【第三十三回】太平記 part.33『千寿王と不知哉丸』
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第三十三回「千寿王と不知哉丸」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/taiheiki/taiheiki33.html
前スレ
【第三十二回】太平記 part.32『藤夜叉死す』
http://itest.5ch.net/nhk2/test/read.cgi/nhkdrama/1507357471 >>966
失礼ですが、尊氏の父は貞久ではなく、貞氏では? >>959
駄目だな、答えとしては20点だ
八条院領と言われれば、日本列島の中心、関東関西間の中心であり、最大の八条院領(讃岐国と同等の広さ)であった三河国高橋荘・高橋新荘が出んとな
立券者は三河の藤姓熱田大宮司家の祖である藤原季兼(三河四郎大夫)、足利義兼の高祖父である
義兼は以仁王の令旨を三河で見せられたわけだ
■三河国高橋荘・高橋新荘
豊田市ほぼ全域とみよし市は源頼朝の曽祖父が開発し、後に皇室に寄進された最大の皇室領荘園
高橋新荘から松平家が、高橋荘からはトヨタ自動車が発祥した
・開発者は源頼朝の曽祖父、藤原季兼か?
・寄進者は藤原季兼の妹の子供、高橋惟康(藤原伊周の孫)か?
・平安末期〜戦国期に見える荘園名
・矢作川中流域の低地と山間部、豊田市(旧上郷町・高岡町を除く)・三好町・藤岡町・小原村にまたがる大荘園
・八条院領目録に院分御荘として「参河国高橋荘」「参河国高橋新荘」とあり、鳥羽院政期の院領寄進系荘園の一例とみられる
・寄進者は藤原(高橋)惟康か←藤原伊周の孫、源頼朝曽祖父の妹の息子
・八条院没後、春華門院昇子ー順徳天皇ー後高倉院→安嘉門院邦子ー亀山天皇ー後宇多天皇ー昭慶門院憙子と相伝される
・昭慶門院目録に、高橋荘は亀山院の時石清水八幡宮に寄進、新荘は冨小路前大納言(小倉実教)とあるのは領家職とみられる >>967
普通に書き間違いだと思うよ内容からして 貞氏に救われた可愛い童が成長したら、大地康雄になってお茶吹いた 子役が上手な演技をしていた不知哉丸が成長したら、超絶棒演技の筒井道隆になってお茶吹いた >>945
大天狗は後白河法皇だろ
崇徳院の生前はかなり穏健だったと文献で あまりしたこと無いし、できるかどうかわからんけど
数字34にして尊氏追悼、もとい尊氏追討にしたらええの? >>980
大天狗って、頼朝が勝手に言っていただけじゃなかったけ? 駿河に長崎と楠木の地名があるだっペ
↓
楠木氏は河内の安達氏の旧領を本拠にしていただっペ
↓
霜月騒動で北条氏から楠木氏に与えられただっペ
↓
楠木氏は得宗家の被官に違いないだっペ
単純、雑だわな
三河県豊橋市に東観音寺と言う行基が創建したと言われる寺(信頼性が高い行基寺)がある
この寺は安達氏旧領である小松原荘にあって、行基が熊野神社のお告げを聞いて創建したという逸話を伝えている
ここで重要なのは安達氏と熊野に接点があったという事実だ
つまり、安達氏の河内の旧領は安達氏だけでなく北条氏とも縁が深かった熊野関係者に与えられたが妥当な考え
楠木氏は熊野国造家出自だ
得宗家とは関係無い
残念だったな もっと言うなれば、東観音寺縁故どころか、安達氏の出身地である東三河はニギハヤヒの出身地の可能性が高い
熊野はニギハヤヒだからな
ズブズブの関係よ
安達盛長の本貫地は現在の三河県豊橋市石巻小野田付近と考えられるが、近くの石巻山は三輪山の奥院であると大神神社の社伝に書いてある
昔は石巻山を神山(ミワヤマ)と呼んでいて、そこから三輪山になったらしい
すると、大神神社と伊勢神宮(伊勢と三輪の神。一体分身の御事。)の主祭神、大物主(ニギハヤヒ?)は三河出身なんだろうか
安達盛長は三河国の御厨の元締めでもあった
グーグルマップで見るとよく分かるが、大神神社の鳥居と拝殿は三輪山の正面に向いていない、三輪山の南側にズレている
実は三輪山の奥院、三河の石巻山(神山)に向いているわけだな 三河屋と楠木厨はどちらも新スレには来なくていいからねw 三河の足助重範の生母は楠木正成の叔母と伝えるが、この三河の足助一族には三河の安達盛長の娘を初めとして、三河の安達氏から3人ばかり嫁が入っている
つまり、三河の名族足助氏に嫁が入る楠木氏は普通の家とは言えず、三河の足助氏を通じて三河の安達氏とも繋がりがあった
三河の足利尊氏やその息子の楠木氏に対する丁重な扱いは、本来、楠木氏は三河サイドの人間ではないかと言う思いがあったんだろうな
いい加減、関東や関西の話は切り捨てよ
日本の中世は、三河史を知らないと全く見えてこない 豆知識に、足利氏、足助氏、安達氏、楠木氏と徳川家康との繋がりを紹介しておこう
■今川記(1553年成立)
松平信光(第3代目当主)
正室:一色氏の娘
一色満範の娘の仮定する
源義家→義国→義康→足利義兼(初代源姓足利氏)→義氏→泰氏→一色公深(初代一色氏)→範氏(母親は今川国氏(初代今川氏)の娘)→範光→詮範→満範→娘→松平親忠→長親→信忠→清康→広忠→徳川家康
■熊野国造家 和田家系図
松平親忠(第4代目当主)
正室:鈴木重勝の娘
・加茂(足助)重長→足助重秀(母親は源為朝の娘)→重朝(母親は安達盛長の娘)→重方→親方→貞親→重範(母親は楠木正成の叔母)→鈴木重員(母親は楠木正成の娘)→重勝→娘→松平長親→信忠→清康→広忠→徳川家康 今日は、直義が贈り物を全て断わったことで有名な八朔の日やな 観応2年(1351年)8月1日は、尊氏・義詮に挟み撃ちにされることを恐れた直義が
京都を落ちて北陸へ向かった日だなw 古代尾張熱田と伝承でつながる上志段味や大高一帯にて
尾張名古屋城はやはり新規一編やはり素晴らしい >>998
素晴らしいは結構だが
本当に素晴らしいのなら、大神神社の拝殿は真清田神社に向いてなければならない
だが現実は、三河国の石巻山(神山)に向いているのだよ
残念だったな
安達盛長の本貫地は現在の三河県豊橋市石巻小野田付近と考えられるが、近くの石巻山は三輪山の奥の院であると大神神社の社伝に書いてある
昔は石巻山を神山(ミワヤマ)と呼んでいて、そこから三輪山になったらしい
すると、大神神社と伊勢神宮(伊勢と三輪の神。一体分身の御事。)の主祭神、大物主(ニギハヤヒ?)は三河出身なんだろうか
安達盛長は三河国の御厨の元締めでもあった
グーグルマップで見るとよく分かるが、大神神社の鳥居と拝殿は三輪山の正面に向いていない、三輪山の南側にズレている
実は三輪山の奥院、三河の石巻山(神山)に向いているわけだな このスレッドは1000を超えました。
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