【第三十四回】太平記 part.34『尊氏追討』
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こっちですぜ
第三十四回「尊氏追討」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/taiheiki/taiheiki34.html 朕は許す。朕は許すのじゃ…!それがなぜわからん!ビシィィィ わしは新スレに寝返るぞ。(チラッ) 生き延びるために寝返るぞ。(チラチラッ) 元弘3年(1333年)5月22日、新田義貞による鎌倉陥落
建武3年(1336年)5月25日、湊川の戦い
建武政権の継続期間はちょうど3年ぐらいか。 後に勾当内侍を義貞に下げ渡したのは、確か廉子の策謀って感じに描かれていたね。 廉子は抜け目ないな。隠岐脱出の際も帝お気に入りの女を海に突き飛ばしていたし。 小宰相の件、廉子は後で帝に咎められなかったのかな? >>18
石はあの件で廉子の弱みを握っているのだから、それを利用して上手く立ち回って
いれば、日野様から貰った土地を取られずに済んだのじゃないか? 石は下々過ぎて人間(恩賞を与える対象)としてカウントされてないのが可哀想だと思った でも恩賞って、そもそも自分から請求するものでは?
口を開けてただ待っていれば貰えるというものでもない。 >>17
三河と比べたら、そんなゴミみたいな所領の利害関係などどうでもいいつー感じなんだろう、
鎌倉期初めの三河は、七条院の院分国だったらしい
坊門信隆→七条院→後鳥羽天皇
坊門信隆→坊門信清→坊門信子(源実朝室)
坊門信隆→坊門信清→女(四条隆衡室)→四条隆親(室は足利能子(足利義氏(三河守護)の娘 )
坊門信隆→坊門信清→女(四条隆衡室)→四条隆親→四条房名(三河守) 石は庶民の代表。俊基の証文なんかなんの意味もないことを見せつけてくれた。土地は実力でしか支配できないという厳然とした現実を >>25
そうそう、そもそも恩賞を貰おうって頭に無いところが下々の者代表 日野様の証文を後生大事に持っていたのだから、恩賞は欲しかったのでは? 闘犬のシーンからの犬に襲われるシーン迫力があったな
今なら動物愛護なんたらで放送出来ないだろうが あの土地で藤夜叉と不知哉丸と三人で幸せに暮らしたかったんだよ。しかし時代がそれを許さなかった。 後醍醐天皇の皇子一覧(仏門に入った者、幼少にして亡くなった者、存在がはっきりしないものを除く)
悲惨過ぎる
●阿野廉子の子
恒良(1325-1338)後醍醐・皇太子 新田軍付き、京都に護送後、処刑(毒殺)
成良(1326-1338?)光明・皇太子 新田軍付き、京都に護送後、処刑(毒殺)(1344没説もあり)
義良(1328-1368)後村上天皇
●阿野廉子以外の子
満良(生没年不詳)1340年、土佐で敗戦後不明
恒性(1305-1333) 元弘の乱で越中配流、六波羅陥落後に関わらず北条氏により処刑(斬殺)
護良(1308-1335) 征夷大将軍 鎌倉に護送後、処刑(斬殺)
尊良(1310?-1337)新田軍付き、金ヶ崎の戦いで新田軍に殉じて自害
宗良(1311-1385?)天台座主、征夷大将軍 信濃に居座り長く抵抗
懐良(1329-1383) 征西将軍 儲けた子供は三十二人だから
朕の夢のためならってコ事で
死のうがあまりに気にしてなかっただろう >>30
幽閉した後醍醐を逃さずに、鎌倉で直義が奉じていた成良を即位させておけば話は簡単だったんだよな(´・ω・`) 正平の一統の時の事とか、義詮が上皇や天皇を見捨てて逃げた時のことを考えたら
時と場合によっては簡単に見捨てられる運命だったのが持明院統だと思う(´・ω・`)
正平の一統の時の和平を南朝側がもっと長く守ってたら、下手すると持明院統はそこで終わってたかもしれんね >>33
でもまぁ成良親王は、形の上では持明院統の光明天皇の皇太子になっていたから、
状況次第で即位の可能性は普通にあったと思うんだけどね
後に義教の時代に、傍流となっていた崇光流の彦仁親王が、後光厳流の後小松上皇の猶子になって
後花園天皇として即位したことの先取りみたいな感じになるんじゃないかな >>30
成良って新田軍に同行していたことあったっけ?
>>34
正平の一統のときの義詮の行動は、あれは単に迂闊だっただけでしょう?
今後どう転ぶか読めない状況で、玉となり得る皇族をすべて手放してしまうのは、どう考えても愚かw >>35
後花園(彦仁)の即位は、後光厳系の皇統の断絶が既に確定しているという前提の上での話だからなぁ 広義門院は、後醍醐帝の暗殺を謀った西園寺公宗の縁者w なんとなくネットを徘徊していたら、岩松経家役の俳優さんがウルトラマンA「サボテン地獄の赤い花」
でサボテン型怪獣(大型化前(に襲われて殺されるDQN青年を演じていることを知った
ちなみにこの回はAの主役と同事務所だったという北畠親房卿(ついでに桜木健一)がカメオ出演されていることで有名 >>40
どーーーーーーーーーーーーーでもいい話だね >>42
顕氏は言うまでもなくセブン 西園寺公宗がエイティ
スレチだが草燃えるではライダー(三浦義村)がタロウ(源実朝)を謀殺 >>47
六波羅探題北方が守護を兼務していたのに、無様だね・・・。 六波羅探題ってのは鎌倉中期以降は鎌倉で弾かれた奴等の左遷場だった。赤マフラーさんとか 松平健
↓
平幹二郎
↓
川崎真世
↓
宮迫博之
↓
〇
↓
勝野洋、沢口靖子 >>50
南方はともかく北方は重要ポストじゃないの? >>51
その血の流れの先に市川團十郎と和泉元彌がいるわけか >>56
元彌、時宗だけじゃなく足利義昭もやってる >>58
足利氏棟は梁鎌倉時代、ほとんどが得宗・執権の娘・妹を正室にしているね
例外的に頼氏って人は地味な北条時盛の娘を正室にしているが
でもこの北条時盛って人すごいね 時政の孫として頼朝公健在時に生まれ、元寇の最中まで健在だったという
亡くなった年の年表を見たら赤松円心が生まれている >>61
家時正室:常盤時茂の娘
貞氏正室:金沢顕時の娘
尊氏正室:赤橋久時の娘
彼らはいつから得宗の娘になったんだ? あと鎌倉時代の長寿な人物というなら、四条貞子(北山准后)を忘れてはならないだろう。
建久7年(1196年)生〜正安4年(1302年)歿、享年107歳
ちなみに彼女は、平清盛の曾孫に当たり、後深草・亀山両天皇の祖母でもある。 失礼、北山准后貞子は西園寺実氏の室だから、後嵯峨の皇后の生母かw
「北山准后」の名前は、西園寺家の北山山荘(後に義満に取られる例の場所)に住んでいたことによるのかな? つうか貞子を介すると、鎌倉末期の将軍の久明親王や守邦親王は、平清盛の生物学的な
子孫ということになるのかw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています