【第三十一回】太平記 part.31『尊氏叛く!』 ©2ch.net
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鰻売りのみすぼらしい子どもを
可愛がる直義の優しさに泣けてくる >>971
三河屋を別にすれば、あとはいずれも書いた本人はドラマに関係あると思っているのだろうけどね。 西条吉良氏だと分家は一色、荒川、岡山、西尾あたりだな
岡山姓は世田谷代官屋敷の主(大庭(大場)氏)が鎌倉期に三河にいた時は岡山と名乗っていた
室町期に、武蔵吉良氏の後継ぎとして西条吉良氏から養子が入った時に、関東に一緒に移り住んだらしい
http://castle.slowstandard.com/08kanto/09tokyo/post_1104.html
加賀藩士の西尾氏は吉良氏分家の西尾氏らしく、すると加賀藩士の子孫、松井秀喜(父親の旧姓は西尾)は吉良流西尾氏の可能性がある 補足説明だが
加賀藩主の前田家の先祖と伝わる墓が三河国碧南市にあるが、元々は西尾市一色町にあったらしい
前田利家の先祖は、足利一門に仕えていた三河武士だったんだろうか
加藤清正は、尾張の鍛冶屋のカトちゃんの息子
家康とやらにしてみれば、前田利家は仲間だが、加藤清正は縁もゆかりもない鍛冶屋の息子
これが前田と加藤の処遇の差の裏事情だ
家康が伊賀越えの際、三河に上陸し滞在した寺には前田利家の先祖の墓伝わる鎌倉時代の墓があり、その伝承を家康とやらは把握していた
この清浄院の隣の寺には前田利家の伯母さんの墓もあるらしい
清浄院(三河国碧南市)
http://s.webry.info/...1406/article_10.html
これが墓
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/07/de3d832d527d23a9acb3e9ee2e747516.jpg 何時ぞやはこのスレではなく、ニュース速報+の方でも三河殿をお見かけしましたぞ。
相も変わらずの長々な蘊蓄ぶりを披露しておりましたがな。案の定、誰からも相手にされてはおりませなんだ。 だって余りに長すぎてまともに読む気がしないものw
いくら長文レスでも限度ってものがあるよ。
他人に読ませる気のない自己満足のレスをわざわざ読んでやる義理はない。 つーか、これ毎回手書きで打ってるんだよな
コピペじゃなくて
その情熱だけは敬服するわ >>979
毎回手書きなのか?
同じような文章を繰り返しコピペしていると思ったよw 平清盛スレの長文君もすごい
どんな駄作でも力技で褒め殺しする天才
あの人の手にかかれば今年の大河も傑作になりそう 左様。凡将・愚将も長文殿の手にかかればあっと言う間に名将よ >>979
毎回手書きとは信じられぬ。根拠をお示しくだされ。 追加補足説明だが
松井秀喜の父親は、加賀藩士の家柄である西尾家から同じく加賀藩士の家柄であった母方の松井家の養子に入った
この松井家も、西尾家と同じく前田利家に連れられて尾張から移住したらしいが、尾張の松井家は、三河から移り住んだ三河松井家の系統である
ちなみに松井秀喜の父親は、三河国知立市の宗教団体にいたことがあるらしい
三河松井氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B2%B3%E6%9D%BE%E4%BA%95%E6%B0%8F
ここからが本題であるが、三河国西尾市にある殉国七士廟の建設を誘致した幡豆町長は、当時、観光地になるとおちゃらけたらしいが
実は、誘致した理由は、陸軍大将だった尾張藩士の息子の松井石根が三河松井氏だったからではないかと思う
事実なら、日本の中心で、歴史に熟知し、三河縁故を依怙贔屓する三河人らしいともいえる >>981 >>982
お呼びですか?
保元で足利義康を省略するバカ、一方で平治で二条親政派を出すトンチンカン!
とかつて抱腹絶倒もんのお褒めの言葉をいただいた名門スレで泣きべそかくのはおやめになって
是非清盛スレで駄作中の駄作である所以を力説してくださいませお爺さんお婆さん >>985
呼んでいないので速やかにお引き取りの上、二度と近寄らないで下さい そらーどこに名作太平記との共通項があるのやらさっぱり分かりませぬが
爺さん婆さんが大好きなミタニンスゲーにおける真田信繁殿について
いかなる経験のもとに「日の本一の名将⁉︎()by上杉景勝」と相成られたのか
何も描かれていないドラマからでっち上げろと命じられてもわたしゃ白旗降参ですわ 源(足利)義康は、単に足利氏の先祖というイメージしかないわな。
まあ早世せずにもう少し生きていたら、平治の乱とかの際にどういう行動をとったのかは気になるがw 本屋で「新・中世王権論」っていう文庫本を買った
以前出た本の文庫化みたいだけど、けっこう面白いな
太平記の1話に出てた小山さんって大族なんだなとか
関東の豪族の中には「足利とは同格」って思ってた者もいる(?)とか
刺激受けながら読んでる >>991
完結編の第1話目に、執事の高師氏が足利貞氏に、小山ごときにひれ伏すいわれは無い!と言っているね。 >>991
『吾妻鏡』宝治二年十二月廿八日条
足利左馬頭入道正義与結城上野入道日阿相論書札礼事、
被宥仰両方、被閣之、此事、去比就雑人事、自足利遣結城状云、
結城上野入道殿、足利政所〈云々〉、日阿得此状、投返事云、
足利左馬頭入道殿御返事、結城政所〈云々〉、僕卿禅門甚憤之、訴申子細云、
吾是右大将家御氏族也、日阿仕彼時、于今現存者也、
相互未及子孫、忽忘往事、現奇恠、争無誡沙汰哉〈云々〉、
仍被下彼状於日阿之時、日阿称不能費紙筆而献覧一通文書、
是則右大将家御時、注為宗之家子侍交名、被載御判之御書也、
彼禅門厳閣総州与日阿〈于時結城七郎、〉可為同等礼之由分明也、
右京兆〈于時江間小四郎、〉為家子専一也、相州披覧之、召留件正文於箱底、
染御自筆書案文、被授日阿、剰被副送同御自筆消息状、其詞云、
右大将家御書正文一通給置候訖、被載曩祖潤色之間、為家規摸之故也、
但御用之時者宜隨命、且為後日、以自筆所書進案文候也〈云々〉
日阿還施面目〈云々〉、
足利義氏と結城朝光(小山朝政末弟)が書礼を交わした時、
ともに「足利政所」・「結城政所」と同等の書札礼を行なったのを、
義氏が怒ったのですが、朝光がョ朝が同格に認めていた書を示したので、
足利氏と結城氏が同格である証明されました。 >>991
佐藤進一氏も小山は下野最大の豪族と言ってるな
中先代で壊滅したのが痛すぎる 宗尊親王「小山?下野の田舎侍やあらしゃいませんか」 まあ三浦・千葉・小山が鎌倉初期の関東における三大有力御家人なんだろうが、これって
結局のところ、承平・天慶の乱の頃から関東は坂東平氏と秀郷流藤原氏の牙城のまま、
何も変わってはいないってことなんだよな。 新参の足利氏は、下野においての勢力拡大に一切興味を示さなかったよね 主張先の近くに湊川神社があったので参拝。ただただ武田鉄矢の顔がちらつきました。 >>997
小山はそれこそ藤原秀郷の頃から下野押領使の地位にあるわけだし、そりゃ河内源氏の
流れの足利でも、下野では小山に太刀打ちできないよ。 このスレッドは1000を超えました。
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