【第三十四回】太平記 part.34『尊氏追討』
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>>810
別に意味ないんじゃね?並びはお雛様みたいで似合ってたし人気もあったからって事でしょ 尊氏は後醍醐が挙兵しなければ、和歌に能にと気楽な一生を送れたのかなぁ
面倒くさいことは全部直義と師直に押し付けてw
まぁそれ以前に、長兄の高義が若死にしなければどうなってたのか、というIFもあるんだけどね >>803
高校日本史の教科書には
「室町文化は南北朝文化・北山文化・東山文化の3期に区分される」とあったけど?
>>811
確かこのドラマの制作発表の際に沢口靖子が
「前回は最後が離別という不幸な感じになっちゃったから今回こそは添い遂げたい」
みたいなことを言っていたらしい >>813
>室町時代には、室町幕府の保護によって進出した禅宗の影響を受けた武家文化が成立しました。足利義満によって日明貿易が活発化すると、大陸文化と日本の伝統文化、中央文化と地方文化、貴族文化と庶民文化がそれぞれ融合し、独自の文化が花開きました。
>室町文化は、若々しい南北朝文化、文化融合が進んだ壮麗な北山文化、枯淡美に芸術性を見出した東山文化にわかれます。特に、北山文化・東山文化は、室町文化の核となりました。
>南北朝時代は、戦乱や皇統が2つに分かれるなどの世相を背景に、歴史書や軍記物語が書かれました。
北山、東山と比べる物ではない。 >>807
尊氏が鎌倉に住んだのは、高義が死んだあとか親父が死んだあとだ
尊氏は妾の子であり、貞氏から遠ざけられていた形跡がある
貞氏は三河と鎌倉を頻繁に行き来したらしいから、正室を鎌倉に、妾を三河に住ませたんだろう
いい加減、常に三河を中心に据えて物事を考える癖をつけよ
尊氏直義は日名屋敷で生まれた可能性大
■日名屋敷
鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。 1305年に清子のと〜ちゃんか〜ちゃんが何処にいたが鍵なんだが
上杉頼重は三河担当奉行人の頭、言わば三河守護代のような立場であり、1310年に三河在住なのが確認されている
1301〜1305年の間に足利貞氏は出家したと言われるが、憶測だがその出家に合わせて同時期に自らも出家し、家督を跡継ぎに譲り、三河に移り住んだのではないか
すると尊氏が生まれた1305年に頼重は三河在住であり、清子が実家で生むとなると、その場所は三河の実家なのである
日名屋敷は鎌倉街道の近くにあり、父母がいる屋敷をスルーして、京都まで一人で行き、生むなんつーのはあり得ないのである はて、このスレに儂の許さぬ者が来ておる・・・。
かかる者の書き込みは許さぬ。三河屋っ、その方じゃー! 御家人として鎌倉で出仕し、出家後、三河に戻った奴で分かっているのは
足利家氏(斯波氏の祖)
吉良長氏(初代吉良氏)
吉良貞義
足利貞氏も、出家した時期に三河で写経とかしているから例として挙げてもいいが
前例からして、上杉頼重も出家して三河に戻ったは、極めて自然な考えなのである 御家人として鎌倉で出仕し、出家後、三河に戻った奴で分かっているのは
足利家氏(斯波氏の祖)
吉良長氏(初代吉良氏)
吉良貞義
足利貞氏も、出家した時期に三河で写経とかしているから例として挙げてもいいが
前例からして、上杉頼重も出家して三河に戻ったは、極めて自然な考えなのである 大事なことなので二度言ったのかもしれんが
短時間でID変わるのはなぜ? 三河屋の妄想コピペ
いい加減飽きた
妄想でも新ネタ晒せ 龍神連合五代目総長・井口千明(葛飾区青戸6−23−19)の挑発
井口千明「糞関東連合文句があったらいつでも俺様を金属バットで殴り殺しに来やがれっ!! 糞関東連合の見立・石元・伊藤リオンの糞野郎どもは
龍神連合四代目総長の俺様がぶちのめしてやるぜっ!! 賞金をやるからいつでもかかって来いっ!! 糞バエ関東連合どもっ!! 待ってるぜっ!!」(挑戦状) 直義じゃなく高一門の誰かの養子に出す、これが政治的配慮だろう。 自分の子一人御しきれずに天下の政を行うなんてちゃんちゃらおかしいよな いつの世でも社会的地位の高い人物が子育て失敗してますし 親王をきちんと排除したのは直義とも言えるw
歴史にifは無いんだなーと
つくづく思い知らされる南北朝時代 >>833
高とか家来筋の家への養子はまずあり得ないと思うけどな
それをやれば直冬は足利一門の諸氏より下になってしまうわけで
庶子とはいえ将軍の実子でそれはないよ 後の世のことだが
徳川家康は八男仙千代を平岩親吉の養子にしている 保科正之みたいに直冬も隠し子扱いだから一門に養子に出すのもありだな。この時代にその風習があったのかどうか。 秀忠の徳川創業期でも南北朝に比べたら
遥かに安定してるのもあるけど
保科正之の人間性はちょっと直冬とは比較にならんなw 個人的印象だけど
保科は、徳川本家を支える気概があったと思うけど
直冬は
「弟より優れた弟なんていねえ!」「長男のこの俺が何故〜!?」
なんて感じだからなあ >>846
「兄より優れた弟なんていねえ!」だった 直冬は役者が筒井棒だったから、凡庸すぎる人物の印象しかない
浅利陽介演じる小早川秀秋よりも凡庸の印象だ 長男が家督を継ぐってのは江戸時代からだろ。戦国以前は嫁さんの実家の実力が全てよ 嫁さんの実家の実力?
生母の実家の実力ではなく・・・・ねぇ >>848
家が滅んだわけではないよ
後々皇室とも姻戚になっているし
>>852
中世においても特に問題がなければ正室所生の年長者が嫡子になるのが普通だよ
逆に近世でも母親の身分が低い庶長子は嫡子扱いされない
結城秀康とか伊達秀宗とかはその例 足利氏の分家は、宗家と同格意識が強い家が多い印象があるが
後醍醐天皇が
「斯波氏こそ足利一族の本家に相応しい」なんていって
新田でなく、斯波や今川や吉良とかを重用していたら
南北朝は、もっと泥沼だったのかな >>856
やっぱり無理かな?
北畠あたりが・・・って考えても
武家は嫌いだろうし 斯波の祖の家氏はもともと嫡男だったのが、途中で変わったんじゃなかったけ 斯波さんって、その当時は足利名乗ってたけど、参内できる立場じゃなかったのかね。 建武政権では足利で三位以上が尊氏だけじゃなかったか。それ以下だと正成くらい特別な縁がないと謁見不可だろう >>855
むしろそういう扱いを受けたのが新田義貞なんじゃ?
新田氏って鎌倉時代の後期には足利氏の庇護下にあって、ほとんど家人同然だったって説もあるらしいし マジレスで大恥かいて、後から釣り宣言する厚顔無恥界の大王様、
格好悪いですよ >>855
斯波・吉良は足利一門のなかでも別格だが、今川は他の足利一門と大差ないし、場合に
よっては吉良の分家(足利宗家から見れば分家の分家)と見なされるような立場なんだが・・・。 >>865
斯波とか今川とかは一例としてあげてみただけなんだけど
歴史家(小説家?)によっては
足利が天下を盗るための敵役に、又は後醍醐天皇が足利を抑えるために
新田が旗頭として重用されたってあげられるけど
「あの貧乏御家人の新田が?」って言われるほどの存在だったならば
宗家と同格意識をもつ足利一族を割ったほうがいいんじゃないの?
って思っただけ >>865
足利一門の発言力が増すだけじゃない?w 天正本
毛利家本
太平記抜書
この三本読んでみたいわ 字幕
「不適切な表現がありますが、オリジナリティを尊重し
・・・・
でそのまま放送しました」 ただ、義満時代、今川は御一家待遇だったよね、尊氏の遺言に忠実だったのかしら、との但し書きがなければ、ウィキ老人と馬鹿にされても致し方ない
退屈な話を繰り返すばかりのくだらない住民ばかりだが
名古屋で殺されたパチンコメーカーの社長の名前は内ヶ島
内ヶ島と言えば、足利将軍家の奉公衆、馬廻衆で飛騨に所領を貰った内ヶ島氏が有名だだ、一族だろうか
内ヶ島氏の出自は武蔵七党、楠木氏、尊氏の落とし種、西園寺公宗の弟とも言われる、飛騨の金山を牛耳った興味深い一族
と、三河さんだっけ?
世の中の観察力、抽出力に優れたあの方なら、話題を振ってくれるとボキは思う やっとこさ中公新書 亀田俊和著「観応の擾乱」を購入。
しばらく寝かせるだろうけど読んでみる。
近くのそこそこデカい本屋に行ってみて、平積みかなと思っていたら意外にも一冊のみ立ててあった。 >>866
後醍醐天皇による新田の破格の取り立てには足利に対する牽制の意味合いがあることは
このドラマのなかでの義助の義貞に対するセリフでもハッキリ言われている
あと歴史家(歴史研究者)と小説家は全く別物の存在なんだがな
しかし>>875はどうも三河屋本人に思えるのだがw 申し上げます!師直殿の奥方、27日に逝去なされたとの事にござりまする! >>878殿、そのようなこと、この座の者は皆存じておるのじゃ 判官(はんがん)
中世はじめ頃より使われ始めた判官の職を帯びる者の通称。 九郎判官(くろう ほうがん)- 源義経のこと。左衛門尉だったことから。九郎は輩行名で源義朝の九男だったことによる。
古来この義経に限って「ほうがん」と読んでいたが、近年では「はんがん」も通用している。
判官贔屓 - 上記が語源。
佐々木判官(ささき はんがん) - 佐々木道誉のこと。佐渡判官と呼ばれた。
塩治判官(えんや はんがん)- 塩冶高貞のこと。左衛門尉だったことから。
塩谷判官(えんや はんがん)- 上記の名を借りた『仮名手本忠臣蔵』の登場人物。史実の浅野内匠頭にあたる。
小栗判官(おぐり はんがん)- 照手姫と天馬の伝承で知られる伝説上の人物。
>>881
wiki三河バカジジィ
そー言うコピペは
もーえーから >>881
>古来この義経に限って「ほうがん」と読んでいたが、近年では「はんがん」も通用している。
「ほうがん」と読むのは義経の場合だけというのは本当なのか?
平安時代あたりだと「ん」の仮名がまだ存在していなかったから
「ん」の発音を表記上は「う」で書いていたらそのうち表記通りに「う」と
発音するようになって「はんがん」→「はうがん」に転じたもので
どちらの読みも一般名詞だと思っていたが 「聞き捨てならんぞ判官!」
何度聞いても良い声だw 「それがしは、判官殿を味方と思うておりまする」
真正面から信頼されると否とは言えないツンデレ判官殿 もし同時代に生まれても
判官さんの同僚にはなりたくないな
機嫌を損ねたら、すぐに敵側にまわるからなあ
上司としては、尊氏以外には扱えそうにないし >>890
使う人間の器とか性格が問われる感じ
豊臣秀長とか家康には忠誠尽くしてた
藤堂高虎に通じるものがあるけど 真田さんは、後に石田三成役を演じて
秀吉に蹴っ飛ばされてた >>892
島津斉彬にしか使いこなせなかった西郷隆盛のイメージかね?
有能だけどクセが強いから相性のいい主君でないと使いこなせない >>896
近いけど、斉彬は「西郷はワシが育てた」という立場だからちょっと違う
主君と対等に近い盟友であるトリックスター、という立ち位置の男が道誉のほかにいるかな? フランスのルイ13世と
宰相リシュリューみたいな感じかな >>892
>>896
戦国バカ、邪魔なんですけど
>>897
幕末バカ、邪魔なんですけど >>897
頼朝と梶原景時とかはちょっと違うか?
中国史でいうなら、漢の高祖劉邦と張良、明の洪武帝と劉基のイメージに近いかな?
>>898
リシュリューはルイ13世とは親子くらいの年の差があるし、ルイ13世の幼少期から
仕えているから、盟友というより後見人のイメージに近い気がする。 道誉と梶原景時のことはちょっと考える
道誉もある意味讒言魔だしなあ 歴史ドラマのスレで、
「この人物とこの人物のような関係って、他の時代・地域だったら似たようなケースって
どういうのがあるだろうか?」
みたいな話が出てくるのは、割りとよくあることだし、普通に許容範囲だと思うが?
まあ仮に多少飛躍しているレスがあったとしても、普通の神経なら一々取り立てて
気にするようなことじゃない。
むしろ自分が気に入らないからとというだけで、目くじら立てて変にしつこくスレを
仕切りたがるような奴のほうが、遥かにウザく感じる。 リシュリューとルイ13世のイメージに近いのは
太平記の時代でいうと細川頼之と将軍義満だろう >>907
後継者のマザランと太陽王ルイ14世もそれにちかい
キャラの濃さでは道誉みたいな人って
ちょっと思いつかないw ドラマでは尊氏が死んでおしまいだけど、
導誉は義詮や基氏より長生きしてるんだよねw そういや、基氏で思い出したけど、
導誉は隠居寸前に基氏死去直後の鎌倉へ下向してるらしいよね。
導誉みたいな大物がわざわざ出向かないとならない様な特別な事情でもあったんだろうか
もうそのころから鎌倉に幕府への反抗の兆候が出てたのかな レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。