町田 明広@machi82175302

まずは戊辰戦争中・後の西郷の動向を振り返っておこう。
明治2年(1869)2月23日、藩主忠義が自ら隠棲していた西郷を日当山に訪れて、薩摩藩の参政就任を懇願した。
それまでは、久光の召命にも応じなかったが、藩主直々の頼みを断る訳にもいかず、西郷は参政に就任した。
#西郷どん


明治政府は前年10月に、府藩県の行政組織を統一するため藩治職制を制定し、職制を執政・参政・公議人に統一するよう求めていた。
薩摩藩がこれを採用したのは、西郷が参政就任を依頼される直前で、執政を欠員としたため、西郷が実質的な藩の最高幹部となった。
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島津忠義が西郷に参政就任を求めたのは、川村純義や伊集院兼寛ら戊辰戦争で活躍した凱旋将兵が一斉に帰藩し、出兵に消極的であった門閥の打破や人材登用を猛烈に唱え、抑えが利かなかったことによる。
西郷担ぎ出しによる鎮静化を期待したのだ。
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2月17日には、川村らは出兵に反対した久光の次男、島津久治を忠義の面前で詰問し、家老職の辞職にまで追い込んだ。
久光も門閥廃止は必要としながらも、事を慎重に運ぶべきであると考えていたが、藩主父子であってもこの形勢はいかんともし難く、久光は西郷の出馬を求め鎮静を依頼した。
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西郷は凱旋将兵を積極的になだめる姿勢を見せず、久光は川村らが改革・批判の手を緩めないことに怒りを増幅させ、西郷が彼らを扇動しているのではないかと疑い、西郷を激しく憎むことになった。
一方で、西郷は参政として、禄制改革・常備兵強化など諸制度の改革に取り組んで藩政を指揮した。
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