【第三十四回】太平記 part.34『尊氏追討』
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まぁとはいえ前線に出て討ち死にする公家ってそうはいないしね
顕家卿と比べちゃうと、そらもうアレだけど >>732
三条家から太上大臣が出た時点で前例無視だわな 清華家って太政大臣まで上がれるんじゃなかったっけ? 清華家は太政大臣に元々就任可能だから三条実美の就任は問題ない
むしろ岩倉具視の右大臣のほうが本来の朝廷からすれば異例 日野勝光は名家で左大臣となり、分不相応だったせいか、直後に花の御所で開かれた拝賀の宴で、誤って鼠殺し入りの酒を飲んでしまい、不慮の死を遂げた。 >>739
草刈正雄の日野勝光かw
真田昌幸より個人的には好きだけど >>740
花の乱は花燃ゆすら越える糞の塊の史実完全無視のファンタジー大河だからな
本当に名優の無駄遣いだった 足利氏って、いつから公家と対等以上になったんだっけ?
足利義満は、母方で天皇と従兄弟になるんだったかな?
鎌倉幕府が滅んだ頃から?
南北朝が和平を結んだ頃から? >>741
確かにファンタジー盛りだくさんだけど、それをある程度うまく昇華できていたと思うぞ
そもそも史実の記録が少ないから行間をファンタジーで埋めざるを得ないわけで
ガッチリ残っている史実を無視してファンタジーに走った糞燃ゆやシエに並べるのは酷というもの 実際にその時代に自分の目で見ないと確かなことはわからないよ。一次資料も眉唾ものよ。 ドラマとドキュメンタリーの区別がつかないバカってまだいるんだな >>744
山名宗全は切腹して死ぬし
義政は行倒れるし
日野勝光は毒殺されるし
細川勝元は躍りがすっげー上手いし
あかんて 網野善彦なんかは自分が書いてることが本当に史実どおりかどうか、
本音では信じてなかったと思うぞ。 >>742
そう言うアホくさい質問はいいからw
歴史板か自分でググってから来なさい >>748
一番ヤバいのは
日野富子が入れ替わってることw
本来は檀ふみ >>744
室町の朝廷・幕府関連の史料なら山ほど残存しているけどな
>>751
確かにドラマ的にもどういう意味があるのかよく分からないあの序盤の入れ替わりと
過去と現代が錯綜するような演出で中高年の視聴者の多くが訳分からなくなって
脱落してしまったのが低視聴率の最大の原因かな
上手くやれば題材自体は魅力的なのに・・・
というか大河でほぼ初めて取り上げる時代の話を扱うのなら
あまり変な創作はせずに基本線は通説通りの構成でやったほうが無難だったと思う 義政って実は歴史を俯瞰的に見れば超大物公方なのか?
今の日本文化って東山文化無しじゃありえないし
東山文化っていうのは東山殿の文化と同義って言うし 文化人としては優れていても政治家としては無能極まりない人物なんて普通にいるよ
義政しかり・・・後白河法皇しかり・・・
ただ文化人として素晴らしければ政治家としての無為無策が免責されるというものでもない >>756
伊勢貞親
「御所様はいっつもいいところまで行くんだけど父上の最期がちらついて最後は大名に負けてた、さぞ無念であったろう」
頑張りきれんかった模様 どこかで再放送でもしてれば語るような話題ができるんだろうけど
ネタ不足だから >>762
創立が謎なんだよね
奈良の国学遣制説
平安の小野篁説
鎌倉の足利義兼説 >>758
そこでなぜ信長とフリードリヒ大王なのよ?w >>767
尊氏と蹴鞠をしていた場面で登場したくらい? 役割的には直冬がピカイチだからな
役者が棒だっただけで 足利義政とよく似たタイプの人物というと、まず思い付くのが中国北宋の徽宗あたりかな? >>776
でも普通に元気で捕虜になっとことないじゃん 北宋といえば
尊氏と直義の関係って
太祖趙匡胤と大宗趙匡義に似とるわな
こっちは兄が弟殺したけど >>779
文化人としては超一流だが政治家としてはグズという意味での話よ >>781
>>783
だな
文化人と政治家を分けて考えるって
バカ過ぎる まあ日本の室町時代と中国の北宋時代はどちらも文化的にルネサンス的な要素がある点でも似ているところはある 直接ではないにしろ、
兄が弟殺したのって頼朝と義経もなんだな… 信長、元就、まーくん、義龍、倍額商法、
戦国なら結構おるぞ >>791
範頼は直義に少しだけ近いかも。
義経は兄貴を東武士とバカにして、
兄貴の首を落として天下取りを目指していたから。 >>788
信長は直接だな。
直接じゃないのは結構多い。(家光と忠長とか) ある程度
政治が安定した上で文化が開く
動乱の南北朝の武士には無理ポ >>803
花のためには天皇の弟の寺院を焼き払う情熱のある文化人いらっしゃったやん >>804
バサラが文化人なら
尊氏も直義も
みんな文化人 大原野の花見は文化人だと思うわ
太平記だって特集記事組むレベル 尊氏は鎌倉に住んでた若いころから京都に歌を送ったりしてたらしいな
京においては、武で名を馳せるより先に、まずは鎌倉の武家歌人として知ってる人は知ってるみたいな感じだったのかも。 母親つながりで都に縁があったからだろう
むしろ鎌倉では価値観とか立ち居振舞いが浮いていたのではなかろうか 独眼流政宗で、真田と沢口が夫婦だったが、今作でも夫婦なのは、なんか理由があったの? >>810
別に意味ないんじゃね?並びはお雛様みたいで似合ってたし人気もあったからって事でしょ 尊氏は後醍醐が挙兵しなければ、和歌に能にと気楽な一生を送れたのかなぁ
面倒くさいことは全部直義と師直に押し付けてw
まぁそれ以前に、長兄の高義が若死にしなければどうなってたのか、というIFもあるんだけどね >>803
高校日本史の教科書には
「室町文化は南北朝文化・北山文化・東山文化の3期に区分される」とあったけど?
>>811
確かこのドラマの制作発表の際に沢口靖子が
「前回は最後が離別という不幸な感じになっちゃったから今回こそは添い遂げたい」
みたいなことを言っていたらしい >>813
>室町時代には、室町幕府の保護によって進出した禅宗の影響を受けた武家文化が成立しました。足利義満によって日明貿易が活発化すると、大陸文化と日本の伝統文化、中央文化と地方文化、貴族文化と庶民文化がそれぞれ融合し、独自の文化が花開きました。
>室町文化は、若々しい南北朝文化、文化融合が進んだ壮麗な北山文化、枯淡美に芸術性を見出した東山文化にわかれます。特に、北山文化・東山文化は、室町文化の核となりました。
>南北朝時代は、戦乱や皇統が2つに分かれるなどの世相を背景に、歴史書や軍記物語が書かれました。
北山、東山と比べる物ではない。 >>807
尊氏が鎌倉に住んだのは、高義が死んだあとか親父が死んだあとだ
尊氏は妾の子であり、貞氏から遠ざけられていた形跡がある
貞氏は三河と鎌倉を頻繁に行き来したらしいから、正室を鎌倉に、妾を三河に住ませたんだろう
いい加減、常に三河を中心に据えて物事を考える癖をつけよ
尊氏直義は日名屋敷で生まれた可能性大
■日名屋敷
鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。 1305年に清子のと〜ちゃんか〜ちゃんが何処にいたが鍵なんだが
上杉頼重は三河担当奉行人の頭、言わば三河守護代のような立場であり、1310年に三河在住なのが確認されている
1301〜1305年の間に足利貞氏は出家したと言われるが、憶測だがその出家に合わせて同時期に自らも出家し、家督を跡継ぎに譲り、三河に移り住んだのではないか
すると尊氏が生まれた1305年に頼重は三河在住であり、清子が実家で生むとなると、その場所は三河の実家なのである
日名屋敷は鎌倉街道の近くにあり、父母がいる屋敷をスルーして、京都まで一人で行き、生むなんつーのはあり得ないのである はて、このスレに儂の許さぬ者が来ておる・・・。
かかる者の書き込みは許さぬ。三河屋っ、その方じゃー! 御家人として鎌倉で出仕し、出家後、三河に戻った奴で分かっているのは
足利家氏(斯波氏の祖)
吉良長氏(初代吉良氏)
吉良貞義
足利貞氏も、出家した時期に三河で写経とかしているから例として挙げてもいいが
前例からして、上杉頼重も出家して三河に戻ったは、極めて自然な考えなのである 御家人として鎌倉で出仕し、出家後、三河に戻った奴で分かっているのは
足利家氏(斯波氏の祖)
吉良長氏(初代吉良氏)
吉良貞義
足利貞氏も、出家した時期に三河で写経とかしているから例として挙げてもいいが
前例からして、上杉頼重も出家して三河に戻ったは、極めて自然な考えなのである 大事なことなので二度言ったのかもしれんが
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龍神連合四代目総長の俺様がぶちのめしてやるぜっ!! 賞金をやるからいつでもかかって来いっ!! 糞バエ関東連合どもっ!! 待ってるぜっ!!」(挑戦状) 直義じゃなく高一門の誰かの養子に出す、これが政治的配慮だろう。 自分の子一人御しきれずに天下の政を行うなんてちゃんちゃらおかしいよな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています