【第三十四回】太平記 part.34『尊氏追討』
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石は下々過ぎて人間(恩賞を与える対象)としてカウントされてないのが可哀想だと思った でも恩賞って、そもそも自分から請求するものでは?
口を開けてただ待っていれば貰えるというものでもない。 >>17
三河と比べたら、そんなゴミみたいな所領の利害関係などどうでもいいつー感じなんだろう、
鎌倉期初めの三河は、七条院の院分国だったらしい
坊門信隆→七条院→後鳥羽天皇
坊門信隆→坊門信清→坊門信子(源実朝室)
坊門信隆→坊門信清→女(四条隆衡室)→四条隆親(室は足利能子(足利義氏(三河守護)の娘 )
坊門信隆→坊門信清→女(四条隆衡室)→四条隆親→四条房名(三河守) 石は庶民の代表。俊基の証文なんかなんの意味もないことを見せつけてくれた。土地は実力でしか支配できないという厳然とした現実を >>25
そうそう、そもそも恩賞を貰おうって頭に無いところが下々の者代表 日野様の証文を後生大事に持っていたのだから、恩賞は欲しかったのでは? 闘犬のシーンからの犬に襲われるシーン迫力があったな
今なら動物愛護なんたらで放送出来ないだろうが あの土地で藤夜叉と不知哉丸と三人で幸せに暮らしたかったんだよ。しかし時代がそれを許さなかった。 後醍醐天皇の皇子一覧(仏門に入った者、幼少にして亡くなった者、存在がはっきりしないものを除く)
悲惨過ぎる
●阿野廉子の子
恒良(1325-1338)後醍醐・皇太子 新田軍付き、京都に護送後、処刑(毒殺)
成良(1326-1338?)光明・皇太子 新田軍付き、京都に護送後、処刑(毒殺)(1344没説もあり)
義良(1328-1368)後村上天皇
●阿野廉子以外の子
満良(生没年不詳)1340年、土佐で敗戦後不明
恒性(1305-1333) 元弘の乱で越中配流、六波羅陥落後に関わらず北条氏により処刑(斬殺)
護良(1308-1335) 征夷大将軍 鎌倉に護送後、処刑(斬殺)
尊良(1310?-1337)新田軍付き、金ヶ崎の戦いで新田軍に殉じて自害
宗良(1311-1385?)天台座主、征夷大将軍 信濃に居座り長く抵抗
懐良(1329-1383) 征西将軍 儲けた子供は三十二人だから
朕の夢のためならってコ事で
死のうがあまりに気にしてなかっただろう >>30
幽閉した後醍醐を逃さずに、鎌倉で直義が奉じていた成良を即位させておけば話は簡単だったんだよな(´・ω・`) 正平の一統の時の事とか、義詮が上皇や天皇を見捨てて逃げた時のことを考えたら
時と場合によっては簡単に見捨てられる運命だったのが持明院統だと思う(´・ω・`)
正平の一統の時の和平を南朝側がもっと長く守ってたら、下手すると持明院統はそこで終わってたかもしれんね >>33
でもまぁ成良親王は、形の上では持明院統の光明天皇の皇太子になっていたから、
状況次第で即位の可能性は普通にあったと思うんだけどね
後に義教の時代に、傍流となっていた崇光流の彦仁親王が、後光厳流の後小松上皇の猶子になって
後花園天皇として即位したことの先取りみたいな感じになるんじゃないかな >>30
成良って新田軍に同行していたことあったっけ?
>>34
正平の一統のときの義詮の行動は、あれは単に迂闊だっただけでしょう?
今後どう転ぶか読めない状況で、玉となり得る皇族をすべて手放してしまうのは、どう考えても愚かw >>35
後花園(彦仁)の即位は、後光厳系の皇統の断絶が既に確定しているという前提の上での話だからなぁ 広義門院は、後醍醐帝の暗殺を謀った西園寺公宗の縁者w なんとなくネットを徘徊していたら、岩松経家役の俳優さんがウルトラマンA「サボテン地獄の赤い花」
でサボテン型怪獣(大型化前(に襲われて殺されるDQN青年を演じていることを知った
ちなみにこの回はAの主役と同事務所だったという北畠親房卿(ついでに桜木健一)がカメオ出演されていることで有名 >>40
どーーーーーーーーーーーーーでもいい話だね >>42
顕氏は言うまでもなくセブン 西園寺公宗がエイティ
スレチだが草燃えるではライダー(三浦義村)がタロウ(源実朝)を謀殺 >>47
六波羅探題北方が守護を兼務していたのに、無様だね・・・。 六波羅探題ってのは鎌倉中期以降は鎌倉で弾かれた奴等の左遷場だった。赤マフラーさんとか 松平健
↓
平幹二郎
↓
川崎真世
↓
宮迫博之
↓
〇
↓
勝野洋、沢口靖子 >>50
南方はともかく北方は重要ポストじゃないの? >>51
その血の流れの先に市川團十郎と和泉元彌がいるわけか >>56
元彌、時宗だけじゃなく足利義昭もやってる >>58
足利氏棟は梁鎌倉時代、ほとんどが得宗・執権の娘・妹を正室にしているね
例外的に頼氏って人は地味な北条時盛の娘を正室にしているが
でもこの北条時盛って人すごいね 時政の孫として頼朝公健在時に生まれ、元寇の最中まで健在だったという
亡くなった年の年表を見たら赤松円心が生まれている >>61
家時正室:常盤時茂の娘
貞氏正室:金沢顕時の娘
尊氏正室:赤橋久時の娘
彼らはいつから得宗の娘になったんだ? あと鎌倉時代の長寿な人物というなら、四条貞子(北山准后)を忘れてはならないだろう。
建久7年(1196年)生〜正安4年(1302年)歿、享年107歳
ちなみに彼女は、平清盛の曾孫に当たり、後深草・亀山両天皇の祖母でもある。 失礼、北山准后貞子は西園寺実氏の室だから、後嵯峨の皇后の生母かw
「北山准后」の名前は、西園寺家の北山山荘(後に義満に取られる例の場所)に住んでいたことによるのかな? つうか貞子を介すると、鎌倉末期の将軍の久明親王や守邦親王は、平清盛の生物学的な
子孫ということになるのかw >>70
頼朝の妹(坊門姫)の血筋については、摂家将軍・親王将軍は、宗尊親王以外は全員が引いているな・・・。
そして宗尊親王も、妃の近衛宰子が坊門姫の血筋 ハゲタカ見てたが直冬の棒演技そのままだった。しかしハゲタカってのは直義に北条時輔に久坂玄瑞、明智光秀に井伊直盛まで出てるんだな 【総力調査】
三河国主、三河守について
1184年06月:源範頼(三河守)
1191年07年:九条兼実(知行国主)
1193年08年:吉田資経(三河守)、吉田経房(初代関東申次)の孫、室に藤原範季の娘
1199年02年:吉田経房(知行国主)、初代関東申次、母の兄弟に藤原俊成(三河守)
1200年02年:藤原親輔(三河守)、藤原顕季の息、姉妹に九条兼実室
1200年03月:七条院(分国主)
1207年01月:忠輔(姓不詳)(三河守)、三河の藤姓熱田大宮司家か?
1212年12月:実茂(姓不詳)(三河守)、三河の藤姓熱田大宮司家か?
1225年01月:藤原為綱(三河守)
1227年11月:七条院(分国主)
1228年12月:藤原経季(三河守)
1229年10月:藤原範房(三河守)、藤原範季の孫、叔母は吉田資経(三河守)室、姉妹に四条隆親室、忠成王(母親は三河の藤姓熱田大宮司、藤原清季の娘)妃
1234年01年:四条隆親(知行国主)、室に足利能子(足利義氏(三河守護)の娘)
1235年01年:藤原隆朝(三河守)、藤原隆季(四条家の祖)の曾孫、息が四条房名(三河守)に養子入り
1238年10年:卜部兼直(三河守)、兄弟の孫に吉田兼好
1240年12月:葉室資頼(知行国主)、藤原顕頼(三河守、正室は藤原季範従兄弟)の5世孫
1240年12月:四条隆親(知行国主)、室に足利能子(足利義氏(三河守護)の娘)
1200年12月:四条房名(三河守)、四条隆親(三河国知行国主)の息
1241年03月:清原教隆(三河守)、九条頼嗣の侍講
1242年03年:藤原定親(三河守)
1244年08年:世良田頼氏(三河守)、室は足利義氏(三河守護)の娘)
1248年01年:四条房名(三河守)、四条隆親(三河国知行国主)の息 吉田経房(初代関東申次) 
養和元年(1181年)に参議に昇進し、2年後に従三位に昇叙した頃から、一転して源頼朝の友人の一人として経房の名前が突然浮上する事になる。 
今まで平氏政権の下で順調に出世し、反平氏の行動と全く無縁であった彼がなぜその地位を手に入れたのかは判然としない。 
藤原俊忠 
・忠成→女(以仁王妾) 
・俊成(三河守、三河国竹谷荘・蒲形荘開発領主)→定家→為家→冷泉為相(初代冷泉家) 
・女(藤原顕頼(三河守)室) 
・女(藤原顕長(三河守)室) 
・女→吉田経房(初代関東申次) 頼家・実朝が亡くなった時に頼朝直系男子を将軍に就けなかったのは何故なのか。直系孫がいたはずだが。
頼朝の血より頼朝の家のほうが重要だったのか? 将軍個人が大きな権力を持つことを御家人たちが望んでいなかったから。
なまじ頼朝直系の男系子孫なんかよりも、頼朝とは遠戚程度の関係でよいから、貴種性の
ある人物を連れてきたほうが、御輿としては良かった。 義貞のひ孫・岩松家純が尊氏のひ孫・義教のポチとして復権し、戦後の華族制廃止まで新田男爵家として存続させたのは面白い 足利義兼の娘が登場したので再まとめしておく
坊門信隆→七条院(三河国分国主)→後鳥羽天皇
坊門信隆→坊門信清→坊門信子(源実朝室)
坊門信隆→坊門信清→女(四条隆衡室)→四条隆親(三河国知行国主、室は足利能子(足利義氏(三河守護)の娘 )
坊門信隆→坊門信清→女(四条隆衡室)→四条隆親(三河国知行国主、室は足利能子(足利義氏(三河守護)の娘 )→四条房名(三河守)
坊門信隆→坊門信清→女(四条隆衡室)→四条貞子(西園寺実氏(母は一条全子(坊門姫の娘)、三河国知行国主、関東申次)正室)→西園寺姞子(後深草・亀山両天皇母)
坊門信隆→坊門信清→忠清→水無瀬信成(父は藤原親兼(室に足利義兼の娘)後鳥羽院の命で養子入りい後に水無瀬殿を譲られる、正室は吉田定経(父は吉田経房(三河国知行国主、関東申次)の娘) 関東申次
吉田経房(三河国知行国主)
坊門信清(源実朝正室の父)
西園寺公経(母は一条全子(坊門姫の娘)、将軍九条頼経外祖父)
近衛家実
九条道家(祖父は九条兼実(三河国知行国主)、将軍九条頼経実父)
近衛兼経(道家の娘婿、道家の補佐役)
一条実経(道家の子、九条頼経の弟、道家の補佐役)
西園寺実氏(公経の子)
西園寺実兼(三河国知行国主、実氏の孫、先に病死した父・公相に代わる)
西園寺公衡(実兼の子)
西園寺実兼(三河国知行国主、公衡病死に伴い、復職)
西園寺実衡(三河国知行国主、実兼の孫、公衡の子) 三河国分国主、知行国主
1191年07年:九条兼実(知行国主)、関東申次、嫡男の嫁は一条全子(坊門姫の娘)
1199年02年:吉田経房(知行国主)、初代関東申次、母の兄弟に藤原俊成(三河守) 、孫が水無瀬信成(父は藤原親兼(室に足利義兼の娘)、後鳥羽院の命で養子入り後に水無瀬殿を譲られる)娘
1200年03月:七条院(分国主) 、姪は坊門信子(源実朝室)
1227年11月:七条院(分国主)、再任
1234年01年:四条隆親(知行国主)、室に足利能子(足利義氏(三河守護)の娘)
1240年12月:葉室資頼(知行国主)、藤原顕頼(三河守、正室は藤原季範従兄弟)の玄孫、すぐに四条隆親と交代
1240年12月:四条隆親(知行国主)、再任
1254年04月:平敦朝
1288年02月:西園寺実兼(知行国主)、関東申次
1301年02月:持明院統(伏見院)(分国主)
1303年04年:持明院統(伏見院)(分国主)
1321年06年:日野俊光(知行国主)、辞退
1321年06年:西園寺実衛(知行国主)、関東申次
1324年01月:持明院統(花園院)(分国主) >>81
新田義貞(1300-1338)越前藤島で敗死
●義貞の子
義顕(1318-1337)金ケ崎の戦いで自害
義興(1331-1358)足利基氏軍に捕らえられ多摩川・矢口の渡しで処刑(斬首)
義宗(1331-1368)武蔵平一揆に呼応・参戦するも敗死
●義宗の子
貞方(1355-1409)後南朝に加わるも息子・貞邦と共に義貞ゆかりの七里ガ浜で処刑(斬首)
満純(????ー1417)岩本姓、新田男爵家の祖先 上杉禅秀の乱に加担し鎌倉・竜の口で処刑(斬首)
親季(????ー????)世良田姓もしくは得川姓 徳川家康が自分の祖先と主張した人物 信濃・浪合の合戦で敗死
義則(????ー1404)脇屋姓で義助の孫説もあり 息子義行と共に箱根・底倉で処刑(斬首) 岩松を華族に列していいかどうか、当時の明治政府でも色々もめた、というか議論があったんだろ。 >>89
大隈重信の家に居候していた岩松の娘に井上馨が一目惚れし、妻に迎えたために、
下級武士だった父親が爵位を与えられるまで取り立てられたってことだね 近世の岩松氏は大身旗本の家なのだから、下級武士ではないだろ? 後醍醐帝の残っている千種忠顕への私信
「我が侍大将が京から離れて関東に行く事は阻止したい。彼の者が関東鎮定に行ってしまえば朕を誰が守るというのか?」
足利尊氏さん、愛されてたやんけ >>89
岩松と由良とどちらが新田の嫡流として妥当か、みたいな議論だっけ? 岩松って鎌倉公方足利成氏裏切って関東管領についたあとまた裏切ろうとして関東管領に殺された岩松さん つまり岩松って実は新田家とは何の関係もない詐欺師バッタモンということでFA? >>99
新田の分家だろ
新田本宗家(とまで言うほどの規模ではないけど)が四分五裂したあとに
新田庄を管理してたのが岩松さん 鎌倉時代の途中までは新田総本家より、むしろ諸流の世良田氏とか岩松氏が有力だったらしいやね 鎌倉初期から中期までは腐っても新田総本家
その後世良田がのし上がり
世良田頼氏が突然出家から赤松へ
かな
ドラマで世良田氏って出ていたっけ? 尊氏以降、諸国に足利一門が栄えたわけだけど
もし、仮に、ひょっとして、万が一、義貞が尊氏の代わりになれていたら、
斯波、細川、今川、吉良。等々のかわりに
岩松とか世良田とか里見とか大舘とか堀口なんかが守護大名になってたのかもね
やっぱり世の中、親分次第で子分の生きる道が決まるよね(´・ω・`) そーいや岩松さんの北に桃井さんの支族が上野におったな
享徳の乱では徹頭徹尾、足利成氏方で
上野で対上杉の最前線で頑張ってた
本当に足利尊氏嫌いなんなんだな、桃井さん なんで詐欺師バッタモンという考えに行き着くのだろうか。熱中症で頭がおかしくなったのかな >>104
一門の中での義貞さんの位置がいまいち高くないのがなあ
山名あたりはちゃっかり似たような地位に納まりそうではある >>107
まあ小太郎君のせいじゃなくて先々代があまりにもボンクラだったのがね・・・ >>100
岩松氏は新田一門扱いも受けるが、男系血縁では足利の庶流だから、ややこしい。
これと逆のパターンが山名氏かな。
>>99
バッタもんというなら、岩松氏より由良氏だろう・・・。 >>104
真偽はともかく新田残党を由来とする被差別部落も関東に複数存在するから、負けた側は迫害受けたのも歴史の厳しいところだな 新田の子孫を名乗る被差別部落って
鎌倉街道沿いとかに新田が設置した監視小屋の番人あたりが起源だろ。 >>104
新田の庶流の得川家の
松平徳川家が天下を獲ったから良しとすべき 家康の祖父が世良田次郎三郎を名乗ってたな
家康は世良田の親分格の得川にしたかったがすでにいたために徳川にw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています