【第三十四回】太平記 part.34『尊氏追討』
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>>228
長年蔵人してた吉田光任という人なんじゃね、説
と
吉田定房説
と
葉室長光説
と
日野資明説
まあ殆ど吉田定房の近親者w >>228
ドラマにも光厳は普通に出てきたのにな。
光厳即位に伴って、後醍醐は自動的に先帝と見なされたってナレもあったし >>230
天皇時代に北条の衆と逃げて流れ矢を腕に受けたり
上皇時代に土岐さんに犬と間違えられて矢で射られたり
頼詮の凡暗に置き去りにされて拉致されたり
まあ波乱万丈ですわな 義詮なw
光厳さんのwiki肖像画、侘しくて泣けてくるわ 光厳帝最後の旅を最終章に持ってきている版があるらしいね
美しい構成だと思う >>227
後醍醐によって、光厳は即位した事実自体を否定されたからな。
後醍醐の論理では、当人が京都にいなかった間も一貫して在位中の天皇であり、
2年近くかけて笠置や隠岐などを旅行してきただけということだったらしいw 即位は否定されたけど上皇待遇はするっていうね
うーん先例無視 >>235
南北朝合一後の朝廷も、後亀山に対して、即位の事実は認めないが上皇待遇にするって
方針だったね。 >>234
2年間もの職務放棄を正当化して
周囲も許しちゃうところが動乱の時代ですな >>236
後醍醐も本当は隠岐廃帝と後世呼ばれるはずだったのだが・・・。 正平一統じゃああっという間に北朝は廃止されるし
でも治天は光厳院さんだから三種の神器もってたら
破談で神器ごと拉致られる
だがちょっと待って欲しい。後醍醐さんは北朝の神器は偽物と言ってたのに
なぜ北朝の神器を奪うのだろうか・・・偽物なのに そもそも後醍醐は恒良親王に譲位したはずなんよね
少なくとも恒良自身は自分が天皇だと思って北陸くんだりまで出向いたはずなのに(´・ω・`) 恒良さんの持ってた三種の神器は何処に?
そっちも偽物らしいが 北陸で恒良が使っていた幻の元号、白鹿(ハクロク)って恰好ええよね(´・ω・`) >>244
でもさ、義詮が何度かの大ポカのあと、ようやく後光厳をつれて美濃に逃げた時、
南朝側は後光厳のことを「美濃の偽主」呼ばわりしてたくらいだし、
おそらく、恒良の主観でも「くんだり」だったんじゃないのかな(´・ω・`) >>246
色+動物の名前っていう元号は、過去には飛鳥時代の「白雉」「朱鳥」しか例がないよね? 一般的に公家社会で先例とされるのは、平安期以降の先例だからなぁ。 勢いで書いて後で調べてみたら
白鹿が使われたのは恒良も義貞も死んだあとに出てきた元号だった。
すると当時の北陸の南朝勢力で、白鹿の元号が入った発給文書を、
誰が中心になってだしてたんだろうな >>248
「白鳳」「朱雀」は、それぞれ「白雉」「朱鳥」の別名or誤記ということで、いいのだっけ? 日本中に光厳寺ってあるけど
光厳天皇ゆかりの地が多いよね
東京山奥多摩の光厳寺は
光厳天皇が義詮とともに滞在した寺だし 光厳は、花園上皇の妃と密通して、直仁親王を産ませたりもしているけどね。 北朝は、崇光流を抑えて後光厳流が主流になるんだぜ
「光厳」はそれなりにありがたいんだろ >>255
土岐頼遠に犬と間違えられてからの光厳さんはその前の光厳さんとは別人だから・・・
禅の求道者になっちったから 光厳は、花園の皇子ということになっている直仁親王が、実は自分の子であることを
認めた上で、崇光の次の天皇を直仁親王にしようとしたわけだが。
そして、この直仁親王の母親(光厳の不義の相手)の宣光門院の兄である正親町公蔭が、
登子の義兄ということもあって、室町幕府も直仁親王擁立に賛成であったとか。 >>261
夢窓疎石じゃなくて春なんとかの方だったような >>252
行った事あるわ
すげー山奥のホントに小さな寺で
人ひとりいなかったが
寺紋に二つ引き両を見た時感動したわ もう夢窓疎石がこの時代のフィクサーで決まりだな。
まさか光厳まで手懐けていたとは。
この時代をより深く知るには夢窓疎石の事跡を調べたほうがよさそうだ。 春屋妙葩って室町幕府の五山十刹の制度を作った人物か? 光厳帝の母って>>38なんだな
治天の君に推されたのも納得 後光厳即位の際に広義門院が治天に推された理由は、単に後光厳の直系専属に当たる人で、
南朝に拉致られていなかったからってだけでは? 江戸時代の青綺門院も南北朝時代の広義門院と似た立場にあったらしいね 広義門院は、後光厳即位時に治天の君に見立てられただけ?
それともその後も、治天の君としての実態があるの?
ドラマはこの件をスルーしているけど。 多々良浜の戦いと同様で、描きようがなかったのだろうな。 このドラマはあくまで尊氏が主役だからな
正平一統を決めたのは尊氏でも実際に運用して破綻まで携わったのは義詮だから 義詮のボンクラがやらかした時に
尊氏は関東で鬱々と弟の菩提弔ってたからね あのときは、尊氏的には関東を離れられる状況になかったのだから仕方ない。 直義が挙兵した際に、天皇・上皇を置き去りにして京都を離れた義詮を、師直が非難する
シーンがあるけど、あれって、なんかドラマでは描かれなかった正平の一統のときの
状況を暗示するような演出だよね。 最近のチンタラした展開の大河より内容が濃かったよな。むしろ尺が足りない位だった 尊氏は居座ると長いよな
催促しなかったら九州でも半年くらいいたかもしれん 九州はともかく、晩年の関東長期滞在は、直義死後の関東の混乱を収めるためだし、
尊氏配下の東国武士たちも、このままずっと関東にいたいとゴネていたって話だよ。 >>278
>義詮のボンクラ
ハイ
無知暴露www 義詮の生涯最高の戦歴は、数え年4歳で参加した鎌倉攻めか? >>289
長男の直冬
嫡男の義詮
次男の基氏
みーんなほっぽり出されてるからな
尊氏に 鎌倉に叛旗を翻した時に北条に捕まって殺された子もいたな そら
直冬も基氏も尊氏よりも叔父ちゃん大好きっ子になるわな 基氏に関しては、当人は直義との接点なんて大してないだろうけど、取り巻きが
元直義派ばかりだったからでしょ? この時代を扱っただけでも評価できるドラマ
視聴率はよかったのに、その後30年間も避けられっぱなし >>296
六波羅探題は、幕府本体とほとんど同じような組織を持っていたし、六波羅探題が出す
下知状・御教書などの発給文書は、幕府の出す発給文書と変わらない効力を持っていたよ。 >>297
北条時宗に出てきた
平幹二郎の重時とか
宮迫の義宗が北方だった
登子や守時の祖父 >>294
基氏が9歳で鎌倉に下向するときに洛外まで見送ったのは直義と上杉一門の面々、尊氏は見送らなかった。
直義が鎌倉に落ちた時に撃破されたのに直義と一緒にいて色々薫陶を受けてたと亀田ちゃんは言ってる
てか、もう兄ちゃんに勝つ気もやる気もないじゃん、直義・・・ >>297
鎮西探題と六波羅探題は小幕府なんだってな
六波羅探題のお役人はそのまんま建武政権に移行してそのまんま室町幕府に移行してる人が多いくらい実務官僚は優秀
てか
他に出来るのは朝廷の蔵人くらいしかおらんのよね
土地管理 尊氏< あのぼんくらがピンチになったら関八州の勢力でささえてやってくれ
死の直前の粛清といい、なかなかに苦労したようだ
>>299
自分は直義ガチ病気説なので、打出浜のころからもうだめだったと思ってる
子供が生きてたらどうだったかな 尊氏が補任を「ほにん」と言っているシーンがあるけど、何とかならなかったのかな。 雑訴決断所の役人は「日野俊基殿の“ぶんしょ”」と言っていた。
赤松初登場シーンのナレーションは「大塔宮の“りんじ”」と言っていた。
細かいことは気になさんなってw 直義は女っ気がなさすぎるな。政治にしか興味がなかったのか。子どもはつくらないとだめだろう
対照的に師直は色狂い 直義救出のため尊氏に嘆願書を送って伊豆に飛ばされた義詮
も直義派の疑いをかけられる基氏
初代鎌倉公方の義詮と次の基氏
2人は仲が良い兄弟
その後の幕府と鎌倉公方の血みどろの戦
官僚の上杉憲実の苦悩
プチ応仁の乱でござる 長いのに全く句読点がなくて、なおかつ改行の仕方が意味不明だからでは? そういや湊川の戦いの前の足利軍九州滞在の下りが思いっきり省略されてたな。
あそこも元寇襲来以来の色々なエピソードからめれば面白く描けたと思うのだが。 応仁の乱と言うより観応の擾乱の延長戦だろ。
しかし長い兄弟喧嘩だな。 義詮と基氏の仲は良好だったわけだし、観応の擾乱は流石にリセットされているのでは? >>310
訴訟制度が
幕府は御前沙汰
鎌倉府が理非糾明
何故か尊氏が帰った後に直義の手法に戻ってるんだよな
何故かは知らん 関東は尊氏が死んだあとは、結局上杉とかもとの直義派が牛耳ることになるからね
尊氏が作った体制が続いてたら、宇都宮が上杉の立場になってたかもしれないんだよな
そうなってたら後の長尾景虎は日の目をみなかったのかも(´・ω・`) >>311
そもそも御前沙汰に拘ったのは、尊氏というより義詮だから・・・。 >>310
長男方の幕府と次男方の鎌倉公方の、兄弟げんか。 >>315
生涯に一回程度しか会わない親戚だぞ
持氏は万人恐怖とは会ったことないし >>316
合ったか合わないって、
現代人のお花畑感覚満載だな。 >>317
将軍と関東公方が会うのは元服の際の一度だけ
それも持氏のときまででその後は全く音信不通
成氏以降の関東公方にとっては幕府が上の存在という認識はなくなってる >>318
実際に当人たちが合った事に執着しているけど
そんな事は重要ではない。
君は基本的な事が欠落している。 >>319
外野だけど、会った会わないは重要だと思うよ。
江戸時代の参勤交代も諸大名の財力を削ぐという目的以外にも為政者としたら権力の威光を見せつけることができる。 >>318
成氏以降の関東公方も将軍から偏諱を貰っているわけで、京都の将軍の存在はそれなりに
意識しているでしょう。 今の足利家は基氏の系列だな もっとも何度も養子が入って血縁関係はないが >>325
それは喜連川系の足利氏でしょう?
平島系は、基氏の流れではない。 >>326
平島系は華族制廃止まで子爵家だった足利家(本家)と関係ねぇだろ
てか何なんだよお前は ウザいからレスするな >>324
持氏「俺の息子は八幡太郎義家の義とって義氏だぜ!!」 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています