【第三十四回】太平記 part.34『尊氏追討』
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>>208
後宇多さんがあかんのは
後二条の子供たちへの譲位に中々同意せんかったのがね
10年で持ち回りで持明院さんに返す約束なんだから返しなさいって話ですよ
大覚寺はんは約束反古にしようとしたのがあかんのですよ >>209
> 今では正中の変は後醍醐失脚させるための反後醍醐派の陰謀だったんだろ説が
> 学会で勢いがある始末
それ、面白いな >>212
後宇多さんが亡くなった2ヶ月後だからね、正中の変は
で、 丁度その時に西園寺の娘さんが臨月で安産祈願してたのが倒幕の祈祷してたってのがあったけど
マジで男子ほしくて祈祷してたんじゃねーかって話になってる
後醍醐さんの在位期間は一応あと最大で4年あったからその間に
西園寺さんの皇子がいれば立太子して院政までもってける可能性大きくなっから 最近の学会で研究が盛んなのは
誰が官位を恩賞として利用するのを後醍醐に進言したのかって話だそうだ
なんでもそれまでは寄進や寺院建立などの成功で官位を得ていた上に
家格によって上が決まってた
とこらが建武政権は家格完全無視で恩賞として、官位を利用しまくった
北畠親房なんか「なんで戎夷の塵芥があんなに高い官位貰ってんだよ、久家の世どころか武士の世がかえって進んでるじゃねーか」ってぶちギレるほど利用しまくった
後醍醐一人で考えられるもんでもないし
誰がこれ考えたんだろーか?って話になってるそうな 後醍醐帝もようやく暗君評価見直しか
義貞さんもぼちぼちどうだろう >>211
文保の和談は、その後の皇位継承を尊治(後醍醐)→邦良→量仁(光厳)の順にすると
言っていて、両統迭立と言いながら大覚寺統が二代続くことを容認しているわけで、
これ自体は大覚寺統のほうに有利な取り決めなんだよな。 >>214
でも破格の取り立てをしたから、後醍醐のために命を投げ出すような楠木正成のような
人物も出てきたわけでw
湊川の戦いのときの楠木って、自分の意見に聞く耳を持たない後醍醐のために出陣して、
戦死までする義理なんてなかっただろうに、後醍醐への恩義を相当感じていたのだろう。 此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀綸旨 召人 早馬 虚騒動
生頸 還俗 自由出家 俄大名
迷者 安堵 恩賞 虚軍 本領ハナル、訴訟人
文書入タル細葛、追従 讒人 禅律僧 下克上スル成出者 そもそも二つの系統に分かれて、
両方から交互に天皇を出すって話になった時点で、
「万世一系」なんてデタラメだよな。 >>217
オイオイ
楠木正成の恩賞の少なさって知っているか?
北畠親房も後の皇国史観で語っているぞ ドラマでは都合上、中立派になっていたけど、実態は大塔宮派だったからね 仕方ない >>220
無位無官の河内のおっさんが
摂津・河内・和泉の巨大国の守護職に従五位上だぞ
中々の大出世やないか 「三木一草」などという言葉もあるわけで、楠木の出世が破格であるという自体認識は、
当時からあるだろう。
>>220
親房の皇国史観とは? >>224
まぁまぁw
相手はしったか全開の厨房なんだから、生暖かい目で見守ってやろうぜ 後醍醐が隠岐に流され、ましらの石が救出しに行くまでの間、
皇位はだれが継いでたの? 幕府は後醍醐天皇が京都から逃亡するとただちに廃位し、皇太子量仁親王(光厳天皇)を即位させた。
帰京した後醍醐天皇は、自らの退位と光厳天皇の即位を否定し、光厳朝で行われた人事をすべて無効にするとともに、幕府・摂関を廃して建武の新政を開始する。 光厳院を知らないとか舐めてんの
>>214
そらもう大覚寺統の柱石 吉田定房卿よ >>228
長年蔵人してた吉田光任という人なんじゃね、説
と
吉田定房説
と
葉室長光説
と
日野資明説
まあ殆ど吉田定房の近親者w >>228
ドラマにも光厳は普通に出てきたのにな。
光厳即位に伴って、後醍醐は自動的に先帝と見なされたってナレもあったし >>230
