【第三十四回】太平記 part.34『尊氏追討』
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後醍醐の父親である後宇多上皇の認識では、後醍醐の即位は、早世した後二条天皇の
忘れ形見である邦良親王が成長するまでの中継ぎであり、後醍醐の系統を大覚寺統の
嫡流にするつもりは、そもそもなかったわけだな。 後醍醐は案外、自分の直系子孫が皇位につくようだったら矛を納めてたかも
討幕に邁進したのは皇位継承に幕府が口を挟むのにむかついてたんでしょ >>199
鎌倉幕府はともかく、尊氏に関しては、後醍醐が幕府さえ認めれば、後醍醐の子孫による
皇位独占には特に反対しなかったと思うけど、後醍醐本人がその可能性を潰したからなぁ。 ドラマでも尊氏が成良親王を皇太子に推して阿野廉子が尊氏の袖を掴んで喜んでいたのに、
後醍醐が出ていったせいで結局、成良は廃太子された上、毒殺された >>185
何回言わせんねん
楠木正成の叔母は足助重範の生母
要するに楠木正成と足助重範は従兄弟なわけだ
ここに出自を探る鍵がある
1331年の第一回目の挙兵に失敗して三河に逃げてきたわけだが、そこの旧地名は楠村 >>114
初代は足利義兼
甥が年上なわけないだろ >>104
家格が違い過ぎる
足利氏が尊重されたのは三河で源頼朝と繋がっている点だ
北関東の田舎猿に臣従する間抜けはいない
三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)
系図
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女→源頼朝(初代鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女→足利義兼(初代源姓足利氏)
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、三河県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(三河県豊田市)に土着する
・季兼は、三河国加茂郡(三河県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(三河県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(三河県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(三河県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪) ←乗っ取られる(笑)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝(初代鎌倉将軍)を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼(初代源姓足利氏)を生む >>116
源姓を名乗っていたのは松平信光からだぞ
信光は天皇とダチの凄い奴だ
3代目松平信光創建 
・信明光寺(1451年創建) 1479年、後土御門天皇勅願所綸旨発給 
・妙心寺(1461年創建) 1481年、後土御門天皇勅願所綸旨発給 
信明光寺を開基した坊さんの師匠は新田義貞の孫だ
この孫は増上寺を中興した 豆知識だが
信明光寺(三河県岡崎市)の観音堂(重文)は、日本全国の浄土宗系寺院の建物で一番古いらしい
まち一つ知識が増えたな 後醍醐は朱子学かぶれで中国の皇帝を目指していたから政治的な妥協などしないだろう。もう殺すしかなかった。南北朝動乱の戦犯は後醍醐を皇位に就けた後宇多だな >>208
いうほど異形の王じゃなかったんだぞ、後醍醐
単に自分の子孫を天皇にしたかっただけだし
西園寺や二条、とりわけ持明院の後伏見帝の娘と必死に子作りして男子生んでた
なお、あんだけ子供いるのに肝心の上級貴族や内親王との間に男子を得られず
大覚寺統にも兄貴の子への譲位を迫られる始末
今では正中の変は後醍醐失脚させるための反後醍醐派の陰謀だったんだろ説が
学会で勢いがある始末 >>208
後宇多さんがあかんのは
後二条の子供たちへの譲位に中々同意せんかったのがね
10年で持ち回りで持明院さんに返す約束なんだから返しなさいって話ですよ
大覚寺はんは約束反古にしようとしたのがあかんのですよ >>209
> 今では正中の変は後醍醐失脚させるための反後醍醐派の陰謀だったんだろ説が
> 学会で勢いがある始末
それ、面白いな >>212
後宇多さんが亡くなった2ヶ月後だからね、正中の変は
で、 丁度その時に西園寺の娘さんが臨月で安産祈願してたのが倒幕の祈祷してたってのがあったけど
マジで男子ほしくて祈祷してたんじゃねーかって話になってる
後醍醐さんの在位期間は一応あと最大で4年あったからその間に
西園寺さんの皇子がいれば立太子して院政までもってける可能性大きくなっから 最近の学会で研究が盛んなのは
誰が官位を恩賞として利用するのを後醍醐に進言したのかって話だそうだ
なんでもそれまでは寄進や寺院建立などの成功で官位を得ていた上に
家格によって上が決まってた
とこらが建武政権は家格完全無視で恩賞として、官位を利用しまくった
北畠親房なんか「なんで戎夷の塵芥があんなに高い官位貰ってんだよ、久家の世どころか武士の世がかえって進んでるじゃねーか」ってぶちギレるほど利用しまくった
後醍醐一人で考えられるもんでもないし
誰がこれ考えたんだろーか?って話になってるそうな 後醍醐帝もようやく暗君評価見直しか
義貞さんもぼちぼちどうだろう >>211
文保の和談は、その後の皇位継承を尊治(後醍醐)→邦良→量仁(光厳)の順にすると
言っていて、両統迭立と言いながら大覚寺統が二代続くことを容認しているわけで、
これ自体は大覚寺統のほうに有利な取り決めなんだよな。 >>214
でも破格の取り立てをしたから、後醍醐のために命を投げ出すような楠木正成のような
人物も出てきたわけでw
湊川の戦いのときの楠木って、自分の意見に聞く耳を持たない後醍醐のために出陣して、
戦死までする義理なんてなかっただろうに、後醍醐への恩義を相当感じていたのだろう。 此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀綸旨 召人 早馬 虚騒動
生頸 還俗 自由出家 俄大名
迷者 安堵 恩賞 虚軍 本領ハナル、訴訟人
文書入タル細葛、追従 讒人 禅律僧 下克上スル成出者 そもそも二つの系統に分かれて、
両方から交互に天皇を出すって話になった時点で、
「万世一系」なんてデタラメだよな。 >>217
オイオイ
楠木正成の恩賞の少なさって知っているか?
北畠親房も後の皇国史観で語っているぞ ドラマでは都合上、中立派になっていたけど、実態は大塔宮派だったからね 仕方ない >>220
無位無官の河内のおっさんが
摂津・河内・和泉の巨大国の守護職に従五位上だぞ
中々の大出世やないか 「三木一草」などという言葉もあるわけで、楠木の出世が破格であるという自体認識は、
当時からあるだろう。
>>220
親房の皇国史観とは? >>224
まぁまぁw
相手はしったか全開の厨房なんだから、生暖かい目で見守ってやろうぜ 後醍醐が隠岐に流され、ましらの石が救出しに行くまでの間、
皇位はだれが継いでたの? 幕府は後醍醐天皇が京都から逃亡するとただちに廃位し、皇太子量仁親王(光厳天皇)を即位させた。
帰京した後醍醐天皇は、自らの退位と光厳天皇の即位を否定し、光厳朝で行われた人事をすべて無効にするとともに、幕府・摂関を廃して建武の新政を開始する。 光厳院を知らないとか舐めてんの
>>214
そらもう大覚寺統の柱石 吉田定房卿よ >>228
長年蔵人してた吉田光任という人なんじゃね、説
と
吉田定房説
と
葉室長光説
と
日野資明説
まあ殆ど吉田定房の近親者w >>228
ドラマにも光厳は普通に出てきたのにな。
光厳即位に伴って、後醍醐は自動的に先帝と見なされたってナレもあったし >>230
天皇時代に北条の衆と逃げて流れ矢を腕に受けたり
上皇時代に土岐さんに犬と間違えられて矢で射られたり
頼詮の凡暗に置き去りにされて拉致されたり
まあ波乱万丈ですわな 義詮なw
光厳さんのwiki肖像画、侘しくて泣けてくるわ 光厳帝最後の旅を最終章に持ってきている版があるらしいね
美しい構成だと思う >>227
後醍醐によって、光厳は即位した事実自体を否定されたからな。
後醍醐の論理では、当人が京都にいなかった間も一貫して在位中の天皇であり、
2年近くかけて笠置や隠岐などを旅行してきただけということだったらしいw 即位は否定されたけど上皇待遇はするっていうね
うーん先例無視 >>235
南北朝合一後の朝廷も、後亀山に対して、即位の事実は認めないが上皇待遇にするって
方針だったね。 >>234
2年間もの職務放棄を正当化して
周囲も許しちゃうところが動乱の時代ですな >>236
後醍醐も本当は隠岐廃帝と後世呼ばれるはずだったのだが・・・。 正平一統じゃああっという間に北朝は廃止されるし
でも治天は光厳院さんだから三種の神器もってたら
破談で神器ごと拉致られる
だがちょっと待って欲しい。後醍醐さんは北朝の神器は偽物と言ってたのに
なぜ北朝の神器を奪うのだろうか・・・偽物なのに そもそも後醍醐は恒良親王に譲位したはずなんよね
少なくとも恒良自身は自分が天皇だと思って北陸くんだりまで出向いたはずなのに(´・ω・`) 恒良さんの持ってた三種の神器は何処に?
そっちも偽物らしいが 北陸で恒良が使っていた幻の元号、白鹿(ハクロク)って恰好ええよね(´・ω・`) >>244
でもさ、義詮が何度かの大ポカのあと、ようやく後光厳をつれて美濃に逃げた時、
南朝側は後光厳のことを「美濃の偽主」呼ばわりしてたくらいだし、
おそらく、恒良の主観でも「くんだり」だったんじゃないのかな(´・ω・`) >>246
色+動物の名前っていう元号は、過去には飛鳥時代の「白雉」「朱鳥」しか例がないよね? 一般的に公家社会で先例とされるのは、平安期以降の先例だからなぁ。 勢いで書いて後で調べてみたら
白鹿が使われたのは恒良も義貞も死んだあとに出てきた元号だった。
すると当時の北陸の南朝勢力で、白鹿の元号が入った発給文書を、
誰が中心になってだしてたんだろうな >>248
「白鳳」「朱雀」は、それぞれ「白雉」「朱鳥」の別名or誤記ということで、いいのだっけ? 日本中に光厳寺ってあるけど
光厳天皇ゆかりの地が多いよね
東京山奥多摩の光厳寺は
光厳天皇が義詮とともに滞在した寺だし 光厳は、花園上皇の妃と密通して、直仁親王を産ませたりもしているけどね。 北朝は、崇光流を抑えて後光厳流が主流になるんだぜ
「光厳」はそれなりにありがたいんだろ >>255
土岐頼遠に犬と間違えられてからの光厳さんはその前の光厳さんとは別人だから・・・
禅の求道者になっちったから 光厳は、花園の皇子ということになっている直仁親王が、実は自分の子であることを
認めた上で、崇光の次の天皇を直仁親王にしようとしたわけだが。
そして、この直仁親王の母親(光厳の不義の相手)の宣光門院の兄である正親町公蔭が、
登子の義兄ということもあって、室町幕府も直仁親王擁立に賛成であったとか。 >>261
夢窓疎石じゃなくて春なんとかの方だったような >>252
行った事あるわ
すげー山奥のホントに小さな寺で
人ひとりいなかったが
寺紋に二つ引き両を見た時感動したわ もう夢窓疎石がこの時代のフィクサーで決まりだな。
まさか光厳まで手懐けていたとは。
この時代をより深く知るには夢窓疎石の事跡を調べたほうがよさそうだ。 春屋妙葩って室町幕府の五山十刹の制度を作った人物か? 光厳帝の母って>>38なんだな
治天の君に推されたのも納得 後光厳即位の際に広義門院が治天に推された理由は、単に後光厳の直系専属に当たる人で、
南朝に拉致られていなかったからってだけでは? 江戸時代の青綺門院も南北朝時代の広義門院と似た立場にあったらしいね 広義門院は、後光厳即位時に治天の君に見立てられただけ?
それともその後も、治天の君としての実態があるの?
ドラマはこの件をスルーしているけど。 多々良浜の戦いと同様で、描きようがなかったのだろうな。 このドラマはあくまで尊氏が主役だからな
正平一統を決めたのは尊氏でも実際に運用して破綻まで携わったのは義詮だから 義詮のボンクラがやらかした時に
尊氏は関東で鬱々と弟の菩提弔ってたからね あのときは、尊氏的には関東を離れられる状況になかったのだから仕方ない。 直義が挙兵した際に、天皇・上皇を置き去りにして京都を離れた義詮を、師直が非難する
シーンがあるけど、あれって、なんかドラマでは描かれなかった正平の一統のときの
状況を暗示するような演出だよね。 最近のチンタラした展開の大河より内容が濃かったよな。むしろ尺が足りない位だった 尊氏は居座ると長いよな
催促しなかったら九州でも半年くらいいたかもしれん 九州はともかく、晩年の関東長期滞在は、直義死後の関東の混乱を収めるためだし、
尊氏配下の東国武士たちも、このままずっと関東にいたいとゴネていたって話だよ。 >>278
>義詮のボンクラ
ハイ
無知暴露www 義詮の生涯最高の戦歴は、数え年4歳で参加した鎌倉攻めか? >>289
長男の直冬
嫡男の義詮
次男の基氏
みーんなほっぽり出されてるからな
尊氏に 鎌倉に叛旗を翻した時に北条に捕まって殺された子もいたな そら
直冬も基氏も尊氏よりも叔父ちゃん大好きっ子になるわな 基氏に関しては、当人は直義との接点なんて大してないだろうけど、取り巻きが
元直義派ばかりだったからでしょ? この時代を扱っただけでも評価できるドラマ
視聴率はよかったのに、その後30年間も避けられっぱなし ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています