で、一つ前のフェイクレスに対する反省はゼロ。次なるは
平清盛はオレ様、アタシの散漫脳を右から左へ疾風の如く通り過ぎていったー
であります。。。

そうだね、一人もぞんざいに扱われた人物がいない。4番手5番手すら濃い。
しかし、濃い人がたくさんいると散漫になる道理はないんだなコレが。
たしかに、いっぱい人を出すと、凡庸な脚本家では収拾がつかなくなる危険性が高まる。
しかし、4番目の平を創り出してしまう、また俺は誰なんだー、誰でもよーいを起点とし、
これらを平治の乱において華麗なレトリックにより回収してしまう藤本女史は、
並々ならぬコトバの操り手であるとともに、男の脚本家で敵う者がおそらくいない
ロジカルシンキングの持ち主であった(今やってるちかえもんでも双方爆発)。
明確なテーマにコンセプト。対比やアナロジーなどの論理則やシンボルを駆使して
時空間を連結する作劇手法により、清盛は散漫の正反対も正反対、多次元実況中継
による群像劇でありながら、各パートがそして全編が意味の上で緊密に絡み合う
一個の清盛物語(虚実皮膜〜年表ドラマでありながら一つの壮大なフィクション)
が成立している。