天皇時代に北条の衆と逃げて流れ矢を腕に受けたり
上皇時代に土岐さんに犬と間違えられて矢で射られたり
頼詮の凡暗に置き去りにされて拉致されたり
まあ波乱万丈ですわな 義詮なw
光厳さんのwiki肖像画、侘しくて泣けてくるわ 光厳帝最後の旅を最終章に持ってきている版があるらしいね
美しい構成だと思う >>227
後醍醐によって、光厳は即位した事実自体を否定されたからな。
後醍醐の論理では、当人が京都にいなかった間も一貫して在位中の天皇であり、
2年近くかけて笠置や隠岐などを旅行してきただけということだったらしいw 即位は否定されたけど上皇待遇はするっていうね
うーん先例無視 >>235
南北朝合一後の朝廷も、後亀山に対して、即位の事実は認めないが上皇待遇にするって
方針だったね。 >>234
2年間もの職務放棄を正当化して
周囲も許しちゃうところが動乱の時代ですな >>236
後醍醐も本当は隠岐廃帝と後世呼ばれるはずだったのだが・・・。 正平一統じゃああっという間に北朝は廃止されるし
でも治天は光厳院さんだから三種の神器もってたら
破談で神器ごと拉致られる
だがちょっと待って欲しい。後醍醐さんは北朝の神器は偽物と言ってたのに
なぜ北朝の神器を奪うのだろうか・・・偽物なのに そもそも後醍醐は恒良親王に譲位したはずなんよね
少なくとも恒良自身は自分が天皇だと思って北陸くんだりまで出向いたはずなのに(´・ω・`) 恒良さんの持ってた三種の神器は何処に?
そっちも偽物らしいが 北陸で恒良が使っていた幻の元号、白鹿(ハクロク)って恰好ええよね(´・ω・`) >>244
でもさ、義詮が何度かの大ポカのあと、ようやく後光厳をつれて美濃に逃げた時、
南朝側は後光厳のことを「美濃の偽主」呼ばわりしてたくらいだし、
おそらく、恒良の主観でも「くんだり」だったんじゃないのかな(´・ω・`) >>246
色+動物の名前っていう元号は、過去には飛鳥時代の「白雉」「朱鳥」しか例がないよね? 一般的に公家社会で先例とされるのは、平安期以降の先例だからなぁ。 勢いで書いて後で調べてみたら
白鹿が使われたのは恒良も義貞も死んだあとに出てきた元号だった。
すると当時の北陸の南朝勢力で、白鹿の元号が入った発給文書を、
誰が中心になってだしてたんだろうな >>248
「白鳳」「朱雀」は、それぞれ「白雉」「朱鳥」の別名or誤記ということで、いいのだっけ? 日本中に光厳寺ってあるけど
光厳天皇ゆかりの地が多いよね
東京山奥多摩の光厳寺は
光厳天皇が義詮とともに滞在した寺だし 光厳は、花園上皇の妃と密通して、直仁親王を産ませたりもしているけどね。 北朝は、崇光流を抑えて後光厳流が主流になるんだぜ
「光厳」はそれなりにありがたいんだろ >>255
土岐頼遠に犬と間違えられてからの光厳さんはその前の光厳さんとは別人だから・・・
禅の求道者になっちったから 光厳は、花園の皇子ということになっている直仁親王が、実は自分の子であることを
認めた上で、崇光の次の天皇を直仁親王にしようとしたわけだが。
そして、この直仁親王の母親(光厳の不義の相手)の宣光門院の兄である正親町公蔭が、
登子の義兄ということもあって、室町幕府も直仁親王擁立に賛成であったとか。 >>261
夢窓疎石じゃなくて春なんとかの方だったような >>252
行った事あるわ
すげー山奥のホントに小さな寺で
人ひとりいなかったが
寺紋に二つ引き両を見た時感動したわ もう夢窓疎石がこの時代のフィクサーで決まりだな。
まさか光厳まで手懐けていたとは。
この時代をより深く知るには夢窓疎石の事跡を調べたほうがよさそうだ。 春屋妙葩って室町幕府の五山十刹の制度を作った人物か? 光厳帝の母って>>38なんだな
治天の君に推されたのも納得 後光厳即位の際に広義門院が治天に推された理由は、単に後光厳の直系専属に当たる人で、
南朝に拉致られていなかったからってだけでは? 江戸時代の青綺門院も南北朝時代の広義門院と似た立場にあったらしいね 広義門院は、後光厳即位時に治天の君に見立てられただけ?
それともその後も、治天の君としての実態があるの?
ドラマはこの件をスルーしているけど。 多々良浜の戦いと同様で、描きようがなかったのだろうな。 このドラマはあくまで尊氏が主役だからな
正平一統を決めたのは尊氏でも実際に運用して破綻まで携わったのは義詮だから 義詮のボンクラがやらかした時に
尊氏は関東で鬱々と弟の菩提弔ってたからね あのときは、尊氏的には関東を離れられる状況になかったのだから仕方ない。 直義が挙兵した際に、天皇・上皇を置き去りにして京都を離れた義詮を、師直が非難する
シーンがあるけど、あれって、なんかドラマでは描かれなかった正平の一統のときの
状況を暗示するような演出だよね。 最近のチンタラした展開の大河より内容が濃かったよな。むしろ尺が足りない位だった 尊氏は居座ると長いよな
催促しなかったら九州でも半年くらいいたかもしれん 九州はともかく、晩年の関東長期滞在は、直義死後の関東の混乱を収めるためだし、
尊氏配下の東国武士たちも、このままずっと関東にいたいとゴネていたって話だよ。 >>278
>義詮のボンクラ
ハイ
無知暴露www 義詮の生涯最高の戦歴は、数え年4歳で参加した鎌倉攻めか? >>289
長男の直冬
嫡男の義詮
次男の基氏
みーんなほっぽり出されてるからな
尊氏に 鎌倉に叛旗を翻した時に北条に捕まって殺された子もいたな そら
直冬も基氏も尊氏よりも叔父ちゃん大好きっ子になるわな 基氏に関しては、当人は直義との接点なんて大してないだろうけど、取り巻きが
元直義派ばかりだったからでしょ? この時代を扱っただけでも評価できるドラマ
視聴率はよかったのに、その後30年間も避けられっぱなし >>296
六波羅探題は、幕府本体とほとんど同じような組織を持っていたし、六波羅探題が出す
下知状・御教書などの発給文書は、幕府の出す発給文書と変わらない効力を持っていたよ。 >>297
北条時宗に出てきた
平幹二郎の重時とか
宮迫の義宗が北方だった
登子や守時の祖父 >>294
基氏が9歳で鎌倉に下向するときに洛外まで見送ったのは直義と上杉一門の面々、尊氏は見送らなかった。
直義が鎌倉に落ちた時に撃破されたのに直義と一緒にいて色々薫陶を受けてたと亀田ちゃんは言ってる
てか、もう兄ちゃんに勝つ気もやる気もないじゃん、直義・・・ >>297
鎮西探題と六波羅探題は小幕府なんだってな
六波羅探題のお役人はそのまんま建武政権に移行してそのまんま室町幕府に移行してる人が多いくらい実務官僚は優秀
てか
他に出来るのは朝廷の蔵人くらいしかおらんのよね
土地管理 尊氏< あのぼんくらがピンチになったら関八州の勢力でささえてやってくれ
死の直前の粛清といい、なかなかに苦労したようだ
>>299
自分は直義ガチ病気説なので、打出浜のころからもうだめだったと思ってる
子供が生きてたらどうだったかな 尊氏が補任を「ほにん」と言っているシーンがあるけど、何とかならなかったのかな。 雑訴決断所の役人は「日野俊基殿の“ぶんしょ”」と言っていた。
赤松初登場シーンのナレーションは「大塔宮の“りんじ”」と言っていた。
細かいことは気になさんなってw 直義は女っ気がなさすぎるな。政治にしか興味がなかったのか。子どもはつくらないとだめだろう
対照的に師直は色狂い 直義救出のため尊氏に嘆願書を送って伊豆に飛ばされた義詮
も直義派の疑いをかけられる基氏
初代鎌倉公方の義詮と次の基氏
2人は仲が良い兄弟
その後の幕府と鎌倉公方の血みどろの戦
官僚の上杉憲実の苦悩
プチ応仁の乱でござる 長いのに全く句読点がなくて、なおかつ改行の仕方が意味不明だからでは? そういや湊川の戦いの前の足利軍九州滞在の下りが思いっきり省略されてたな。
あそこも元寇襲来以来の色々なエピソードからめれば面白く描けたと思うのだが。 応仁の乱と言うより観応の擾乱の延長戦だろ。
しかし長い兄弟喧嘩だな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています