【第三十六回】太平記 part.36『湊川の決戦』
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>>169
「炎立つ」は第3部がなければ名作だった 炎立つのOPの曲と映像は好き
OPで言ったら花の乱の曲と映像も好きだけど(´・ω・`)
昨今の「室町時代ブーム」が本当ならば
そろそろ応仁の乱の時代のドラマがあってもええね 北条三代 初回
「総括 霜月騒動」
安達泰盛亭の酒宴に呼ばれ、ハシゴに登ったわざおぎが、攻め寄せる平頼綱勢に気付く。 義満も見てみたいけど
後円融天皇の描き方が難しそうやな(´・ω・`) 応仁・文明の乱はもし描くなら北条早雲主人公で序盤に出てくる感じが無難 >>170
悲しい結末
よくぞご決断なさいました…これでいいんじゃ…兄上は…大将軍じゃ…
これで…足利家は安泰じゃあ…! >>172
室町ブームとか応仁の乱ブームとかいう割に、大河板の「花の乱」スレは閑散としているよな・・・。 義満も正室の嫡男が夭逝した後
出来た側室の子で謂わば次男
その辺は尊氏と似ているな >>34
新田は足利庶流じゃねえよ。足利より長幼で言えば上の血筋 >>180
長幼の順だけで嫡庶が決まると思ってんの?w >>181
だから足利とは別の系統だって言ってんだよ
系図ぐらい理解しろ
足利の庶流っていうのは足利から分家した斯波とか細川とか今川とかを言うの 義国の二男義康が足利氏を継ぎ
長男義重は足利庄を出て新田氏を起こしたのが
そもそも謎だわ その辺は憶測の域を出ないから謎のままだろ
時間が経てば資料が出てくるよ、それまで待て >>185
たらればやもしもの仮説から歴史検証は始まる
資料発掘なんてその典型だし
歴史の醍醐味
資料出たらなら歴史学者も歴史作家も必要なくなる >>184
義重の母は先妻で義康の母は後妻だという説もあるのでやはり母親が生きている方が強いのかな
義重の外祖父・藤原敦基が上野介で上野に縁があることや義康の外祖父・源有房(信濃守)の方が官位が高かったことも関係があるかもしれない
新田の開発を急ぎたい義国が成人した長男に仕事を任せたってこともありそう
色々なことが考えられるのが186さんも言っているように歴史の醍醐味 だよね 「あの貧乏後家人の新田が!?」
この一言で新田の立場を表現してしまう(´・ω・`) ま、まさか徳川様の御門葉とは!?
江田とか綿打とかそのあたりのしょっぱい氏族かと…。 >>184
出てない、足利荘は藤姓足利氏のもの
何回言ったらわかんねん 京武者の義康と北関東に下向した義重じゃ、義国と一緒にいたであろう義康が跡取りに決まってんだろ
義国は京を追放されて、仕方なく義重の元に向かった つか義国は義重に河内源氏伝来の上野八幡庄を継がせてるし
新田荘に義重と共に移り住んでる。単に本拠地を変えただけだろう。
従来の足利荘も捨てるのもなんだから次男に継がせただけで
重大な方を次男に継がせたわけじゃない。 だから足利荘は、藤姓足利氏を源頼朝が滅ぼすまで藤姓足利氏のものだと言ってんだろ
1180年には義国は死んでんだよ 足利荘全部が統一されていたわけではなく、藤姓足利氏の領域と
源姓足利氏の領域とがあったんでしょ >>183
足利宗家が足利の苗字を称するのは実際には義兼以降なわけだが
それにも拘わらず足利宗家との共通の祖先が義康まで遡る仁木氏や細川氏も足利の庶流扱いなわけでw
実際のところ当時の社会の一般的な認識では新田は足利の庶流でしょ
特に足利義氏の娘婿新田政義が幕府に睨まれて足利の庇護を受けて以降は
完全に足利の庶流の一家だったと思うが? >>191
新田が足利宗家に並び立つような家だったという幻想って江戸時代以降にできるのかもな
そして近代以降の南朝正統史観のなかでさらに増幅されるとw 足利荘は、義家から義国に相伝された
義国は足利荘に下向した
そもそも、これが間違い
この間違いの前提で話をするから、おかしくなるんや 何で新田は折角占領した鎌倉を捨てて京に上ったのかな
やっぱり義貞本人も足利一族の末席という意識があったから
尊氏の意を受けた細川が乗り込んできたら
鎌倉を引き上げざるを得なかったんだろうか >>203
そもそも義貞は、宗家の当主尊氏の命を受けて、尊氏の嫡子千寿王を担いで鎌倉攻めを
行っただけだからな。
鎌倉攻めの総大将はあくまで千寿王で、義貞と岩松経家がその陣代だった。
戦が終わったとなれば、戦時の陣代の役目は終わりで、行政能力に長けた平時の代官に
交代するのは当然のことだなw >>193
室町初期から足利荘は簗田御厨と足利を総称して足利荘という
それに義国が居を構えた所は御厨ではなく足利荘内で
藤姓足利氏の足利家綱と領地を争ったのは
その後
100くらい言ったら理解できるのかな? >>200
こいつこそ足利を課題評価しすぎだろう。
足利が源家の頭領とみなされるようになったのは義康、義兼が義朝、頼朝と共に
戦っていたこと、義康が義朝と相婿だったこと、義兼が政子妹と婚姻したこと
などにより頼朝と近いと見なされたからであり、義国自体は
義重を嫡流と考えていたことは源家伝来の上野八幡荘を相続させて
いることからも確実。 >>199
お前は日本語を正しく使えよ。足利「より」庶流なら分かるけど
足利「の」庶流なんて言ってるのはお前ぐらいだわ。
どうしても足利「の」庶流って言いたければ論文でも発表して
定説覆してくれや >>203
そりゃ鎌倉なんて田舎に留まるより京に上って後醍醐帝に拝謁したい
と思うのが当たり前だろう。それだけのことだよ。 >>206
理解出来るのかはお前だろうが
院政期の話に室町期の話などどーでもいいんだよ
だから足利荘に屋敷など構えていないつーの
しかも義国が下向したのは1150年、梁田御厨の争いなど解決済みじゃ >>204
判官殿はあまり婆娑羅な家ではなかったな ID:MDU3Qkz5って、三河屋の別人格とかか?
攻撃的で粘着質な書きぶりとか、度を越えた連投とか、何となくイメージが重なるw あの義貞のタコ助は何を勘違いして岩松を呼べなんて宣ったんだ?
実力的にはお前が岩松の家に出向かなきゃならないだろうに。 岩松は足利庶流で新田の配下
桃井は新田庶流で足利の配下
なぜかこう覚えてたけど、桃井は足利庶流なんだね、どこで聞いたんだろ 足利新田の一族がこれだけ入り乱れているんだから、鎌倉末期の新田は足利一門でええんやないのん。
頼朝挙兵の頃から新田一族はばらばらに行動していたし。 >>215
義国は足利には通り過ぎただけ
義康も義重も京都が拠点で足利に殆ど行っていない
八幡町陣なんて伝説
足利荘内にある鑁阿寺の歴史も嘘
義国が下向したのは1150年、梁田御厨の争いなど解決済み
鑁阿寺文書や東大なんたら教授が纏めた足利史も嘘
義国下向の年月さえ古文書や足利猿の歴史書は嘘ばかり 山名は室町幕府からも足利一門の扱いを受けているよね 鎌倉時代は新田より山名の方が格上だったりするんじゃないか
ドラマには山名ワンシーンも出てないな
大舘や北条時行は脚本にはあったけどシーンごとカットされたのは今更知ったよ
撮影事態はしたんかね? >>219
まさか京都や梁田御厨から新田に行ったわけ?
凄いな・・・・ 新田は足利庶流の諸家のなかでのランクは最低レベルなんじゃないか?
治承・寿永の内乱期に足利宗家と別行動を取った矢田義清の子孫である仁木・細川が
一族でありながら家臣同然の扱いを受けていたことを考えると、新田も同様だろう。 頼朝につくかつかないかでその後の武家政権700年の地位が決まってしまうとはな。(得川は頼朝についた)。
そういう意味では建武の新政ってのは落ちぶれ者や新興武士にとってはビッグチャンスだったんだなと。 >>233
新田は足利庶流
そもそも、これが間違い
この間違いの前提で話をするから、おかしくなるんや メント内容 >>216
大河ドラマの中で、真田さんが橋さんに言っているね。桃井、そなたはいつからそんなに対等に物を言えるようになった!とね。 高橋さんは太平記の後すぐに死んじゃったね 惜しい俳優だった >>240
すぐって…。
流石に「太平記」の時には癌のがの字すらなかったんじゃないかな。 小さい頃にこのドラマを見てた影響でしばらくフランキーさんと高橋さんが嫌いだった >>242
当方も小学生のときに見て、悪役を上手くやっていて凄いとは思ったが、嫌いには
全然ならなかったけどなぁ・・・。 >>235
義国の男系子孫は基本的にみんな足利庶流でしょw 正成が大局を視て足利方についていれば
分断作戦の囮に義貞が騙されなかったら
孤立した軍が楠木軍ではなく新田軍だったなら
想像するときりがない。 真田さんが犬に追われるシーンは最高だった
うますぎる >>246
あれをスタント無しで、主役本人がやってるというのが、今では絶対に考えられないわ
怖すぎる >>245
手薄の楠木軍を追い込むなんて
尊氏は無慈悲だよな >>245
南朝側視点で見れば、そんなことよりも
北畠顕家を奥州なんかにやっていなければ
護良親王と後醍醐が仲違いしていなければ
赤松円心を南朝側につけられていれば
などだろ >>249
そんなことって・・・・
湊川の決戦
スレですから >>247
まぁ、一般人にはスタンドは観えないわけだし あの時期にはもう尊氏なり護良親王なりから
広域に大動員がかかっていて、鎌倉総攻撃の兵員が関東に向かっていた
数日躊躇すれば先祖と同じ出遅れ状態になっただろう あのときの義貞は、事前に尊氏から鎌倉攻めについての指示は受けていただろうけど、
尊氏の六波羅攻めが上手くいったかどうかの情報はまだない状況で挙兵しているよね。
きっと尊氏から挙兵を厳命されていたのだろうな。 >>245
楠木正成は人格も含めて過大評価されていると思う。
後醍醐天皇の赤松や東国武士の恩賞の差別を、
知っていたのも関わらず、
後醍醐に忠誠を誓うという美談で今に至るが、
自己保身で必死だったのではないか。 >>255
自己保身第一なら湊川なんて出陣せずにさっさと寝返ればいいのに 初歩的な事だけど
頼朝政権の勃興期の頃、足利氏って大族だったのかな
自立してたら、新田義重みたいに反目するか
北条から嫁をとったりしないとか・・・?
他の源氏が粛正されたから、結果的に鎌倉末期に源氏代表みたいになったとか? >>259
そらそうだろ
頼朝の命令で政子の妹が足利義兼に嫁いだんだし >>259
〉頼朝政権の勃興期の頃、足利氏って大族だったのかな
藤姓足利氏が没落してその領土吸収したからってのはあるかもね
〉他の源氏が粛正されたから、結果的に鎌倉末期に源氏代表みたいになったとか?
それもある、幕府滅びなきゃ次は足利だったろう >>259
当時の足利氏は義康が若くして没しその段階で義兼は幼い子供だったから仕方ない
そして頼朝挙兵の段階でも義兼は20代半ばで自分自身の実績はさほどあるわけじゃない
まあ母方の縁もあるし早々に頼朝に靡いたのは自然の成り行きなんじゃないかな?
もっとも義兼の異母兄矢田義清(仁木・細川の祖)は義仲に属して別行動をとっているが 足利が東国で自立するって幕府の支配に属さないってこと?西国じゃあるまいしそんなことできるわけないだろ。奥州と関東は鎌倉殿の管轄だぞ。 つうか治承4年の段階で頼朝が関東の大半を押さえてしまっているのに、下手に頼朝に
反抗するほうがハッキリ言って頭悪いだろう・・・。 志太みたいに敵対したり、新田みたいに帰参後に冷遇されたり
上総介広常みたいに粛正されたり
武田みたいに分割されたりしてないのは
源頼朝に優遇されるほど知恵がまわって
警戒されるほど大きな一族ではなかったからか?
なんて思ったんですよ >>259
板違い、嫌われ者、低民度、朝鮮人みたい >>264
それが藤姓足利氏だったわけで。
保元の乱では源義朝に付いたのに。
頼朝に反旗した原因は足利荘の争いではなく
新田荘なんだよな。 >>265
頼朝って、平賀・大内への厚遇とか、父親の時代からの由緒なんかをかなり重視する
傾向がある。
その意味からいえば、足利義兼の父義康は、早世したとはいえ保元の乱の頃には義朝の
盟友的なポジションだった人物だし、義兼は大人しく頼朝に靡く限りにおいては、
それなりの処遇には得られる立ち位置だったんじゃないかな? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています