>>523
町田 明広@machi82175302

最初に藩庁を知政所、島津家の家政所を内政局とし、西郷と一心同体の桂久武を知政所の執政心得とし、伊地知正治ら五人を参政とした。
また、軍務・会計・糾明・監察といった各局を設置し、その総裁は凱旋将兵から抜擢した。明治2年6月に行われる、版籍奉還を先取りする新しい組織を編成した。
#西郷どん


藩内の私領制度を廃止し、島津一門・門閥の私領地はすべて藩庁が取り上げ、新任の地頭を置いて統轄させた。
地頭には、樺山資紀・高崎正風・高崎五六などが人物本位で任命された。
地頭は、管轄内の郷士を編成して民生・軍政を指揮しており、廃藩置県の先取りである。
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次いで、藩士の家格なども全廃して一律に士族とし、新たに禄制等級を設け、門閥の禄高は従来の8分の1に大削減し、上層士族の高は200石まで削り、下級士族の高は逆に200石に近づけた。
これを踏まえ、士族を常備兵に編成し直し、総勢17000人余りの国内最大の陸軍を西郷は作り上げた。
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さらに、装備は最新の施条錠を採用し、集成館や火薬製造局で銃や火薬を製造、職工は千人を超えていた。
また、イギリス人医師で外交官であるウィリアム・ウィリスを鹿児島医学校兼病院の校長として招いた。
こうして西郷は、薩摩藩を軍事大国に仕立て上げたのだ。
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西郷は、決して封建制を擁護していたわけではなく、廃藩置県を先取りした禄制改革や地頭設置などを試みた。
そして、西洋文明を取り入れる柔軟性を持っており、単純な攘夷論者でもなかった。一方で、士族を再編・優遇し、国家の有事に備えた。
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