【第三十七回】太平記part.37『正成自刃』
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>>769
持明院統の血を引く親王将軍は最後の2代のみ 護良に器量がありすぎると後醍醐帝本人にとって脅威だという気もするけどね。 護良を失脚させることに関しても、廉子派が如何に策謀しようとも、最終的に決断したのは後醍醐だよな。 大塔宮は独断で武士たちに所領宛行をやったのが後醍醐の逆鱗に触れたらしいな。じゃあ征夷大将軍にするなよとw 中先代の乱は北条時行があわよくば鎌倉に幽閉中の護良を将軍に立てようとしたの?将軍護良、執権時行の体制 中先代は京都の第一撃では後醍醐帝暗殺して持明院統に戻そうとしたのだから
そこから護良を立てるかなあ
まあ南北朝だからなんでもありだがw まあ護良が時行の手に落ちた場合、何らかの取引材料に使われる可能性はあったかもね・・・。 >>778
尊氏も積極的に参加していた。ドラマでもやってるしね。後醍醐的には尊氏を敵に回したくなかったのだろう ドラマ的には、あれは積極的に参加していたということなのか・・・? 望むと望まざると、まろは帝の子。そちは武家の棟梁。
それゆえ、あい争うた。そして…負けた…むなしい…限りじゃ… 護良親王は後醍醐の統制を逸脱気味だったらしいし
独自の支持勢力もあったということは、
仮に護良親王が尊氏との争いを制していたら、
親王が武家を束ねる政体ができてたのかな
室町幕府じゃなくて護良幕府(仮)ができていたりして(´・ω・`) 悪人扱いだからか、足利さん祀った神社はトンと見つかりませなんだなあ。 >>789
宮や公家が武家を束ねられないのは証明済み
尊氏に代わる新たな武家の棟梁を担ぐだけ というか一口に武家と言っても、鎌倉御家人系の名門武家と、畿内悪党系の新興武家とは、
この段階では完全に別物だからなぁ。
そして建武政権期の抗争では、前者が足利支持で、後者が大塔宮支持。
後の観応の擾乱では、前者が直義派、後者が尊氏派になる。 いうても関東の大族はほぼ尊氏についてたような
武蔵野合戦から笛吹峠あたりで直義派って小者ばっかりのはず 尊氏は東西を一つに纏めようとしたんだよ。だがまだその時ではなかった。戦国期くらいぐちゃぐちゃにならないと無理だった >>795>>796
結城といっても奥州の白河結城のほうでしょ
本家との対抗もあるのでは >>797
三木一草はいずれも鎌倉段階では日の当たらないような立場だった連中だからね・・・。 >>797
三木一草はいずれも鎌倉段階では日の当たらないような立場だった連中だからね・・・。 そのことなら長崎円喜に任せてある!
円喜に問うがよかろう! そのことなら長崎円喜に任せてある!
円喜に問うがよかろう! 故なき沙汰にて一笑にふし参上つかまつりましてござりまする! この頃の作品のOP映像が一番良かったな
CGとか必要ないと思うんだけど 真田尊氏が刀を振るうところと一番曲が盛り上がる部分で滝をバックに
騎馬軍団が疾走するところは何度見ても痺れる>OP >>812
湊川の戦いの回に出てきた錦の御旗の御座船なんか明らかにCGだってバレバレだよなw
また放送当時のCG技術では仕方のないことではあるが・・・。 今日の北朝の新帝の即位式を見て、南朝の末裔たちの思いはいかなるものか。 南朝の末裔は皇室典範の枠外だな
つまりは合法ではないということさ 義満が早死にしなければ南朝後胤が宮家として残ってたのかもしれないのかな 義満的には南朝の後村上皇統を宮家にして徐々にフェードアウトさせたかったのだろう。もちろん皇位は北朝のままね
一休さん 其の三
http://mao.5ch.net/test/read.cgi/ranime/1558854689/
208 :名無しか・・・何もかも皆懐かしい [sage] :2019/10/20(日) 15:27:02.83 ID:???
