>>458
大政奉還直後の情勢だと、会津、桑名、彦根、紀伊、水戸は
「大政再委任」の活動をしていた

普通に考えて御三家親藩譜代のど真ん中の面子で、自分らの既得権益もあるし
矢面に立って洒落にならないぐらい恨まれてる長州に朝廷政治参画に復権されても困ると言うのもあって
ケーキのヒー様も散々幕府の下で働かせて今更梯子外してんじゃねーよと、
常識的に考えて中央政治の実務能力あるのは徳川宗家だけだから
朝廷から徳川宗家に「再び大政を委任」する様に猛烈に運動していた

だから木戸や西郷もこの動きを非常に危険視して、出兵での武力威嚇自体は久光、小松の了承を得ていたし
会津の中でも山本覚馬等は「再委任」に奔走する会津の公用方に京都政局を任せていたら本当に戦争になると
眼病の不自由を押して独自に薩摩に渡りを付けようとして薩摩に捕縛された

小松帯刀は慶喜周辺を含めてやたら人脈が広い上に島津家門閥家老にして島津久光の側近、
近衛家からも厚遇されていると言う顔があり、薩摩の武威を示しながら大政奉還を迫り、
それが成った後には朝廷の下で徳川を含む挙国一致の青写真を描いていた節があるけど、
「篤姫」でも終盤杖をついていた小松は最後の詰めの段階で持病が悪化して京都政局をリタイア
小松に近い大政奉還派として京都伏見に取り残された坂本龍馬が、徳川政権再委任派の
会津公用方、桑名所司代の指令でその親族でもある幕府京都見廻り組に斬殺された図

何よりこの動きを危険視してたのは徳川慶喜で、徳川三百年八百万石の実績で
大名同士の競争の中でも朝廷政治の実権を掴めると
松平春嶽、尾張義勝の公議政体派のラインから朝廷参加の足場を固めようとしていたから
会津らに露骨な徳川独裁復権運動をやられたら
これまでの徳川を危険視してる薩長と本当に戦争になりかねないと
それで慶喜が直々に松平容保を叱責して抑制する事迄やってる