますし、秀頼様もおられますゆえ
寂しゅうございませぬ・・・」 秀頼
「それは良かった。ははは・・・
ここでは、誰とでも会いたいと思うたらすぐ会えるのじゃ・・・
千は、誰と会ってみたい?」
千姫
「そうでございまするね・・・父上、母上・・・でも一番会いたいのは・・・」
秀頼
「ははは・・・ここの世界では、隠し事は出来ぬ世界・・・」
1人の若武者が千姫の前に現れた・・・家光?
似ているが、もう少し体格が良く顔立ちも勇ましい・・・
もしや”幸千代”? 幸千代
「母上!お久しゅうございまする・・・」
千姫
「やはり、幸千代なのですね・・・」
親子は、しっかり抱き合った。
女中が昼餉の準備に部屋を訪れた時には既に
眠るように息を引き取っていたという。
享年69歳
亡くなった夜、曾祖母於大の方の菩提寺である小石川伝通院
に納められ導師知鑑(知恩院37世)により葬儀が行なわれた。
墓所は傳通院と茨城県常総市の天樹院弘経寺にあり、また
徳川家(松平家)が三河時代から帰依していた浄土宗の
総本山である京都の知恩院に定例により分骨され宝塔に
納められた。知鑑は後に位牌や遺物を祭るため伊勢に
「寂照寺」を開いた。
戒名「天樹院殿栄譽源法松山禅定尼」。 スピン・オフ
本多平八郎忠勝伝
その日、江戸城に、朝早く馬で乗りつける武将がいた・・・・・
本多平八郎忠勝である。
”との〜”大声で叫びながら平八郎が朝食を頬張る家康に向かって来た。
家康は、目を丸くして、箸をもったまましばらく呆然としていたが、
箸を置き・・・
平八郎に向かって言った。
”いかがしたのじゃ・・・ははは・・・そなたも、朝飯は
まだじゃろ、いっしょにどうじゃ?” 平八郎は、女中の運んできた水を一気に飲み干すと
”こたびの若殿の縁組しょうふくいたしかねまつる!
豊臣から、なにゆえ若殿に、むっつも年上の、おなごを嫁に押し付けられ
ねばならぬのじゃ!わしは、悔しゅうて・・・殿は、悔しゅうござらぬか?
江殿は、こたび三度目の嫁入りと聞いておりまするぞ!しかも、子も
1人おるそうな・・・徳川を愚弄するにも程がござる!サルの魂胆は
見えすぎておりまする。淀殿の妹ぎみなら、若殿とは義姉弟、秀頼殿は
甥、先々江殿との間に姫が生まれれば、夫婦(めおと)にして豊臣
の基盤を磐石なものにしようという魂胆じゃろ” 家康は、大声で笑いながら言った。
”さすが平八郎、察しが良いのお・・・既に、内内での話じゃが、第一の姫は
秀頼殿の嫁に貰い受けたいとのことじゃ。じゃが、わしは、そう悪い縁組とは
思わんのじゃ・・・わしは、江姫のことは、信長公ご存命中からよく存じて
おって少々気が強いところは、ござるが情の深い良い姫じゃ、あれぐらい
しっかりした姫なら将来天下人の御台所として、じゅうぶんやっていけよう。”
平八郎は、腕組みをしながら、うつむいていたが、しばらくして言った。
”承知つかまつった。わしは、てっきり殿は天下を諦めて豊臣との融和策に
転じられたのかと勘違いをしたようでござった。それならば、何も申しませぬ。”
その後、平八郎も朝飯に加わり、和やかに、時が流れた。 スピン・オフ 真田幸村
幸村最後の戦(いくさ)・・・1/3
その日、幸村は茶臼山の陣で戦況を伺っていた。既に豊臣方は
後藤基次や木村重成などの主だった武将が相次いで討死し、
疲弊していった・・・
”もはやこれまでか・・・”
幸村は、目を閉じて腕組みをしつぶやいた。
”もう、この手しか、あるまい・・・”
幸村は、うしろを振り返り叫ぶ。
”狙うは徳川家康の首ただひとつのみ!
みなのもの!昨日の打合せどおり、これから最後の大いくさを
しかける。生きて帰ること無き、大いくさじゃ!死にたくなき者は
去ってよし!いっさい咎めだてはせぬ!・・・”
もちろん、去るものはいない。
味方の1人が叫んだ。
”幸村様!われら大阪の陣に参加したときから幸村様に命は
おあずけ申しておりまするぞ!
ひとあわ、大御所に吹かせてやりましょうぞ!
わっはははは・・・!”
陣内に大きな歓声が沸きあがった! 幸村最後の戦(いくさ)・・・2/3
幸村は槍を手に持ち馬に飛び乗った。
他の者たちも次々と馬に飛び乗っていく・・・
幸村隊、50数名が幸村を取り囲み同じ赤色の甲冑に身につけ
一塊(ひとかたまり)になって越前隊(松平忠直)の大軍
めがけて真一文字に家康本陣へ突撃を開始した。
数(かず)のうえでは、圧倒的に徳川軍優勢であるが、少人数で1つにまとまって
いる分、的は小さく、通り道を遮る兵のみを防げば良いわけである。
ただ時間勝負・・・・長引けば長引くほど、不利になるのは目に見えている。
家康本陣にさえたどり着ければ・・・槍の使い手である幸村に勝機はある。
家康本陣が見えてきた・・・既に幸村隊は幸村1人になっていた。
”みなのもの、かたじけない・・・”
”大御所のみしるし頂戴仕る!”
幸村は叫びながら、家康めがけて突進していく・・・幸い、本陣の、ほとんどが
出払っていて数名の供がいるのみである。
まず2、3人の供を槍でなぎ倒し家康の目の前に迫った・・・その時、家康の
前に槍を持って立ちはだかった武将がいた。見覚えの、ある顔・・・
滝川三九朗であった。三九朗は幸村の妹の婿、つまり義理の弟である。
今回の戦では、徳川家康護衛の旗本として警備にあたっていた・・・
三九朗は見事な槍さばきで幸村を食い止め、その隙に家康は馬で逃れた。
援護に駆けつけた十数名の鉄砲隊が幸村に鉄砲を打ち掛けた・・・ 幸村最後の戦(いくさ)・・・3/3
”すまぬ・・・兄上・・・”
”三九朗ならば・・・やむおえず・・・”
と二人は言葉をかわし鉄砲で深手を負ったまま幸村は去っていく・・・
その後、幸村は
四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内
にたどりつき、馬から降りて、どっかと腰を降ろした。
肩と腹に銃弾を受けたらしい・・・血が流れていた。
そこに越前隊鉄砲組の西尾宗次が、現れた。
幸村は、宗次を見つめて一言・・・
”介錯を頼む!”と言い
その場で腹を切って果てた。
享年49
幸村最後の戦(いくさ) <おわり> 第一回「誕生」
慶長2年(1597年)4月11日
山城国伏見城内の徳川屋敷
今、まさに1人のおなごが赤子を産み落とそうとしていた。
そのおなごの名は江(ごう)
父は浅井長政、母はお市の方の3女にあたる姫君である。
”おぎゃー!”
”おぎゃー!”
お付の女中が叫ぶ
”生まれましたぞ!姫君じゃ!” 隣の部屋から待ちかねたように人の良さそうな男が
入ってきた。
「ごう!でかしたぞ!」
この男は、まじまじと赤子の顔を眺め・・・
「なんと麗しき顔立ちの姫じゃ・・・うん、うん・・・
さすが絶世の美女と謳われた、お市の方
様の血を引く姫君じゃ、ははは・・・でかした。
でかしたぞ・・・」
なんとも言えない表情である。
この人の良さそうな男の名は秀忠
豊臣政権の五大老のひとり徳川家康の嫡男である。 しばらくして、秀忠は紙と筆を持って来させて
一つの文字を書いた。
「赤子の名は”千”といたす」
この「千」と名づけられた赤子こそ後に波乱万丈の生涯を歩む
千姫、この物語の主人公である。
翌日、江の舅である徳川家康が、豊臣秀吉、側室の淀、
嫡男の拾丸(後の秀頼)を伴って祝いの品を持って駆けつけた。
豊臣秀吉の側室、淀の方は江の実姉、つまり嫡男の拾丸は
江にとっては甥、千姫とは従兄弟通しになる。 家康
「ごう、でかしたぞ・・・」
江
「父上、ありがとうございまする・・・しかし、父上は嫡男を
望んでおられたのでは・・・?」
そこに秀吉が割って入る。
秀吉
「ごう・・・案ずるな、最初の子は、おなごのほうが豊臣に
とっても徳川にとっても、むしろ良かったのじゃ。
家康殿、もう良いじゃろう・・・」
秀吉が家康に目で合図した。
家康
「実はのう・・・ごう、殿下から、ごうの子が、おなごであれば
拾丸様の正室に、お迎えしたいとのことなのじゃ。拾丸様
は将来、関白豊臣家を継がれる方、つまり次の天下人、その
奥方として姫を迎えたいということなのじゃ・・・これは、豊臣や
徳川のためだけでは無い。早く戦の無い世を造っていかねば
ならぬ・・・天下泰平、天下万民のため・・・豊臣と徳川の
絆を、より強固なものにいたすのじゃ・・・どうじゃ、ごう・・・」 江
「わたくしも、このお話、とても嬉しゅうございまする・・・
のう・・・姉上・・・」
淀
「ふむ・・・われら浅井姉妹は、早くに父、母を亡くし
つらい日々を送ってまいりました・・・親と子、兄弟が袂を分かって
命のやりとりをする・・・そのような戦国の世は、早く終わらせねば
なりませぬ・・・天下泰平に向かうのであれば喜んで拾丸の嫁と
してお迎えいたしましょう・・・拾丸!この千姫が、そなたの
嫁となるのじゃ・・・」
拾丸(後の秀頼)
「はい」
4歳になったばかりの拾丸に、そのことの重大性が、わかろうはず
は無かった。ただ、この婚姻が将来両家にとって最悪の結末を
迎えようとは、このとき誰が想像したであろうか?
第一話 おわり 第二回「秀吉死す」
慶長3年(1598年)3月15日、醍醐寺諸堂の再建を命じ、庭園を造営。
各地から700本の桜を集めて境内に植えさせて秀頼や奥方たちと一日
だけの花見を楽しんだ(醍醐の花見)。
千姫が誕生して1年の月日が流れた・・・
ある日の秀忠と江、千姫の寝顔を見つめながら話す。
江
「殿、太閤殿下、随分お悪いようでございまするね・・・もう、長くないのでは?」
秀忠
「うん・・・そのようじゃな・・・まだ秀頼様は幼いのにもかかわらず・・・
どうしたものか?父上が後見人となられるので案ずることは
無かろうが・・・」
江
「もし太閤殿下が、お亡くなりになられたら幼い秀頼様で政(まつりごと)
は成り立ってまいりますでしょうか?」 秀忠
「ふむ・・・さて、そのへんのことは、太閤殿下にお任せするほか無かろうなあ・・・」
江
「殿・・・わたくし不安なのでございます。もしや父上は太閤殿下亡き後
天下を狙うて動かれるなどとゆうことは、ございませんでしょうなあ・・・
さすれば再び天下は戦国の世に逆戻り・・・やっと天下が治まると
思っておりましたのに・・・」
秀忠
「ははははは・・・ごう、それは心配ござるまい・・・若き頃の父上ならともかく
父上も既にお年、今更天下人になったとて仕方あるまい。」 江
「そうでございまするね・・・ふふふ・・・いらぬ心配ばかり・・・殿、千姫が
生まれて1年ほどになります・・・体の調子もそろそろ良くなってまいりました。
次こそは嫡男を産みとうございます。それにしても1年も側室を持たず、よう辛抱なされ
ましたなあ・・・ふふふ・・・」
秀忠
「ふむ・・・はよう跡取りを設けねばのう・・・」
こうして2人は久しぶりに夫婦の営みを行った。
1年後、江は2人目の子を無事出産・・・
しかし嫡男ではなく、姫であった。
この姫は、珠姫と名づけられ3歳で前田藩(前田利常)に輿入れすることになる。
自分の死が近いことを悟った秀吉は7月4日に居城である伏見城に徳川家康ら
諸大名を呼び寄せて、家康に対して秀頼の後見人になるようにと依頼した。
8月5日、秀吉は五大老宛てに二度目の遺言書を記す。秀吉の病は、前年に
秀吉の命令で甲斐善光寺から京都方広寺へ移されていた信濃善光寺の本尊
である阿弥陀三尊の祟りであるという噂から、三尊像は8月17日に信濃へ向け
て京都を出発したが、8月18日、秀吉はその生涯を終えた。
死因については現在も不明である。
第二話 おわり 第二十X回 「関が原」
慶長5年(1600年)9月初旬
上杉討伐に向け秀忠が江戸城を出発する日。
正室の江が生まれたばかりの珠姫を抱っこし千姫を伴って見送りに
城の表門まで出向いた。
秀忠
「では・・・江、千、珠、行ってまいる。」
江
「秀忠殿、しっかりおやりなされ!あなた様は将来天下人秀頼様の
舅となられるお方、豊臣の獅子身中の虫どもを一掃して千が安心して
秀頼様に輿入れできる様にしてくださいまし・・・」
秀忠
「ああ、承知いたした。此度は、おそらく豊臣を二分する大いくさに
なるであろう・・・
もし万が一徳川方が負けたときは、そのたの姉、淀殿に助命を申し出
るようにな。さすれば・・・そなたらの命までは獲らぬであろう。」
江
「はい、承知いたしました。道中ご無事で・・・
では、御武運を!」
こうして、千姫は秀忠を母江と共に見送った。
この戦(いくさ)こそ、将来天下分け目の戦と呼ばれた
”関が原”の始まりであった。 これ普通にショックなんだけど。
本当??
https://goo.gl/lv6HWX 第二十X回 「千姫輿入れ」
慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原
(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた天下分け目の
関が原の戦いは、徳川方の勝利となり
秀頼、淀殿に対しては「女、子供のあずかり知らぬところ」として咎めず領地も
そのままだったが、論功行賞により各大名家の領地に含めていた太閤蔵入地
(豊臣氏の直轄地)は諸将に分配された。その結果、豊臣氏は摂津国・河内国
・和泉国の3ヶ国65万石の一大名となり、家康は天下人としての立場を確立した。 慶長8年(1603年)2月12日、後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として伏見城
に派遣。朝廷より六種八通の宣旨が下り、家康を征夷大将軍、淳和奨学両院別
当、右大臣に任命した。同年3月12日、伏見城から二条城に移り、3月21日、衣冠
束帯を纏い行列を整えて御所に参内し、将軍拝賀の礼を行い、年頭の祝賀も述
べた。3月27日、二条城に勅使を迎え、重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の
儀を行った。また4月4日から3日間、二条城で能楽が行われ諸大名や公家衆を饗
応した。これにより征夷大将軍徳川家康は武家の棟梁となる地位を確立した。
そして・・・
このままでは、徳川家に天下を奪われると懸念した豊臣秀頼の母・淀殿
は豊臣秀吉が生前、成立させていた秀頼と千姫の婚約を履行させた。
千姫は慶長8年(1603年)7月豊臣秀頼に輿入れをすることになった。
秀頼11歳、千姫7歳 千姫が大阪に向かう前日・・・
千姫は、父である秀忠と母である江のもとを訪れた。
輿入れといっても実際は、豊臣の人質であるため
父母は同行せず乳母の刑部卿局(ぎょうぶきょうのつぼね)
が同行する。
徳川秀忠
「姫、息災にな・・・」
千姫
「はい・・・父上、母上も息災に、お暮らし下さいませ。」 江
「秀忠殿・・・本当に、これで良いのでございましょうや・・・太閤殿下との
お約束とはいえ、今は父上が天下人・・・豊臣は、これで納得して
くれましょうや・・・徳川将軍家の孫娘の婿として次期将軍となるつもり
だと聞いておりまする。」
徳川秀忠
「困ったものじゃ・・・父上は、近いうちに将軍職を、わしに譲って
将軍職は徳川の世襲ということを示されるだろうな・・・既に天下は
徳川のもの・・・しっかり、わかっていただかねば・・・」
江
「まさか、徳川と豊臣で戦などということは、ありますまいな・・・」
徳川秀忠
「父上次第じゃろうなあ・・・豊臣が1大名として傘下にさえ入って従って
くれれば、何の問題も無かろうが・・・
戦したとて大阪方には勝ち目はあるまい・・・
それぐらいのこと、わかっておるじゃろうて・・・」
翌日、千姫一行は大阪に向け出発した。
第二十X話 おわり 第四十X回 「大阪落城」
慶長20年5月7日
昼過ぎ・・・戦場から真田幸村討ち死にの知らせが入った。
淀と秀頼は、お互い向かい合って相槌をうつ・・・
淀
「やはり無理であったか・・・最後の望みも絶たれたようじゃ・・・」
秀頼
「母上・・・では、千を呼びまするが、本当によろしいのでござい
ますな・・・」
淀
「ああ」
淀は、微笑みながら頷いた。
千姫が部屋に入ってきて淀と秀頼の前に座る。 淀
「千、既に戦の命運は尽きたようじゃ、この城が落ちるのは時間の
問題・・・無駄な血はこれ以上流しとうない。そこで、そなたに頼みがある。」
千姫
「はい」
神妙な顔つきで頷いた。
淀
「これから、そなたが大御所の陣に出向いて直接われらの助命嘆願を
してもらいたいのじゃ・・・そなたが直接会って嘆願すれば、さすがに
命まで獲ることは無かろう。」 千姫
「はい承知いたしました母上・・・千は自分の命に替えても大御所様の
赦しを請うてまいります。」
こうして千姫を解放し大御所の陣に向かわせることを伝えると
一旦戦が止み徳川方から迎えの使者が輿を運んできた。
千姫は輿に乗り見送る淀と秀頼の姿を輿の窓を少し開け隙間から覗き込む。
なんとなく寂しそうな感じがした。嫌な予感がする。
しかし一刻の猶予も無い・・・
早く、大御所の下に行って助命嘆願をせねば・・・ 大御所の陣に到着し千姫が輿から降りると祖父の家康と父の秀忠が満面の
笑みで迎えた。
家康は千姫を抱きしめ・・・
「よう無事で帰ってこられたのう・・・良かった、良かった。」
秀忠も横から・・・
「本当に、良かった・・・千にもしものことがあったら江(ごう)に何と言われるか・・・
ははは・・・」
千姫
「おじじ様、父上、どうか豊臣の母上や秀頼様のこと命ばかりは、お助け
下さいませ。」
家康は満面の笑みで・・・
「わかっておる、わかっておる・・・既に、使者を立て投降するよう伝えたわ・・・
一旦は領地召し上げになるであろうが、いずれ、どこかに身の立つぐらいの
領地は与えようと思うておる。」 その時、鉄砲の音が鳴り響いた。
”ダーン!”
鉄砲隊が投降を促すため立てこもっている籾蔵の方に鉄砲を撃ちかけた。
しばらくして籾蔵の中の様子を探りに行くと・・・
秀頼は淀殿らとともに籾蔵の中で勝永に介錯され自害していた。
自害した様子が伝えられた。
「われらが籾蔵の中の様子を探りに行った時には、秀頼様、淀殿は
既に自害されておりました。最初から覚悟の上、千姫様を帰された
ものと思われます。」
その場で千姫は気を失った。
こうして大阪の陣は、最悪の形で幕が引かれることになった。
第四十X回 おわり 第四十九回 「助命・千姫の決意」
家康の怒りは尋常では無かった・・・
幕府に弓を引く豊臣家を許し存続させようと苦慮してきたにも
かかわらず最後は自害という形で裏切られたのだ。
そこに秀頼の側室の子の国松と女子が潜伏している所を捕らえられ
たという報が入った。
家康
「あい、わかった。両名即刻首を刎ねよ!」
隣で聞いていた秀忠は真っ青になって・・・
「父上!しばらくお待ち下され!何も幼子の命までも奪わなくとも!」 家康
「許すことまかりならぬ!豊臣家がこうなった以上豊臣の血筋を残す
わけにはまいらぬ!平家が源氏の遺児を助命したため滅ぼされた
例もあるゆえ不憫ではあるがのう・・・」
秀忠
「父上!今や徳川の天下!今更何も・・・!」
家康と秀忠は、お互い掴み合って険悪な表情で向き合った。
それを観ていた本多忠政が中に割って入り何とかその場を
収めた。
翌日、改めて話し合いが持たれる事になった。 翌日、秀忠は千姫と高台院(秀吉の正室)伴って、話し合いの
場に現れた。
家康
「おお・・・高台院殿、お久しゅうございまするなあ・・・」
家康は、秀吉の死後も秀吉の婦人を大切にし
婦人が大阪城を出た後、高台寺を建立、そこの住職
とした。非常に聡明で美しかった秀吉の婦人、おね
には一目置いているのだ・・・ 高台院
「ほんとうですこと・・・家康殿も息災なご様子・・・
こたび豊臣家は残念なことになりもうしたが
家康殿には、罪はござらぬ・・・よく耐えてくださり
もうした。信長公ならとっくに潰されておったろうのう・・・
そこでじゃが・・・家康殿と見込んで無理を承知で
お頼み申す。
秀頼殿の遺児のことじゃが、国松は男子ゆえ
諦め申すが、姫は、おなごゆえ許してもらえぬか?
もちろん子孫が徳川に刃を向けぬよう
出家させ生涯独り身で過ごすことにはなるがのう。
これで、どうか・・・折れてくださらぬか・・・」
家康は腕組みをして
「う〜ん・・・」 千姫
「おじじ様、姫をわたくしの養女とすることで
助命していただけませんでしょうか・・・?」
秀忠
「父上、わたくしからも、お頼み申し上げ
まする。もし叶わぬなら、豊臣の嫁であった千も
罰せねばなりませぬゆえ・・・」
家康
「承知いたした。千よ一つだけ、わしの頼みを
聞いてもらいたい・・・そなたは
桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻に再嫁
すること・・・これが受け入れられねば、助命は
叶わぬゆえ・・・どうじゃ?」 千姫
「承知いたしました。おじじ様、ほんに、ほんに・・・
ありがとうございまする。」
こうして
国松は処刑、また娘の天秀尼は僧籍に入ることで助命された。
第四十九回 おわり 第五十回 「歳月」 最終話
寛文6年(1666年)2月6日
大阪夏の陣が終わり約50年の歳月が流れた。
千姫は大阪夏の陣の翌年 本多忠刻に嫁ぎ
長女 勝姫、長男 幸千代を授かるが
幸千代は3歳で没し、その後
夫・忠刻、姑・熊姫、母・江が次々と没するなど不幸が続き、
本多家を娘・勝姫と共に出ることとなった。
江戸城に入り、出家して天樹院と号す。
出家後は娘と2人で竹橋御殿で暮らした。寛永5年(1628年)に勝姫が
父・秀忠の養女として池田光政の元へ嫁ぎ、一人暮らしとなる。
寛永9年(1632年)、父・秀忠が薨去。寛永16年(1639年)、光政と勝姫の
嫡男・池田綱政(千姫の外孫)が誕生した。 現在、千姫は江戸場内で暮らし
もうすぐ70を迎える・・・
その日、千姫は自室から外の景色を眺めながら
うとうと眠り始めた。
千姫は、いつのまにか18歳の頃の姿になり大阪城内で秀頼と桜の木の下を
手を繫いで歩いていた。
桜の花が満開である。
秀頼
「千、千は父上や母上は恋しゅうないか?」
千姫
「いえ、こちらには淀の母上もおられますし、秀頼様もおられますゆえ
寂しゅうございませぬ・・・」 秀頼
「それは良かった。ははは・・・
ここでは、誰とでも会いたいと思うたらすぐ会えるのじゃ・・・
千は、誰と会ってみたい?」
千姫
「そうでございまするね・・・父上、母上・・・でも一番会いたいのは・・・」
秀頼
「ははは・・・ここの世界では、隠し事は出来ぬ世界・・・」
1人の若武者が千姫の前に現れた・・・家光?
似ているが、もう少し体格が良く顔立ちも勇ましい・・・
もしや”幸千代”? 幸千代
「母上!お久しゅうございまする・・・」
千姫
「やはり、幸千代なのですね・・・」
親子は、しっかり抱き合った。
女中が昼餉の準備に部屋を訪れた時には既に
眠るように息を引き取っていたという。
享年69歳
亡くなった夜、曾祖母於大の方の菩提寺である小石川伝通院
に納められ導師知鑑(知恩院37世)により葬儀が行なわれた。
墓所は傳通院と茨城県常総市の天樹院弘経寺にあり、また
徳川家(松平家)が三河時代から帰依していた浄土宗の
総本山である京都の知恩院に定例により分骨され宝塔に
納められた。知鑑は後に位牌や遺物を祭るため伊勢に
「寂照寺」を開いた。
戒名「天樹院殿栄譽源法松山禅定尼」。
おわり スピン・オフ 真田幸村
幸村最後の戦(いくさ)・・・1/3
その日、幸村は茶臼山の陣で戦況を伺っていた。既に豊臣方は
後藤基次や木村重成などの主だった武将が相次いで討死し、
疲弊していった・・・
”もはやこれまでか・・・”
幸村は、目を閉じて腕組みをしつぶやいた。
”もう、この手しか、あるまい・・・”
幸村は、うしろを振り返り叫ぶ。
”狙うは徳川家康の首ただひとつのみ!
みなのもの!昨日の打合せどおり、これから最後の大いくさを
しかける。生きて帰ること無き、大いくさじゃ!死にたくなき者は
去ってよし!いっさい咎めだてはせぬ!・・・”
もちろん、去るものはいない。
味方の1人が叫んだ。
”幸村様!われら大阪の陣に参加したときから幸村様に命は
おあずけ申しておりまするぞ!
ひとあわ、大御所に吹かせてやりましょうぞ!
わっはははは・・・!”
陣内に大きな歓声が沸きあがった! 幸村最後の戦(いくさ)・・・2/3
幸村は槍を手に持ち馬に飛び乗った。
他の者たちも次々と馬に飛び乗っていく・・・
幸村隊、50数名が幸村を取り囲み同じ赤色の甲冑に身につけ
一塊(ひとかたまり)になって越前隊(松平忠直)の大軍
めがけて真一文字に家康本陣へ突撃を開始した。
数(かず)のうえでは、圧倒的に徳川軍優勢であるが、少人数で1つにまとまって
いる分、的は小さく、通り道を遮る兵のみを防げば良いわけである。
ただ時間勝負・・・・長引けば長引くほど、不利になるのは目に見えている。
家康本陣にさえたどり着ければ・・・槍の使い手である幸村に勝機はある。
家康本陣が見えてきた・・・既に幸村隊は幸村1人になっていた。
”みなのもの、かたじけない・・・”
”大御所のみしるし頂戴仕る!”
幸村は叫びながら、家康めがけて突進していく・・・幸い、本陣の、ほとんどが
出払っていて数名の供がいるのみである。
まず2、3人の供を槍でなぎ倒し家康の目の前に迫った・・・その時、家康の
前に槍を持って立ちはだかった武将がいた。見覚えの、ある顔・・・
滝川三九朗であった。三九朗は幸村の妹の婿、つまり義理の弟である。
今回の戦では、徳川家康護衛の旗本として警備にあたっていた・・・
三九朗は見事な槍さばきで幸村を食い止め、その隙に家康は馬で逃れた。
援護に駆けつけた十数名の鉄砲隊が幸村に鉄砲を打ち掛けた・・・ 幸村最後の戦(いくさ)・・・3/3
”すまぬ・・・兄上・・・”
”三九朗ならば・・・やむおえず・・・”
と二人は言葉をかわし鉄砲で深手を負ったまま幸村は去っていく・・・
その後、幸村は
四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内
にたどりつき、馬から降りて、どっかと腰を降ろした。
肩と腹に銃弾を受けたらしい・・・血が流れていた。
そこに越前隊鉄砲組の西尾宗次が、現れた。
幸村は、宗次を見つめて一言・・・
”介錯を頼む!”と言い
その場で腹を切って果てた。
享年49
幸村最後の戦(いくさ) <おわり> スピン・オフ
本多平八郎忠勝伝
その日、江戸城に、朝早く馬で乗りつける武将がいた・・・・・
本多平八郎忠勝である。
”との〜”大声で叫びながら平八郎が朝食を頬張る家康に向かって来た。
家康は、目を丸くして、箸をもったまましばらく呆然としていたが、
箸を置き・・・
平八郎に向かって言った。
”いかがしたのじゃ・・・ははは・・・そなたも、朝飯は
まだじゃろ、いっしょにどうじゃ?” 平八郎は、女中の運んできた水を一気に飲み干すと
”こたびの若殿の縁組しょうふくいたしかねまつる!
豊臣から、なにゆえ若殿に、むっつも年上の、おなごを嫁に押し付けられ
ねばならぬのじゃ!わしは、悔しゅうて・・・殿は、悔しゅうござらぬか?
江殿は、こたび三度目の嫁入りと聞いておりまするぞ!しかも、子も
1人おるそうな・・・徳川を愚弄するにも程がござる!サルの魂胆は
見えすぎておりまする。淀殿の妹ぎみなら、若殿とは義姉弟、秀頼殿は
甥、先々江殿との間に姫が生まれれば、夫婦(めおと)にして豊臣
の基盤を磐石なものにしようという魂胆じゃろ” 家康は、大声で笑いながら言った。
”さすが平八郎、察しが良いのお・・・既に、内内での話じゃが、第一の姫は
秀頼殿の嫁に貰い受けたいとのことじゃ。じゃが、わしは、そう悪い縁組とは
思わんのじゃ・・・わしは、江姫のことは、信長公ご存命中からよく存じて
おって少々気が強いところは、ござるが情の深い良い姫じゃ、あれぐらい
しっかりした姫なら将来天下人の御台所として、じゅうぶんやっていけよう。”
平八郎は、腕組みをしながら、うつむいていたが、しばらくして言った。
”承知つかまつった。わしは、てっきり殿は天下を諦めて豊臣との融和策に
転じられたのかと勘違いをしたようでござった。それならば、何も申しませぬ。”
その後、平八郎も朝飯に加わり、和やかに、時が流れた。
本多平八郎忠勝伝 <おわり> 第一回「誕生」
慶長2年(1597年)4月11日
山城国伏見城内の徳川屋敷
今、まさに1人のおなごが赤子を産み落とそうとしていた。
そのおなごの名は江(ごう)
父は浅井長政、母はお市の方の3女にあたる姫君である。
”おぎゃー!”
”おぎゃー!”
お付の女中が叫ぶ
”生まれましたぞ!姫君じゃ!” 隣の部屋から待ちかねたように人の良さそうな男が
入ってきた。
「ごう!でかしたぞ!」
この男は、まじまじと赤子の顔を眺め・・・
「なんと麗しき顔立ちの姫じゃ・・・うん、うん・・・
さすが絶世の美女と謳われた、お市の方
様の血を引く姫君じゃ、ははは・・・でかした。
でかしたぞ・・・」
なんとも言えない表情である。
この人の良さそうな男の名は秀忠
豊臣政権の五大老のひとり徳川家康の嫡男である。 しばらくして、秀忠は紙と筆を持って来させて
一つの文字を書いた。
「赤子の名は”千”といたす」
この「千」と名づけられた赤子こそ後に波乱万丈の生涯を歩む
千姫、この物語の主人公である。
翌日、江の舅である徳川家康が、豊臣秀吉、側室の淀、
嫡男の拾丸(後の秀頼)を伴って祝いの品を持って駆けつけた。
豊臣秀吉の側室、淀の方は江の実姉、つまり嫡男の拾丸は
江にとっては甥、千姫とは従兄弟通しになる。 家康
「ごう、でかしたぞ・・・」
江
「父上、ありがとうございまする・・・しかし、父上は嫡男を
望んでおられたのでは・・・?」
そこに秀吉が割って入る。
秀吉
「ごう・・・案ずるな、最初の子は、おなごのほうが豊臣に
とっても徳川にとっても、むしろ良かったのじゃ。
家康殿、もう良いじゃろう・・・」
秀吉が家康に目で合図した。
家康
「実はのう・・・ごう、殿下から、ごうの子が、おなごであれば
拾丸様の正室に、お迎えしたいとのことなのじゃ。拾丸様
は将来、関白豊臣家を継がれる方、つまり次の天下人、その
奥方として姫を迎えたいということなのじゃ・・・これは、豊臣や
徳川のためだけでは無い。早く戦の無い世を造っていかねば
ならぬ・・・天下泰平、天下万民のため・・・豊臣と徳川の
絆を、より強固なものにいたすのじゃ・・・どうじゃ、ごう・・・」 江
「わたくしも、このお話、とても嬉しゅうございまする・・・
のう・・・姉上・・・」
淀
「ふむ・・・われら浅井姉妹は、早くに父、母を亡くし
つらい日々を送ってまいりました・・・親と子、兄弟が袂を分かって
命のやりとりをする・・・そのような戦国の世は、早く終わらせねば
なりませぬ・・・天下泰平に向かうのであれば喜んで拾丸の嫁と
してお迎えいたしましょう・・・拾丸!この千姫が、そなたの
嫁となるのじゃ・・・」
拾丸(後の秀頼)
「はい」
4歳になったばかりの拾丸に、そのことの重大性が、わかろうはず
は無かった。ただ、この婚姻が将来両家にとって最悪の結末を
迎えようとは、このとき誰が想像したであろうか?
第一話 おわり 第二回「秀吉死す」
慶長3年(1598年)3月15日、醍醐寺諸堂の再建を命じ、庭園を造営。
各地から700本の桜を集めて境内に植えさせて秀頼や奥方たちと一日
だけの花見を楽しんだ(醍醐の花見)。
千姫が誕生して1年の月日が流れた・・・
ある日の秀忠と江、千姫の寝顔を見つめながら話す。
江
「殿、太閤殿下、随分お悪いようでございまするね・・・もう、長くないのでは?」
秀忠
「うん・・・そのようじゃな・・・まだ秀頼様は幼いのにもかかわらず・・・
どうしたものか?父上が後見人となられるので案ずることは
無かろうが・・・」
江
「もし太閤殿下が、お亡くなりになられたら幼い秀頼様で政(まつりごと)
は成り立ってまいりますでしょうか?」 秀忠
「ふむ・・・さて、そのへんのことは、太閤殿下にお任せするほか無かろうなあ・・・」
江
「殿・・・わたくし不安なのでございます。もしや父上は太閤殿下亡き後
天下を狙うて動かれるなどとゆうことは、ございませんでしょうなあ・・・
さすれば再び天下は戦国の世に逆戻り・・・やっと天下が治まると
思っておりましたのに・・・」
秀忠
「ははははは・・・ごう、それは心配ござるまい・・・若き頃の父上ならともかく
父上も既にお年、今更天下人になったとて仕方あるまい。」
江
「そうでございまするね・・・ふふふ・・・いらぬ心配ばかり・・・殿、千姫が
生まれて1年ほどになります・・・体の調子もそろそろ良くなってまいりました。
次こそは嫡男を産みとうございます。それにしても1年も側室を持たず、よう辛抱なされ
ましたなあ・・・ふふふ・・・」
秀忠
「ふむ・・・はよう跡取りを設けねばのう・・・」
こうして2人は久しぶりに夫婦の営みを行った。
1年後、江は2人目の子を無事出産・・・
しかし嫡男ではなく、姫であった。
この姫は、珠姫と名づけられ3歳で前田藩(前田利常)に輿入れすることになる。
自分の死が近いことを悟った秀吉は7月4日に居城である伏見城に徳川家康ら
諸大名を呼び寄せて、家康に対して秀頼の後見人になるようにと依頼した。
8月5日、秀吉は五大老宛てに二度目の遺言書を記す。秀吉の病は、前年に
秀吉の命令で甲斐善光寺から京都方広寺へ移されていた信濃善光寺の本尊
である阿弥陀三尊の祟りであるという噂から、三尊像は8月17日に信濃へ向け
て京都を出発したが、8月18日、秀吉はその生涯を終えた。
死因については現在も不明である。
第二話 おわり 千姫なあ・・・大坂城落城後のイケメン漁りのほうが現代の女性には通じるん
じゃないかと 第二十X回 「関が原」
慶長5年(1600年)9月初旬
上杉討伐に向け秀忠が江戸城を出発する日。
正室の江が生まれたばかりの珠姫を抱っこし千姫を伴って見送りに
城の表門まで出向いた。
秀忠
「では・・・江、千、珠、行ってまいる。」
江
「秀忠殿、しっかりおやりなされ!あなた様は将来天下人秀頼様の
舅となられるお方、豊臣の獅子身中の虫どもを一掃して千が安心して
秀頼様に輿入れできる様にしてくださいまし・・・」
秀忠
「ああ、承知いたした。此度は、おそらく豊臣を二分する大いくさに
なるであろう・・・
もし万が一徳川方が負けたときは、そのたの姉、淀殿に助命を申し出
るようにな。さすれば・・・そなたらの命までは獲らぬであろう。」
江
「はい、承知いたしました。道中ご無事で・・・
では、御武運を!」
こうして、千姫は秀忠を母江と共に見送った。
この戦(いくさ)こそ、将来天下分け目の戦と呼ばれた
”関が原”の始まりであった。 第二十X回 「千姫輿入れ」
慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原
(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた天下分け目の
関が原の戦いは、徳川方の勝利となり
秀頼、淀殿に対しては「女、子供のあずかり知らぬところ」として咎めず領地も
そのままだったが、論功行賞により各大名家の領地に含めていた太閤蔵入地
(豊臣氏の直轄地)は諸将に分配された。その結果、豊臣氏は摂津国・河内国
・和泉国の3ヶ国65万石の一大名となり、家康は天下人としての立場を確立した。 慶長8年(1603年)2月12日、後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として伏見城
に派遣。朝廷より六種八通の宣旨が下り、家康を征夷大将軍、淳和奨学両院別
当、右大臣に任命した。同年3月12日、伏見城から二条城に移り、3月21日、衣冠
束帯を纏い行列を整えて御所に参内し、将軍拝賀の礼を行い、年頭の祝賀も述
べた。3月27日、二条城に勅使を迎え、重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の
儀を行った。また4月4日から3日間、二条城で能楽が行われ諸大名や公家衆を饗
応した。これにより征夷大将軍徳川家康は武家の棟梁となる地位を確立した。
そして・・・
このままでは、徳川家に天下を奪われると懸念した豊臣秀頼の母・淀殿
は豊臣秀吉が生前、成立させていた秀頼と千姫の婚約を履行させた。
千姫は慶長8年(1603年)7月豊臣秀頼に輿入れをすることになった。
秀頼11歳、千姫7歳 千姫が大阪に向かう前日・・・
千姫は、父である秀忠と母である江のもとを訪れた。
輿入れといっても実際は、豊臣の人質であるため
父母は同行せず乳母の刑部卿局(ぎょうぶきょうのつぼね)
が同行する。
徳川秀忠
「姫、息災にな・・・」
千姫
「はい・・・父上、母上も息災に、お暮らし下さいませ。」 江
「秀忠殿・・・本当に、これで良いのでございましょうや・・・太閤殿下との
お約束とはいえ、今は父上が天下人・・・豊臣は、これで納得して
くれましょうや・・・徳川将軍家の孫娘の婿として次期将軍となるつもり
だと聞いておりまする。」
徳川秀忠
「困ったものじゃ・・・父上は、近いうちに将軍職を、わしに譲って
将軍職は徳川の世襲ということを示されるだろうな・・・既に天下は
徳川のもの・・・しっかり、わかっていただかねば・・・」
江
「まさか、徳川と豊臣で戦などということは、ありますまいな・・・」
徳川秀忠
「父上次第じゃろうなあ・・・豊臣が1大名として傘下にさえ入って従って
くれれば、何の問題も無かろうが・・・
戦したとて大阪方には勝ち目はあるまい・・・
それぐらいのこと、わかっておるじゃろうて・・・」
翌日、千姫一行は大阪に向け出発した。
第二十X話 おわり 第四十X回 「大阪落城」
慶長20年5月7日
昼過ぎ・・・戦場から真田幸村討ち死にの知らせが入った。
淀と秀頼は、お互い向かい合って相槌をうつ・・・
淀
「やはり無理であったか・・・最後の望みも絶たれたようじゃ・・・」
秀頼
「母上・・・では、千を呼びまするが、本当によろしいのでござい
ますな・・・」
淀
「ああ」
淀は、微笑みながら頷いた。
千姫が部屋に入ってきて淀と秀頼の前に座る。 淀
「千、既に戦の命運は尽きたようじゃ、この城が落ちるのは時間の
問題・・・無駄な血はこれ以上流しとうない。そこで、そなたに頼みがある。」
千姫
「はい」
神妙な顔つきで頷いた。
淀
「これから、そなたが大御所の陣に出向いて直接われらの助命嘆願を
してもらいたいのじゃ・・・そなたが直接会って嘆願すれば、さすがに
命まで獲ることは無かろう。」 千姫
「はい承知いたしました母上・・・千は自分の命に替えても大御所様の
赦しを請うてまいります。」
こうして千姫を解放し大御所の陣に向かわせることを伝えると
一旦戦が止み徳川方から迎えの使者が輿を運んできた。
千姫は輿に乗り見送る淀と秀頼の姿を輿の窓を少し開け隙間から覗き込む。
なんとなく寂しそうな感じがした。嫌な予感がする。
しかし一刻の猶予も無い・・・
早く、大御所の下に行って助命嘆願をせねば・・・ 大御所の陣に到着し千姫が輿から降りると祖父の家康と父の秀忠が満面の
笑みで迎えた。
家康は千姫を抱きしめ・・・
「よう無事で帰ってこられたのう・・・良かった、良かった。」
秀忠も横から・・・
「本当に、良かった・・・千にもしものことがあったら江(ごう)に何と言われるか・・・
ははは・・・」
千姫
「おじじ様、父上、どうか豊臣の母上や秀頼様のこと命ばかりは、お助け
下さいませ。」
家康は満面の笑みで・・・
「わかっておる、わかっておる・・・既に、使者を立て投降するよう伝えたわ・・・
一旦は領地召し上げになるであろうが、いずれ、どこかに身の立つぐらいの
領地は与えようと思うておる。」 その時、鉄砲の音が鳴り響いた。
”ダーン!”
鉄砲隊が投降を促すため立てこもっている籾蔵の方に鉄砲を撃ちかけた。
しばらくして籾蔵の中の様子を探りに行くと・・・
秀頼は淀殿らとともに籾蔵の中で勝永に介錯され自害していた。
自害した様子が伝えられた。
「われらが籾蔵の中の様子を探りに行った時には、秀頼様、淀殿は
既に自害されておりました。最初から覚悟の上、千姫様を帰された
ものと思われます。」
その場で千姫は気を失った。
こうして大阪の陣は、最悪の形で幕が引かれることになった。
第四十X回 おわり 澁谷 恭正 (46歳)
千葉県立沼南高柳高等学校卒
松戸市立六実第二小学校PTA会長
小学女子レイプ殺人で逮捕
お住まい:
千葉県松戸市六実4-8-1 Mシャトレ
お子さん:
ひりゅう、あやか ※父子家庭
趣味傾向:
アニオタ "必見!!無店舗型カジノ!!
カジノ始めたい方!経験者に必見!!
登録不要、自宅でカジノ!おかげさまで無店舗型での人気NO1になりました!
☆インカジNINEで検索☆
質問、登録はこちらまでLINE ID:squeeze.nine" 第四十九回 「助命・千姫の決意」
家康の怒りは尋常では無かった・・・
幕府に弓を引く豊臣家を許し存続させようと苦慮してきたにも
かかわらず最後は自害という形で裏切られたのだ。
そこに秀頼の側室の子の国松と女子が潜伏している所を捕らえられ
たという報が入った。
家康
「あい、わかった。両名即刻首を刎ねよ!」
隣で聞いていた秀忠は真っ青になって・・・
「父上!しばらくお待ち下され!何も幼子の命までも奪わなくとも!」 家康
「許すことまかりならぬ!豊臣家がこうなった以上豊臣の血筋を残す
わけにはまいらぬ!平家が源氏の遺児を助命したため滅ぼされた
例もあるゆえ不憫ではあるがのう・・・」
秀忠
「父上!今や徳川の天下!今更何も・・・!」
家康と秀忠は、お互い掴み合って険悪な表情で向き合った。
それを観ていた本多忠政が中に割って入り何とかその場を
収めた。
翌日、改めて話し合いが持たれる事になった。 翌日、秀忠は千姫と高台院(秀吉の正室)伴って、話し合いの
場に現れた。
家康
「おお・・・高台院殿、お久しゅうございまするなあ・・・」
家康は、秀吉の死後も秀吉の婦人を大切にし
婦人が大阪城を出た後、高台寺を建立、そこの住職
とした。非常に聡明で美しかった秀吉の婦人、おね
には一目置いているのだ・・・ 高台院
「ほんとうですこと・・・家康殿も息災なご様子・・・
こたび豊臣家は残念なことになりもうしたが
家康殿には、罪はござらぬ・・・よく耐えてくださり
もうした。信長公ならとっくに潰されておったろうのう・・・
そこでじゃが・・・家康殿と見込んで無理を承知で
お頼み申す。
秀頼殿の遺児のことじゃが、国松は男子ゆえ
諦め申すが、姫は、おなごゆえ許してもらえぬか?
もちろん子孫が徳川に刃を向けぬよう
出家させ生涯独り身で過ごすことにはなるがのう。
これで、どうか・・・折れてくださらぬか・・・」
家康は腕組みをして
「う〜ん・・・」 千姫
「おじじ様、姫をわたくしの養女とすることで
助命していただけませんでしょうか・・・?」
秀忠
「父上、わたくしからも、お頼み申し上げ
まする。もし叶わぬなら、豊臣の嫁であった千も
罰せねばなりませぬゆえ・・・」
家康
「承知いたした。千よ一つだけ、わしの頼みを
聞いてもらいたい・・・そなたは
桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻に再嫁
すること・・・これが受け入れられねば、助命は
叶わぬゆえ・・・どうじゃ?」 千姫
「承知いたしました。おじじ様、ほんに、ほんに・・・
ありがとうございまする。」
こうして
国松は処刑、また娘の天秀尼は僧籍に入ることで助命された。
第四十九回 おわり 第五十回 「歳月」 最終話
寛文6年(1666年)2月6日
大阪夏の陣が終わり約50年の歳月が流れた。
千姫は大阪夏の陣の翌年 本多忠刻に嫁ぎ
長女 勝姫、長男 幸千代を授かるが
幸千代は3歳で没し、その後
夫・忠刻、姑・熊姫、母・江が次々と没するなど不幸が続き、
本多家を娘・勝姫と共に出ることとなった。
江戸城に入り、出家して天樹院と号す。
出家後は娘と2人で竹橋御殿で暮らした。寛永5年(1628年)に勝姫が
父・秀忠の養女として池田光政の元へ嫁ぎ、一人暮らしとなる。
寛永9年(1632年)、父・秀忠が薨去。寛永16年(1639年)、光政と勝姫の
嫡男・池田綱政(千姫の外孫)が誕生した。 現在、千姫は江戸場内で暮らし
もうすぐ70を迎える・・・
その日、千姫は自室から外の景色を眺めながら
うとうと眠り始めた。
千姫は、いつのまにか18歳の頃の姿になり大阪城内で秀頼と桜の木の下を
手を繫いで歩いていた。
桜の花が満開である。
秀頼
「千、千は父上や母上は恋しゅうないか?」
千姫
「いえ、こちらには淀の母上もおられますし、秀頼様もおられますゆえ
寂しゅうございませぬ・・・」 秀頼
「それは良かった。ははは・・・
ここでは、誰とでも会いたいと思うたらすぐ会えるのじゃ・・・
千は、誰と会ってみたい?」
千姫
「そうでございまするね・・・父上、母上・・・でも一番会いたいのは・・・」
秀頼
「ははは・・・ここの世界では、隠し事は出来ぬ世界・・・」
1人の若武者が千姫の前に現れた・・・家光?
似ているが、もう少し体格が良く顔立ちも勇ましい・・・
もしや”幸千代”? 幸千代
「母上!お久しゅうございまする・・・」
千姫
「やはり、幸千代なのですね・・・」
親子は、しっかり抱き合った。
女中が昼餉の準備に部屋を訪れた時には既に
眠るように息を引き取っていたという。
享年69歳
亡くなった夜、曾祖母於大の方の菩提寺である小石川伝通院
に納められ導師知鑑(知恩院37世)により葬儀が行なわれた。
墓所は傳通院と茨城県常総市の天樹院弘経寺にあり、また
徳川家(松平家)が三河時代から帰依していた浄土宗の
総本山である京都の知恩院に定例により分骨され宝塔に
納められた。知鑑は後に位牌や遺物を祭るため伊勢に
「寂照寺」を開いた。
戒名「天樹院殿栄譽源法松山禅定尼」。 スピン・オフ 真田幸村
幸村最後の戦(いくさ)・・・1/3
その日、幸村は茶臼山の陣で戦況を伺っていた。既に豊臣方は
後藤基次や木村重成などの主だった武将が相次いで討死し、
疲弊していった・・・ ”もはやこれまでか・・・”
幸村は、目を閉じて腕組みをしつぶやいた。
”もう、この手しか、あるまい・・・” 幸村は、うしろを振り返り叫ぶ。
”狙うは徳川家康の首ただひとつのみ!
みなのもの!昨日の打合せどおり、これから最後の大いくさを
しかける。生きて帰ること無き、大いくさじゃ!死にたくなき者は
去ってよし!いっさい咎めだてはせぬ!・・・” もちろん、去るものはいない。
味方の1人が叫んだ。
”幸村様!われら大阪の陣に参加したときから幸村様に命は
おあずけ申しておりまするぞ!
ひとあわ、大御所に吹かせてやりましょうぞ!
わっはははは・・・!”
陣内に大きな歓声が沸きあがった! 幸村最後の戦(いくさ)・・・2/3
幸村は槍を手に持ち馬に飛び乗った。
他の者たちも次々と馬に飛び乗っていく・・・
幸村隊、50数名が幸村を取り囲み同じ赤色の甲冑に身につけ
一塊(ひとかたまり)になって越前隊(松平忠直)の大軍
めがけて真一文字に家康本陣へ突撃を開始した。
数(かず)のうえでは、圧倒的に徳川軍優勢であるが、少人数で1つにまとまって
いる分、的は小さく、通り道を遮る兵のみを防げば良いわけである。 ただ時間勝負・・・・長引けば長引くほど、不利になるのは目に見えている。
家康本陣にさえたどり着ければ・・・槍の使い手である幸村に勝機はある。
家康本陣が見えてきた・・・既に幸村隊は幸村1人になっていた。
”みなのもの、かたじけない・・・”
”大御所のみしるし頂戴仕る!”
幸村は叫びながら、家康めがけて突進していく・・・幸い、本陣の、ほとんどが
出払っていて数名の供がいるのみである。
まず2、3人の供を槍でなぎ倒し家康の目の前に迫った・・・その時、家康の
前に槍を持って立ちはだかった武将がいた。見覚えの、ある顔・・・
滝川三九朗であった。三九朗は幸村の妹の婿、つまり義理の弟である。
今回の戦では、徳川家康護衛の旗本として警備にあたっていた・・・
三九朗は見事な槍さばきで幸村を食い止め、その隙に家康は馬で逃れた。
援護に駆けつけた十数名の鉄砲隊が幸村に鉄砲を打ち掛けた・・・
幸村最後の戦(いくさ)・・・3/3
”すまぬ・・・兄上・・・”
”三九朗ならば・・・やむおえず・・・”
と二人は言葉をかわし鉄砲で深手を負ったまま幸村は去っていく・・・
その後、幸村は
四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内
にたどりつき、馬から降りて、どっかと腰を降ろした。
肩と腹に銃弾を受けたらしい・・・血が流れていた。
そこに越前隊鉄砲組の西尾宗次が、現れた。
幸村は、宗次を見つめて一言・・・
”介錯を頼む!”と言い
その場で腹を切って果てた。
享年49
幸村最後の戦(いくさ) <おわり> 第一回「誕生」
慶長2年(1597年)4月11日
山城国伏見城内の徳川屋敷
今、まさに1人のおなごが赤子を産み落とそうとしていた。
そのおなごの名は江(ごう)
父は浅井長政、母はお市の方の3女にあたる姫君である。
”おぎゃー!”
”おぎゃー!”
お付の女中が叫ぶ
”生まれましたぞ!姫君じゃ!” 隣の部屋から待ちかねたように人の良さそうな男が
入ってきた。
「ごう!でかしたぞ!」
この男は、まじまじと赤子の顔を眺め・・・
「なんと麗しき顔立ちの姫じゃ・・・うん、うん・・・
さすが絶世の美女と謳われた、お市の方
様の血を引く姫君じゃ、ははは・・・でかした。
でかしたぞ・・・」
なんとも言えない表情である。
この人の良さそうな男の名は秀忠
豊臣政権の五大老のひとり徳川家康の嫡男である。 しばらくして、秀忠は紙と筆を持って来させて
一つの文字を書いた。
「赤子の名は”千”といたす」
この「千」と名づけられた赤子こそ後に波乱万丈の生涯を歩む
千姫、この物語の主人公である。
翌日、江の舅である徳川家康が、豊臣秀吉、側室の淀、
嫡男の拾丸(後の秀頼)を伴って祝いの品を持って駆けつけた。
豊臣秀吉の側室、淀の方は江の実姉、つまり嫡男の拾丸は
江にとっては甥、千姫とは従兄弟通しになる。 家康
「ごう、でかしたぞ・・・」
江
「父上、ありがとうございまする・・・しかし、父上は嫡男を
望んでおられたのでは・・・?」
そこに秀吉が割って入る。
秀吉
「ごう・・・案ずるな、最初の子は、おなごのほうが豊臣に
とっても徳川にとっても、むしろ良かったのじゃ。
家康殿、もう良いじゃろう・・・」
秀吉が家康に目で合図した。
家康
「実はのう・・・ごう、殿下から、ごうの子が、おなごであれば
拾丸様の正室に、お迎えしたいとのことなのじゃ。拾丸様
は将来、関白豊臣家を継がれる方、つまり次の天下人、その
奥方として姫を迎えたいということなのじゃ・・・これは、豊臣や
徳川のためだけでは無い。早く戦の無い世を造っていかねば
ならぬ・・・天下泰平、天下万民のため・・・豊臣と徳川の
絆を、より強固なものにいたすのじゃ・・・どうじゃ、ごう・・・」 江
「わたくしも、このお話、とても嬉しゅうございまする・・・
のう・・・姉上・・・」
淀
「ふむ・・・われら浅井姉妹は、早くに父、母を亡くし
つらい日々を送ってまいりました・・・親と子、兄弟が袂を分かって
命のやりとりをする・・・そのような戦国の世は、早く終わらせねば
なりませぬ・・・天下泰平に向かうのであれば喜んで拾丸の嫁と
してお迎えいたしましょう・・・拾丸!この千姫が、そなたの
嫁となるのじゃ・・・」
拾丸(後の秀頼)
「はい」
4歳になったばかりの拾丸に、そのことの重大性が、わかろうはず
は無かった。ただ、この婚姻が将来両家にとって最悪の結末を
迎えようとは、このとき誰が想像したであろうか?
第一話 おわり 第二回「秀吉死す」
慶長3年(1598年)3月15日、醍醐寺諸堂の再建を命じ、庭園を造営。
各地から700本の桜を集めて境内に植えさせて秀頼や奥方たちと一日
だけの花見を楽しんだ(醍醐の花見)。
千姫が誕生して1年の月日が流れた・・・
ある日の秀忠と江、千姫の寝顔を見つめながら話す。
江
「殿、太閤殿下、随分お悪いようでございまするね・・・もう、長くないのでは?」
秀忠
「うん・・・そのようじゃな・・・まだ秀頼様は幼いのにもかかわらず・・・
どうしたものか?父上が後見人となられるので案ずることは
無かろうが・・・」
江
「もし太閤殿下が、お亡くなりになられたら幼い秀頼様で政(まつりごと)
は成り立ってまいりますでしょうか?」 秀忠
「ふむ・・・さて、そのへんのことは、太閤殿下にお任せするほか無かろうなあ・・・」
江
「殿・・・わたくし不安なのでございます。もしや父上は太閤殿下亡き後
天下を狙うて動かれるなどとゆうことは、ございませんでしょうなあ・・・
さすれば再び天下は戦国の世に逆戻り・・・やっと天下が治まると
思っておりましたのに・・・」
秀忠
「ははははは・・・ごう、それは心配ござるまい・・・若き頃の父上ならともかく
父上も既にお年、今更天下人になったとて仕方あるまい。」
江
「そうでございまするね・・・ふふふ・・・いらぬ心配ばかり・・・殿、千姫が
生まれて1年ほどになります・・・体の調子もそろそろ良くなってまいりました。
次こそは嫡男を産みとうございます。それにしても1年も側室を持たず、よう辛抱なされ
ましたなあ・・・ふふふ・・・」
秀忠
「ふむ・・・はよう跡取りを設けねばのう・・・」
こうして2人は久しぶりに夫婦の営みを行った。
1年後、江は2人目の子を無事出産・・・
しかし嫡男ではなく、姫であった。
この姫は、珠姫と名づけられ3歳で前田藩(前田利常)に輿入れすることになる。
自分の死が近いことを悟った秀吉は7月4日に居城である伏見城に徳川家康ら
諸大名を呼び寄せて、家康に対して秀頼の後見人になるようにと依頼した。
8月5日、秀吉は五大老宛てに二度目の遺言書を記す。秀吉の病は、前年に
秀吉の命令で甲斐善光寺から京都方広寺へ移されていた信濃善光寺の本尊
である阿弥陀三尊の祟りであるという噂から、三尊像は8月17日に信濃へ向け
て京都を出発したが、8月18日、秀吉はその生涯を終えた。
死因については現在も不明である。
第二話 おわり 芦田愛菜ちゃんが、大学に進学して、芸能活動再開の時に、
やるかもしんないな。 第二十X回 「関が原」
慶長5年(1600年)9月初旬
上杉討伐に向け秀忠が江戸城を出発する日。
正室の江が生まれたばかりの珠姫を抱っこし千姫を伴って見送りに
城の表門まで出向いた。
秀忠
「では・・・江、千、珠、行ってまいる。」
江
「秀忠殿、しっかりおやりなされ!あなた様は将来天下人秀頼様の
舅となられるお方、豊臣の獅子身中の虫どもを一掃して千が安心して
秀頼様に輿入れできる様にしてくださいまし・・・」
秀忠
「ああ、承知いたした。此度は、おそらく豊臣を二分する大いくさに
なるであろう・・・
もし万が一徳川方が負けたときは、そのたの姉、淀殿に助命を申し出
るようにな。さすれば・・・そなたらの命までは獲らぬであろう。」
江
「はい、承知いたしました。道中ご無事で・・・
では、御武運を!」
こうして、千姫は秀忠を母江と共に見送った。
この戦(いくさ)こそ、将来天下分け目の戦と呼ばれた
”関が原”の始まりであった。 第二十X回 「千姫輿入れ」
慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原
(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた天下分け目の
関が原の戦いは、徳川方の勝利となり
秀頼、淀殿に対しては「女、子供のあずかり知らぬところ」として咎めず領地も
そのままだったが、論功行賞により各大名家の領地に含めていた太閤蔵入地
(豊臣氏の直轄地)は諸将に分配された。その結果、豊臣氏は摂津国・河内国
・和泉国の3ヶ国65万石の一大名となり、家康は天下人としての立場を確立した。 慶長8年(1603年)2月12日、後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として伏見城
に派遣。朝廷より六種八通の宣旨が下り、家康を征夷大将軍、淳和奨学両院別
当、右大臣に任命した。同年3月12日、伏見城から二条城に移り、3月21日、衣冠
束帯を纏い行列を整えて御所に参内し、将軍拝賀の礼を行い、年頭の祝賀も述
べた。3月27日、二条城に勅使を迎え、重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の
儀を行った。また4月4日から3日間、二条城で能楽が行われ諸大名や公家衆を饗
応した。これにより征夷大将軍徳川家康は武家の棟梁となる地位を確立した。
そして・・・
このままでは、徳川家に天下を奪われると懸念した豊臣秀頼の母・淀殿
は豊臣秀吉が生前、成立させていた秀頼と千姫の婚約を履行させた。
千姫は慶長8年(1603年)7月豊臣秀頼に輿入れをすることになった。
秀頼11歳、千姫7歳 千姫が大阪に向かう前日・・・
千姫は、父である秀忠と母である江のもとを訪れた。
輿入れといっても実際は、豊臣の人質であるため
父母は同行せず乳母の刑部卿局(ぎょうぶきょうのつぼね)
が同行する。
徳川秀忠
「姫、息災にな・・・」
千姫
「はい・・・父上、母上も息災に、お暮らし下さいませ。」 江
「秀忠殿・・・本当に、これで良いのでございましょうや・・・太閤殿下との
お約束とはいえ、今は父上が天下人・・・豊臣は、これで納得して
くれましょうや・・・徳川将軍家の孫娘の婿として次期将軍となるつもり
だと聞いておりまする。」
徳川秀忠
「困ったものじゃ・・・父上は、近いうちに将軍職を、わしに譲って
将軍職は徳川の世襲ということを示されるだろうな・・・既に天下は
徳川のもの・・・しっかり、わかっていただかねば・・・」
江
「まさか、徳川と豊臣で戦などということは、ありますまいな・・・」
徳川秀忠
「父上次第じゃろうなあ・・・豊臣が1大名として傘下にさえ入って従って
くれれば、何の問題も無かろうが・・・
戦したとて大阪方には勝ち目はあるまい・・・
それぐらいのこと、わかっておるじゃろうて・・・」
翌日、千姫一行は大阪に向け出発した。
第二十X話 おわり 第四十X回 「大阪落城」
慶長20年5月7日
昼過ぎ・・・戦場から真田幸村討ち死にの知らせが入った。
淀と秀頼は、お互い向かい合って相槌をうつ・・・
淀
「やはり無理であったか・・・最後の望みも絶たれたようじゃ・・・」
秀頼
「母上・・・では、千を呼びまするが、本当によろしいのでござい
ますな・・・」
淀
「ああ」
淀は、微笑みながら頷いた。
千姫が部屋に入ってきて淀と秀頼の前に座る。 淀
「千、既に戦の命運は尽きたようじゃ、この城が落ちるのは時間の
問題・・・無駄な血はこれ以上流しとうない。そこで、そなたに頼みがある。」
千姫
「はい」
神妙な顔つきで頷いた。
淀
「これから、そなたが大御所の陣に出向いて直接われらの助命嘆願を
してもらいたいのじゃ・・・そなたが直接会って嘆願すれば、さすがに
命まで獲ることは無かろう。」 千姫
「はい承知いたしました母上・・・千は自分の命に替えても大御所様の
赦しを請うてまいります。」
こうして千姫を解放し大御所の陣に向かわせることを伝えると
一旦戦が止み徳川方から迎えの使者が輿を運んできた。
千姫は輿に乗り見送る淀と秀頼の姿を輿の窓を少し開け隙間から覗き込む。
なんとなく寂しそうな感じがした。嫌な予感がする。
しかし一刻の猶予も無い・・・
早く、大御所の下に行って助命嘆願をせねば・・・ 大御所の陣に到着し千姫が輿から降りると祖父の家康と父の秀忠が満面の
笑みで迎えた。
家康は千姫を抱きしめ・・・
「よう無事で帰ってこられたのう・・・良かった、良かった。」
秀忠も横から・・・
「本当に、良かった・・・千にもしものことがあったら江(ごう)に何と言われるか・・・
ははは・・・」
千姫
「おじじ様、父上、どうか豊臣の母上や秀頼様のこと命ばかりは、お助け
下さいませ。」
家康は満面の笑みで・・・
「わかっておる、わかっておる・・・既に、使者を立て投降するよう伝えたわ・・・
一旦は領地召し上げになるであろうが、いずれ、どこかに身の立つぐらいの
領地は与えようと思うておる。」 その時、鉄砲の音が鳴り響いた。
”ダーン!”
鉄砲隊が投降を促すため立てこもっている籾蔵の方に鉄砲を撃ちかけた。
しばらくして籾蔵の中の様子を探りに行くと・・・
秀頼は淀殿らとともに籾蔵の中で勝永に介錯され自害していた。
自害した様子が伝えられた。
「われらが籾蔵の中の様子を探りに行った時には、秀頼様、淀殿は
既に自害されておりました。最初から覚悟の上、千姫様を帰された
ものと思われます。」
その場で千姫は気を失った。
こうして大阪の陣は、最悪の形で幕が引かれることになった。
第四十X回 おわり 第四十九回 「助命・千姫の決意」
家康の怒りは尋常では無かった・・・
幕府に弓を引く豊臣家を許し存続させようと苦慮してきたにも
かかわらず最後は自害という形で裏切られたのだ。
そこに秀頼の側室の子の国松と女子が潜伏している所を捕らえられ
たという報が入った。
家康
「あい、わかった。両名即刻首を刎ねよ!」
隣で聞いていた秀忠は真っ青になって・・・
「父上!しばらくお待ち下され!何も幼子の命までも奪わなくとも!」 家康
「許すことまかりならぬ!豊臣家がこうなった以上豊臣の血筋を残す
わけにはまいらぬ!平家が源氏の遺児を助命したため滅ぼされた
例もあるゆえ不憫ではあるがのう・・・」
秀忠
「父上!今や徳川の天下!今更何も・・・!」
家康と秀忠は、お互い掴み合って険悪な表情で向き合った。
それを観ていた本多忠政が中に割って入り何とかその場を
収めた。
翌日、改めて話し合いが持たれる事になった。 翌日、秀忠は千姫と高台院(秀吉の正室)伴って、話し合いの
場に現れた。
家康
「おお・・・高台院殿、お久しゅうございまするなあ・・・」
家康は、秀吉の死後も秀吉の婦人を大切にし
婦人が大阪城を出た後、高台寺を建立、そこの住職
とした。非常に聡明で美しかった秀吉の婦人、おね
には一目置いているのだ・・・ 高台院
「ほんとうですこと・・・家康殿も息災なご様子・・・
こたび豊臣家は残念なことになりもうしたが
家康殿には、罪はござらぬ・・・よく耐えてくださり
もうした。信長公ならとっくに潰されておったろうのう・・・
そこでじゃが・・・家康殿と見込んで無理を承知で
お頼み申す。
秀頼殿の遺児のことじゃが、国松は男子ゆえ
諦め申すが、姫は、おなごゆえ許してもらえぬか?
もちろん子孫が徳川に刃を向けぬよう
出家させ生涯独り身で過ごすことにはなるがのう。
これで、どうか・・・折れてくださらぬか・・・」
家康は腕組みをして
「う〜ん・・・」 千姫
「おじじ様、姫をわたくしの養女とすることで
助命していただけませんでしょうか・・・?」
秀忠
「父上、わたくしからも、お頼み申し上げ
まする。もし叶わぬなら、豊臣の嫁であった千も
罰せねばなりませぬゆえ・・・」
家康
「承知いたした。千よ一つだけ、わしの頼みを
聞いてもらいたい・・・そなたは
桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻に再嫁
すること・・・これが受け入れられねば、助命は
叶わぬゆえ・・・どうじゃ?」 千姫
「承知いたしました。おじじ様、ほんに、ほんに・・・
ありがとうございまする。」
こうして
国松は処刑、また娘の天秀尼は僧籍に入ることで助命された。
第四十九回 おわり 第五十回 「歳月」 最終話
寛文6年(1666年)2月6日
大阪夏の陣が終わり約50年の歳月が流れた。
千姫は大阪夏の陣の翌年 本多忠刻に嫁ぎ
長女 勝姫、長男 幸千代を授かるが
幸千代は3歳で没し、その後
夫・忠刻、姑・熊姫、母・江が次々と没するなど不幸が続き、
本多家を娘・勝姫と共に出ることとなった。
江戸城に入り、出家して天樹院と号す。
出家後は娘と2人で竹橋御殿で暮らした。寛永5年(1628年)に勝姫が
父・秀忠の養女として池田光政の元へ嫁ぎ、一人暮らしとなる。
寛永9年(1632年)、父・秀忠が薨去。寛永16年(1639年)、光政と勝姫の
嫡男・池田綱政(千姫の外孫)が誕生した。 現在、千姫は江戸場内で暮らし
もうすぐ70を迎える・・・
その日、千姫は自室から外の景色を眺めながら
うとうと眠り始めた。
千姫は、いつのまにか18歳の頃の姿になり大阪城内で秀頼と桜の木の下を
手を繫いで歩いていた。
桜の花が満開である。
秀頼
「千、千は父上や母上は恋しゅうないか?」
千姫
「いえ、こちらには淀の母上もおられますし、秀頼様もおられますゆえ
寂しゅうございませぬ・・・」 秀頼
「それは良かった。ははは・・・
ここでは、誰とでも会いたいと思うたらすぐ会えるのじゃ・・・
千は、誰と会ってみたい?」
千姫
「そうでございまするね・・・父上、母上・・・でも一番会いたいのは・・・」
秀頼
「ははは・・・ここの世界では、隠し事は出来ぬ世界・・・」
1人の若武者が千姫の前に現れた・・・家光?
似ているが、もう少し体格が良く顔立ちも勇ましい・・・
もしや”幸千代”? 幸千代
「母上!お久しゅうございまする・・・」
千姫
「やはり、幸千代なのですね・・・」
親子は、しっかり抱き合った。
女中が昼餉の準備に部屋を訪れた時には既に
眠るように息を引き取っていたという。
享年69歳
亡くなった夜、曾祖母於大の方の菩提寺である小石川伝通院
に納められ導師知鑑(知恩院37世)により葬儀が行なわれた。
墓所は傳通院と茨城県常総市の天樹院弘経寺にあり、また
徳川家(松平家)が三河時代から帰依していた浄土宗の
総本山である京都の知恩院に定例により分骨され宝塔に
納められた。知鑑は後に位牌や遺物を祭るため伊勢に
「寂照寺」を開いた。
戒名「天樹院殿栄譽源法松山禅定尼」。 スピン・オフ 真田幸村
幸村最後の戦(いくさ)・・・1/3
その日、幸村は茶臼山の陣で戦況を伺っていた。既に豊臣方は
後藤基次や木村重成などの主だった武将が相次いで討死し、
疲弊していった・・・
”もはやこれまでか・・・”
幸村は、目を閉じて腕組みをしつぶやいた。
”もう、この手しか、あるまい・・・”
幸村は、うしろを振り返り叫ぶ。
”狙うは徳川家康の首ただひとつのみ!
みなのもの!昨日の打合せどおり、これから最後の大いくさを
しかける。生きて帰ること無き、大いくさじゃ!死にたくなき者は
去ってよし!いっさい咎めだてはせぬ!・・・”
もちろん、去るものはいない。
味方の1人が叫んだ。
”幸村様!われら大阪の陣に参加したときから幸村様に命は
おあずけ申しておりまするぞ!
ひとあわ、大御所に吹かせてやりましょうぞ!
わっはははは・・・!”
陣内に大きな歓声が沸きあがった! 幸村最後の戦(いくさ)・・・2/3
幸村は槍を手に持ち馬に飛び乗った。
他の者たちも次々と馬に飛び乗っていく・・・
幸村隊、50数名が幸村を取り囲み同じ赤色の甲冑に身につけ
一塊(ひとかたまり)になって越前隊(松平忠直)の大軍
めがけて真一文字に家康本陣へ突撃を開始した。
数(かず)のうえでは、圧倒的に徳川軍優勢であるが、少人数で1つにまとまって
いる分、的は小さく、通り道を遮る兵のみを防げば良いわけである。
ただ時間勝負・・・・長引けば長引くほど、不利になるのは目に見えている。
家康本陣にさえたどり着ければ・・・槍の使い手である幸村に勝機はある。
家康本陣が見えてきた・・・既に幸村隊は幸村1人になっていた。
”みなのもの、かたじけない・・・”
”大御所のみしるし頂戴仕る!”
幸村は叫びながら、家康めがけて突進していく・・・幸い、本陣の、ほとんどが
出払っていて数名の供がいるのみである。
まず2、3人の供を槍でなぎ倒し家康の目の前に迫った・・・その時、家康の
前に槍を持って立ちはだかった武将がいた。見覚えの、ある顔・・・
滝川三九朗であった。三九朗は幸村の妹の婿、つまり義理の弟である。
今回の戦では、徳川家康護衛の旗本として警備にあたっていた・・・
三九朗は見事な槍さばきで幸村を食い止め、その隙に家康は馬で逃れた。
援護に駆けつけた十数名の鉄砲隊が幸村に鉄砲を打ち掛けた・・・ 幸村最後の戦(いくさ)・・・3/3
”すまぬ・・・兄上・・・”
”三九朗ならば・・・やむおえず・・・”
と二人は言葉をかわし鉄砲で深手を負ったまま幸村は去っていく・・・
その後、幸村は
四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内
にたどりつき、馬から降りて、どっかと腰を降ろした。
肩と腹に銃弾を受けたらしい・・・血が流れていた。
そこに越前隊鉄砲組の西尾宗次が、現れた。
幸村は、宗次を見つめて一言・・・
”介錯を頼む!”と言い
その場で腹を切って果てた。
享年49
幸村最後の戦(いくさ) <おわり> 第一回「誕生」
慶長2年(1597年)4月11日
山城国伏見城内の徳川屋敷
今、まさに1人のおなごが赤子を産み落とそうとしていた。
そのおなごの名は江(ごう)
父は浅井長政、母はお市の方の3女にあたる姫君である。
”おぎゃー!”
”おぎゃー!”
お付の女中が叫ぶ
”生まれましたぞ!姫君じゃ!” 隣の部屋から待ちかねたように人の良さそうな男が
入ってきた。
「ごう!でかしたぞ!」
この男は、まじまじと赤子の顔を眺め・・・
「なんと麗しき顔立ちの姫じゃ・・・うん、うん・・・
さすが絶世の美女と謳われた、お市の方
様の血を引く姫君じゃ、ははは・・・でかした。
でかしたぞ・・・」
なんとも言えない表情である。
この人の良さそうな男の名は秀忠
豊臣政権の五大老のひとり徳川家康の嫡男である。 広瀬すず主演で演ったら、受けるかもしれない。
でも、スケジュール取れなそう。 しばらくして、秀忠は紙と筆を持って来させて
一つの文字を書いた。
「赤子の名は”千”といたす」
この「千」と名づけられた赤子こそ後に波乱万丈の生涯を歩む
千姫、この物語の主人公である。
翌日、江の舅である徳川家康が、豊臣秀吉、側室の淀、
嫡男の拾丸(後の秀頼)を伴って祝いの品を持って駆けつけた。
豊臣秀吉の側室、淀の方は江の実姉、つまり嫡男の拾丸は
江にとっては甥、千姫とは従兄弟通しになる。 家康
「ごう、でかしたぞ・・・」
江
「父上、ありがとうございまする・・・しかし、父上は嫡男を
望んでおられたのでは・・・?」
そこに秀吉が割って入る。
秀吉
「ごう・・・案ずるな、最初の子は、おなごのほうが豊臣に
とっても徳川にとっても、むしろ良かったのじゃ。
家康殿、もう良いじゃろう・・・」
秀吉が家康に目で合図した。
家康
「実はのう・・・ごう、殿下から、ごうの子が、おなごであれば
拾丸様の正室に、お迎えしたいとのことなのじゃ。拾丸様
は将来、関白豊臣家を継がれる方、つまり次の天下人、その
奥方として姫を迎えたいということなのじゃ・・・これは、豊臣や
徳川のためだけでは無い。早く戦の無い世を造っていかねば
ならぬ・・・天下泰平、天下万民のため・・・豊臣と徳川の
絆を、より強固なものにいたすのじゃ・・・どうじゃ、ごう・・・」 江
「わたくしも、このお話、とても嬉しゅうございまする・・・
のう・・・姉上・・・」
淀
「ふむ・・・われら浅井姉妹は、早くに父、母を亡くし
つらい日々を送ってまいりました・・・親と子、兄弟が袂を分かって
命のやりとりをする・・・そのような戦国の世は、早く終わらせねば
なりませぬ・・・天下泰平に向かうのであれば喜んで拾丸の嫁と
してお迎えいたしましょう・・・拾丸!この千姫が、そなたの
嫁となるのじゃ・・・」
拾丸(後の秀頼)
「はい」
4歳になったばかりの拾丸に、そのことの重大性が、わかろうはず
は無かった。ただ、この婚姻が将来両家にとって最悪の結末を
迎えようとは、このとき誰が想像したであろうか?
第一話 おわり 第二回「秀吉死す」
慶長3年(1598年)3月15日、醍醐寺諸堂の再建を命じ、庭園を造営。
各地から700本の桜を集めて境内に植えさせて秀頼や奥方たちと一日
だけの花見を楽しんだ(醍醐の花見)。
千姫が誕生して1年の月日が流れた・・・
ある日の秀忠と江、千姫の寝顔を見つめながら話す。
江
「殿、太閤殿下、随分お悪いようでございまするね・・・もう、長くないのでは?」
秀忠
「うん・・・そのようじゃな・・・まだ秀頼様は幼いのにもかかわらず・・・
どうしたものか?父上が後見人となられるので案ずることは
無かろうが・・・」
江
「もし太閤殿下が、お亡くなりになられたら幼い秀頼様で政(まつりごと)
は成り立ってまいりますでしょうか?」 秀忠
「ふむ・・・さて、そのへんのことは、太閤殿下にお任せするほか無かろうなあ・・・」
江
「殿・・・わたくし不安なのでございます。もしや父上は太閤殿下亡き後
天下を狙うて動かれるなどとゆうことは、ございませんでしょうなあ・・・
さすれば再び天下は戦国の世に逆戻り・・・やっと天下が治まると
思っておりましたのに・・・」
秀忠
「ははははは・・・ごう、それは心配ござるまい・・・若き頃の父上ならともかく
父上も既にお年、今更天下人になったとて仕方あるまい。」
江
「そうでございまするね・・・ふふふ・・・いらぬ心配ばかり・・・殿、千姫が
生まれて1年ほどになります・・・体の調子もそろそろ良くなってまいりました。
次こそは嫡男を産みとうございます。それにしても1年も側室を持たず、よう辛抱なされ
ましたなあ・・・ふふふ・・・」
秀忠
「ふむ・・・はよう跡取りを設けねばのう・・・」
こうして2人は久しぶりに夫婦の営みを行った。
1年後、江は2人目の子を無事出産・・・
しかし嫡男ではなく、姫であった。
この姫は、珠姫と名づけられ3歳で前田藩(前田利常)に輿入れすることになる。
自分の死が近いことを悟った秀吉は7月4日に居城である伏見城に徳川家康ら
諸大名を呼び寄せて、家康に対して秀頼の後見人になるようにと依頼した。
8月5日、秀吉は五大老宛てに二度目の遺言書を記す。秀吉の病は、前年に
秀吉の命令で甲斐善光寺から京都方広寺へ移されていた信濃善光寺の本尊
である阿弥陀三尊の祟りであるという噂から、三尊像は8月17日に信濃へ向け
て京都を出発したが、8月18日、秀吉はその生涯を終えた。
死因については現在も不明である。
第二話 おわり 第二十X回 「関が原」
慶長5年(1600年)9月初旬
上杉討伐に向け秀忠が江戸城を出発する日。
正室の江が生まれたばかりの珠姫を抱っこし千姫を伴って見送りに
城の表門まで出向いた。
秀忠
「では・・・江、千、珠、行ってまいる。」
江
「秀忠殿、しっかりおやりなされ!あなた様は将来天下人秀頼様の
舅となられるお方、豊臣の獅子身中の虫どもを一掃して千が安心して
秀頼様に輿入れできる様にしてくださいまし・・・」
秀忠
「ああ、承知いたした。此度は、おそらく豊臣を二分する大いくさに
なるであろう・・・
もし万が一徳川方が負けたときは、そのたの姉、淀殿に助命を申し出
るようにな。さすれば・・・そなたらの命までは獲らぬであろう。」
江
「はい、承知いたしました。道中ご無事で・・・
では、御武運を!」
こうして、千姫は秀忠を母江と共に見送った。
この戦(いくさ)こそ、将来天下分け目の戦と呼ばれた
”関が原”の始まりであった。 第二十X回 「千姫輿入れ」
慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原
(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた天下分け目の
関が原の戦いは、徳川方の勝利となり
秀頼、淀殿に対しては「女、子供のあずかり知らぬところ」として咎めず領地も
そのままだったが、論功行賞により各大名家の領地に含めていた太閤蔵入地
(豊臣氏の直轄地)は諸将に分配された。その結果、豊臣氏は摂津国・河内国
・和泉国の3ヶ国65万石の一大名となり、家康は天下人としての立場を確立した。 慶長8年(1603年)2月12日、後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として伏見城
に派遣。朝廷より六種八通の宣旨が下り、家康を征夷大将軍、淳和奨学両院別
当、右大臣に任命した。同年3月12日、伏見城から二条城に移り、3月21日、衣冠
束帯を纏い行列を整えて御所に参内し、将軍拝賀の礼を行い、年頭の祝賀も述
べた。3月27日、二条城に勅使を迎え、重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の
儀を行った。また4月4日から3日間、二条城で能楽が行われ諸大名や公家衆を饗
応した。これにより征夷大将軍徳川家康は武家の棟梁となる地位を確立した。
そして・・・
このままでは、徳川家に天下を奪われると懸念した豊臣秀頼の母・淀殿
は豊臣秀吉が生前、成立させていた秀頼と千姫の婚約を履行させた。
千姫は慶長8年(1603年)7月豊臣秀頼に輿入れをすることになった。
秀頼11歳、千姫7歳 千姫が大阪に向かう前日・・・
千姫は、父である秀忠と母である江のもとを訪れた。
輿入れといっても実際は、豊臣の人質であるため
父母は同行せず乳母の刑部卿局(ぎょうぶきょうのつぼね)
が同行する。
徳川秀忠
「姫、息災にな・・・」
千姫
「はい・・・父上、母上も息災に、お暮らし下さいませ。」 江
「秀忠殿・・・本当に、これで良いのでございましょうや・・・太閤殿下との
お約束とはいえ、今は父上が天下人・・・豊臣は、これで納得して
くれましょうや・・・徳川将軍家の孫娘の婿として次期将軍となるつもり
だと聞いておりまする。」
徳川秀忠
「困ったものじゃ・・・父上は、近いうちに将軍職を、わしに譲って
将軍職は徳川の世襲ということを示されるだろうな・・・既に天下は
徳川のもの・・・しっかり、わかっていただかねば・・・」 江
「まさか、徳川と豊臣で戦などということは、ありますまいな・・・」
徳川秀忠
「父上次第じゃろうなあ・・・豊臣が1大名として傘下にさえ入って従って
くれれば、何の問題も無かろうが・・・
戦したとて大阪方には勝ち目はあるまい・・・
それぐらいのこと、わかっておるじゃろうて・・・」
翌日、千姫一行は大阪に向け出発した。
第二十X話 おわり 第四十X回 「大阪落城」
慶長20年5月7日
昼過ぎ・・・戦場から真田幸村討ち死にの知らせが入った。
淀と秀頼は、お互い向かい合って相槌をうつ・・・
淀
「やはり無理であったか・・・最後の望みも絶たれたようじゃ・・・」
秀頼
「母上・・・では、千を呼びまするが、本当によろしいのでござい
ますな・・・」
淀
「ああ」
淀は、微笑みながら頷いた。
千姫が部屋に入ってきて淀と秀頼の前に座る。 淀
「千、既に戦の命運は尽きたようじゃ、この城が落ちるのは時間の
問題・・・無駄な血はこれ以上流しとうない。そこで、そなたに頼みがある。」
千姫
「はい」
神妙な顔つきで頷いた。
淀
「これから、そなたが大御所の陣に出向いて直接われらの助命嘆願を
してもらいたいのじゃ・・・そなたが直接会って嘆願すれば、さすがに
命まで獲ることは無かろう。」 千姫
「はい承知いたしました母上・・・千は自分の命に替えても大御所様の
赦しを請うてまいります。」
こうして千姫を解放し大御所の陣に向かわせることを伝えると
一旦戦が止み徳川方から迎えの使者が輿を運んできた。
千姫は輿に乗り見送る淀と秀頼の姿を輿の窓を少し開け隙間から覗き込む。
なんとなく寂しそうな感じがした。嫌な予感がする。
しかし一刻の猶予も無い・・・
早く、大御所の下に行って助命嘆願をせねば・・・ 大御所の陣に到着し千姫が輿から降りると祖父の家康と父の秀忠が満面の
笑みで迎えた。
家康は千姫を抱きしめ・・・
「よう無事で帰ってこられたのう・・・良かった、良かった。」
秀忠も横から・・・
「本当に、良かった・・・千にもしものことがあったら江(ごう)に何と言われるか・・・
ははは・・・」
千姫
「おじじ様、父上、どうか豊臣の母上や秀頼様のこと命ばかりは、お助け
下さいませ。」
家康は満面の笑みで・・・
「わかっておる、わかっておる・・・既に、使者を立て投降するよう伝えたわ・・・
一旦は領地召し上げになるであろうが、いずれ、どこかに身の立つぐらいの
領地は与えようと思うておる。」 その時、鉄砲の音が鳴り響いた。
”ダーン!”
鉄砲隊が投降を促すため立てこもっている籾蔵の方に鉄砲を撃ちかけた。
しばらくして籾蔵の中の様子を探りに行くと・・・
秀頼は淀殿らとともに籾蔵の中で勝永に介錯され自害していた。
自害した様子が伝えられた。
「われらが籾蔵の中の様子を探りに行った時には、秀頼様、淀殿は
既に自害されておりました。最初から覚悟の上、千姫様を帰された
ものと思われます。」
その場で千姫は気を失った。
こうして大阪の陣は、最悪の形で幕が引かれることになった。
第四十X回 おわり 第四十九回 「助命・千姫の決意」
家康の怒りは尋常では無かった・・・
幕府に弓を引く豊臣家を許し存続させようと苦慮してきたにも
かかわらず最後は自害という形で裏切られたのだ。
そこに秀頼の側室の子の国松と女子が潜伏している所を捕らえられ
たという報が入った。
家康
「あい、わかった。両名即刻首を刎ねよ!」
隣で聞いていた秀忠は真っ青になって・・・
「父上!しばらくお待ち下され!何も幼子の命までも奪わなくとも!」 家康
「許すことまかりならぬ!豊臣家がこうなった以上豊臣の血筋を残す
わけにはまいらぬ!平家が源氏の遺児を助命したため滅ぼされた
例もあるゆえ不憫ではあるがのう・・・」
秀忠
「父上!今や徳川の天下!今更何も・・・!」
家康と秀忠は、お互い掴み合って険悪な表情で向き合った。
それを観ていた本多忠政が中に割って入り何とかその場を
収めた。
翌日、改めて話し合いが持たれる事になった。 翌日、秀忠は千姫と高台院(秀吉の正室)伴って、話し合いの
場に現れた。
家康
「おお・・・高台院殿、お久しゅうございまするなあ・・・」
家康は、秀吉の死後も秀吉の婦人を大切にし
婦人が大阪城を出た後、高台寺を建立、そこの住職
とした。非常に聡明で美しかった秀吉の婦人、おね
には一目置いているのだ・・・ 高台院
「ほんとうですこと・・・家康殿も息災なご様子・・・
こたび豊臣家は残念なことになりもうしたが
家康殿には、罪はござらぬ・・・よく耐えてくださり
もうした。信長公ならとっくに潰されておったろうのう・・・
そこでじゃが・・・家康殿と見込んで無理を承知で
お頼み申す。
秀頼殿の遺児のことじゃが、国松は男子ゆえ
諦め申すが、姫は、おなごゆえ許してもらえぬか?
もちろん子孫が徳川に刃を向けぬよう
出家させ生涯独り身で過ごすことにはなるがのう。
これで、どうか・・・折れてくださらぬか・・・」
家康は腕組みをして
「う〜ん・・・」 千姫
「おじじ様、姫をわたくしの養女とすることで
助命していただけませんでしょうか・・・?」
秀忠
「父上、わたくしからも、お頼み申し上げ
まする。もし叶わぬなら、豊臣の嫁であった千も
罰せねばなりませぬゆえ・・・」
家康
「承知いたした。千よ一つだけ、わしの頼みを
聞いてもらいたい・・・そなたは
桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻に再嫁
すること・・・これが受け入れられねば、助命は
叶わぬゆえ・・・どうじゃ?」 千姫
「承知いたしました。おじじ様、ほんに、ほんに・・・
ありがとうございまする。」
こうして
国松は処刑、また娘の天秀尼は僧籍に入ることで助命された。
第四十九回 おわり 第五十回 「歳月」 最終話
寛文6年(1666年)2月6日
大阪夏の陣が終わり約50年の歳月が流れた。
千姫は大阪夏の陣の翌年 本多忠刻に嫁ぎ
長女 勝姫、長男 幸千代を授かるが
幸千代は3歳で没し、その後
夫・忠刻、姑・熊姫、母・江が次々と没するなど不幸が続き、
本多家を娘・勝姫と共に出ることとなった。
江戸城に入り、出家して天樹院と号す。
出家後は娘と2人で竹橋御殿で暮らした。寛永5年(1628年)に勝姫が
父・秀忠の養女として池田光政の元へ嫁ぎ、一人暮らしとなる。
寛永9年(1632年)、父・秀忠が薨去。寛永16年(1639年)、光政と勝姫の
嫡男・池田綱政(千姫の外孫)が誕生した。 現在、千姫は江戸場内で暮らし
もうすぐ70を迎える・・・
その日、千姫は自室から外の景色を眺めながら
うとうと眠り始めた。
千姫は、いつのまにか18歳の頃の姿になり大阪城内で秀頼と桜の木の下を
手を繫いで歩いていた。
桜の花が満開である。
秀頼
「千、千は父上や母上は恋しゅうないか?」
千姫
「いえ、こちらには淀の母上もおられますし、秀頼様もおられますゆえ
寂しゅうございませぬ・・・」 秀頼
「それは良かった。ははは・・・
ここでは、誰とでも会いたいと思うたらすぐ会えるのじゃ・・・
千は、誰と会ってみたい?」
千姫
「そうでございまするね・・・父上、母上・・・でも一番会いたいのは・・・」
秀頼
「ははは・・・ここの世界では、隠し事は出来ぬ世界・・・」
1人の若武者が千姫の前に現れた・・・家光?
似ているが、もう少し体格が良く顔立ちも勇ましい・・・
もしや”幸千代”? 幸千代
「母上!お久しゅうございまする・・・」
千姫
「やはり、幸千代なのですね・・・」
親子は、しっかり抱き合った。
女中が昼餉の準備に部屋を訪れた時には既に
眠るように息を引き取っていたという。
享年69歳
亡くなった夜、曾祖母於大の方の菩提寺である小石川伝通院
に納められ導師知鑑(知恩院37世)により葬儀が行なわれた。
墓所は傳通院と茨城県常総市の天樹院弘経寺にあり、また
徳川家(松平家)が三河時代から帰依していた浄土宗の
総本山である京都の知恩院に定例により分骨され宝塔に
納められた。知鑑は後に位牌や遺物を祭るため伊勢に
「寂照寺」を開いた。
戒名「天樹院殿栄譽源法松山禅定尼」。 スピン・オフ 真田幸村
幸村最後の戦(いくさ)・・・1/3
その日、幸村は茶臼山の陣で戦況を伺っていた。既に豊臣方は
後藤基次や木村重成などの主だった武将が相次いで討死し、
疲弊していった・・・
”もはやこれまでか・・・”
幸村は、目を閉じて腕組みをしつぶやいた。
”もう、この手しか、あるまい・・・”
幸村は、うしろを振り返り叫ぶ。
”狙うは徳川家康の首ただひとつのみ!
みなのもの!昨日の打合せどおり、これから最後の大いくさを
しかける。生きて帰ること無き、大いくさじゃ!死にたくなき者は
去ってよし!いっさい咎めだてはせぬ!・・・”
もちろん、去るものはいない。
味方の1人が叫んだ。
”幸村様!われら大阪の陣に参加したときから幸村様に命は
おあずけ申しておりまするぞ!
ひとあわ、大御所に吹かせてやりましょうぞ!
わっはははは・・・!”
陣内に大きな歓声が沸きあがった! 幸村最後の戦(いくさ)・・・2/3
幸村は槍を手に持ち馬に飛び乗った。
他の者たちも次々と馬に飛び乗っていく・・・
幸村隊、50数名が幸村を取り囲み同じ赤色の甲冑に身につけ
一塊(ひとかたまり)になって越前隊(松平忠直)の大軍
めがけて真一文字に家康本陣へ突撃を開始した。
数(かず)のうえでは、圧倒的に徳川軍優勢であるが、少人数で1つにまとまって
いる分、的は小さく、通り道を遮る兵のみを防げば良いわけである。
ただ時間勝負・・・・長引けば長引くほど、不利になるのは目に見えている。
家康本陣にさえたどり着ければ・・・槍の使い手である幸村に勝機はある。
家康本陣が見えてきた・・・既に幸村隊は幸村1人になっていた。
”みなのもの、かたじけない・・・”
”大御所のみしるし頂戴仕る!”
幸村は叫びながら、家康めがけて突進していく・・・幸い、本陣の、ほとんどが
出払っていて数名の供がいるのみである。
まず2、3人の供を槍でなぎ倒し家康の目の前に迫った・・・その時、家康の
前に槍を持って立ちはだかった武将がいた。見覚えの、ある顔・・・
滝川三九朗であった。三九朗は幸村の妹の婿、つまり義理の弟である。
今回の戦では、徳川家康護衛の旗本として警備にあたっていた・・・
三九朗は見事な槍さばきで幸村を食い止め、その隙に家康は馬で逃れた。
援護に駆けつけた十数名の鉄砲隊が幸村に鉄砲を打ち掛けた・・・ 幸村最後の戦(いくさ)・・・3/3
”すまぬ・・・兄上・・・”
”三九朗ならば・・・やむおえず・・・”
と二人は言葉をかわし鉄砲で深手を負ったまま幸村は去っていく・・・
その後、幸村は
四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内
にたどりつき、馬から降りて、どっかと腰を降ろした。
肩と腹に銃弾を受けたらしい・・・血が流れていた。
そこに越前隊鉄砲組の西尾宗次が、現れた。
幸村は、宗次を見つめて一言・・・
”介錯を頼む!”と言い
その場で腹を切って果てた。
享年49
幸村最後の戦(いくさ) <おわり> スピン・オフ
宇宙船艦ヤマト 番外編
第2次火星沖海戦編・・・1
僕は古代 守・・・
その日,僕ら宇宙防衛大学、最終学年の
学生は講堂に呼び集められた。
土方校長・・・
「諸君が今日ここに呼び集められたのは、他でもない!
現在!地球に異性人の大艦隊が向かって来ている!
そのため国連宇宙軍は総力戦でこの艦隊を食い止め
ねばならない!戦いの場所は火星第2宇宙域!
今日から一週間後だ!現在、国連宇宙軍は人員不足
のため君らに召集命令が出た ! 第2次火星沖海戦編・・・2
したがって、君らは6ヶ月の繰り上げ卒業ということで
国連宇宙軍の船に乗ってもらうことになる!
もちろん、生きて帰れる補償は無い!
辞退するものはしてよし!
この場から退出してくれ!一切咎めだてはしない!」
どこからともなく歌が聞こえてきた・・・
軍の歌・・・
”銀河水平、波間を越えて・・・♪”
全員で大合唱になった・・・退出するものは1人も
いない ! 第2次火星沖海戦編・・・3
僕は沖田司令官の乗る国連宇宙軍 第一艦隊
旗艦”キリシマ”の砲雷長として赴任することになった。
何故?大学を出たばかりの僕が、いきなり旗艦の
砲雷長?大抜擢である !
翌日僕は、北海道にある国連宇宙軍の旭川宇宙港に
向かった・・・弟の進も一緒に見送りに来てくれている・・・
進は現在、宇宙防衛大学の2年・・・僕らは旭川宇宙港
に到着・・・キリシマの前に2人で立った・・・大きな船だ・・・ 第2次火星沖海戦編・・・4
古代 進・・・
「兄さん大きな船だね!でもすごいなあ・・・いきなり
旗艦の砲雷長だなんて、さすが主席で卒業した
だけあるよ!」
僕(古代 守)・・・
「そんなことないさ・・・ははは・・・進も優秀だと聞いてるぞ!」 第2次火星沖海戦編・・・5
古代 進・・・
「いや、兄さんには、とてもかなわないよ!ははは・・・
僕、古代 守の弟ってことで、どれだけたいへんか!
ははは・・・でも兄さん・・・絶対、生きて帰ってきてね!”御武運を!”」
進は敬礼した、僕も敬礼で答えた。
僕(古代 守)・・・
「じゃー行くな・・・必ず生きて帰ってくるからな!」
僕は振り向いて船のタラップを昇って行く・・・
振り返ると進が手を振って笑っている。 第2次火星沖海戦編・・・6
”もしかしたら・・・これが最後になるかもしれないなあ・・・”
僕も笑って手を振って返す・・・しばらくして船の船底部分に
入った・・・整備士が敬礼して迎えた・・・僕も敬礼・・・
僕(古代 守)・・・
「ご苦労様です。」 第2次火星沖海戦編・・・7
僕は荷物を部屋に置いて艦長室に向かった・・・
艦長室の前に立ち、深呼吸・・・”落ち着け!守!”
ノックをした・・・”トントン”
沖田司令官・・・
「入れ!」
僕(古代 守)・・・
「はい・・・」
ドアを開けて中に入ると沖田司令官と山南艦長がいた。 第2次火星沖海戦編・・・8
僕は敬礼して・・・
「失礼します、本日付けで赴任いたしました砲雷長の古代
守であります!」
僕は初めて沖田司令官を間近で見た。どっしりした雰囲気で
・・・歴戦を勝ち抜いてきた勝負師のオーラとでも
呼ぶべきか?沖田司令官は、口の周りの髭を撫でながら
口を開いた・・・ 第2次火星沖海戦編・・・9
沖田司令官・・・
「君が、古代 守君か・・・宇宙防衛大学校始まって以来の
秀才だそうだが・・・特にビーム砲の射撃技術は教官
も舌を巻いてるそうだね・・・ははは・・・期待しておるよ!」
僕(古代 守)・・・
「は・はい・・・期待に添えるよう、誠心誠意、頑張ります!」
敬礼して艦長室を出た・・・
緊張して心臓が破裂しそうだった。僕は艦橋に入って自分の
席に着いた。 第2次火星沖海戦編・・・10
”この船は1時間後に抜錨いたします。”
艦内放送が流れた。
僕は再度ビーム砲の取扱説明書に目を通した。
ここで、この船の指揮系統について説明する。
この船は旗艦であるため指揮官のトップは司令官である
沖田提督である。その次が、山南艦長、実質的には
艦のNO.2、副長の役割になる。その次が航海士の
山本1蔚、船のNO.3に当る・・・もし上官に不測の事態
が起こった場合次の階級の人物が指揮することになる。
僕は、戦術長を兼ねた砲雷長である。船のNO.4になる。
僕が船の指揮を執るような不測の事態は避けたいもの
である。 第2次火星沖海戦編・・・11
国連宇宙軍 第一艦隊 旗艦キリシマをはじめとする艦隊が
火星第2宇宙域に集結!
第2次火星沖海戦と呼ばれる戦いが始まろうとしていた!
1時間後、敵の大艦隊がレーダーで捕捉された!
30分後、敵のビーム砲が発射され、戦闘開始・・・
敵艦隊の装甲は厚く、地球艦隊のビーム砲では
かなり至近距離まで近づかないと破壊できない・・・
しかし敵に近づくということは、こちらも撃たれ易く
なるというリスクが生じる危険な戦術でもある。 第2次火星沖海戦編・・・12
だが勇敢にも多くの艦が相手の至近距離まで近づき、
攻撃・・・しばらく互角の戦闘状態が続いたが・・・
徐々に相手の数とビーム砲の威力に押されてきた!
”巡洋艦「ふゆづき」撃沈!””駆逐艦「あかぎ」大破、
戦闘不能!”・・・
次々と、地球艦隊の劣勢が伝えられてきた・・・ 第2次火星沖海戦編・・・13
敵旗艦から沖田司令官に通信が入った・・・
「地球艦隊に告ぐ、ただちに降伏せよ!」
通信士・・・
「返信はどうしますか?」
沖田司令官・・・
「”馬鹿め”と言ってやれ!」
通信士・・・
「はあ?」 第2次火星沖海戦編・・・14
沖田司令官・・・
「”馬鹿め”だ!」
通信士は二ヤリと笑って・・・
「はい!地球艦隊より返信”馬鹿め”」
敵の攻撃が激しさを増してきた・・・ 第2次火星沖海戦編・・・15
”味方、損耗率68%!”
山南艦長・・・
「司令官!このままでは全滅です!降伏も選択肢
の1つでは?・・・生きてさえいれば・・・」
沖田司令官・・・
「もはや、これまでか・・・もう我々には打つ手は
本当に無いのか?」
僕(古代 守)・・・
「司令官!意見具申してもよろしいでしょうか?」
沖田司令官・・・
「ふむ・・・古代、言ってみろ・・・」 第2次火星沖海戦編・・・16
僕(古代 守)・・・
「先ほどからの敵旗艦とのやりとりを見ていて
気づいたのですが、降伏勧告をする間、敵の
艦隊は一旦防御のみの体制になり攻撃は
最小限にしておりました。彼らの艦隊は旗艦が
全て統制、制御して艦隊編成を行なってるようです。
おそらく、艦隊の数が多いため味方通しの
接触事故や、同士討ちを避けるため旗艦で
1つにまとめて動きを統制してるのでしょう。 第2次火星沖海戦編・・・17
つまり、敵旗艦の中枢部である艦橋を破壊すれば
相手の攻撃は一旦停止するものと考えられます。
つまり、その隙に攻勢に転じて一気に巻き返すので
あります!」
沖田司令官・・・
「じゃが、敵旗艦まで随分距離があるが正確にビーム
砲を撃ちこめるか?射程距離の問題もある。」 第2次火星沖海戦編・・・18
僕(古代 守)・・・
「僕なら敵艦隊の狭い隙間を縫って正確に撃ち込む
自信があります。あとは射程距離と艦橋を破壊する
威力を、どうやって確保するかですが・・・
ビーム砲の取り扱い説明書には、ビーム砲は設計上
安全を見て最大出力の3分の1までしか使用できない
よう安全装置が設けられていると書かれてます。 第2次火星沖海戦編・・・19
つまり、安全装置を解除すればビーム砲の威力は
3倍になります・・・3倍なら充分届きますし、艦橋の
破壊も可能です!念の為、技術主任の伊藤さんにも
確認しましたが、それは1回限りの使用方法で
おそらく連射には砲台は耐えられないだろうということです。
つまり一発勝負に賭けるということです。」 第2次火星沖海戦編・・・20
沖田司令官が、山南艦長のほうを向いて頷いた。
山南艦長が技術部に連絡・・・
「伊藤主任すぐに艦橋へ来るように!」
こうしてビーム砲の安全装置は解除・・・
僕は、スコープを覗き込んだ・・・
僕の後ろで司令官と艦長が腕組みをして眺めている。
艦内にも緊張が走る・・・ 第2次火星沖海戦編・・・21
山南艦長・・・
「本当に小さい的だな・・・」
沖田司令官・・・
「ふむ・・・じゃが古代を信じるしかない・・・敵もまさか
この位置からビーム砲を撃ち込んでくるとは思わん
だろう。」 第2次火星沖海戦編・・・22
僕は(古代 守)・・・
「発射5秒前、5,4,3,2,1,0・・・発射!ドーン」
いつもと違い3倍の威力のビーム砲だけに艦が
大きく振動した・・・砲台から煙が上がっているようだ。
おそらく衝撃で壊れたのだろう・・・ 第2次火星沖海戦編・・・23
ビーム砲は敵艦隊の狭い隙間を縫って突き進む・・・
敵旗艦の付近が光った・・・
パネルスクリーンで目視・・・山本航海士がガッツポーズ・・・
「やった!見事、命中したぞ!何て腕前だ!ははは!」
艦内が沸いている・・・敵艦隊の動きが停止・・・おそらく
何があったかわからず・・・パニック状態に陥っているようだ・・・ 第2次火星沖海戦編・・・24
沖田司令官はマイクを持ち・・・
「全艦隊に継ぐ反撃開始!」
残った地球艦隊で反撃に出た・・・そして一挙に巻き返した。
しばらくして敵艦隊は、撤退し始めた。敵は消えていく・・・
たぶん彼らのジャンプ(ワープ)とかいう技術で一瞬のうちに
飛び去ったと考えられる。 第2次火星沖海戦編・・・25
こうして地球艦隊は多くの犠牲は払ったがギリギリの戦いで
踏みとどまることが出来たのである。
僕が地球に帰還すると大勢の人々が出迎えてくれた。
沖田司令官は、伝説的人物になった。
僕がタラップを降りていくと弟の進が出迎えた!
「兄さん!やったね!地球を救った英雄だよ!」 第2次火星沖海戦編・・・26
僕は(古代 守)・・・
「でも、今回の戦いでは多くの犠牲を払ってしまった。
沖田司令官の、ご子息も・・・そのことを忘れては
いけないよ、進・・・」
古代 進
「うん」
こうして僕は無事任務を果たすことが出来た。 第2次火星沖海戦編・・・27
一週間後・・・
僕に辞令が来た。
沖田司令官が、僕の部屋に出向き辞令を伝えてくれた。
「古代・・・残念だが、わしは優秀な砲雷長を失ったようだ。
ははは・・・お前を駆逐艦”ゆきかぜ”の艦長として送り出
さねばならんようじゃ・・・ははは・・・」
僕(古代 守)・・・
「ええ?でも、まだ荷が重過ぎます・・・」 第2次火星沖海戦編・・・28
沖田司令官・・・
「うん・・・じゃが、そうも言っておられんのじゃ・・・今回の
戦いで国連宇宙軍は多くの指揮官を失った・・・わしの
息子も・・・」
しばらく、うつむいて泣いておられた・・・僕は沖田司令官
の手をとり・・・ 第2次火星沖海戦編・・・29
僕(古代 守)・・・
「提督・・・喜んで、お受けいたします!」
沖田司令官
「頼んだぞ!古代!」 第2次火星沖海戦編・・・30
こうして僕は、
磯風型突撃宇宙駆逐艦3番艦”ゆきかぜ”艦長として
(階級は、2蔚から一挙に三佐として2階級昇格)
赴任することになった・・・
責任は、ぐっと重くなった・・・だが、地球を守るため
僕は、必ず任務をまっとうするぞ!
<おわり> スピン・オフ
本多平八郎忠勝伝
その日、江戸城に、朝早く馬で乗りつける武将がいた・・・・・
本多平八郎忠勝である。
”との〜”大声で叫びながら平八郎が朝食を頬張る家康に向かって来た。
家康は、目を丸くして、箸をもったまましばらく呆然としていたが、
箸を置き・・・
平八郎に向かって言った。
”いかがしたのじゃ・・・ははは・・・そなたも、朝飯は
まだじゃろ、いっしょにどうじゃ?” 平八郎は、女中の運んできた水を一気に飲み干すと
”こたびの若殿の縁組しょうふくいたしかねまつる!
豊臣から、なにゆえ若殿に、むっつも年上の、おなごを嫁に押し付けられ
ねばならぬのじゃ!わしは、悔しゅうて・・・殿は、悔しゅうござらぬか?
江殿は、こたび三度目の嫁入りと聞いておりまするぞ!しかも、子も
1人おるそうな・・・徳川を愚弄するにも程がござる!サルの魂胆は
見えすぎておりまする。淀殿の妹ぎみなら、若殿とは義姉弟、秀頼殿は
甥、先々江殿との間に姫が生まれれば、夫婦(めおと)にして豊臣
の基盤を磐石なものにしようという魂胆じゃろ” 家康は、大声で笑いながら言った。
”さすが平八郎、察しが良いのお・・・既に、内内での話じゃが、第一の姫は
秀頼殿の嫁に貰い受けたいとのことじゃ。じゃが、わしは、そう悪い縁組とは
思わんのじゃ・・・わしは、江姫のことは、信長公ご存命中からよく存じて
おって少々気が強いところは、ござるが情の深い良い姫じゃ、あれぐらい
しっかりした姫なら将来天下人の御台所として、じゅうぶんやっていけよう。”
平八郎は、腕組みをしながら、うつむいていたが、しばらくして言った。
”承知つかまつった。わしは、てっきり殿は天下を諦めて豊臣との融和策に
転じられたのかと勘違いをしたようでござった。それならば、何も申しませぬ。”
その後、平八郎も朝飯に加わり、和やかに、時が流れた。 第一回「誕生」
慶長2年(1597年)4月11日
山城国伏見城内の徳川屋敷
今、まさに1人のおなごが赤子を産み落とそうとしていた。
そのおなごの名は江(ごう)
父は浅井長政、母はお市の方の3女にあたる姫君である。
”おぎゃー!”
”おぎゃー!”
お付の女中が叫ぶ
”生まれましたぞ!姫君じゃ!”
528日曜8時の名無しさん2017/05/30(火) 12:22:32.14ID:g91W5y1o
隣の部屋から待ちかねたように人の良さそうな男が
入ってきた。
「ごう!でかしたぞ!」
この男は、まじまじと赤子の顔を眺め・・・
「なんと麗しき顔立ちの姫じゃ・・・うん、うん・・・
さすが絶世の美女と謳われた、お市の方
様の血を引く姫君じゃ、ははは・・・でかした。
でかしたぞ・・・」
なんとも言えない表情である。
この人の良さそうな男の名は秀忠
豊臣政権の五大老のひとり徳川家康の嫡男である。 しばらくして、秀忠は紙と筆を持って来させて
一つの文字を書いた。
「赤子の名は”千”といたす」
この「千」と名づけられた赤子こそ後に波乱万丈の生涯を歩む
千姫、この物語の主人公である。
翌日、江の舅である徳川家康が、豊臣秀吉、側室の淀、
嫡男の拾丸(後の秀頼)を伴って祝いの品を持って駆けつけた。
豊臣秀吉の側室、淀の方は江の実姉、つまり嫡男の拾丸は
江にとっては甥、千姫とは従兄弟通しになる。 家康
「ごう、でかしたぞ・・・」
江
「父上、ありがとうございまする・・・しかし、父上は嫡男を
望んでおられたのでは・・・?」
そこに秀吉が割って入る。
秀吉
「ごう・・・案ずるな、最初の子は、おなごのほうが豊臣に
とっても徳川にとっても、むしろ良かったのじゃ。
家康殿、もう良いじゃろう・・・」
秀吉が家康に目で合図した。
家康
「実はのう・・・ごう、殿下から、ごうの子が、おなごであれば
拾丸様の正室に、お迎えしたいとのことなのじゃ。拾丸様
は将来、関白豊臣家を継がれる方、つまり次の天下人、その
奥方として姫を迎えたいということなのじゃ・・・これは、豊臣や
徳川のためだけでは無い。早く戦の無い世を造っていかねば
ならぬ・・・天下泰平、天下万民のため・・・豊臣と徳川の
絆を、より強固なものにいたすのじゃ・・・どうじゃ、ごう・・・」 江
「わたくしも、このお話、とても嬉しゅうございまする・・・
のう・・・姉上・・・」
淀
「ふむ・・・われら浅井姉妹は、早くに父、母を亡くし
つらい日々を送ってまいりました・・・親と子、兄弟が袂を分かって
命のやりとりをする・・・そのような戦国の世は、早く終わらせねば
なりませぬ・・・天下泰平に向かうのであれば喜んで拾丸の嫁と
してお迎えいたしましょう・・・拾丸!この千姫が、そなたの
嫁となるのじゃ・・・」
拾丸(後の秀頼)
「はい」
4歳になったばかりの拾丸に、そのことの重大性が、わかろうはず
は無かった。ただ、この婚姻が将来両家にとって最悪の結末を
迎えようとは、このとき誰が想像したであろうか?
第一話 おわり この頃までの豊臣、徳川の関係は良好だったんだがなあp(^^)q 第二回「秀吉死す」
慶長3年(1598年)3月15日、醍醐寺諸堂の再建を命じ、庭園を造営。
各地から700本の桜を集めて境内に植えさせて秀頼や奥方たちと一日
だけの花見を楽しんだ(醍醐の花見)。
千姫が誕生して1年の月日が流れた・・・
ある日の秀忠と江、千姫の寝顔を見つめながら話す。
江
「殿、太閤殿下、随分お悪いようでございまするね・・・もう、長くないのでは?」
秀忠
「うん・・・そのようじゃな・・・まだ秀頼様は幼いのにもかかわらず・・・
どうしたものか?父上が後見人となられるので案ずることは
無かろうが・・・」
江
「もし太閤殿下が、お亡くなりになられたら幼い秀頼様で政(まつりごと)
は成り立ってまいりますでしょうか?」 秀忠
「ふむ・・・さて、そのへんのことは、太閤殿下にお任せするほか無かろうなあ・・・」
江
「殿・・・わたくし不安なのでございます。もしや父上は太閤殿下亡き後
天下を狙うて動かれるなどとゆうことは、ございませんでしょうなあ・・・
さすれば再び天下は戦国の世に逆戻り・・・やっと天下が治まると
思っておりましたのに・・・」
秀忠
「ははははは・・・ごう、それは心配ござるまい・・・若き頃の父上ならともかく
父上も既にお年、今更天下人になったとて仕方あるまい。」
江
「そうでございまするね・・・ふふふ・・・いらぬ心配ばかり・・・殿、千姫が
生まれて1年ほどになります・・・体の調子もそろそろ良くなってまいりました。
次こそは嫡男を産みとうございます。それにしても1年も側室を持たず、よう辛抱なされ
ましたなあ・・・ふふふ・・・」
秀忠
「ふむ・・・はよう跡取りを設けねばのう・・・」
こうして2人は久しぶりに夫婦の営みを行った。
1年後、江は2人目の子を無事出産・・・
しかし嫡男ではなく、姫であった。
この姫は、珠姫と名づけられ3歳で前田藩(前田利常)に輿入れすることになる。
自分の死が近いことを悟った秀吉は7月4日に居城である伏見城に徳川家康ら
諸大名を呼び寄せて、家康に対して秀頼の後見人になるようにと依頼した。
8月5日、秀吉は五大老宛てに二度目の遺言書を記す。秀吉の病は、前年に
秀吉の命令で甲斐善光寺から京都方広寺へ移されていた信濃善光寺の本尊
である阿弥陀三尊の祟りであるという噂から、三尊像は8月17日に信濃へ向け
て京都を出発したが、8月18日、秀吉はその生涯を終えた。
死因については現在も不明である。
第二話 おわり 第二十X回 「関が原」
慶長5年(1600年)9月初旬
上杉討伐に向け秀忠が江戸城を出発する日。
正室の江が生まれたばかりの珠姫を抱っこし千姫を伴って見送りに
城の表門まで出向いた。
秀忠
「では・・・江、千、珠、行ってまいる。」
江
「秀忠殿、しっかりおやりなされ!あなた様は将来天下人秀頼様の
舅となられるお方、豊臣の獅子身中の虫どもを一掃して千が安心して
秀頼様に輿入れできる様にしてくださいまし・・・」
秀忠
「ああ、承知いたした。此度は、おそらく豊臣を二分する大いくさに
なるであろう・・・
もし万が一徳川方が負けたときは、そのたの姉、淀殿に助命を申し出
るようにな。さすれば・・・そなたらの命までは獲らぬであろう。」
江
「はい、承知いたしました。道中ご無事で・・・
では、御武運を!」
こうして、千姫は秀忠を母江と共に見送った。
この戦(いくさ)こそ、将来天下分け目の戦と呼ばれた
”関が原”の始まりであった。 第二十X回 「千姫輿入れ」
慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原
(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた天下分け目の
関が原の戦いは、徳川方の勝利となり
秀頼、淀殿に対しては「女、子供のあずかり知らぬところ」として咎めず領地も
そのままだったが、論功行賞により各大名家の領地に含めていた太閤蔵入地
(豊臣氏の直轄地)は諸将に分配された。その結果、豊臣氏は摂津国・河内国
・和泉国の3ヶ国65万石の一大名となり、家康は天下人としての立場を確立した。 慶長8年(1603年)2月12日、後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として伏見城
に派遣。朝廷より六種八通の宣旨が下り、家康を征夷大将軍、淳和奨学両院別
当、右大臣に任命した。同年3月12日、伏見城から二条城に移り、3月21日、衣冠
束帯を纏い行列を整えて御所に参内し、将軍拝賀の礼を行い、年頭の祝賀も述
べた。3月27日、二条城に勅使を迎え、重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の
儀を行った。また4月4日から3日間、二条城で能楽が行われ諸大名や公家衆を饗
応した。これにより征夷大将軍徳川家康は武家の棟梁となる地位を確立した。
そして・・・
このままでは、徳川家に天下を奪われると懸念した豊臣秀頼の母・淀殿
は豊臣秀吉が生前、成立させていた秀頼と千姫の婚約を履行させた。
千姫は慶長8年(1603年)7月豊臣秀頼に輿入れをすることになった。
秀頼11歳、千姫7歳 千姫が大阪に向かう前日・・・
千姫は、父である秀忠と母である江のもとを訪れた。
輿入れといっても実際は、豊臣の人質であるため
父母は同行せず乳母の刑部卿局(ぎょうぶきょうのつぼね)
が同行する。
徳川秀忠
「姫、息災にな・・・」
千姫
「はい・・・父上、母上も息災に、お暮らし下さいませ。」 江
「秀忠殿・・・本当に、これで良いのでございましょうや・・・太閤殿下との
お約束とはいえ、今は父上が天下人・・・豊臣は、これで納得して
くれましょうや・・・徳川将軍家の孫娘の婿として次期将軍となるつもり
だと聞いておりまする。」
徳川秀忠
「困ったものじゃ・・・父上は、近いうちに将軍職を、わしに譲って
将軍職は徳川の世襲ということを示されるだろうな・・・既に天下は
徳川のもの・・・しっかり、わかっていただかねば・・・」 江
「まさか、徳川と豊臣で戦などということは、ありますまいな・・・」
徳川秀忠
「父上次第じゃろうなあ・・・豊臣が1大名として傘下にさえ入って従って
くれれば、何の問題も無かろうが・・・
戦したとて大阪方には勝ち目はあるまい・・・
それぐらいのこと、わかっておるじゃろうて・・・」
翌日、千姫一行は大阪に向け出発した。
第二十X話 おわり 第四十X回 「大阪落城」
慶長20年5月7日
昼過ぎ・・・戦場から真田幸村討ち死にの知らせが入った。
淀と秀頼は、お互い向かい合って相槌をうつ・・・
淀
「やはり無理であったか・・・最後の望みも絶たれたようじゃ・・・」
秀頼
「母上・・・では、千を呼びまするが、本当によろしいのでござい
ますな・・・」
淀
「ああ」
淀は、微笑みながら頷いた。
千姫が部屋に入ってきて淀と秀頼の前に座る。 淀
「千、既に戦の命運は尽きたようじゃ、この城が落ちるのは時間の
問題・・・無駄な血はこれ以上流しとうない。そこで、そなたに頼みがある。」
千姫
「はい」
神妙な顔つきで頷いた。
淀
「これから、そなたが大御所の陣に出向いて直接われらの助命嘆願を
してもらいたいのじゃ・・・そなたが直接会って嘆願すれば、さすがに
命まで獲ることは無かろう。」 千姫
「はい承知いたしました母上・・・千は自分の命に替えても大御所様の
赦しを請うてまいります。」
こうして千姫を解放し大御所の陣に向かわせることを伝えると
一旦戦が止み徳川方から迎えの使者が輿を運んできた。
千姫は輿に乗り見送る淀と秀頼の姿を輿の窓を少し開け隙間から覗き込む。
なんとなく寂しそうな感じがした。嫌な予感がする。
しかし一刻の猶予も無い・・・
早く、大御所の下に行って助命嘆願をせねば・・・ 大御所の陣に到着し千姫が輿から降りると祖父の家康と父の秀忠が満面の
笑みで迎えた。
家康は千姫を抱きしめ・・・
「よう無事で帰ってこられたのう・・・良かった、良かった。」
秀忠も横から・・・
「本当に、良かった・・・千にもしものことがあったら江(ごう)に何と言われるか・・・
ははは・・・」
千姫
「おじじ様、父上、どうか豊臣の母上や秀頼様のこと命ばかりは、お助け
下さいませ。」
家康は満面の笑みで・・・
「わかっておる、わかっておる・・・既に、使者を立て投降するよう伝えたわ・・・
一旦は領地召し上げになるであろうが、いずれ、どこかに身の立つぐらいの
領地は与えようと思うておる。」 その時、鉄砲の音が鳴り響いた。
”ダーン!”
鉄砲隊が投降を促すため立てこもっている籾蔵の方に鉄砲を撃ちかけた。
しばらくして籾蔵の中の様子を探りに行くと・・・
秀頼は淀殿らとともに籾蔵の中で勝永に介錯され自害していた。
自害した様子が伝えられた。
「われらが籾蔵の中の様子を探りに行った時には、秀頼様、淀殿は
既に自害されておりました。最初から覚悟の上、千姫様を帰された
ものと思われます。」
その場で千姫は気を失った。
こうして大阪の陣は、最悪の形で幕が引かれることになった。
第四十X回 おわり 第四十九回 「助命・千姫の決意」
家康の怒りは尋常では無かった・・・
幕府に弓を引く豊臣家を許し存続させようと苦慮してきたにも
かかわらず最後は自害という形で裏切られたのだ。
そこに秀頼の側室の子の国松と女子が潜伏している所を捕らえられ
たという報が入った。
家康
「あい、わかった。両名即刻首を刎ねよ!」
隣で聞いていた秀忠は真っ青になって・・・
「父上!しばらくお待ち下され!何も幼子の命までも奪わなくとも!」 家康
「許すことまかりならぬ!豊臣家がこうなった以上豊臣の血筋を残す
わけにはまいらぬ!平家が源氏の遺児を助命したため滅ぼされた
例もあるゆえ不憫ではあるがのう・・・」
秀忠
「父上!今や徳川の天下!今更何も・・・!」
家康と秀忠は、お互い掴み合って険悪な表情で向き合った。
それを観ていた本多忠政が中に割って入り何とかその場を
収めた。
翌日、改めて話し合いが持たれる事になった。 翌日、秀忠は千姫と高台院(秀吉の正室)伴って、話し合いの
場に現れた。
家康
「おお・・・高台院殿、お久しゅうございまするなあ・・・」
家康は、秀吉の死後も秀吉の婦人を大切にし
婦人が大阪城を出た後、高台寺を建立、そこの住職
とした。非常に聡明で美しかった秀吉の婦人、おね
には一目置いているのだ・・・ 高台院
「ほんとうですこと・・・家康殿も息災なご様子・・・
こたび豊臣家は残念なことになりもうしたが
家康殿には、罪はござらぬ・・・よく耐えてくださり
もうした。信長公ならとっくに潰されておったろうのう・・・
そこでじゃが・・・家康殿と見込んで無理を承知で
お頼み申す。
秀頼殿の遺児のことじゃが、国松は男子ゆえ
諦め申すが、姫は、おなごゆえ許してもらえぬか?
もちろん子孫が徳川に刃を向けぬよう
出家させ生涯独り身で過ごすことにはなるがのう。
これで、どうか・・・折れてくださらぬか・・・」
家康は腕組みをして
「う〜ん・・・」 千姫
「おじじ様、姫をわたくしの養女とすることで
助命していただけませんでしょうか・・・?」
秀忠
「父上、わたくしからも、お頼み申し上げ
まする。もし叶わぬなら、豊臣の嫁であった千も
罰せねばなりませぬゆえ・・・」
家康
「承知いたした。千よ一つだけ、わしの頼みを
聞いてもらいたい・・・そなたは
桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻に再嫁
すること・・・これが受け入れられねば、助命は
叶わぬゆえ・・・どうじゃ?」 千姫
「承知いたしました。おじじ様、ほんに、ほんに・・・
ありがとうございまする。」
こうして
国松は処刑、また娘の天秀尼は僧籍に入ることで助命された。
第四十九回 おわり 第五十回 「歳月」 最終話
寛文6年(1666年)2月6日
大阪夏の陣が終わり約50年の歳月が流れた。
千姫は大阪夏の陣の翌年 本多忠刻に嫁ぎ
長女 勝姫、長男 幸千代を授かるが
幸千代は3歳で没し、その後
夫・忠刻、姑・熊姫、母・江が次々と没するなど不幸が続き、
本多家を娘・勝姫と共に出ることとなった。
江戸城に入り、出家して天樹院と号す。
出家後は娘と2人で竹橋御殿で暮らした。寛永5年(1628年)に勝姫が
父・秀忠の養女として池田光政の元へ嫁ぎ、一人暮らしとなる。
寛永9年(1632年)、父・秀忠が薨去。寛永16年(1639年)、光政と勝姫の
嫡男・池田綱政(千姫の外孫)が誕生した。 現在、千姫は江戸場内で暮らし
もうすぐ70を迎える・・・
その日、千姫は自室から外の景色を眺めながら
うとうと眠り始めた。
千姫は、いつのまにか18歳の頃の姿になり大阪城内で秀頼と桜の木の下を
手をつないで歩いていた。
桜の花が満開である。
秀頼
「千、千は父上や母上は恋しゅうないか?」
千姫
「いえ、こちらには淀の母上もおられますし、秀頼様もおられますゆえ
寂しゅうございませぬ・・・」 秀頼
「それは良かった。ははは・・・
ここでは、誰とでも会いたいと思うたらすぐ会えるのじゃ・・・
千は、誰と会ってみたい?」
千姫
「そうでございまするね・・・父上、母上・・・でも一番会いたいのは・・・」
秀頼
「ははは・・・ここの世界では、隠し事は出来ぬ世界・・・」
1人の若武者が千姫の前に現れた・・・家光?
似ているが、もう少し体格が良く顔立ちも勇ましい・・・
もしや”幸千代”? 幸千代
「母上!お久しゅうございまする・・・」
千姫
「やはり、幸千代なのですね・・・」
親子は、しっかり抱き合った。
女中が昼餉の準備に部屋を訪れた時には既に
眠るように息を引き取っていたという。
享年69歳
亡くなった夜、曾祖母於大の方の菩提寺である小石川伝通院
に納められ導師知鑑(知恩院37世)により葬儀が行なわれた。
墓所は傳通院と茨城県常総市の天樹院弘経寺にあり、また
徳川家(松平家)が三河時代から帰依していた浄土宗の
総本山である京都の知恩院に定例により分骨され宝塔に
納められた。知鑑は後に位牌や遺物を祭るため伊勢に
「寂照寺」を開いた。
戒名「天樹院殿栄譽源法松山禅定尼」。 スピン・オフ 真田幸村
幸村最後の戦(いくさ)・・・1/3
その日、幸村は茶臼山の陣で戦況を伺っていた。既に豊臣方は
後藤基次や木村重成などの主だった武将が相次いで討死し、
疲弊していった・・・
”もはやこれまでか・・・”
幸村は、目を閉じて腕組みをしつぶやいた。
”もう、この手しか、あるまい・・・”
幸村は、うしろを振り返り叫ぶ。
”狙うは徳川家康の首ただひとつのみ!
みなのもの!昨日の打合せどおり、これから最後の大いくさを
しかける。生きて帰ること無き、大いくさじゃ!死にたくなき者は
去ってよし!いっさい咎めだてはせぬ!・・・”
もちろん、去るものはいない。
味方の1人が叫んだ。
”幸村様!われら大阪の陣に参加したときから幸村様に命は
おあずけ申しておりまするぞ!
ひとあわ、大御所に吹かせてやりましょうぞ!
わっはははは・・・!”
陣内に大きな歓声が沸きあがった! 幸村最後の戦(いくさ)・・・2/3
幸村は槍を手に持ち馬に飛び乗った。
他の者たちも次々と馬に飛び乗っていく・・・
幸村隊、50数名が幸村を取り囲み同じ赤色の甲冑に身につけ
一塊(ひとかたまり)になって越前隊(松平忠直)の大軍
めがけて真一文字に家康本陣へ突撃を開始した。
数(かず)のうえでは、圧倒的に徳川軍優勢であるが、少人数で1つにまとまって
いる分、的は小さく、通り道を遮る兵のみを防げば良いわけである。
ただ時間勝負・・・・長引けば長引くほど、不利になるのは目に見えている。
家康本陣にさえたどり着ければ・・・槍の使い手である幸村に勝機はある。
家康本陣が見えてきた・・・既に幸村隊は幸村1人になっていた。
”みなのもの、かたじけない・・・”
”大御所のみしるし頂戴仕る!”
幸村は叫びながら、家康めがけて突進していく・・・幸い、本陣の、ほとんどが
出払っていて数名の供がいるのみである。
まず2、3人の供を槍でなぎ倒し家康の目の前に迫った・・・その時、家康の
前に槍を持って立ちはだかった武将がいた。見覚えの、ある顔・・・
滝川三九朗であった。三九朗は幸村の妹の婿、つまり義理の弟である。
今回の戦では、徳川家康護衛の旗本として警備にあたっていた・・・
三九朗は見事な槍さばきで幸村を食い止め、その隙に家康は馬で逃れた。
援護に駆けつけた十数名の鉄砲隊が幸村に鉄砲を打ち掛けた・・・ 幸村最後の戦(いくさ)・・・3/3
”すまぬ・・・兄上・・・”
”三九朗ならば・・・やむおえず・・・”
と二人は言葉をかわし鉄砲で深手を負ったまま幸村は去っていく・・・
その後、幸村は
四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内
にたどりつき、馬から降りて、どっかと腰を降ろした。
肩と腹に銃弾を受けたらしい・・・血が流れていた。
そこに越前隊鉄砲組の西尾宗次が、現れた。
幸村は、宗次を見つめて一言・・・
”介錯を頼む!”と言い
その場で腹を切って果てた。
享年49
幸村最後の戦(いくさ) <おわり> 本多平八郎忠勝伝
その日、江戸城に、朝早く馬で乗りつける武将がいた・・・・・
本多平八郎忠勝である。
”との〜”大声で叫びながら平八郎が朝食を頬張る家康に向かって来た。
家康は、目を丸くして、箸をもったまましばらく呆然としていたが、
箸を置き・・・
平八郎に向かって言った。
”いかがしたのじゃ・・・ははは・・・そなたも、朝飯は
まだじゃろ、いっしょにどうじゃ?”
平八郎は、女中の運んできた水を一気に飲み干すと
”こたびの若殿の縁組しょうふくいたしかねまつる!
豊臣から、なにゆえ若殿に、むっつも年上の、おなごを嫁に押し付けられ
ねばならぬのじゃ!わしは、悔しゅうて・・・殿は、悔しゅうござらぬか?
江殿は、こたび三度目の嫁入りと聞いておりまするぞ!しかも、子も
1人おるそうな・・・徳川を愚弄するにも程がござる!サルの魂胆は
見えすぎておりまする。淀殿の妹ぎみなら、若殿とは義姉弟、秀頼殿は
甥、先々江殿との間に姫が生まれれば、夫婦(めおと)にして豊臣
の基盤を磐石なものにしようという魂胆じゃろ”
家康は、大声で笑いながら言った。
”さすが平八郎、察しが良いのお・・・既に、内内での話じゃが、第一の姫は
秀頼殿の嫁に貰い受けたいとのことじゃ。じゃが、わしは、そう悪い縁組とは
思わんのじゃ・・・わしは、江姫のことは、信長公ご存命中からよく存じて
おって少々気が強いところは、ござるが情の深い良い姫じゃ、あれぐらい
しっかりした姫なら将来天下人の御台所として、じゅうぶんやっていけよう。”
平八郎は、腕組みをしながら、うつむいていたが、しばらくして言った。
”承知つかまつった。わしは、てっきり殿は天下を諦めて豊臣との融和策に
転じられたのかと勘違いをしたようでござった。それならば、何も申しませぬ。”
その後、平八郎も朝飯に加わり、和やかに、時が流れた。
本多平八郎忠勝伝 <おわり> 徳川四天王の娘
その日、昌幸と信幸の親子は馬にまたがり数名の供を引き連れ
婚礼の日取りを決めるため徳川四天王の1人、本多平八郎忠勝の
屋敷に向かっていた・・・
昌幸:信幸・・・ほんに、かまわぬのか?わしは、気が進まぬがのう・・・
本多殿の娘を嫁に娶る、しかも徳川殿の養女としてじゃ・・・
う〜ん・・・わしは、どうも家康という男は好かん・・・妻や嫡男を
死に追いやる男など・・・う〜ん・・・
信幸:ははは・・・父上?では真田の立場で断れると申されますか?
わたくしは、とうに諦めております。良いでは、ございませぬか・・・
弟の源次郎(幸村)には父上が気に入られた娘を嫁にもらえば・・・
ははは・・・(大声で笑う) その頃、忠勝の屋敷では・・・
忠勝の家臣(うろたえている):殿!本当に良いのでございますか!
このようなことをいたして・・・
もう知りませぬぞ!・・・こたびの縁組は、おやかた様が決められた
こと・・・勝手にこのような・・・
忠勝:かまわぬ、かまわぬ・・・おやかた様には既に伝えておる
おやかた様は、そなたの娘が嫌と言えば無理強いはせぬ・・・
と申された。
忠勝の家臣:しかし・・・これは・・・いくらなんでも・・・ 屋敷には、娘の婿選びと称して多くの若者が集められていた・・・
真田親子が屋敷に着くと、忠勝が出迎えた。
忠勝:本日は、娘、稲の婿選びの席においでくださり
誠にご苦労様にござりまする・・・
昌幸:何?
昌幸を制して信幸が、前に出る。
信幸:ありがたきしあわせ、当方も望むところでござりまする!
信幸はニヤリと笑って忠勝を睨み返した。
忠勝は、娘の婿選びの様子を隣の部屋の隙間からニヤニヤ
しながら眺めていた。
大勢の若者が横1列に並べられ、顔を下に向けている・・・・
稲姫が女中とともに部屋に入り扇子で若者たちの顔を、
ひとりひとり、ひょいと持ち上げ品定めをしていく・・・信幸の番になった
・・・他の若者同様扇子が信幸の顎に触れた瞬間 信幸:無礼者!男の顔を扇子で持ち上げるとは何ごとぞ!
このような縁組こちらからねがいさげじゃ!
信幸は大声を張り上げ、扇子を跳ね除けた。
稲姫は狼狽し女中が胸の小刀に手をやり”何をなさる”と叫ぶ。
そこに隣で様子を伺っていた忠勝が、あわてて部屋に入ってきて
信幸の前で正座し手をついて言った。
忠勝:数々のご無礼の段、平に平にお許しくだされ・・・よくぞ
娘の扇子を払いのけてくださりました。信幸殿こそ我が娘に
ふさわしいお方と確信いたしました!稲!いぞんは、あるまいな!
稲姫:はい!生涯を供にできるのは信幸様ただおひとりのみ
でござります! 信幸は、初めて姫の顔をよく見た。いかつい顔の忠勝とは
似ても似つかぬ美しい姫であった。色が白く目鼻立ちの整った
雛人形のような顔立ちをしている。そこに騒ぎを聞きつけて
昌幸が入ってきた。
昌幸:信幸!なにごとじゃ!
信幸:父上!これにて拙者の嫁は稲姫と決まり申した!
見てくだされ、これほどの美女、拙者、今まで見たことはございませぬ!
ははは・・・!(心の中の声:どうりで忠勝殿は姫を手放したがらぬ
わけじゃ)
稲姫は、真っ赤になったが、すぐに居直り昌幸に向かって三つ指を
突いた。
稲姫:真田の父上殿、ふつつかものでござりますが信幸殿との
ご婚礼お許しいただきとおござります!
昌幸:あい、承知つかまつった!
こちらこそ、よろしくおねがいたてまつる!
こうして稲姫は無事に真田に嫁ぐ運びとなった。 翌月・・・
明日は、稲姫が真田信幸との婚礼に出発する日である。
むろん婚礼の準備は既に整っていた。
その日の夕暮れ、家康が質素な、いでたちで編笠をかぶり数人の
警護の供を連れて訪れた。
忠勝:殿、お待ち申し上げておりましたぞ・・・ささ・・・こちらへ・・・
家康一行は、忠勝婦人、嫡男、稲姫らの待つ部屋に通された。
既に夕飯の準備は整えられ稲姫が三つ指をつき家康に
挨拶をする。
稲姫:家康の父上、こたびは過分なる婚礼の引き出物を
戴き誠に感謝申し上げまする・・・ 家康:ほほう・・・しばらく会わぬ間に随分美しゅうなられたのお・・・
平八郎が手放したがらぬわけじゃ、ははは・・・しかし婿選びとは・・・
昌幸殿がよく承知なされたものじゃ・・・ははは・・・
忠勝は、ばつが悪そうに頭を掻いている・・・それを見て稲姫は・・・
稲姫:まったくで、ございます・・・信幸殿が賢明な、お方であられた
ゆえ大事には至りませんでしたが・・・さすがに扇子を叩かれたときは
驚きましたが、あのお方一瞬ニヤリとされておりました・・・既に、当方の
意図を見抜かれていたようす・・・只者ではなき、お方と、お見受けいた
しました。 家康は微笑みながら、うんうんと頷き
家康:姫は、無骨な平八郎に似ず細かなところによく気が付く姫じゃ・・・
ははは・・・あの男は、ほんに、わしに年の合う娘が、おれば婿にしたい
と心の底から思うた男じゃ、あの上田での、いくさぶり・・・見事な働きで
屈強な我が兵を、たやすく撃退しおった・・・共に出陣した大久保も、我が
婿にしたいほどじゃがと何度も言いおった。ははは・・・ところで、そこまで
利発なる姫ならば既に此度の婚礼の、一番の目的は心得て
おるようじゃな・・・
稲姫:はい、真田は敵に回せば手強き相手ゆえ先々徳川の天下獲りの
足かせにならぬよう、分断・・・できれば真田一族全てを徳川傘下に引きずり込む
ことでができるようにすることで、ござりますな・・・ただ信幸殿は賢明なお方ゆえ
たやすく落とせましょうが、あの父のほうは・・・やや頑固者、悪く言えば深慮が
足らない、お方と、お見受けいたしております。
家康:ふむ・・・できれば真田は、全て味方にしたいものよのお・・・ 翌朝、家康一行は朝食を済ませ発つことになる・・・
もちろん、忠勝の家族と主だった家臣は見送りに出た・・・
家康は稲姫のほうを見て
家康:姫、もし将来、豊臣と徳川が二つに割れて戦うことになり信幸殿が
豊臣につくと申されたら、いかが致す・・・
稲姫:殿、そのときは子らを人質にして実家に連れて帰りまするゆえ信幸
殿は徳川に逆らえませぬ・・・ははは・・・
家康:この、いくさは稲姫に軍配が上がること間違いないのう・・・おなごは
恐ろしい・・・ははは・・・・ 忠勝は去って行く家康一行を見送りながら
忠勝:稲、あれは本心か?もしそうなら、おぬしは・・・
稲姫:父上の娘ですから・・・
忠勝:こりゃ、一本獲られたわい、ははは・・・
稲姫の本心は今もって謎であるが、関ヶ原の戦では、信幸は徳川に
父の昌幸と弟の幸村は豊臣につくことになる。本来、豊臣に
ついた昌幸・幸村の親子は処刑されても、やむおえないが、稲姫の父
忠勝の必死の助命嘆願により蟄居、紀州の九度山へ送られることとなる。
この助命嘆願が後の大阪の陣での幸村の伝説的活躍を、うむことになる。
徳川四天王の娘 <おわり> 第一回「誕生」
慶長2年(1597年)4月11日
山城国伏見城内の徳川屋敷
今、まさに1人のおなごが赤子を産み落とそうとしていた。
そのおなごの名は江(ごう)
父は浅井長政、母はお市の方の3女にあたる姫君である。
”おぎゃー!”
”おぎゃー!”
お付の女中が叫ぶ
”生まれましたぞ!姫君じゃ!” 隣の部屋から待ちかねたように人の良さそうな男が
入ってきた。
「ごう!でかしたぞ!」
この男は、まじまじと赤子の顔を眺め・・・
「なんと麗しき顔立ちの姫じゃ・・・うん、うん・・・
さすが絶世の美女と謳われた、お市の方
様の血を引く姫君じゃ、ははは・・・でかした。
でかしたぞ・・・」
なんとも言えない表情である。
この人の良さそうな男の名は秀忠
豊臣政権の五大老のひとり徳川家康の嫡男である。 しばらくして、秀忠は紙と筆を持って来させて
一つの文字を書いた。
「赤子の名は”千”といたす」
この「千」と名づけられた赤子こそ後に波乱万丈の生涯を歩む
千姫、この物語の主人公である。
翌日、江の舅である徳川家康が、豊臣秀吉、側室の淀、
嫡男の拾丸(後の秀頼)を伴って祝いの品を持って駆けつけた。
豊臣秀吉の側室、淀の方は江の実姉、つまり嫡男の拾丸は
江にとっては甥、千姫とは従兄弟通しになる。 家康
「ごう、でかしたぞ・・・」
江
「父上、ありがとうございまする・・・しかし、父上は嫡男を
望んでおられたのでは・・・?」
そこに秀吉が割って入る。
秀吉
「ごう・・・案ずるな、最初の子は、おなごのほうが豊臣に
とっても徳川にとっても、むしろ良かったのじゃ。
家康殿、もう良いじゃろう・・・」
秀吉が家康に目で合図した。
家康
「実はのう・・・ごう、殿下から、ごうの子が、おなごであれば
拾丸様の正室に、お迎えしたいとのことなのじゃ。拾丸様
は将来、関白豊臣家を継がれる方、つまり次の天下人、その
奥方として姫を迎えたいということなのじゃ・・・これは、豊臣や
徳川のためだけでは無い。早く戦の無い世を造っていかねば
ならぬ・・・天下泰平、天下万民のため・・・豊臣と徳川の
絆を、より強固なものにいたすのじゃ・・・どうじゃ、ごう・・・」 江
「わたくしも、このお話、とても嬉しゅうございまする・・・
のう・・・姉上・・・」
淀
「ふむ・・・われら浅井姉妹は、早くに父、母を亡くし
つらい日々を送ってまいりました・・・親と子、兄弟が袂を分かって
命のやりとりをする・・・そのような戦国の世は、早く終わらせねば
なりませぬ・・・天下泰平に向かうのであれば喜んで拾丸の嫁と
してお迎えいたしましょう・・・拾丸!この千姫が、そなたの
嫁となるのじゃ・・・」
拾丸(後の秀頼)
「はい」
4歳になったばかりの拾丸に、そのことの重大性が、わかろうはず
は無かった。ただ、この婚姻が将来両家にとって最悪の結末を
迎えようとは、このとき誰が想像したであろうか?
第一話 おわり 第二回「秀吉死す」
慶長3年(1598年)3月15日、醍醐寺諸堂の再建を命じ、庭園を造営。
各地から700本の桜を集めて境内に植えさせて秀頼や奥方たちと一日
だけの花見を楽しんだ(醍醐の花見)。
千姫が誕生して1年の月日が流れた・・・
ある日の秀忠と江、千姫の寝顔を見つめながら話す。
江
「殿、太閤殿下、随分お悪いようでございまするね・・・もう、長くないのでは?」
秀忠
「うん・・・そのようじゃな・・・まだ秀頼様は幼いのにもかかわらず・・・
どうしたものか?父上が後見人となられるので案ずることは
無かろうが・・・」
江
「もし太閤殿下が、お亡くなりになられたら幼い秀頼様で政(まつりごと)
は成り立ってまいりますでしょうか?」 秀忠
「ふむ・・・さて、そのへんのことは、太閤殿下にお任せするほか無かろうなあ・・・」
江
「殿・・・わたくし不安なのでございます。もしや父上は太閤殿下亡き後
天下を狙うて動かれるなどとゆうことは、ございませんでしょうなあ・・・
さすれば再び天下は戦国の世に逆戻り・・・やっと天下が治まると
思っておりましたのに・・・」
秀忠
「ははははは・・・ごう、それは心配ござるまい・・・若き頃の父上ならともかく
父上も既にお年、今更天下人になったとて仕方あるまい。」
江
「そうでございまするね・・・ふふふ・・・いらぬ心配ばかり・・・殿、千姫が
生まれて1年ほどになります・・・体の調子もそろそろ良くなってまいりました。
次こそは嫡男を産みとうございます。それにしても1年も側室を持たず、よう辛抱なされ
ましたなあ・・・ふふふ・・・」
秀忠
「ふむ・・・はよう跡取りを設けねばのう・・・」
こうして2人は久しぶりに夫婦の営みを行った。
1年後、江は2人目の子を無事出産・・・
しかし嫡男ではなく、姫であった。
この姫は、珠姫と名づけられ3歳で前田藩(前田利常)に輿入れすることになる。
自分の死が近いことを悟った秀吉は7月4日に居城である伏見城に徳川家康ら
諸大名を呼び寄せて、家康に対して秀頼の後見人になるようにと依頼した。
8月5日、秀吉は五大老宛てに二度目の遺言書を記す。秀吉の病は、前年に
秀吉の命令で甲斐善光寺から京都方広寺へ移されていた信濃善光寺の本尊
である阿弥陀三尊の祟りであるという噂から、三尊像は8月17日に信濃へ向け
て京都を出発したが、8月18日、秀吉はその生涯を終えた。
死因については現在も不明である。
第二話 おわり 第二十X回 「関が原」
慶長5年(1600年)9月初旬
上杉討伐に向け秀忠が江戸城を出発する日。
正室の江が生まれたばかりの珠姫を抱っこし千姫を伴って見送りに
城の表門まで出向いた。
秀忠
「では・・・江、千、珠、行ってまいる。」
江
「秀忠殿、しっかりおやりなされ!あなた様は将来天下人秀頼様の
舅となられるお方、豊臣の獅子身中の虫どもを一掃して千が安心して
秀頼様に輿入れできる様にしてくださいまし・・・」
秀忠
「ああ、承知いたした。此度は、おそらく豊臣を二分する大いくさに
なるであろう・・・
もし万が一徳川方が負けたときは、そのたの姉、淀殿に助命を申し出
るようにな。さすれば・・・そなたらの命までは獲らぬであろう。」
江
「はい、承知いたしました。道中ご無事で・・・
では、御武運を!」
こうして、千姫は秀忠を母江と共に見送った。
この戦(いくさ)こそ、将来天下分け目の戦と呼ばれた
”関が原”の始まりであった。 第二十X回 「千姫輿入れ」
慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原
(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた天下分け目の
関が原の戦いは、徳川方の勝利となり
秀頼、淀殿に対しては「女、子供のあずかり知らぬところ」として咎めず領地も
そのままだったが、論功行賞により各大名家の領地に含めていた太閤蔵入地
(豊臣氏の直轄地)は諸将に分配された。その結果、豊臣氏は摂津国・河内国
・和泉国の3ヶ国65万石の一大名となり、家康は天下人としての立場を確立した。 慶長8年(1603年)2月12日、後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として伏見城
に派遣。朝廷より六種八通の宣旨が下り、家康を征夷大将軍、淳和奨学両院別
当、右大臣に任命した。同年3月12日、伏見城から二条城に移り、3月21日、衣冠
束帯を纏い行列を整えて御所に参内し、将軍拝賀の礼を行い、年頭の祝賀も述
べた。3月27日、二条城に勅使を迎え、重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の
儀を行った。また4月4日から3日間、二条城で能楽が行われ諸大名や公家衆を饗
応した。これにより征夷大将軍徳川家康は武家の棟梁となる地位を確立した。
そして・・・
このままでは、徳川家に天下を奪われると懸念した豊臣秀頼の母・淀殿
は豊臣秀吉が生前、成立させていた秀頼と千姫の婚約を履行させた。
千姫は慶長8年(1603年)7月豊臣秀頼に輿入れをすることになった。
秀頼11歳、千姫7歳 千姫が大阪に向かう前日・・・
千姫は、父である秀忠と母である江のもとを訪れた。
輿入れといっても実際は、豊臣の人質であるため
父母は同行せず乳母の刑部卿局(ぎょうぶきょうのつぼね)
が同行する。
徳川秀忠
「姫、息災にな・・・」
千姫
「はい・・・父上、母上も息災に、お暮らし下さいませ。」 江
「秀忠殿・・・本当に、これで良いのでございましょうや・・・太閤殿下との
お約束とはいえ、今は父上が天下人・・・豊臣は、これで納得して
くれましょうや・・・徳川将軍家の孫娘の婿として次期将軍となるつもり
だと聞いておりまする。」
徳川秀忠
「困ったものじゃ・・・父上は、近いうちに将軍職を、わしに譲って
将軍職は徳川の世襲ということを示されるだろうな・・・既に天下は
徳川のもの・・・しっかり、わかっていただかねば・・・」 江
「まさか、徳川と豊臣で戦などということは、ありますまいな・・・」
徳川秀忠
「父上次第じゃろうなあ・・・豊臣が1大名として傘下にさえ入って従って
くれれば、何の問題も無かろうが・・・
戦したとて大阪方には勝ち目はあるまい・・・
それぐらいのこと、わかっておるじゃろうて・・・」
翌日、千姫一行は大阪に向け出発した。
第二十X話 おわり 第四十X回 「大阪落城」
慶長20年5月7日
昼過ぎ・・・戦場から真田幸村討ち死にの知らせが入った。
淀と秀頼は、お互い向かい合って相槌をうつ・・・
淀
「やはり無理であったか・・・最後の望みも絶たれたようじゃ・・・」
秀頼
「母上・・・では、千を呼びまするが、本当によろしいのでござい
ますな・・・」
淀
「ああ」
淀は、微笑みながら頷いた。
千姫が部屋に入ってきて淀と秀頼の前に座る。 淀
「千、既に戦の命運は尽きたようじゃ、この城が落ちるのは時間の
問題・・・無駄な血はこれ以上流しとうない。そこで、そなたに頼みがある。」
千姫
「はい」
神妙な顔つきで頷いた。
淀
「これから、そなたが大御所の陣に出向いて直接われらの助命嘆願を
してもらいたいのじゃ・・・そなたが直接会って嘆願すれば、さすがに
命まで獲ることは無かろう。」 大御所の陣に到着し千姫が輿から降りると祖父の家康と父の秀忠が満面の
笑みで迎えた。
家康は千姫を抱きしめ・・・
「よう無事で帰ってこられたのう・・・良かった、良かった。」
秀忠も横から・・・
「本当に、良かった・・・千にもしものことがあったら江(ごう)に何と言われるか・・・
ははは・・・」
千姫
「おじじ様、父上、どうか豊臣の母上や秀頼様のこと命ばかりは、お助け
下さいませ。」
家康は満面の笑みで・・・
「わかっておる、わかっておる・・・既に、使者を立て投降するよう伝えたわ・・・
一旦は領地召し上げになるであろうが、いずれ、どこかに身の立つぐらいの
領地は与えようと思うておる。」 その時、鉄砲の音が鳴り響いた。
”ダーン!”
鉄砲隊が投降を促すため立てこもっている籾蔵の方に鉄砲を撃ちかけた。
しばらくして籾蔵の中の様子を探りに行くと・・・
秀頼は淀殿らとともに籾蔵の中で勝永に介錯され自害していた。
自害した様子が伝えられた。
「われらが籾蔵の中の様子を探りに行った時には、秀頼様、淀殿は
既に自害されておりました。最初から覚悟の上、千姫様を帰された
ものと思われます。」
その場で千姫は気を失った。
こうして大阪の陣は、最悪の形で幕が引かれることになった。
第四十X回 おわり 第四十九回 「助命・千姫の決意」
家康の怒りは尋常では無かった・・・
幕府に弓を引く豊臣家を許し存続させようと苦慮してきたにも
かかわらず最後は自害という形で裏切られたのだ。
そこに秀頼の側室の子の国松と女子が潜伏している所を捕らえられ
たという報が入った。
家康
「あい、わかった。両名即刻首を刎ねよ!」
隣で聞いていた秀忠は真っ青になって・・・
「父上!しばらくお待ち下され!何も幼子の命までも奪わなくとも!」 家康
「許すことまかりならぬ!豊臣家がこうなった以上豊臣の血筋を残す
わけにはまいらぬ!平家が源氏の遺児を助命したため滅ぼされた
例もあるゆえ不憫ではあるがのう・・・」
秀忠
「父上!今や徳川の天下!今更何も・・・!」
家康と秀忠は、お互い掴み合って険悪な表情で向き合った。
それを観ていた本多忠政が中に割って入り何とかその場を
収めた。
翌日、改めて話し合いが持たれる事になった。 翌日、秀忠は千姫と高台院(秀吉の正室)伴って、話し合いの
場に現れた。
家康
「おお・・・高台院殿、お久しゅうございまするなあ・・・」
家康は、秀吉の死後も秀吉の婦人を大切にし
婦人が大阪城を出た後、高台寺を建立、そこの住職
とした。非常に聡明で美しかった秀吉の婦人、おね
には一目置いているのだ・・・ 高台院
「ほんとうですこと・・・家康殿も息災なご様子・・・
こたび豊臣家は残念なことになりもうしたが
家康殿には、罪はござらぬ・・・よく耐えてくださり
もうした。信長公ならとっくに潰されておったろうのう・・・
そこでじゃが・・・家康殿と見込んで無理を承知で
お頼み申す。
秀頼殿の遺児のことじゃが、国松は男子ゆえ
諦め申すが、姫は、おなごゆえ許してもらえぬか?
もちろん子孫が徳川に刃を向けぬよう
出家させ生涯独り身で過ごすことにはなるがのう。
これで、どうか・・・折れてくださらぬか・・・」
家康は腕組みをして
「う〜ん・・・」 千姫
「おじじ様、姫をわたくしの養女とすることで
助命していただけませんでしょうか・・・?」
秀忠
「父上、わたくしからも、お頼み申し上げ
まする。もし叶わぬなら、豊臣の嫁であった千も
罰せねばなりませぬゆえ・・・」
家康
「承知いたした。千よ一つだけ、わしの頼みを
聞いてもらいたい・・・そなたは
桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻に再嫁
すること・・・これが受け入れられねば、助命は
叶わぬゆえ・・・どうじゃ?」 千姫
「承知いたしました。おじじ様、ほんに、ほんに・・・
ありがとうございまする。」
こうして
国松は処刑、また娘の天秀尼は僧籍に入ることで助命された。
第四十九回 おわり 第五十回 「歳月」 最終話
寛文6年(1666年)2月6日
大阪夏の陣が終わり約50年の歳月が流れた。
千姫は大阪夏の陣の翌年 本多忠刻に嫁ぎ
長女 勝姫、長男 幸千代を授かるが
幸千代は3歳で没し、その後
夫・忠刻、姑・熊姫、母・江が次々と没するなど不幸が続き、
本多家を娘・勝姫と共に出ることとなった。
江戸城に入り、出家して天樹院と号す。
出家後は娘と2人で竹橋御殿で暮らした。寛永5年(1628年)に勝姫が
父・秀忠の養女として池田光政の元へ嫁ぎ、一人暮らしとなる。
寛永9年(1632年)、父・秀忠が薨去。寛永16年(1639年)、光政と勝姫の
嫡男・池田綱政(千姫の外孫)が誕生した。 現在、千姫は江戸場内で暮らし
もうすぐ70を迎える・・・
その日、千姫は自室から外の景色を眺めながら
うとうと眠り始めた。
千姫は、いつのまにか18歳の頃の姿になり大阪城内で秀頼と桜の木の下を
手を繫いで歩いていた。
桜の花が満開である。
秀頼
「千、千は父上や母上は恋しゅうないか?」
千姫
「いえ、こちらには淀の母上もおられますし、秀頼様もおられますゆえ
寂しゅうございませぬ・・・」 秀頼
「それは良かった。ははは・・・
ここでは、誰とでも会いたいと思うたらすぐ会えるのじゃ・・・
千は、誰と会ってみたい?」
千姫
「そうでございまするね・・・父上、母上・・・でも一番会いたいのは・・・」
秀頼
「ははは・・・ここの世界では、隠し事は出来ぬ世界・・・」
1人の若武者が千姫の前に現れた・・・家光?
似ているが、もう少し体格が良く顔立ちも勇ましい・・・
もしや”幸千代”? 幸千代
「母上!お久しゅうございまする・・・」
千姫
「やはり、幸千代なのですね・・・」
親子は、しっかり抱き合った。
女中が昼餉の準備に部屋を訪れた時には既に
眠るように息を引き取っていたという。
享年69歳
亡くなった夜、曾祖母於大の方の菩提寺である小石川伝通院
に納められ導師知鑑(知恩院37世)により葬儀が行なわれた。
墓所は傳通院と茨城県常総市の天樹院弘経寺にあり、また
徳川家(松平家)が三河時代から帰依していた浄土宗の
総本山である京都の知恩院に定例により分骨され宝塔に
納められた。知鑑は後に位牌や遺物を祭るため伊勢に
「寂照寺」を開いた。
戒名「天樹院殿栄譽源法松山禅定尼」。 スピン・オフ
本多平八郎忠勝伝
その日、江戸城に、朝早く馬で乗りつける武将がいた・・・・・
本多平八郎忠勝である。
”との〜”大声で叫びながら平八郎が朝食を頬張る家康に向かって来た。
家康は、目を丸くして、箸をもったまましばらく呆然としていたが、
箸を置き・・・
平八郎に向かって言った。
”いかがしたのじゃ・・・ははは・・・そなたも、朝飯は
まだじゃろ、いっしょにどうじゃ?” 平八郎は、女中の運んできた水を一気に飲み干すと
”こたびの若殿の縁組しょうふくいたしかねまつる!
豊臣から、なにゆえ若殿に、むっつも年上の、おなごを嫁に押し付けられ
ねばならぬのじゃ!わしは、悔しゅうて・・・殿は、悔しゅうござらぬか?
江殿は、こたび三度目の嫁入りと聞いておりまするぞ!しかも、子も
1人おるそうな・・・徳川を愚弄するにも程がござる!サルの魂胆は
見えすぎておりまする。淀殿の妹ぎみなら、若殿とは義姉弟、秀頼殿は
甥、先々江殿との間に姫が生まれれば、夫婦(めおと)にして豊臣
の基盤を磐石なものにしようという魂胆じゃろ” 家康は、大声で笑いながら言った。
”さすが平八郎、察しが良いのお・・・既に、内内での話じゃが、第一の姫は
秀頼殿の嫁に貰い受けたいとのことじゃ。じゃが、わしは、そう悪い縁組とは
思わんのじゃ・・・わしは、江姫のことは、信長公ご存命中からよく存じて
おって少々気が強いところは、ござるが情の深い良い姫じゃ、あれぐらい
しっかりした姫なら将来天下人の御台所として、じゅうぶんやっていけよう。”
平八郎は、腕組みをしながら、うつむいていたが、しばらくして言った。
”承知つかまつった。わしは、てっきり殿は天下を諦めて豊臣との融和策に
転じられたのかと勘違いをしたようでござった。それならば、何も申しませぬ。”
その後、平八郎も朝飯に加わり、和やかに、時が流れた。 スピン・オフ 真田幸村
幸村最後の戦(いくさ)・・・1/3
その日、幸村は茶臼山の陣で戦況を伺っていた。既に豊臣方は
後藤基次や木村重成などの主だった武将が相次いで討死し、
疲弊していった・・・
”もはやこれまでか・・・”
幸村は、目を閉じて腕組みをしつぶやいた。
”もう、この手しか、あるまい・・・”
幸村は、うしろを振り返り叫ぶ。
”狙うは徳川家康の首ただひとつのみ!
みなのもの!昨日の打合せどおり、これから最後の大いくさを
しかける。生きて帰ること無き、大いくさじゃ!死にたくなき者は
去ってよし!いっさい咎めだてはせぬ!・・・”
もちろん、去るものはいない。
味方の1人が叫んだ。
”幸村様!われら大阪の陣に参加したときから幸村様に命は
おあずけ申しておりまするぞ!
ひとあわ、大御所に吹かせてやりましょうぞ!
わっはははは・・・!”
陣内に大きな歓声が沸きあがった! 幸村最後の戦(いくさ)・・・2/3
幸村は槍を手に持ち馬に飛び乗った。
他の者たちも次々と馬に飛び乗っていく・・・
幸村隊、50数名が幸村を取り囲み同じ赤色の甲冑に身につけ
一塊(ひとかたまり)になって越前隊(松平忠直)の大軍
めがけて真一文字に家康本陣へ突撃を開始した。
数(かず)のうえでは、圧倒的に徳川軍優勢であるが、少人数で1つにまとまって
いる分、的は小さく、通り道を遮る兵のみを防げば良いわけである。
ただ時間勝負・・・・長引けば長引くほど、不利になるのは目に見えている。
家康本陣にさえたどり着ければ・・・槍の使い手である幸村に勝機はある。
家康本陣が見えてきた・・・既に幸村隊は幸村1人になっていた。
”みなのもの、かたじけない・・・”
”大御所のみしるし頂戴仕る!”
幸村は叫びながら、家康めがけて突進していく・・・幸い、本陣の、ほとんどが
出払っていて数名の供がいるのみである。
まず2、3人の供を槍でなぎ倒し家康の目の前に迫った・・・その時、家康の
前に槍を持って立ちはだかった武将がいた。見覚えの、ある顔・・・
滝川三九朗であった。三九朗は幸村の妹の婿、つまり義理の弟である。
今回の戦では、徳川家康護衛の旗本として警備にあたっていた・・・
三九朗は見事な槍さばきで幸村を食い止め、その隙に家康は馬で逃れた。
援護に駆けつけた十数名の鉄砲隊が幸村に鉄砲を打ち掛けた・・・ 幸村最後の戦(いくさ)・・・3/3
”すまぬ・・・兄上・・・”
”三九朗ならば・・・やむおえず・・・”
と二人は言葉をかわし鉄砲で深手を負ったまま幸村は去っていく・・・
その後、幸村は
四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内
にたどりつき、馬から降りて、どっかと腰を降ろした。
肩と腹に銃弾を受けたらしい・・・血が流れていた。
そこに越前隊鉄砲組の西尾宗次が、現れた。
幸村は、宗次を見つめて一言・・・
”介錯を頼む!”と言い
その場で腹を切って果てた。
享年49
幸村最後の戦(いくさ) <おわり> スピン・オフ
宇宙船艦ヤマト 番外編
第2次火星沖海戦編・・・1
僕は古代 守・・・
その日,僕ら宇宙防衛大学、最終学年の
学生は講堂に呼び集められた。
土方校長・・・
「諸君が今日ここに呼び集められたのは、他でもない!
現在!地球に異性人の大艦隊が向かって来ている!
そのため国連宇宙軍は総力戦でこの艦隊を食い止め
ねばならない!戦いの場所は火星第2宇宙域!
今日から一週間後だ!現在、国連宇宙軍は人員不足
のため君らに召集命令が出た ! 第2次火星沖海戦編・・・2
したがって、君らは6ヶ月の繰り上げ卒業ということで
国連宇宙軍の船に乗ってもらうことになる!
もちろん、生きて帰れる補償は無い!
辞退するものはしてよし!
この場から退出してくれ!一切咎めだてはしない!」
どこからともなく歌が聞こえてきた・・・
軍の歌・・・
”銀河水平、波間を越えて・・・♪”
全員で大合唱になった・・・退出するものは1人も
いない ! 第2次火星沖海戦編・・・3
僕は沖田司令官の乗る国連宇宙軍 第一艦隊
旗艦”キリシマ”の砲雷長として赴任することになった。
何故?大学を出たばかりの僕が、いきなり旗艦の
砲雷長?大抜擢である !
翌日僕は、北海道にある国連宇宙軍の旭川宇宙港に
向かった・・・弟の進も一緒に見送りに来てくれている・・・
進は現在、宇宙防衛大学の2年・・・僕らは旭川宇宙港
に到着・・・キリシマの前に2人で立った・・・大きな船だ・・・ 第2次火星沖海戦編・・・4
古代 進・・・
「兄さん大きな船だね!でもすごいなあ・・・いきなり
旗艦の砲雷長だなんて、さすが主席で卒業した
だけあるよ!」
僕(古代 守)・・・
「そんなことないさ・・・ははは・・・進も優秀だと聞いてるぞ!」 第2次火星沖海戦編・・・5
古代 進・・・
「いや、兄さんには、とてもかなわないよ!ははは・・・
僕、古代 守の弟ってことで、どれだけたいへんか!
ははは・・・でも兄さん・・・絶対、生きて帰ってきてね!”御武運を!”」
進は敬礼した、僕も敬礼で答えた。
僕(古代 守)・・・
「じゃー行くな・・・必ず生きて帰ってくるからな!」
僕は振り向いて船のタラップを昇って行く・・・
振り返ると進が手を振って笑っている。 第2次火星沖海戦編・・・6
”もしかしたら・・・これが最後になるかもしれないなあ・・・”
僕も笑って手を振って返す・・・しばらくして船の船底部分に
入った・・・整備士が敬礼して迎えた・・・僕も敬礼・・・
僕(古代 守)・・・
「ご苦労様です。」 第2次火星沖海戦編・・・7
僕は荷物を部屋に置いて艦長室に向かった・・・
艦長室の前に立ち、深呼吸・・・”落ち着け!守!”
ノックをした・・・”トントン”
沖田司令官・・・
「入れ!」
僕(古代 守)・・・
「はい・・・」
ドアを開けて中に入ると沖田司令官と山南艦長がいた。 第2次火星沖海戦編・・・8
僕は敬礼して・・・
「失礼します、本日付けで赴任いたしました砲雷長の古代
守であります!」
僕は初めて沖田司令官を間近で見た。どっしりした雰囲気で
・・・歴戦を勝ち抜いてきた勝負師のオーラとでも
呼ぶべきか?沖田司令官は、口の周りの髭を撫でながら
口を開いた・・・ 第2次火星沖海戦編・・・9
沖田司令官・・・
「君が、古代 守君か・・・宇宙防衛大学校始まって以来の
秀才だそうだが・・・特にビーム砲の射撃技術は教官
も舌を巻いてるそうだね・・・ははは・・・期待しておるよ!」
僕(古代 守)・・・
「は・はい・・・期待に添えるよう、誠心誠意、頑張ります!」
敬礼して艦長室を出た・・・
緊張して心臓が破裂しそうだった。僕は艦橋に入って自分の
席に着いた。 第2次火星沖海戦編・・・10
”この船は1時間後に抜錨いたします。”
艦内放送が流れた。
僕は再度ビーム砲の取扱説明書に目を通した。
ここで、この船の指揮系統について説明する。
この船は旗艦であるため指揮官のトップは司令官である
沖田提督である。その次が、山南艦長、実質的には
艦のNO.2、副長の役割になる。その次が航海士の
山本1蔚、船のNO.3に当る・・・もし上官に不測の事態
が起こった場合次の階級の人物が指揮することになる。
僕は、戦術長を兼ねた砲雷長である。船のNO.4になる。
僕が船の指揮を執るような不測の事態は避けたいもの
である。 第2次火星沖海戦編・・・11
国連宇宙軍 第一艦隊 旗艦キリシマをはじめとする艦隊が
火星第2宇宙域に集結!
第2次火星沖海戦と呼ばれる戦いが始まろうとしていた!
1時間後、敵の大艦隊がレーダーで捕捉された!
30分後、敵のビーム砲が発射され、戦闘開始・・・
敵艦隊の装甲は厚く、地球艦隊のビーム砲では
かなり至近距離まで近づかないと破壊できない・・・
しかし敵に近づくということは、こちらも撃たれ易く
なるというリスクが生じる危険な戦術でもある。 第2次火星沖海戦編・・・12
だが勇敢にも多くの艦が相手の至近距離まで近づき、
攻撃・・・しばらく互角の戦闘状態が続いたが・・・
徐々に相手の数とビーム砲の威力に押されてきた!
”巡洋艦「ふゆづき」撃沈!””駆逐艦「あかぎ」大破、
戦闘不能!”・・・
次々と、地球艦隊の劣勢が伝えられてきた・・・ 第2次火星沖海戦編・・・13
敵旗艦から沖田司令官に通信が入った・・・
「地球艦隊に告ぐ、ただちに降伏せよ!」
通信士・・・
「返信はどうしますか?」
沖田司令官・・・
「”馬鹿め”と言ってやれ!」
通信士・・・
「はあ?」 第2次火星沖海戦編・・・14
沖田司令官・・・
「”馬鹿め”だ!」
通信士は二ヤリと笑って・・・
「はい!地球艦隊より返信”馬鹿め”」
敵の攻撃が激しさを増してきた・・・ 第2次火星沖海戦編・・・15
”味方、損耗率68%!”
山南艦長・・・
「司令官!このままでは全滅です!降伏も選択肢
の1つでは?・・・生きてさえいれば・・・」
沖田司令官・・・
「もはや、これまでか・・・もう我々には打つ手は
本当に無いのか?」
僕(古代 守)・・・
「司令官!意見具申してもよろしいでしょうか?」
沖田司令官・・・
「ふむ・・・古代、言ってみろ・・・」 第2次火星沖海戦編・・・16
僕(古代 守)・・・
「先ほどからの敵旗艦とのやりとりを見ていて
気づいたのですが、降伏勧告をする間、敵の
艦隊は一旦防御のみの体制になり攻撃は
最小限にしておりました。彼らの艦隊は旗艦が
全て統制、制御して艦隊編成を行なってるようです。
おそらく、艦隊の数が多いため味方通しの
接触事故や、同士討ちを避けるため旗艦で
1つにまとめて動きを統制してるのでしょう。 第2次火星沖海戦編・・・17
つまり、敵旗艦の中枢部である艦橋を破壊すれば
相手の攻撃は一旦停止するものと考えられます。
つまり、その隙に攻勢に転じて一気に巻き返すので
あります!」
沖田司令官・・・
「じゃが、敵旗艦まで随分距離があるが正確にビーム
砲を撃ちこめるか?射程距離の問題もある。」 第2次火星沖海戦編・・・18
僕(古代 守)・・・
「僕なら敵艦隊の狭い隙間を縫って正確に撃ち込む
自信があります。あとは射程距離と艦橋を破壊する
威力を、どうやって確保するかですが・・・
ビーム砲の取り扱い説明書には、ビーム砲は設計上
安全を見て最大出力の3分の1までしか使用できない
よう安全装置が設けられていると書かれてます。 第2次火星沖海戦編・・・19
つまり、安全装置を解除すればビーム砲の威力は
3倍になります・・・3倍なら充分届きますし、艦橋の
破壊も可能です!念の為、技術主任の伊藤さんにも
確認しましたが、それは1回限りの使用方法で
おそらく連射には砲台は耐えられないだろうということです。
つまり一発勝負に賭けるということです。」 第2次火星沖海戦編・・・20
沖田司令官が、山南艦長のほうを向いて頷いた。
山南艦長が技術部に連絡・・・
「伊藤主任すぐに艦橋へ来るように!」
こうしてビーム砲の安全装置は解除・・・
僕は、スコープを覗き込んだ・・・
僕の後ろで司令官と艦長が腕組みをして眺めている。
艦内にも緊張が走る・・・ 第2次火星沖海戦編・・・21
山南艦長・・・
「本当に小さい的だな・・・」
沖田司令官・・・
「ふむ・・・じゃが古代を信じるしかない・・・敵もまさか
この位置からビーム砲を撃ち込んでくるとは思わん
だろう。」 第2次火星沖海戦編・・・22
僕は(古代 守)・・・
「発射5秒前、5,4,3,2,1,0・・・発射!ドーン」
いつもと違い3倍の威力のビーム砲だけに艦が
大きく振動した・・・砲台から煙が上がっているようだ。
おそらく衝撃で壊れたのだろう・・・ 第2次火星沖海戦編・・・23
ビーム砲は敵艦隊の狭い隙間を縫って突き進む・・・
敵旗艦の付近が光った・・・
パネルスクリーンで目視・・・山本航海士がガッツポーズ・・・
「やった!見事、命中したぞ!何て腕前だ!ははは!」
艦内が沸いている・・・敵艦隊の動きが停止・・・おそらく
何があったかわからず・・・パニック状態に陥っているようだ・・・
第2次火星沖海戦編・・・24
沖田司令官はマイクを持ち・・・
「全艦隊に継ぐ反撃開始!」
残った地球艦隊で反撃に出た・・・そして一挙に巻き返した。
しばらくして敵艦隊は、撤退し始めた。敵は消えていく・・・
たぶん彼らのジャンプ(ワープ)とかいう技術で一瞬のうちに
飛び去ったと考えられる。 第2次火星沖海戦編・・・25
こうして地球艦隊は多くの犠牲は払ったがギリギリの戦いで
踏みとどまることが出来たのである。
僕が地球に帰還すると大勢の人々が出迎えてくれた。
沖田司令官は、伝説的人物になった。
僕がタラップを降りていくと弟の進が出迎えた!
「兄さん!やったね!地球を救った英雄だよ!」
第2次火星沖海戦編・・・26
僕は(古代 守)・・・
「でも、今回の戦いでは多くの犠牲を払ってしまった。
沖田司令官の、ご子息も・・・そのことを忘れては
いけないよ、進・・・」
古代 進
「うん」
こうして僕は無事任務を果たすことが出来た。 第2次火星沖海戦編・・・27
一週間後・・・
僕に辞令が来た。
沖田司令官が、僕の部屋に出向き辞令を伝えてくれた。
「古代・・・残念だが、わしは優秀な砲雷長を失ったようだ。
ははは・・・お前を駆逐艦”ゆきかぜ”の艦長として送り出
さねばならんようじゃ・・・ははは・・・」
僕(古代 守)・・・
「ええ?でも、まだ荷が重過ぎます・・・」
第2次火星沖海戦編・・・28
沖田司令官・・・
「うん・・・じゃが、そうも言っておられんのじゃ・・・今回の
戦いで国連宇宙軍は多くの指揮官を失った・・・わしの
息子も・・・」
しばらく、うつむいて泣いておられた・・・僕は沖田司令官
の手をとり・・・
第2次火星沖海戦編・・・29
僕(古代 守)・・・
「提督・・・喜んで、お受けいたします!」
沖田司令官
「頼んだぞ!古代!」
第2次火星沖海戦編・・・30
こうして僕は、
磯風型突撃宇宙駆逐艦3番艦”ゆきかぜ”艦長として
(階級は、2蔚から一挙に三佐として2階級昇格)
赴任することになった・・・
責任は、ぐっと重くなった・・・だが、地球を守るため
僕は、必ず任務をまっとうするぞ!
<おわり> (-.-)Zzz・・・・(-_-)/~~~(^o^) 第一回「誕生」
慶長2年(1597年)4月11日
山城国伏見城内の徳川屋敷
今、まさに1人のおなごが赤子を産み落とそうとしていた。
そのおなごの名は江(ごう)
父は浅井長政、母はお市の方の3女にあたる姫君である。
”おぎゃー!”
”おぎゃー!”
お付の女中が叫ぶ
”生まれましたぞ!姫君じゃ!” 隣の部屋から待ちかねたように人の良さそうな男が
入ってきた。
「ごう!でかしたぞ!」
この男は、まじまじと赤子の顔を眺め・・・
「なんと麗しき顔立ちの姫じゃ・・・うん、うん・・・
さすが絶世の美女と謳われた、お市の方
様の血を引く姫君じゃ、ははは・・・でかした。
でかしたぞ・・・」
なんとも言えない表情である。
この人の良さそうな男の名は秀忠
豊臣政権の五大老のひとり徳川家康の嫡男である。 しばらくして、秀忠は紙と筆を持って来させて
一つの文字を書いた。
「赤子の名は”千”といたす」
この「千」と名づけられた赤子こそ後に波乱万丈の生涯を歩む
千姫、この物語の主人公である。
翌日、江の舅である徳川家康が、豊臣秀吉、側室の淀、
嫡男の拾丸(後の秀頼)を伴って祝いの品を持って駆けつけた。
豊臣秀吉の側室、淀の方は江の実姉、つまり嫡男の拾丸は
江にとっては甥、千姫とは従兄弟通しになる。 家康
「ごう、でかしたぞ・・・」
江
「父上、ありがとうございまする・・・しかし、父上は嫡男を
望んでおられたのでは・・・?」
そこに秀吉が割って入る。
秀吉
「ごう・・・案ずるな、最初の子は、おなごのほうが豊臣に
とっても徳川にとっても、むしろ良かったのじゃ。
家康殿、もう良いじゃろう・・・」
秀吉が家康に目で合図した。
家康
「実はのう・・・ごう、殿下から、ごうの子が、おなごであれば
拾丸様の正室に、お迎えしたいとのことなのじゃ。拾丸様
は将来、関白豊臣家を継がれる方、つまり次の天下人、その
奥方として姫を迎えたいということなのじゃ・・・これは、豊臣や
徳川のためだけでは無い。早く戦の無い世を造っていかねば
ならぬ・・・天下泰平、天下万民のため・・・豊臣と徳川の
絆を、より強固なものにいたすのじゃ・・・どうじゃ、ごう・・・」 江
「わたくしも、このお話、とても嬉しゅうございまする・・・
のう・・・姉上・・・」
淀
「ふむ・・・われら浅井姉妹は、早くに父、母を亡くし
つらい日々を送ってまいりました・・・親と子、兄弟が袂を分かって
命のやりとりをする・・・そのような戦国の世は、早く終わらせねば
なりませぬ・・・天下泰平に向かうのであれば喜んで拾丸の嫁と
してお迎えいたしましょう・・・拾丸!この千姫が、そなたの
嫁となるのじゃ・・・」
拾丸(後の秀頼)
「はい」
4歳になったばかりの拾丸に、そのことの重大性が、わかろうはず
は無かった。ただ、この婚姻が将来両家にとって最悪の結末を
迎えようとは、このとき誰が想像したであろうか?
第一話 おわり 第二回「秀吉死す」
慶長3年(1598年)3月15日、醍醐寺諸堂の再建を命じ、庭園を造営。
各地から700本の桜を集めて境内に植えさせて秀頼や奥方たちと一日
だけの花見を楽しんだ(醍醐の花見)。
千姫が誕生して1年の月日が流れた・・・
ある日の秀忠と江、千姫の寝顔を見つめながら話す。
江
「殿、太閤殿下、随分お悪いようでございまするね・・・もう、長くないのでは?」
秀忠
「うん・・・そのようじゃな・・・まだ秀頼様は幼いのにもかかわらず・・・
どうしたものか?父上が後見人となられるので案ずることは
無かろうが・・・」
江
「もし太閤殿下が、お亡くなりになられたら幼い秀頼様で政(まつりごと)
は成り立ってまいりますでしょうか?」 秀忠
「ふむ・・・さて、そのへんのことは、太閤殿下にお任せするほか無かろうなあ・・・」
江
「殿・・・わたくし不安なのでございます。もしや父上は太閤殿下亡き後
天下を狙うて動かれるなどとゆうことは、ございませんでしょうなあ・・・
さすれば再び天下は戦国の世に逆戻り・・・やっと天下が治まると
思っておりましたのに・・・」
秀忠
「ははははは・・・ごう、それは心配ござるまい・・・若き頃の父上ならともかく
父上も既にお年、今更天下人になったとて仕方あるまい。」
江
「そうでございまするね・・・ふふふ・・・いらぬ心配ばかり・・・殿、千姫が
生まれて1年ほどになります・・・体の調子もそろそろ良くなってまいりました。
次こそは嫡男を産みとうございます。それにしても1年も側室を持たず、よう辛抱なされ
ましたなあ・・・ふふふ・・・」
秀忠
「ふむ・・・はよう跡取りを設けねばのう・・・」
こうして2人は久しぶりに夫婦の営みを行った。
1年後、江は2人目の子を無事出産・・・
しかし嫡男ではなく、姫であった。
この姫は、珠姫と名づけられ3歳で前田藩(前田利常)に輿入れすることになる。
自分の死が近いことを悟った秀吉は7月4日に居城である伏見城に徳川家康ら
諸大名を呼び寄せて、家康に対して秀頼の後見人になるようにと依頼した。
8月5日、秀吉は五大老宛てに二度目の遺言書を記す。秀吉の病は、前年に
秀吉の命令で甲斐善光寺から京都方広寺へ移されていた信濃善光寺の本尊
である阿弥陀三尊の祟りであるという噂から、三尊像は8月17日に信濃へ向け
て京都を出発したが、8月18日、秀吉はその生涯を終えた。
死因については現在も不明である。
第二話 おわり 第二十X回 「関が原」
慶長5年(1600年)9月初旬
上杉討伐に向け秀忠が江戸城を出発する日。
正室の江が生まれたばかりの珠姫を抱っこし千姫を伴って見送りに
城の表門まで出向いた。
秀忠
「では・・・江、千、珠、行ってまいる。」
江
「秀忠殿、しっかりおやりなされ!あなた様は将来天下人秀頼様の
舅となられるお方、豊臣の獅子身中の虫どもを一掃して千が安心して
秀頼様に輿入れできる様にしてくださいまし・・・」
秀忠
「ああ、承知いたした。此度は、おそらく豊臣を二分する大いくさに
なるであろう・・・
もし万が一徳川方が負けたときは、そのたの姉、淀殿に助命を申し出
るようにな。さすれば・・・そなたらの命までは獲らぬであろう。」
江
「はい、承知いたしました。道中ご無事で・・・
では、御武運を!」
こうして、千姫は秀忠を母江と共に見送った。
この戦(いくさ)こそ、将来天下分け目の戦と呼ばれた
”関が原”の始まりであった。 第二十X回 「千姫輿入れ」
慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原
(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた天下分け目の
関が原の戦いは、徳川方の勝利となり
秀頼、淀殿に対しては「女、子供のあずかり知らぬところ」として咎めず領地も
そのままだったが、論功行賞により各大名家の領地に含めていた太閤蔵入地
(豊臣氏の直轄地)は諸将に分配された。その結果、豊臣氏は摂津国・河内国
・和泉国の3ヶ国65万石の一大名となり、家康は天下人としての立場を確立した。 慶長8年(1603年)2月12日、後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として伏見城
に派遣。朝廷より六種八通の宣旨が下り、家康を征夷大将軍、淳和奨学両院別
当、右大臣に任命した。同年3月12日、伏見城から二条城に移り、3月21日、衣冠
束帯を纏い行列を整えて御所に参内し、将軍拝賀の礼を行い、年頭の祝賀も述
べた。3月27日、二条城に勅使を迎え、重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の
儀を行った。また4月4日から3日間、二条城で能楽が行われ諸大名や公家衆を饗
応した。これにより征夷大将軍徳川家康は武家の棟梁となる地位を確立した。
そして・・・
このままでは、徳川家に天下を奪われると懸念した豊臣秀頼の母・淀殿
は豊臣秀吉が生前、成立させていた秀頼と千姫の婚約を履行させた。
千姫は慶長8年(1603年)7月豊臣秀頼に輿入れをすることになった。
秀頼11歳、千姫7歳 千姫が大阪に向かう前日・・・
千姫は、父である秀忠と母である江のもとを訪れた。
輿入れといっても実際は、豊臣の人質であるため
父母は同行せず乳母の刑部卿局(ぎょうぶきょうのつぼね)
が同行する。
徳川秀忠
「姫、息災にな・・・」
千姫
「はい・・・父上、母上も息災に、お暮らし下さいませ。」 江
「秀忠殿・・・本当に、これで良いのでございましょうや・・・太閤殿下との
お約束とはいえ、今は父上が天下人・・・豊臣は、これで納得して
くれましょうや・・・徳川将軍家の孫娘の婿として次期将軍となるつもり
だと聞いておりまする。」
徳川秀忠
「困ったものじゃ・・・父上は、近いうちに将軍職を、わしに譲って
将軍職は徳川の世襲ということを示されるだろうな・・・既に天下は
徳川のもの・・・しっかり、わかっていただかねば・・・」 江
「まさか、徳川と豊臣で戦などということは、ありますまいな・・・」
徳川秀忠
「父上次第じゃろうなあ・・・豊臣が1大名として傘下にさえ入って従って
くれれば、何の問題も無かろうが・・・
戦したとて大阪方には勝ち目はあるまい・・・
それぐらいのこと、わかっておるじゃろうて・・・」
翌日、千姫一行は大阪に向け出発した。
第二十X話 おわり 第四十X回 「大阪落城」
慶長20年5月7日
昼過ぎ・・・戦場から真田幸村討ち死にの知らせが入った。
淀と秀頼は、お互い向かい合って相槌をうつ・・・
淀
「やはり無理であったか・・・最後の望みも絶たれたようじゃ・・・」
秀頼
「母上・・・では、千を呼びまするが、本当によろしいのでござい
ますな・・・」
淀
「ああ」
淀は、微笑みながら頷いた。
千姫が部屋に入ってきて淀と秀頼の前に座る。 淀
「千、既に戦の命運は尽きたようじゃ、この城が落ちるのは時間の
問題・・・無駄な血はこれ以上流しとうない。そこで、そなたに頼みがある。」
千姫
「はい」
神妙な顔つきで頷いた。
淀
「これから、そなたが大御所の陣に出向いて直接われらの助命嘆願を
してもらいたいのじゃ・・・そなたが直接会って嘆願すれば、さすがに
命まで獲ることは無かろう。」 千姫
「はい承知いたしました母上・・・千は自分の命に替えても大御所様の
赦しを請うてまいります。」
こうして千姫を解放し大御所の陣に向かわせることを伝えると
一旦戦が止み徳川方から迎えの使者が輿を運んできた。
千姫は輿に乗り見送る淀と秀頼の姿を輿の窓を少し開け隙間から覗き込む。
なんとなく寂しそうな感じがした。嫌な予感がする。
しかし一刻の猶予も無い・・・
早く、大御所の下に行って助命嘆願をせねば・・・ 大御所の陣に到着し千姫が輿から降りると祖父の家康と父の秀忠が満面の
笑みで迎えた。
家康は千姫を抱きしめ・・・
「よう無事で帰ってこられたのう・・・良かった、良かった。」
秀忠も横から・・・
「本当に、良かった・・・千にもしものことがあったら江(ごう)に何と言われるか・・・
ははは・・・」
千姫
「おじじ様、父上、どうか豊臣の母上や秀頼様のこと命ばかりは、お助け
下さいませ。」
家康は満面の笑みで・・・
「わかっておる、わかっておる・・・既に、使者を立て投降するよう伝えたわ・・・
一旦は領地召し上げになるであろうが、いずれ、どこかに身の立つぐらいの
領地は与えようと思うておる。」 その時、鉄砲の音が鳴り響いた。
”ダーン!”
鉄砲隊が投降を促すため立てこもっている籾蔵の方に鉄砲を撃ちかけた。
しばらくして籾蔵の中の様子を探りに行くと・・・
秀頼は淀殿らとともに籾蔵の中で勝永に介錯され自害していた。
自害した様子が伝えられた。
「われらが籾蔵の中の様子を探りに行った時には、秀頼様、淀殿は
既に自害されておりました。最初から覚悟の上、千姫様を帰された
ものと思われます。」
その場で千姫は気を失った。
こうして大阪の陣は、最悪の形で幕が引かれることになった。
第四十X回 おわり 第四十九回 「助命・千姫の決意」
家康の怒りは尋常では無かった・・・
幕府に弓を引く豊臣家を許し存続させようと苦慮してきたにも
かかわらず最後は自害という形で裏切られたのだ。
そこに秀頼の側室の子の国松と女子が潜伏している所を捕らえられ
たという報が入った。
家康
「あい、わかった。両名即刻首を刎ねよ!」
隣で聞いていた秀忠は真っ青になって・・・
「父上!しばらくお待ち下され!何も幼子の命までも奪わなくとも!」 家康
「許すことまかりならぬ!豊臣家がこうなった以上豊臣の血筋を残す
わけにはまいらぬ!平家が源氏の遺児を助命したため滅ぼされた
例もあるゆえ不憫ではあるがのう・・・」
秀忠
「父上!今や徳川の天下!今更何も・・・!」
家康と秀忠は、お互い掴み合って険悪な表情で向き合った。
それを観ていた本多忠政が中に割って入り何とかその場を
収めた。
翌日、改めて話し合いが持たれる事になった。 翌日、秀忠は千姫と高台院(秀吉の正室)伴って、話し合いの
場に現れた。
家康
「おお・・・高台院殿、お久しゅうございまするなあ・・・」
家康は、秀吉の死後も秀吉の婦人を大切にし
婦人が大阪城を出た後、高台寺を建立、そこの住職
とした。非常に聡明で美しかった秀吉の婦人、おね
には一目置いているのだ・・・ 高台院
「ほんとうですこと・・・家康殿も息災なご様子・・・
こたび豊臣家は残念なことになりもうしたが
家康殿には、罪はござらぬ・・・よく耐えてくださり
もうした。信長公ならとっくに潰されておったろうのう・・・
そこでじゃが・・・家康殿と見込んで無理を承知で
お頼み申す。
秀頼殿の遺児のことじゃが、国松は男子ゆえ
諦め申すが、姫は、おなごゆえ許してもらえぬか?
もちろん子孫が徳川に刃を向けぬよう
出家させ生涯独り身で過ごすことにはなるがのう。
これで、どうか・・・折れてくださらぬか・・・」
家康は腕組みをして
「う〜ん・・・」 千姫
「おじじ様、姫をわたくしの養女とすることで
助命していただけませんでしょうか・・・?」
秀忠
「父上、わたくしからも、お頼み申し上げ
まする。もし叶わぬなら、豊臣の嫁であった千も
罰せねばなりませぬゆえ・・・」
家康
「承知いたした。千よ一つだけ、わしの頼みを
聞いてもらいたい・・・そなたは
桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻に再嫁
すること・・・これが受け入れられねば、助命は
叶わぬゆえ・・・どうじゃ?」
52山川 荘八2016/12/12(月) 13:12:22.16ID:ie9b0jRb
千姫
「承知いたしました。おじじ様、ほんに、ほんに・・・
ありがとうございまする。」
こうして
国松は処刑、また娘の天秀尼は僧籍に入ることで助命された。
第四十九回 おわり 第五十回 「歳月」 最終話
寛文6年(1666年)2月6日
大阪夏の陣が終わり約50年の歳月が流れた。
千姫は大阪夏の陣の翌年 本多忠刻に嫁ぎ
長女 勝姫、長男 幸千代を授かるが
幸千代は3歳で没し、その後
夫・忠刻、姑・熊姫、母・江が次々と没するなど不幸が続き、
本多家を娘・勝姫と共に出ることとなった。
江戸城に入り、出家して天樹院と号す。
出家後は娘と2人で竹橋御殿で暮らした。寛永5年(1628年)に勝姫が
父・秀忠の養女として池田光政の元へ嫁ぎ、一人暮らしとなる。
寛永9年(1632年)、父・秀忠が薨去。寛永16年(1639年)、光政と勝姫の
嫡男・池田綱政(千姫の外孫)が誕生した。 現在、千姫は江戸場内で暮らし
もうすぐ70を迎える・・・
その日、千姫は自室から外の景色を眺めながら
うとうと眠り始めた。
千姫は、いつのまにか18歳の頃の姿になり大阪城内で秀頼と桜の木の下を
手を繫いで歩いていた。
桜の花が満開である。
秀頼
「千、千は父上や母上は恋しゅうないか?」
千姫
「いえ、こちらには淀の母上もおられますし、秀頼様もおられますゆえ
寂しゅうございませぬ・・・」 秀頼
「それは良かった。ははは・・・
ここでは、誰とでも会いたいと思うたらすぐ会えるのじゃ・・・
千は、誰と会ってみたい?」
千姫
「そうでございまするね・・・父上、母上・・・でも一番会いたいのは・・・」
秀頼
「ははは・・・ここの世界では、隠し事は出来ぬ世界・・・」
1人の若武者が千姫の前に現れた・・・家光?
似ているが、もう少し体格が良く顔立ちも勇ましい・・・
もしや”幸千代”? 幸千代
「母上!お久しゅうございまする・・・」
千姫
「やはり、幸千代なのですね・・・」
親子は、しっかり抱き合った。
女中が昼餉の準備に部屋を訪れた時には既に
眠るように息を引き取っていたという。
享年69歳
亡くなった夜、曾祖母於大の方の菩提寺である小石川伝通院
に納められ導師知鑑(知恩院37世)により葬儀が行なわれた。
墓所は傳通院と茨城県常総市の天樹院弘経寺にあり、また
徳川家(松平家)が三河時代から帰依していた浄土宗の
総本山である京都の知恩院に定例により分骨され宝塔に
納められた。知鑑は後に位牌や遺物を祭るため伊勢に
「寂照寺」を開いた。
戒名「天樹院殿栄譽源法松山禅定尼」。 スピン・オフ 真田幸村
幸村最後の戦(いくさ)・・・1/3
その日、幸村は茶臼山の陣で戦況を伺っていた。既に豊臣方は
後藤基次や木村重成などの主だった武将が相次いで討死し、
疲弊していった・・・
”もはやこれまでか・・・”
幸村は、目を閉じて腕組みをしつぶやいた。
”もう、この手しか、あるまい・・・”
幸村は、うしろを振り返り叫ぶ。
”狙うは徳川家康の首ただひとつのみ!
みなのもの!昨日の打合せどおり、これから最後の大いくさを
しかける。生きて帰ること無き、大いくさじゃ!死にたくなき者は
去ってよし!いっさい咎めだてはせぬ!・・・”
もちろん、去るものはいない。
味方の1人が叫んだ。
”幸村様!われら大阪の陣に参加したときから幸村様に命は
おあずけ申しておりまするぞ!
ひとあわ、大御所に吹かせてやりましょうぞ!
わっはははは・・・!”
陣内に大きな歓声が沸きあがった! 幸村最後の戦(いくさ)・・・2/3
幸村は槍を手に持ち馬に飛び乗った。
他の者たちも次々と馬に飛び乗っていく・・・
幸村隊、50数名が幸村を取り囲み同じ赤色の甲冑に身につけ
一塊(ひとかたまり)になって越前隊(松平忠直)の大軍
めがけて真一文字に家康本陣へ突撃を開始した。
数(かず)のうえでは、圧倒的に徳川軍優勢であるが、少人数で1つにまとまって
いる分、的は小さく、通り道を遮る兵のみを防げば良いわけである。
ただ時間勝負・・・・長引けば長引くほど、不利になるのは目に見えている。
家康本陣にさえたどり着ければ・・・槍の使い手である幸村に勝機はある。
家康本陣が見えてきた・・・既に幸村隊は幸村1人になっていた。
”みなのもの、かたじけない・・・”
”大御所のみしるし頂戴仕る!”
幸村は叫びながら、家康めがけて突進していく・・・幸い、本陣の、ほとんどが
出払っていて数名の供がいるのみである。
まず2、3人の供を槍でなぎ倒し家康の目の前に迫った・・・その時、家康の
前に槍を持って立ちはだかった武将がいた。見覚えの、ある顔・・・
滝川三九朗であった。三九朗は幸村の妹の婿、つまり義理の弟である。
今回の戦では、徳川家康護衛の旗本として警備にあたっていた・・・
三九朗は見事な槍さばきで幸村を食い止め、その隙に家康は馬で逃れた。
援護に駆けつけた十数名の鉄砲隊が幸村に鉄砲を打ち掛けた・・・ 幸村最後の戦(いくさ)・・・3/3
”すまぬ・・・兄上・・・”
”三九朗ならば・・・やむおえず・・・”
と二人は言葉をかわし鉄砲で深手を負ったまま幸村は去っていく・・・
その後、幸村は
四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内
にたどりつき、馬から降りて、どっかと腰を降ろした。
肩と腹に銃弾を受けたらしい・・・血が流れていた。
そこに越前隊鉄砲組の西尾宗次が、現れた。
幸村は、宗次を見つめて一言・・・
”介錯を頼む!”と言い
その場で腹を切って果てた。
享年49
幸村最後の戦(いくさ) <おわり> スピン・オフ
本多平八郎忠勝伝
その日、江戸城に、朝早く馬で乗りつける武将がいた・・・・・
本多平八郎忠勝である。
”との〜”大声で叫びながら平八郎が朝食を頬張る家康に向かって来た。
家康は、目を丸くして、箸をもったまましばらく呆然としていたが、
箸を置き・・・
平八郎に向かって言った。
”いかがしたのじゃ・・・ははは・・・そなたも、朝飯は
まだじゃろ、いっしょにどうじゃ?” 平八郎は、女中の運んできた水を一気に飲み干すと
”こたびの若殿の縁組しょうふくいたしかねまつる!
豊臣から、なにゆえ若殿に、むっつも年上の、おなごを嫁に押し付けられ
ねばならぬのじゃ!わしは、悔しゅうて・・・殿は、悔しゅうござらぬか?
江殿は、こたび三度目の嫁入りと聞いておりまするぞ!しかも、子も
1人おるそうな・・・徳川を愚弄するにも程がござる!サルの魂胆は
見えすぎておりまする。淀殿の妹ぎみなら、若殿とは義姉弟、秀頼殿は
甥、先々江殿との間に姫が生まれれば、夫婦(めおと)にして豊臣
の基盤を磐石なものにしようという魂胆じゃろ”
家康は、大声で笑いながら言った。
”さすが平八郎、察しが良いのお・・・既に、内内での話じゃが、第一の姫は
秀頼殿の嫁に貰い受けたいとのことじゃ。じゃが、わしは、そう悪い縁組とは
思わんのじゃ・・・わしは、江姫のことは、信長公ご存命中からよく存じて
おって少々気が強いところは、ござるが情の深い良い姫じゃ、あれぐらい
しっかりした姫なら将来天下人の御台所として、じゅうぶんやっていけよう。”
平八郎は、腕組みをしながら、うつむいていたが、しばらくして言った。
”承知つかまつった。わしは、てっきり殿は天下を諦めて豊臣との融和策に
転じられたのかと勘違いをしたようでござった。それならば、何も申しませぬ。”
その後、平八郎も朝飯に加わり、和やかに、時が流れた。 スピン・オフ
宇宙船艦ヤマト 番外編
第2次火星沖海戦編・・・1
僕は古代 守・・・
その日,僕ら宇宙防衛大学、最終学年の
学生は講堂に呼び集められた。
土方校長・・・
「諸君が今日ここに呼び集められたのは、他でもない!
現在!地球に異性人の大艦隊が向かって来ている!
そのため国連宇宙軍は総力戦でこの艦隊を食い止め
ねばならない!戦いの場所は火星第2宇宙域!
今日から一週間後だ!現在、国連宇宙軍は人員不足
のため君らに召集命令が出た ! 第2次火星沖海戦編・・・2
したがって、君らは6ヶ月の繰り上げ卒業ということで
国連宇宙軍の船に乗ってもらうことになる!
もちろん、生きて帰れる補償は無い!
辞退するものはしてよし!
この場から退出してくれ!一切咎めだてはしない!」
どこからともなく歌が聞こえてきた・・・
軍の歌・・・
”銀河水平、波間を越えて・・・♪”
全員で大合唱になった・・・退出するものは1人も
いない ! 第2次火星沖海戦編・・・3
僕は沖田司令官の乗る国連宇宙軍 第一艦隊
旗艦”キリシマ”の砲雷長として赴任することになった。
何故?大学を出たばかりの僕が、いきなり旗艦の
砲雷長?大抜擢である !
翌日僕は、北海道にある国連宇宙軍の旭川宇宙港に
向かった・・・弟の進も一緒に見送りに来てくれている・・・
進は現在、宇宙防衛大学の2年・・・僕らは旭川宇宙港
に到着・・・キリシマの前に2人で立った・・・大きな船だ・・・ 第2次火星沖海戦編・・・4
古代 進・・・
「兄さん大きな船だね!でもすごいなあ・・・いきなり
旗艦の砲雷長だなんて、さすが主席で卒業した
だけあるよ!」
僕(古代 守)・・・
「そんなことないさ・・・ははは・・・進も優秀だと聞いてるぞ!」 第2次火星沖海戦編・・・5
古代 進・・・
「いや、兄さんには、とてもかなわないよ!ははは・・・
僕、古代 守の弟ってことで、どれだけたいへんか!
ははは・・・でも兄さん・・・絶対、生きて帰ってきてね!”御武運を!”」
進は敬礼した、僕も敬礼で答えた。
僕(古代 守)・・・
「じゃー行くな・・・必ず生きて帰ってくるからな!」
僕は振り向いて船のタラップを昇って行く・・・
振り返ると進が手を振って笑っている。 第2次火星沖海戦編・・・6
”もしかしたら・・・これが最後になるかもしれないなあ・・・”
僕も笑って手を振って返す・・・しばらくして船の船底部分に
入った・・・整備士が敬礼して迎えた・・・僕も敬礼・・・
僕(古代 守)・・・
「ご苦労様です。」
602日曜8時の名無しさん2017/06/20(火) 12:25:17.53ID:M+RVMan3
第2次火星沖海戦編・・・7
僕は荷物を部屋に置いて艦長室に向かった・・・
艦長室の前に立ち、深呼吸・・・”落ち着け!守!”
ノックをした・・・”トントン”
沖田司令官・・・
「入れ!」
僕(古代 守)・・・
「はい・・・」
ドアを開けて中に入ると沖田司令官と山南艦長がいた。 第2次火星沖海戦編・・・8
僕は敬礼して・・・
「失礼します、本日付けで赴任いたしました砲雷長の古代
守であります!」
僕は初めて沖田司令官を間近で見た。どっしりした雰囲気で
・・・歴戦を勝ち抜いてきた勝負師のオーラとでも
呼ぶべきか?沖田司令官は、口の周りの髭を撫でながら
口を開いた・・・ 第2次火星沖海戦編・・・9
沖田司令官・・・
「君が、古代 守君か・・・宇宙防衛大学校始まって以来の
秀才だそうだが・・・特にビーム砲の射撃技術は教官
も舌を巻いてるそうだね・・・ははは・・・期待しておるよ!」
僕(古代 守)・・・
「は・はい・・・期待に添えるよう、誠心誠意、頑張ります!」
敬礼して艦長室を出た・・・
緊張して心臓が破裂しそうだった。僕は艦橋に入って自分の
席に着いた。 第2次火星沖海戦編・・・10
”この船は1時間後に抜錨いたします。”
艦内放送が流れた。
僕は再度ビーム砲の取扱説明書に目を通した。
ここで、この船の指揮系統について説明する。
この船は旗艦であるため指揮官のトップは司令官である
沖田提督である。その次が、山南艦長、実質的には
艦のNO.2、副長の役割になる。その次が航海士の
山本1蔚、船のNO.3に当る・・・もし上官に不測の事態
が起こった場合次の階級の人物が指揮することになる。
僕は、戦術長を兼ねた砲雷長である。船のNO.4になる。
僕が船の指揮を執るような不測の事態は避けたいもの
である。 第2次火星沖海戦編・・・11
国連宇宙軍 第一艦隊 旗艦キリシマをはじめとする艦隊が
火星第2宇宙域に集結!
第2次火星沖海戦と呼ばれる戦いが始まろうとしていた!
1時間後、敵の大艦隊がレーダーで捕捉された!
30分後、敵のビーム砲が発射され、戦闘開始・・・
敵艦隊の装甲は厚く、地球艦隊のビーム砲では
かなり至近距離まで近づかないと破壊できない・・・
しかし敵に近づくということは、こちらも撃たれ易く
なるというリスクが生じる危険な戦術でもある。 第2次火星沖海戦編・・・12
だが勇敢にも多くの艦が相手の至近距離まで近づき、
攻撃・・・しばらく互角の戦闘状態が続いたが・・・
徐々に相手の数とビーム砲の威力に押されてきた!
”巡洋艦「ふゆづき」撃沈!””駆逐艦「あかぎ」大破、
戦闘不能!”・・・
次々と、地球艦隊の劣勢が伝えられてきた・・・ 第2次火星沖海戦編・・・13
敵旗艦から沖田司令官に通信が入った・・・
「地球艦隊に告ぐ、ただちに降伏せよ!」
通信士・・・
「返信はどうしますか?」
沖田司令官・・・
「”馬鹿め”と言ってやれ!」
通信士・・・
「はあ?」 第2次火星沖海戦編・・・14
沖田司令官・・・
「”馬鹿め”だ!」
通信士は二ヤリと笑って・・・
「はい!地球艦隊より返信”馬鹿め”」
敵の攻撃が激しさを増してきた・・・ 第2次火星沖海戦編・・・15
”味方、損耗率68%!”
山南艦長・・・
「司令官!このままでは全滅です!降伏も選択肢
の1つでは?・・・生きてさえいれば・・・」
沖田司令官・・・
「もはや、これまでか・・・もう我々には打つ手は
本当に無いのか?」
僕(古代 守)・・・
「司令官!意見具申してもよろしいでしょうか?」
沖田司令官・・・
「ふむ・・・古代、言ってみろ・・・」 第2次火星沖海戦編・・・16
僕(古代 守)・・・
「先ほどからの敵旗艦とのやりとりを見ていて
気づいたのですが、降伏勧告をする間、敵の
艦隊は一旦防御のみの体制になり攻撃は
最小限にしておりました。彼らの艦隊は旗艦が
全て統制、制御して艦隊編成を行なってるようです。
おそらく、艦隊の数が多いため味方通しの
接触事故や、同士討ちを避けるため旗艦で
1つにまとめて動きを統制してるのでしょう。 第2次火星沖海戦編・・・17
つまり、敵旗艦の中枢部である艦橋を破壊すれば
相手の攻撃は一旦停止するものと考えられます。
つまり、その隙に攻勢に転じて一気に巻き返すので
あります!」
沖田司令官・・・
「じゃが、敵旗艦まで随分距離があるが正確にビーム
砲を撃ちこめるか?射程距離の問題もある。」 第2次火星沖海戦編・・・18
僕(古代 守)・・・
「僕なら敵艦隊の狭い隙間を縫って正確に撃ち込む
自信があります。あとは射程距離と艦橋を破壊する
威力を、どうやって確保するかですが・・・
ビーム砲の取り扱い説明書には、ビーム砲は設計上
安全を見て最大出力の3分の1までしか使用できない
よう安全装置が設けられていると書かれてます。 第2次火星沖海戦編・・・19
つまり、安全装置を解除すればビーム砲の威力は
3倍になります・・・3倍なら充分届きますし、艦橋の
破壊も可能です!念の為、技術主任の伊藤さんにも
確認しましたが、それは1回限りの使用方法で
おそらく連射には砲台は耐えられないだろうということです。
つまり一発勝負に賭けるということです。」 第2次火星沖海戦編・・・20
沖田司令官が、山南艦長のほうを向いて頷いた。
山南艦長が技術部に連絡・・・
「伊藤主任すぐに艦橋へ来るように!」
こうしてビーム砲の安全装置は解除・・・
僕は、スコープを覗き込んだ・・・
僕の後ろで司令官と艦長が腕組みをして眺めている。
艦内にも緊張が走る・・・ 第2次火星沖海戦編・・・21
山南艦長・・・
「本当に小さい的だな・・・」
沖田司令官・・・
「ふむ・・・じゃが古代を信じるしかない・・・敵もまさか
この位置からビーム砲を撃ち込んでくるとは思わん
だろう。」 第2次火星沖海戦編・・・22
僕は(古代 守)・・・
「発射5秒前、5,4,3,2,1,0・・・発射!ドーン」
いつもと違い3倍の威力のビーム砲だけに艦が
大きく振動した・・・砲台から煙が上がっているようだ。
おそらく衝撃で壊れたのだろう・・・ 第2次火星沖海戦編・・・23
ビーム砲は敵艦隊の狭い隙間を縫って突き進む・・・
敵旗艦の付近が光った・・・
パネルスクリーンで目視・・・山本航海士がガッツポーズ・・・
「やった!見事、命中したぞ!何て腕前だ!ははは!」
艦内が沸いている・・・敵艦隊の動きが停止・・・おそらく
何があったかわからず・・・パニック状態に陥っているようだ・・・ 第2次火星沖海戦編・・・24
沖田司令官はマイクを持ち・・・
「全艦隊に継ぐ反撃開始!」
残った地球艦隊で反撃に出た・・・そして一挙に巻き返した。
しばらくして敵艦隊は、撤退し始めた。敵は消えていく・・・
たぶん彼らのジャンプ(ワープ)とかいう技術で一瞬のうちに
飛び去ったと考えられる。 第2次火星沖海戦編・・・25
こうして地球艦隊は多くの犠牲は払ったがギリギリの戦いで
踏みとどまることが出来たのである。
僕が地球に帰還すると大勢の人々が出迎えてくれた。
沖田司令官は、伝説的人物になった。
僕がタラップを降りていくと弟の進が出迎えた!
「兄さん!やったね!地球を救った英雄だよ!」 第2次火星沖海戦編・・・26
僕は(古代 守)・・・
「でも、今回の戦いでは多くの犠牲を払ってしまった。
沖田司令官の、ご子息も・・・そのことを忘れては
いけないよ、進・・・」
古代 進
「うん」
こうして僕は無事任務を果たすことが出来た。 第2次火星沖海戦編・・・27
一週間後・・・
僕に辞令が来た。
沖田司令官が、僕の部屋に出向き辞令を伝えてくれた。
「古代・・・残念だが、わしは優秀な砲雷長を失ったようだ。
ははは・・・お前を駆逐艦”ゆきかぜ”の艦長として送り出
さねばならんようじゃ・・・ははは・・・」
僕(古代 守)・・・
「ええ?でも、まだ荷が重過ぎます・・・」 第2次火星沖海戦編・・・28
沖田司令官・・・
「うん・・・じゃが、そうも言っておられんのじゃ・・・今回の
戦いで国連宇宙軍は多くの指揮官を失った・・・わしの
息子も・・・」
しばらく、うつむいて泣いておられた・・・僕は沖田司令官
の手をとり・・・ 第2次火星沖海戦編・・・29
僕(古代 守)・・・
「提督・・・喜んで、お受けいたします!」
沖田司令官
「頼んだぞ!古代!」 第2次火星沖海戦編・・・30
こうして僕は、
磯風型突撃宇宙駆逐艦3番艦”ゆきかぜ”艦長として
(階級は、2蔚から一挙に三佐として2階級昇格)
赴任することになった・・・
責任は、ぐっと重くなった・・・だが、地球を守るため
僕は、必ず任務をまっとうするぞ!
<おわり> 第一回「誕生」
慶長2年(1597年)4月11日
山城国伏見城内の徳川屋敷
今、まさに1人のおなごが赤子を産み落とそうとしていた。
そのおなごの名は江(ごう)
父は浅井長政、母はお市の方の3女にあたる姫君である。
”おぎゃー!”
”おぎゃー!”
お付の女中が叫ぶ
”生まれましたぞ!姫君じゃ!” 隣の部屋から待ちかねたように人の良さそうな男が
入ってきた。
「ごう!でかしたぞ!」
この男は、まじまじと赤子の顔を眺め・・・
「なんと麗しき顔立ちの姫じゃ・・・うん、うん・・・
さすが絶世の美女と謳われた、お市の方
様の血を引く姫君じゃ、ははは・・・でかした。
でかしたぞ・・・」
なんとも言えない表情である。
この人の良さそうな男の名は秀忠
豊臣政権の五大老のひとり徳川家康の嫡男である。 しばらくして、秀忠は紙と筆を持って来させて
一つの文字を書いた。
「赤子の名は”千”といたす」
この「千」と名づけられた赤子こそ後に波乱万丈の生涯を歩む
千姫、この物語の主人公である。
翌日、江の舅である徳川家康が、豊臣秀吉、側室の淀、
嫡男の拾丸(後の秀頼)を伴って祝いの品を持って駆けつけた。
豊臣秀吉の側室、淀の方は江の実姉、つまり嫡男の拾丸は
江にとっては甥、千姫とは従兄弟通しになる。 家康
「ごう、でかしたぞ・・・」
江
「父上、ありがとうございまする・・・しかし、父上は嫡男を
望んでおられたのでは・・・?」
そこに秀吉が割って入る。
秀吉
「ごう・・・案ずるな、最初の子は、おなごのほうが豊臣に
とっても徳川にとっても、むしろ良かったのじゃ。
家康殿、もう良いじゃろう・・・」
秀吉が家康に目で合図した。
家康
「実はのう・・・ごう、殿下から、ごうの子が、おなごであれば
拾丸様の正室に、お迎えしたいとのことなのじゃ。拾丸様
は将来、関白豊臣家を継がれる方、つまり次の天下人、その
奥方として姫を迎えたいということなのじゃ・・・これは、豊臣や
徳川のためだけでは無い。早く戦の無い世を造っていかねば
ならぬ・・・天下泰平、天下万民のため・・・豊臣と徳川の
絆を、より強固なものにいたすのじゃ・・・どうじゃ、ごう・・・」 江
「わたくしも、このお話、とても嬉しゅうございまする・・・
のう・・・姉上・・・」
淀
「ふむ・・・われら浅井姉妹は、早くに父、母を亡くし
つらい日々を送ってまいりました・・・親と子、兄弟が袂を分かって
命のやりとりをする・・・そのような戦国の世は、早く終わらせねば
なりませぬ・・・天下泰平に向かうのであれば喜んで拾丸の嫁と
してお迎えいたしましょう・・・拾丸!この千姫が、そなたの
嫁となるのじゃ・・・」
拾丸(後の秀頼)
「はい」
4歳になったばかりの拾丸に、そのことの重大性が、わかろうはず
は無かった。ただ、この婚姻が将来両家にとって最悪の結末を
迎えようとは、このとき誰が想像したであろうか?
第一話 おわり 第二回「秀吉死す」
慶長3年(1598年)3月15日、醍醐寺諸堂の再建を命じ、庭園を造営。
各地から700本の桜を集めて境内に植えさせて秀頼や奥方たちと一日
だけの花見を楽しんだ(醍醐の花見)。
千姫が誕生して1年の月日が流れた・・・
ある日の秀忠と江、千姫の寝顔を見つめながら話す。
江
「殿、太閤殿下、随分お悪いようでございまするね・・・もう、長くないのでは?」
秀忠
「うん・・・そのようじゃな・・・まだ秀頼様は幼いのにもかかわらず・・・
どうしたものか?父上が後見人となられるので案ずることは
無かろうが・・・」
江
「もし太閤殿下が、お亡くなりになられたら幼い秀頼様で政(まつりごと)
は成り立ってまいりますでしょうか?」 秀忠
「ふむ・・・さて、そのへんのことは、太閤殿下にお任せするほか無かろうなあ・・・」
江
「殿・・・わたくし不安なのでございます。もしや父上は太閤殿下亡き後
天下を狙うて動かれるなどとゆうことは、ございませんでしょうなあ・・・
さすれば再び天下は戦国の世に逆戻り・・・やっと天下が治まると
思っておりましたのに・・・」
秀忠
「ははははは・・・ごう、それは心配ござるまい・・・若き頃の父上ならともかく
父上も既にお年、今更天下人になったとて仕方あるまい。」
江
「そうでございまするね・・・ふふふ・・・いらぬ心配ばかり・・・殿、千姫が
生まれて1年ほどになります・・・体の調子もそろそろ良くなってまいりました。
次こそは嫡男を産みとうございます。それにしても1年も側室を持たず、よう辛抱なされ
ましたなあ・・・ふふふ・・・」
秀忠
「ふむ・・・はよう跡取りを設けねばのう・・・」
こうして2人は久しぶりに夫婦の営みを行った。
1年後、江は2人目の子を無事出産・・・
しかし嫡男ではなく、姫であった。
この姫は、珠姫と名づけられ3歳で前田藩(前田利常)に輿入れすることになる。
自分の死が近いことを悟った秀吉は7月4日に居城である伏見城に徳川家康ら
諸大名を呼び寄せて、家康に対して秀頼の後見人になるようにと依頼した。
8月5日、秀吉は五大老宛てに二度目の遺言書を記す。秀吉の病は、前年に
秀吉の命令で甲斐善光寺から京都方広寺へ移されていた信濃善光寺の本尊
である阿弥陀三尊の祟りであるという噂から、三尊像は8月17日に信濃へ向け
て京都を出発したが、8月18日、秀吉はその生涯を終えた。
死因については現在も不明である。
第二話 おわり 第二十X回 「関が原」
慶長5年(1600年)9月初旬
上杉討伐に向け秀忠が江戸城を出発する日。
正室の江が生まれたばかりの珠姫を抱っこし千姫を伴って見送りに
城の表門まで出向いた。
秀忠
「では・・・江、千、珠、行ってまいる。」
江
「秀忠殿、しっかりおやりなされ!あなた様は将来天下人秀頼様の
舅となられるお方、豊臣の獅子身中の虫どもを一掃して千が安心して
秀頼様に輿入れできる様にしてくださいまし・・・」
秀忠
「ああ、承知いたした。此度は、おそらく豊臣を二分する大いくさに
なるであろう・・・
もし万が一徳川方が負けたときは、そのたの姉、淀殿に助命を申し出
るようにな。さすれば・・・そなたらの命までは獲らぬであろう。」
江
「はい、承知いたしました。道中ご無事で・・・
では、御武運を!」
こうして、千姫は秀忠を母江と共に見送った。
この戦(いくさ)こそ、将来天下分け目の戦と呼ばれた
”関が原”の始まりであった。 第二十X回 「千姫輿入れ」
慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原
(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた天下分け目の
関が原の戦いは、徳川方の勝利となり
秀頼、淀殿に対しては「女、子供のあずかり知らぬところ」として咎めず領地も
そのままだったが、論功行賞により各大名家の領地に含めていた太閤蔵入地
(豊臣氏の直轄地)は諸将に分配された。その結果、豊臣氏は摂津国・河内国
・和泉国の3ヶ国65万石の一大名となり、家康は天下人としての立場を確立した。 慶長8年(1603年)2月12日、後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として伏見城
に派遣。朝廷より六種八通の宣旨が下り、家康を征夷大将軍、淳和奨学両院別
当、右大臣に任命した。同年3月12日、伏見城から二条城に移り、3月21日、衣冠
束帯を纏い行列を整えて御所に参内し、将軍拝賀の礼を行い、年頭の祝賀も述
べた。3月27日、二条城に勅使を迎え、重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の
儀を行った。また4月4日から3日間、二条城で能楽が行われ諸大名や公家衆を饗
応した。これにより征夷大将軍徳川家康は武家の棟梁となる地位を確立した。
そして・・・
このままでは、徳川家に天下を奪われると懸念した豊臣秀頼の母・淀殿
は豊臣秀吉が生前、成立させていた秀頼と千姫の婚約を履行させた。
千姫は慶長8年(1603年)7月豊臣秀頼に輿入れをすることになった。
秀頼11歳、千姫7歳 千姫が大阪に向かう前日・・・
千姫は、父である秀忠と母である江のもとを訪れた。
輿入れといっても実際は、豊臣の人質であるため
父母は同行せず乳母の刑部卿局(ぎょうぶきょうのつぼね)
が同行する。
徳川秀忠
「姫、息災にな・・・」
千姫
「はい・・・父上、母上も息災に、お暮らし下さいませ。」 江
「秀忠殿・・・本当に、これで良いのでございましょうや・・・太閤殿下との
お約束とはいえ、今は父上が天下人・・・豊臣は、これで納得して
くれましょうや・・・徳川将軍家の孫娘の婿として次期将軍となるつもり
だと聞いておりまする。」
徳川秀忠
「困ったものじゃ・・・父上は、近いうちに将軍職を、わしに譲って
将軍職は徳川の世襲ということを示されるだろうな・・・既に天下は
徳川のもの・・・しっかり、わかっていただかねば・・・」 江
「まさか、徳川と豊臣で戦などということは、ありますまいな・・・」
徳川秀忠
「父上次第じゃろうなあ・・・豊臣が1大名として傘下にさえ入って従って
くれれば、何の問題も無かろうが・・・
戦したとて大阪方には勝ち目はあるまい・・・
それぐらいのこと、わかっておるじゃろうて・・・」
翌日、千姫一行は大阪に向け出発した。
第二十X話 おわり 第四十X回 「大阪落城」
慶長20年5月7日
昼過ぎ・・・戦場から真田幸村討ち死にの知らせが入った。
淀と秀頼は、お互い向かい合って相槌をうつ・・・
淀
「やはり無理であったか・・・最後の望みも絶たれたようじゃ・・・」
秀頼
「母上・・・では、千を呼びまするが、本当によろしいのでござい
ますな・・・」
淀
「ああ」
淀は、微笑みながら頷いた。
千姫が部屋に入ってきて淀と秀頼の前に座る。 淀
「千、既に戦の命運は尽きたようじゃ、この城が落ちるのは時間の
問題・・・無駄な血はこれ以上流しとうない。そこで、そなたに頼みがある。」
千姫
「はい」
神妙な顔つきで頷いた。
淀
「これから、そなたが大御所の陣に出向いて直接われらの助命嘆願を
してもらいたいのじゃ・・・そなたが直接会って嘆願すれば、さすがに
命まで獲ることは無かろう。」 千姫
「はい承知いたしました母上・・・千は自分の命に替えても大御所様の
赦しを請うてまいります。」
こうして千姫を解放し大御所の陣に向かわせることを伝えると
一旦戦が止み徳川方から迎えの使者が輿を運んできた。
千姫は輿に乗り見送る淀と秀頼の姿を輿の窓を少し開け隙間から覗き込む。
なんとなく寂しそうな感じがした。嫌な予感がする。
しかし一刻の猶予も無い・・・
早く、大御所の下に行って助命嘆願をせねば・・・ 大御所の陣に到着し千姫が輿から降りると祖父の家康と父の秀忠が満面の
笑みで迎えた。
家康は千姫を抱きしめ・・・
「よう無事で帰ってこられたのう・・・良かった、良かった。」
秀忠も横から・・・
「本当に、良かった・・・千にもしものことがあったら江(ごう)に何と言われるか・・・
ははは・・・」
千姫
「おじじ様、父上、どうか豊臣の母上や秀頼様のこと命ばかりは、お助け
下さいませ。」
家康は満面の笑みで・・・
「わかっておる、わかっておる・・・既に、使者を立て投降するよう伝えたわ・・・
一旦は領地召し上げになるであろうが、いずれ、どこかに身の立つぐらいの
領地は与えようと思うておる。」 その時、鉄砲の音が鳴り響いた。
”ダーン!”
鉄砲隊が投降を促すため立てこもっている籾蔵の方に鉄砲を撃ちかけた。
しばらくして籾蔵の中の様子を探りに行くと・・・
秀頼は淀殿らとともに籾蔵の中で勝永に介錯され自害していた。
自害した様子が伝えられた。
「われらが籾蔵の中の様子を探りに行った時には、秀頼様、淀殿は
既に自害されておりました。最初から覚悟の上、千姫様を帰された
ものと思われます。」
その場で千姫は気を失った。
こうして大阪の陣は、最悪の形で幕が引かれることになった。
第四十X回 おわり 第四十九回 「助命・千姫の決意」
家康の怒りは尋常では無かった・・・
幕府に弓を引く豊臣家を許し存続させようと苦慮してきたにも
かかわらず最後は自害という形で裏切られたのだ。
そこに秀頼の側室の子の国松と女子が潜伏している所を捕らえられ
たという報が入った。
家康
「あい、わかった。両名即刻首を刎ねよ!」
隣で聞いていた秀忠は真っ青になって・・・
「父上!しばらくお待ち下され!何も幼子の命までも奪わなくとも!」 家康
「許すことまかりならぬ!豊臣家がこうなった以上豊臣の血筋を残す
わけにはまいらぬ!平家が源氏の遺児を助命したため滅ぼされた
例もあるゆえ不憫ではあるがのう・・・」
秀忠
「父上!今や徳川の天下!今更何も・・・!」
家康と秀忠は、お互い掴み合って険悪な表情で向き合った。
それを観ていた本多忠政が中に割って入り何とかその場を
収めた。
翌日、改めて話し合いが持たれる事になった。 翌日、秀忠は千姫と高台院(秀吉の正室)伴って、話し合いの
場に現れた。
家康
「おお・・・高台院殿、お久しゅうございまするなあ・・・」
家康は、秀吉の死後も秀吉の婦人を大切にし
婦人が大阪城を出た後、高台寺を建立、そこの住職
とした。非常に聡明で美しかった秀吉の婦人、おね
には一目置いているのだ・・・ 高台院
「ほんとうですこと・・・家康殿も息災なご様子・・・
こたび豊臣家は残念なことになりもうしたが
家康殿には、罪はござらぬ・・・よく耐えてくださり
もうした。信長公ならとっくに潰されておったろうのう・・・
そこでじゃが・・・家康殿と見込んで無理を承知で
お頼み申す。
秀頼殿の遺児のことじゃが、国松は男子ゆえ
諦め申すが、姫は、おなごゆえ許してもらえぬか?
もちろん子孫が徳川に刃を向けぬよう
出家させ生涯独り身で過ごすことにはなるがのう。
これで、どうか・・・折れてくださらぬか・・・」
家康は腕組みをして
「う〜ん・・・」 千姫
「おじじ様、姫をわたくしの養女とすることで
助命していただけませんでしょうか・・・?」
秀忠
「父上、わたくしからも、お頼み申し上げ
まする。もし叶わぬなら、豊臣の嫁であった千も
罰せねばなりませぬゆえ・・・」
家康
「承知いたした。千よ一つだけ、わしの頼みを
聞いてもらいたい・・・そなたは
桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻に再嫁
すること・・・これが受け入れられねば、助命は
叶わぬゆえ・・・どうじゃ?」 千姫
「承知いたしました。おじじ様、ほんに、ほんに・・・
ありがとうございまする。」
こうして
国松は処刑、また娘の天秀尼は僧籍に入ることで助命された。
第四十九回 おわり 第五十回 「歳月」 最終話
寛文6年(1666年)2月6日
大阪夏の陣が終わり約50年の歳月が流れた。
千姫は大阪夏の陣の翌年 本多忠刻に嫁ぎ
長女 勝姫、長男 幸千代を授かるが
幸千代は3歳で没し、その後
夫・忠刻、姑・熊姫、母・江が次々と没するなど不幸が続き、
本多家を娘・勝姫と共に出ることとなった。
江戸城に入り、出家して天樹院と号す。
出家後は娘と2人で竹橋御殿で暮らした。寛永5年(1628年)に勝姫が
父・秀忠の養女として池田光政の元へ嫁ぎ、一人暮らしとなる。
寛永9年(1632年)、父・秀忠が薨去。寛永16年(1639年)、光政と勝姫の
嫡男・池田綱政(千姫の外孫)が誕生した。 現在、千姫は江戸場内で暮らし
もうすぐ70を迎える・・・
その日、千姫は自室から外の景色を眺めながら
うとうと眠り始めた。
千姫は、いつのまにか18歳の頃の姿になり大阪城内で秀頼と桜の木の下を
手をつないで歩いていた。
桜の花が満開である。 秀頼
「千、千は父上や母上は恋しゅうないか?」
千姫
「いえ、こちらには淀の母上もおられますし、秀頼様もおられますゆえ
寂しゅうございませぬ・・・」 秀頼
「それは良かった。ははは・・・
ここでは、誰とでも会いたいと思うたらすぐ会えるのじゃ・・・
千は、誰と会ってみたい?」
千姫
「そうでございまするね・・・父上、母上・・・でも一番会いたいのは・・・」
秀頼
「ははは・・・ここの世界では、隠し事は出来ぬ世界・・・」
1人の若武者が千姫の前に現れた・・・家光?
似ているが、もう少し体格が良く顔立ちも勇ましい・・・
もしや”幸千代”? 幸千代
「母上!お久しゅうございまする・・・」
千姫
「やはり、幸千代なのですね・・・」
親子は、しっかり抱き合った。
女中が昼餉の準備に部屋を訪れた時には既に
眠るように息を引き取っていたという。
享年69歳 亡くなった夜、曾祖母於大の方の菩提寺である小石川伝通院
に納められ導師知鑑(知恩院37世)により葬儀が行なわれた。
墓所は傳通院と茨城県常総市の天樹院弘経寺にあり、また
徳川家(松平家)が三河時代から帰依していた浄土宗の
総本山である京都の知恩院に定例により分骨され宝塔に
納められた。知鑑は後に位牌や遺物を祭るため伊勢に
「寂照寺」を開いた。
戒名「天樹院殿栄譽源法松山禅定尼」。
※ THE END ※ 千姫・・・残り少なくなってきました。
大河で「江」が題材として取り扱われるなら
「千姫」も充分あり得るだろう・・・
特に、大阪の陣では、ある意味主人公?悲劇のヒロインとなる人物である・・・
10年以内に、大河ドラマになると予想・・・ 千姫の娘、勝姫が嫁ぎ先の危機を救う。
姫の夫は岡山藩主
池田光政
岡山藩始まって以来の大災害が起きたときである。承応2〜3年(1652〜54)に
備前大洪水となり旭川が氾濫し、城下町はもちろん領内は泥海と化した。そのうえ、
お決まりの飢饉が襲い、藩主光政はその復旧と救済に全力を傾注したにもかかわ
らず、藩財政だけはどうすることもできない最悪の状態になっていた。
藩は幕府への借財を申し込んだが聞いてもらえず、金策は尽きて途方に暮れ、遂
に奥方から千姫(天樹院)にお願いしてみてはということになった。天樹院は実弟の
将軍家光に事情を話し、家光は天樹院に都合した。
「承応4年2月朔日、一金四万両 天樹院様より御借用」(「土倉家文書」)と記されて
いる。この天樹院からの借金で、岡山藩最大の危機は逃れることができたのである。
勝子、千姫の女性コンビが岡山を救ったわけである。
勝姫があの有名な千姫にお願いすると4万両のお金が都合してもらえた。血は水
よりも濃いとはこのことだ。そう勝姫は千姫の一人娘である。そして千姫の実母が
お江である。先日のドラマの中で無邪気にはしゃいでいたお江。もちろん自分の娘
と孫娘が岡山の人々から感謝されるとは知る由もないことだ。 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
| 8時45分になりました |
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