【第三十四回】太平記 part.34『尊氏追討』
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そーいや岩松さんの北に桃井さんの支族が上野におったな
享徳の乱では徹頭徹尾、足利成氏方で
上野で対上杉の最前線で頑張ってた
本当に足利尊氏嫌いなんなんだな、桃井さん なんで詐欺師バッタモンという考えに行き着くのだろうか。熱中症で頭がおかしくなったのかな >>104
一門の中での義貞さんの位置がいまいち高くないのがなあ
山名あたりはちゃっかり似たような地位に納まりそうではある >>107
まあ小太郎君のせいじゃなくて先々代があまりにもボンクラだったのがね・・・ >>100
岩松氏は新田一門扱いも受けるが、男系血縁では足利の庶流だから、ややこしい。
これと逆のパターンが山名氏かな。
>>99
バッタもんというなら、岩松氏より由良氏だろう・・・。 >>104
真偽はともかく新田残党を由来とする被差別部落も関東に複数存在するから、負けた側は迫害受けたのも歴史の厳しいところだな 新田の子孫を名乗る被差別部落って
鎌倉街道沿いとかに新田が設置した監視小屋の番人あたりが起源だろ。 >>104
新田の庶流の得川家の
松平徳川家が天下を獲ったから良しとすべき 家康の祖父が世良田次郎三郎を名乗ってたな
家康は世良田の親分格の得川にしたかったがすでにいたために徳川にw >>120
というか新田宗本家が四分五裂した後に
新田庄を管理して維持したのが岩松ってこと
そもそも惣領なんてもんが出来るほどの纏りは新田一門にはない ただの管理人がいつのまにか家主を詐称するようになった可能性はないの? >>122
一応岩松さんは新田から枝分かれしてるのは確実
管理人で血統詐称で横取りは岩松さんの家宰だった横瀬氏こと後々の高家由良氏ですよ >>122
岩本満純が新田義宗の息子、つまり新田義貞の孫というのが事実かどうかは永久に謎
ただしこの満純から昭和まで存続した新田男爵家まではキチンと系図が繋がっている >>125
>昭和まで存続した新田男爵家までは
現在は断絶しているの? >>126
いや名字(苗字)なんてほとんど地名だろ >>123
太平記の時代の岩松氏は、男系血縁では足利氏の庶流。
但し、初代が母方の新田氏から所領を分与された経緯から新田の一門に准ずるような扱い。
ドラマでも、義貞や義助の岩松経家に対する対応は、他の新田一門に対する態度とは、
少々違っていた。 >>132
皇居前と分倍河原駅前・・・
この差がすべてを表してるなw そういえば、越前国(福井県)は歴史的に負け犬を呼び込む風土があるという話を聞いた
その実例としては、新田義貞、柴田勝家、結城秀康などが挙げられるとかw >>135
桃井・朝倉もかぁ、いずれも覇者に逆らって没落。 >>135
京都から逃げるとしたら北で、逃げ易くて奥深いのが東北方の越前。しかも京の鬼門だしねぇ
あっちから来て成功してるのは、継体天皇くらいかしら >>135
幕末の水戸天狗党も敦賀で悲惨なことになった。 天狗党って連合赤軍やオウムみたいなもんだろ 皆殺しにされて当然 古は恵美押勝こと藤原仲麻呂も息子が守る越前に逃れようとして討ち取られた >>134
今の天皇家は北朝なのに
皇国史観や大日本資料史のせい
憎き北畠家と水戸家と薩長明治政府
本来なら足利尊氏像が建つべきなのに とはいえ、尊氏は随分北朝を軽んじてた気がしないでもない(´・ω・`) >>148
後醍醐大好きで心底戦いたくなかったししゃーない
直義も大好きで心底戦いたくなかったし 北畠家って信長に滅ぼされて終わり?信長の無能のドラ息子が一応北畠として存続したんだっけ >>137
京都から北陸への最短ルート上にある近江の湖西エリアに勢力を持っていた朽木氏が、
京都の政情が不安定な戦国期において、大きな存在感を持つ背景だな。 >>152
信雄の子孫の家系(嫡流は近世の丹波柏原藩主、近代の織田子爵家)は、織田苗字だが伊勢北畠氏の祭祀を継承している。
ちなみに織田子爵家の現在の当主の名前は「信孝」。
信雄の子孫の家の当主が、なぜ信孝なのかは知らないw 板違いもスレ違いも関係ない傍若無人なバカが異臭を放つ >>126
>>128
館が上野国新田郡宝泉村脇屋(現在の群馬県太田市脇屋町)
にあったので名字を「脇屋」と称した。 まあやっぱ岩松以上に出自があやしいのは楠正成だけどな。 >>160
あかん、まーた楠木御家人説の人が・・・ >>155
北畠はあれだけ公家の家柄を鼻にかけて武士を見下していたのに、子孫が伊勢に土着して武士化したのは皮肉だよなw 正成は摂河泉の守だったけど戦の時に在地武士をあまり動員できてないな 楠木さん
御家人なんじゃね説
高野山の庄官なんじゃね説
八条院領の庄官なんじゃね説
馬借の元締めなんだよ説
河内の普通のおっさんなんだよ説
御家人で得宗被官なんだぜ説
非御家人で長崎氏の陪臣なんだよ説 一般には
散所の親分(つまり賤民出自)じゃね説
が広くまかり通ってるけどね 将軍の執事が管領で管領の家宰がいてそのまた家令が操る
鎌倉公方も関東執事がいて関東管領になってその家宰がいてそのまた家宰な操る
一番偉いのは家宰の家宰なんかね 現代風に考え過ぎだろ、行政機関が整う近世までは自力救済の世の中だから、武力を極めたモンの勝ちなんだよ
尊氏だって花一揆の親衛部隊がなければ、直義や師直の傀儡になるしかない場面もあっただろうし、最後まで武力を手放さなかったのは正解だわな >>169
管領は、足利将軍家の家宰としての執事(幕府の役職ではない将軍家の私的な執事)に、
鎌倉幕府における執権や初期の室町幕府における直義が担っていた幕府の政務の権限を
合わせて、幕府の制度上の役職に位置づけたもの。
そのために、執事→管領、関東執事→関東管領という改称が行われたわけで、
執事=管領ということではないよ。 そうでもないだろ、関東郡代は世襲だったが、中途で更迭されてるし、中堅官僚以上が世襲の弊害は物凄くあった 調べたら、関東郡代(幕府領諸代官の統括役)は伊奈氏の私称の可能性が高かったんだな
地元なのにググって認識の誤りを30秒で把握したわ、長年蓄えた古文知識と地道な研究を必要とする歴史書なんか売れないわな 平清盛がいなければ、足利が幕府を開くこともなかった。 頼朝「平清盛なくして武士の世は来なかった(キリッ」 >>175
伊奈さんは生真面目だから
年貢増税に真っ向から反対して吉宗と大喧嘩してるしなあ・・・
さすが文字通り利根川と荒川ねじ曲げた一族だわ >>178
伊奈家は代々、当主の人生が
悲劇過ぎて辛い >>179
過労死と切腹と強制隠居のオンパレードだからな
大半が過労死で河川改修の陣頭指揮とってるときに代々の陣羽織着たまんまぶっ倒れてるってのがね・・・
改易蟄居のとき馬や輿もなくて陣羽織着てなきゃ誰が当主だかわからん状態で
木曽まで徒歩で行ったって関宿城の美人学芸員が言ってた いつからここは近世(江戸時代)のスレになったんだ?
話を脱線するにしても、せめて中世の範疇に収めろよw 結局楠木って、色んな説があるけど、まともな文書資料がないんだから、やっぱ出自あやしいよね。 後醍醐さんが大内裏造営なんぞ考えんかったら
なんだかんだでなんとかなったんじゃね? 多数派の武家を敵に回す政策ばっかやってたから、足利倒しても、どの道自滅しかなかっただろうけどな 後醍醐を正中の変の段階で島流しにしておけば
1333年の段階では鎌倉幕府は滅びなかったのかなぁ
滅びなかったとしたらその後の歴史がどうなったのか
うまく想像がつかないw
その場合、尊氏くんは鎌倉で平和に暮らせた様な気もするし、
ご先祖の様に不可思議な自由出家とかしちゃったような気もするし(´・ω・`) それを考えると足利幕府ができずに
鎌倉幕府が形骸化してやがて群雄割拠とか
全く現代と違う戦乱になってたかも 日本の歴史は独裁政治には暗殺で報いるから、それはないわ。東條英機が内ゲバの対象にならなかったのは、単に東條は天皇の忠臣に過ぎず独裁者ではなかったんだろうな >>192
機構上、東條は独裁ができなかった(かなり難しいかった)のでは?
あと、東條暗殺計画はあったにはあったが、杜撰で成功しなかっただろうし、実行前に内閣が倒れて無意味になった。
東條内閣当初の首相と陸軍大臣兼任では、軍政は握れても参謀総長・次長ラインの軍令部門を抑えられず、結局大本営の下にある軍を掌握しきれない。
やがて戦局が悪くなり、トラック空襲を経て、統帥一元化の為に自ら参謀総長を兼ね、同期の後宮淳を次長に。
同じく海相の嶋田に軍令部総長を兼任させた。
しかし、これは内外からの風当たりが強すぎ、「幕府」と揶揄されて東條内閣の求心力を急激に低下させた。しかも、負け即ちみな東條内閣のせいとなり、悪化を辿る戦局の前に程なく総辞職。
そして小磯国昭が後継となり組閣。
あくまでも大命頼りの内閣で、独裁というにはちと遠いと思う。 >>192
>>193
そもそも統帥権の独立という観点から言えば、陸軍参謀総長・海軍軍令部総長を
陸海軍大臣が兼ねるのは、明治憲法違反であり、完全な禁じ手だろうけどね。
というか何でいきなり東条内閣の話になる? >>189
在位中の天皇の廃位&配流は、奈良時代の淳仁天皇という先例があるにしても、やるのは
相当ハードルが高いでしょう・・・。
たた後醍醐は、文保の和談の際の取り決めにより在位期間は本来10年だったわけで、
これに基づいて後醍醐に対して、譲位をもっと強力に迫っていれば、再びの帝御謀反は
防げたかも知れない。 後醍醐の父親である後宇多上皇の認識では、後醍醐の即位は、早世した後二条天皇の
忘れ形見である邦良親王が成長するまでの中継ぎであり、後醍醐の系統を大覚寺統の
嫡流にするつもりは、そもそもなかったわけだな。 後醍醐は案外、自分の直系子孫が皇位につくようだったら矛を納めてたかも
討幕に邁進したのは皇位継承に幕府が口を挟むのにむかついてたんでしょ >>199
鎌倉幕府はともかく、尊氏に関しては、後醍醐が幕府さえ認めれば、後醍醐の子孫による
皇位独占には特に反対しなかったと思うけど、後醍醐本人がその可能性を潰したからなぁ。 ドラマでも尊氏が成良親王を皇太子に推して阿野廉子が尊氏の袖を掴んで喜んでいたのに、
後醍醐が出ていったせいで結局、成良は廃太子された上、毒殺された >>185
何回言わせんねん
楠木正成の叔母は足助重範の生母
要するに楠木正成と足助重範は従兄弟なわけだ
ここに出自を探る鍵がある
1331年の第一回目の挙兵に失敗して三河に逃げてきたわけだが、そこの旧地名は楠村 >>114
初代は足利義兼
甥が年上なわけないだろ >>104
家格が違い過ぎる
足利氏が尊重されたのは三河で源頼朝と繋がっている点だ
北関東の田舎猿に臣従する間抜けはいない
三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)
系図
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女→源頼朝(初代鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女→足利義兼(初代源姓足利氏)
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、三河県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(三河県豊田市)に土着する
・季兼は、三河国加茂郡(三河県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(三河県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(三河県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(三河県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪) ←乗っ取られる(笑)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝(初代鎌倉将軍)を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼(初代源姓足利氏)を生む ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています