【これは】翔ぶが如く 23噴火目【君命である!!!】
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司馬遼太郎の『翔ぶが如く』を主な原作とし、西郷隆盛と大久保利通を主人公に
薩摩藩を中心として激動の幕末から明治初期を描いたNHK大河ドラマ。
大河ドラマ初の二部構成(第一部29話、第二部19話、全48話)、1990年1月7日から12月9日まで放送。
原作:司馬遼太郎(「翔ぶが如く」「最後の将軍」「きつね馬」「竜馬がゆく」「酔って候」「花神」「歳月」より)
脚本:小山内美江子
音楽:一柳慧
語り:草野大悟(第一部)田中裕子(第二部)中村克洋アナウンサー(アバンタイトル)
主演
西郷吉之助→西郷隆盛:西田敏行
大久保正助→大久保一蔵→大久保利通:鹿賀丈史
前スレ
【そいは】翔ぶが如く 21噴火目【暴論ごわす!!】
https://nhk2.5ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1521724911/
【ないが】翔ぶが如く 22噴火目【暴論か!!!】
http://nhk2.5ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1525899002/ >>643
だってその飲みの席でホンマに死なないとダメなんわーとか責められたんだぜ川路さん。 あの手風琴の曲名誰か知りもはんじゃろか?
「オイはかごんまに残って吉之助さあに手風琴をば教えんとならんで……」寂しげな顔 西郷どんでは、川路が半次郎と吉之助の側近みたいになってて、信吾より格上に見えるんだが
しかも席順的に半次郎より上座
これじゃ「ポリスがおっど」とか悪口言えんなw 信吾には軍事的才能があったのかな?
中将になるのが早すぎるような。 >>670
それじゃ、川路の方が上だったんだな。
歳も結構上だし。 柳生さんも広い意味で相手が西郷と大久保とで態度が違う人の一人だったな。
萬田久子ほど露骨じゃないけどw >>672
あの頃から白髪頭なのに今でも随分元気だよな ホッコリする 近衛公や岩倉公などの公家の人たちは品がある
今年のはもう見てられない
あと公家衆とのつながりも丁寧に描いてるから名前聞いて
役者の顔がちゃんと浮かぶ
今年のはよく覚えてない 鶴瓶となだぎくらい 朝廷といや大原重徳は大門軍団の係長さんだったな 声が好き
どういうことかね!大門君〜 >>678
忠煕は文麿の曾祖父でしょ
>>681
潔癖症なら鍋島閑叟もそうだな >>650
翔ぶが&田原坂どちらも名作と思いますよ判断はできない
ただ田原坂の何か弱弱しい久光や爆風で最後の桐野
衣装を届けてバタの熊吉(西南役後も生きた)とか嘘が多いのが難点 【福井】幕末の四賢侯、人柄知って 福井で研究者ら初のシンポ 「山内容堂は酒好きで豪快。でも潔癖性で人が触れたものを触るのは嫌」
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1537995465/ そういえば「幕末の四賢侯」って後に松平春嶽の周辺が言い出したことらしいね
だから基本的には春嶽と交流があった人物から選ばれており
春嶽と交流がなかった鍋島閑叟なんかは入らないとか 今日の英雄の選択で紹介されてた鳥羽伏見初日の御所の様子を描いた絵画
公家たちが新政府軍の勝利を聞いて御所の岩倉らに挨拶しにきた様子
翔ぶでも小兵衛や大山が近衛らに味方の勝利を早々と伝えてたが
ドラマでは西郷の思いつきみたいな感じだったけど史実はどうだったんかな? 実際敵を呑む勢で敗けるこちゃなかろ、言うときゃよかが、そんほうが話が早かしイケイケドンドン! わりと簡単だったかもよ >>690
薩摩のジゴロと長州のソウセイはどっちが明君? >>691
勝利を早々と伝えたってより小兵衛が味方が押しまくってると報告したら
大山が大勝利と大騒ぎし出して小兵衛がちょっと困ってるって感じじゃなかった?
どっちにしろ一日目夜なら今こっちが勝ってると報告するのは間違ってない あの絵画が発見されたのは最近らしいけど
そういう描写が1990年のドラマであったということは
割と有名な話なのかな
大久保が、公家を黙らせるにはお味方の勝利が何より
とか言ってたから西郷の作戦なのかと思ったけどね なんかすごいこだわるけど勝ってなかったのに嘘を報告したってことにしたいの? 当時の大河は学問的成果とドラマとしてのエンターテイメント性を上手く融合させている
今のはどちらもチグハグだから支離滅裂状態w なんせ司馬先生もまだ元気だったし小山内さんもかえってやり易かっただろう わからんけりゃお伺いたてればいいし そこに時代考証も原口先生が居たり強いよ 今の大河はマンガになればエンタメだと勘違いしてるからな >>696
いやいやそうじゃなくて
戦況を見極める能力の高さや、絶妙なタイミングで
公家に報告するところが策士だなと感心したんです 薩摩が優勢になったら公家たちが手のひら返しして急にすり寄って来たって話は
大久保利通日記にもあるけど戦勝報告はそれぞれの公家屋敷までは行かないだろうから
いち早く情報GETして御所に挨拶に来る行動の速さはある意味で優秀じゃね? 王政復古のクーデター以降の時点でも、じつは薩摩の方が追い詰められていたという
先日の英雄たちの選択は、当時の西郷・大久保のギリギリの立場が分かりやすくてよかったな。
結構前から、番組にも出ていた家永さんの著書では書かれていたことではあるけれど。
せごどんも、翔ぶが如くから30年も経っているんだから、今までの俗説というかドラマ的お約束に逃げずに
ちゃんとその間に進展した研究の成果をちゃんとドラマ内に消化してほしかったな 家永さんじゃないや
それじゃあ別の歴史家になっちゃうw
家近さんやね。「江戸幕府崩壊 孝明天皇と「一会桑」」 は面白かった >>707
番組でも度々言われていたが、数々の行状が新政府の正当性に疑問符を付けていたからな
より事実に近い形だしドラマとしては面白いけど鹿児島と山口からは非難されそう >>706
しかも家永さんは日本史の業界で有名な人が2人いるよな 家近さんは慶喜派だよね
英雄たちの選択慶喜回で家近さんの解説を聞いて
慶喜が好きになった 鳥羽伏見以降の慶喜が官軍に余計な抵抗をせず恭順姿勢を徹底したことは
内乱の不必要な拡大を阻止した点で評価に値するとは思う
ただそれ以前の慶喜に関してはそもそも孝明天皇との個人的な結び付きを過信して
雄藩連合派まで切り捨てるような感じで一会桑で暴走したことが
最終的に慶喜を排除する形での新政権樹立に繋がるような雰囲気もあるからなぁ 歴史ドラマって実在の人物に善悪のレッテル貼って断罪するためのもんじゃないし
慶喜に都合よく行動しなければ悪ってこともないし
薩摩主人公の大河で慶喜びいきの目線で描かなきゃいけないなんて決まりもないからな 銀河で11月にまたやるのか
最終回のおしりが大久保暗殺のとこで切れてたので、録画し直そう(´・ω・`) >>713
>>710が慶喜を持ち上げたからじゃない? >>714
翔ぶが如く、八重の桜、義経
HDDレコーダーフル稼働だわ
チャンネル銀河の大河ドラマ担当、いい仕事してるなぁ チョンネル銀河の征日プログラムに組み込まれて嬉しいか >>714
翔ぶが如くは今年で3回目やん…
名作だし堪能したけどさすがにもういい
徳川慶喜、新撰組!、龍馬伝のどれかをやってくれよ 花神ってほんとに総集編しか残ってないのかな?だれかベータで録ってないかなあ CS110度のチャンネル銀河は8月28日からHD化されてて
ちょっと画質が上がってるぞ
再録画する価値はある >>719
中村吉右衛門の武蔵坊弁慶を放送してほしいわ 翔ぶが如くと八重の桜はファンがけっこう共通してるっぽい
時代がほぼ同じで、珍しく明治をくわしくやってる大河だし 久光を主人公にした大河もあるといいね。
己が出自と派手で聡明な兄に対する憧憬とコンプレックスを乗り越え、島津家の為、やがて涙ながらに兄を謀殺。
翌年、古き父をも死に追いやって藩実権を握り、即決果断で藩政はおろか、力による幕政改革までをも成し遂げる。
有為な人材を広く集め、維新の原動力として能力を遺憾なく発揮させる伯楽ぶりも見物。
南から新生日本の扉を開いた稀にみる名君、久光。 征韓論では賛成派と反対派との板ばさみ
幸楽では嫁と姑との板ばさみ
角野さん大変やな・・・ 久光主役なら西郷は悪役なんやろねw
小松帯刀・大久保一蔵・中山中左衛門・堀次郎の4人の側近が大活躍すると 久光は政府顧問にまでなってるからそこまで見てみたい 左大臣だもんな
生前の信長より官位上だからね(´・ω・`) >>731
一蔵、その方小姓組の軽輩の分際で…。だいのお陰で側役に抜擢された?
余に楯突きたくば、いつでん辞めてよかぞ。代わりはどしこでんおる。 あいた〜胃が痛となってきたが マス〜ちっとばっかい碁をば指すかい〜〜 >>737
そこ、信長と比較する意味あるの?
信長が左大臣にならなかったのは、かつて足利義教が内大臣兼右近衛大将から左大臣に
転任したのを悪しき先例と見なして、義教と同様の昇進ルートにならないように敢えて
左大臣を避けたからだと言われているわけで・・・。 「貴様は今度の総攻撃の前に西郷大総督府参謀が布告された、鶴ヶ城開城規約というのを読んどるだろうな?!」
「はい。」
「総督府軍将校は、新政府軍人たるの体面を重んじ、いかなる理由があろうとも敗残の敵兵に略奪、暴行はしてはならんと、あの中にはっきり明記されておる。貴様は西郷閣下の命に背き、閣下の名を汚したんだぞ!」
「どうして殺そうとしたんだ?」
「部下の敵討ちであります。」
「無抵抗の捕虜を殺すことが敵討ちになるのか?!」
「会津人は全て自分の敵であります。」
「冷静になれ、小川中尉!素直にお詫び申し上げろ。」
「自分は悔いることは毛頭ありません。最前線の兵には体面も規約もありません。あるものは生きるか死ぬか、それだけです。
兵達は、死んでいく兵達には、国家も軍司令官も命令も軍規も、そんなものは一切無縁です!灼熱地獄の底で鬼となって焼かれていく苦痛があるだけがです。
その苦痛を、部下達の苦痛を、西郷式の軍人精神で救えるがですか?!」
「西郷式とは何か!閣下も御令弟を亡くしておられるんだぞ!」
「当然であります。」 で、豊臣秀吉は公家に賄賂をたくさん贈りまくって太政大臣、ついには関白にまでなりましたとさ >>743
順番が逆だよ。
先に関白になって、その後に太政大臣になったはず。 あれ?番組雑誌見たらせごの吉二郎が長岡戦から参加したことになってるよ
翔ぶがでは王政復古前には兄さあ達の所に駆けつけてるがどちらが正しいの? 越後出兵時に軍監で服務ってことは急に懇願して成れるものでもないので鳥羽伏見の頃急を聞いて駆けつけたって解釈も不自然ではない ある程度職責は積んでたかもね >>744
まあ先に太政大臣になってからその後に関白になるってパターンは基本的にないよね
関白は摂関家に生まれれば若造でもなれるが
太政大臣はある程度の年齢と実績を積んだ長老格の貴族がなるものだし 秀吉の晩年って、秀吉が太政大臣、秀次が関白兼左大臣、菊亭晴季が右大臣なんだよな。
この状態で秀次と晴季が処罰されて消えたから、秀吉が死んだ時点で
太政大臣・左大臣・右大臣がすべて空席になって、内大臣の徳川家康が公武合わせても
朝廷の最高間という不思議な状況が起こったわけで・・・。 吉二郎も府下小銃八番隊監軍で出征して、京都に信吾・小兵衛・弥助たち揃っているよ。
ただ鳥羽伏見の戦いには病気で参加してなかったようで
番兵二番隊監軍で越後に出兵となってる。 そりゃ軍事クーデターを起こした連中が大挙して地元に押し寄せたら
普通に考えたら身の危険を感じるからね しかし天保の改革の際の三方領知替え(川越・庄内・長岡)に猛反発して
幕府の権威を失墜させた庄内や長岡が維新のときの佐幕派の主力になるのも歴史の皮肉だな >>754
上からの命令に対して反骨心旺盛な気風なのかもね 高橋英樹の継之助フルバージョン
見たいよなあ・・・ >>752
そりゃ文久二年に京都所司代やってるからな
長州に恨まれてると思っても無理ない 会津・庄内は売国奴
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/images/2016/09/21/M16092112178/efc636fa3839ddca1fa39fdeffab7c06.jpg
戊辰戦争さなかの1868年(明治元年)、新政府軍(官軍)と戦っていた会津・庄内両藩が、プロイセン(ドイツ)から
資金を借りる担保として「蝦夷地(えぞち)の領地を99年間貸与すると申し出た」と記した駐日公使発本国向けの外交書簡を、
五百旗頭(いおきべ)薫東大教授らの研究チームがベルリンで発見した。内容通りなら、ドイツの蝦夷地租借構想が水面下で
具体化していたことになる。東大史料編纂(へんさん)所の箱石大(はこいしひろし)准教授は「戊辰戦争が長引いていれば
実現していた可能性がある」とみる。
これまでは、日大のアンドレアス・バウマン教授が1995年にドイツ連邦軍事文書館で見つけた文書から、1868年
7月に両藩から蝦夷地の土地売却の打診を受けたものの、10月に本国のビスマルク宰相が却下し、交渉は立ち消えになったと
みられていた。
その後、ボン大学の研究者と箱石准教授が同文書館で、宰相が3週間後に一転、交渉を認可していた文書を見つけ、本国側では
ゴーサインが出ていたことが明らかになっていた。
今回見つかった外交書簡を書いたのは、横浜にいた駐日プロイセン公使マックス・フォン・ブラント。貸与期間を具体的に盛り
込むなど、両藩との間で交渉妥結の下地が整っていたことがうかがえる。
とはいえ、ブラントが横浜から本国の宰相に新発見書簡を発信した日付は68年11月12日で、すでに会津藩の降伏から
6日、庄内藩主が降伏を申し出てから5日経過しており、現実には交渉そのものが意味をなさなくなっていた。
書簡の保管先はベルリンの連邦文書館。五百旗頭教授らが2013年に着手したドイツの史料発掘プロジェクトの中で、国立
歴史民俗博物館(千葉県)の福岡万里子准教授が読み解いた。
それによると「シュネル(当時東北にいたプロイセン人の仲介役)が、借り入れに対して蝦夷地の領地を99年間、担保として
与えるとする会津・庄内領主の(シュネルに対する)全権委任状を持ってきた。100平方ドイツマイル(5625平方キロ)の
土地を得るのに30万メキシコドルで十分だ」などと書かれているという。
幕末期の会津藩の領地は現在のオホーツク、根室管内の一部、庄内藩は留萌、上川管内の一部など。書簡には「会津・庄内藩の
蝦夷地の領地に良港はないが、ひとたび足がかりをつかめば他の地の購入が容易になるだろう」ともつづられており、海軍拠点
確保に向けた意図が読み取れる。
当時のプロイセンは2年前の1866年に対オーストリア戦争に勝利して北ドイツ連邦の盟主となっており、ドイツ帝国の
形成に向かう軍備拡張期だった。(報道センター編集委員 小坂洋右)
09/21 17:15 更新
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0317478.html これまでは 土地売却の打診を受けたものの、10月に本国のビスマルク宰相が却下し、交渉は立ち消えになったと
みられていた。
その後 宰相が3週間後に一転、交渉を認可していた文書を見つけ、本国側では
ゴーサインが出ていたことが明らかになっていた。 フランスが軍事援助して薩摩を滅ぼそうと提案したって創作の元ネタは
モンブラン伯爵が備前の旗本の池田長発に持ち掛けたって噂だと思うけどな
あとウィリス医師は京都に来る前に備前藩の起こした神戸事件でけが人の治療してた
どっちも磯田の出身の岡山がちょっと絡む ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています