>>722
>>729
もっと根本的な事情があった
当時の一分銀硬貨は権現様の刻印を押す事で金一分(小判四分の一両)との交換を
徳川家が保証すると言う形式の貨幣で、金銀の含有量が釣り合っていた訳ではなかった
だから、徳川家発行の銀貨幣に相場よりも大量の金の価値を保証する事で、
実質的な中央政府である徳川家はいわゆる「出目稼ぎ」をしていた

にも関わらず、一分銀四枚と同じ重量のドル銀貨と金一両を交換せよ、と言うハリスの要求を
当時の幕閣が飲んだために理の当然として相場よりも少ない銀と交換された金小判が海外に大量流出
幕府外交官の海防掛でも勘定所出身の川路、水野は事態を予期して反対してたけど、
目付出身の岩瀬忠震、その上で外交方針の素地を作った堀田正睦は、ここで内輪からも条約調印がこじれたら
水戸斉昭辺りが出て来て収拾がつかなくなると強行方針をとった。

これに対抗するために、小判の金含有量自体を落として小判とドルとの重量的な交換レートを調整したために
金含有量の少ない粗悪な小判が流通、貨幣価値の下落で物価暴騰のインフレーションが庶民生活を直言、
それが開国の異人のせいだと言う事で、幕府外交と異人を忌避する攘夷勢力への支持が庶民レベルまで広がる事に