さよちゃんだと子供じゃなくて孫くらいの年齢じゃないのか
将軍様孫おったし
209 :名無しか・・・何もかも皆懐かしい [sage] :2019/10/20(日) 17:12:01.09 ID:???
さよが足利義満の養女となれば後小松天皇の子の一休と釣り合いが取れるカップルになる
220 :名無しか・・・何もかも皆懐かしい [sage] :2019/10/22(火) 23:04:07.11 ID:???
さよの両親は戦乱で死んだということになっているが
さよの本当の実父は足利義満で母親が伊予局
しかし足利幕府の将軍が後小松天皇の女御と男女の関係になった
しかも伊予局が南朝側につながるというだけにそれが発覚したら大事件
足利義満と伊予局はそれ以降面識の無い関係であるということにして別れた
そしてまもなく伊予局はさよを出産
伊予局は足利幕府の圧力で千菊丸を連れて宮中から追放されることになった
足利義満は伊予局との関係が発覚するのを恐れ
さよは百姓夫婦に預けられた
一休とさよが異父の兄妹というのが本当のこと
>>820
義教だけでなく、北朝に仕えてきた公家たちも、今さら南朝の系統を皇族として
遇するのは、嫌なのが本音だっただろうね。 ちょっとお聞きしたいことがあるんですが、
「大中黒」が家紋化したのって明治時代なんでしょうか?
つい先日、新田神社で小耳に挟んだのですが。大中黒を使った大名は一家もないですか?
ここが一番詳しい人がいそうなので。 自身は一度もまともに歌ったことがない。
だがしかし、嬰児記憶から心身の深層に深く刻み込まれ、その生き様を規定しつづけた歌
ーそれが舞子が歌う「遊びをせんとや」。清盛にとってもこの歌存在は巨大なものがあった。
表層ないし意識面ではなく、内面ないし無意識面に血肉化されていたのが、清盛にとっての
「遊びをせんとや」なのである。
この母の教えに無自覚のまま、清盛は必死に自らの生を駆け抜けた(このことを気づかせたのが
最終回西行のリフレイン)。
2人の巨大な父性(専制君主&最大武門の長)に挟まれた葛藤や自我危機、そこからの超克ばかりに
目を奪われがちであるけれど(これだけでババアたちはテンパる)、
清盛の生き様を方向づけた存在として、たったあれだけの登場にすぎぬ舞子という母性もまた
、遊びをせんとやの精神を通じて巨大なものがあった。
もっとも、最終回における西行の慰撫まで見ないと、初回からのスパンを持つこのあたりの理解は
困難であるのも確かで、これが自称大河コアヲタで歴史クラスタらしい連中をイラつかせ、
頓珍漢な言いがかりに終始させた要因の一つだろう。
(最後まで見ても、さらに7年経って解説されても、無知で無能な制作側がーのこいつらに
理解を求めてみてもムダ)。 筑紫落ちの時は足利軍に従ってた武士たちも二つ引両の家紋の真ん中を黒く塗って大中黒に見せて新田軍に寝返ったらしいな 自身は一度もまともに歌ったことがない。
だがしかし、嬰児記憶から心身の深層に深く刻み込まれ、その生き様を規定しつづけた歌
ーそれが舞子が歌う「遊びをせんとや」だ。
文化面には疎い清盛にとっても、この歌がもった作用は巨大なものがあった。
表層ないし意識面ではなく、内面ないし無意識面に血肉化されていたのが、清盛にとっての
「遊びをせんとや」なのである。
いわば母の教えに無自覚のまま、清盛は自らの生を必死に駆け抜けた(このことを気づかせたのが
初回舞子を援用した最終回西行のリフレイン)。
2人の巨大な父性(専制君主&最大武門の長)に挟まれた葛藤や自我危機、そこからの超克ばかりに
目を奪われがちであるけれど(お気楽人生に安住した遊び人のババアたちは、このことすらapgr)、
清盛の生き様を方向づけた存在として、たったあれだけの登場にすぎぬ舞子という母性もまた、
遊びをせんとやの精神を通じて巨大なものがあった。
もっとも、最終回における西行の慰撫まで見ないと、初回からのスパンを持つこのあたりの理解は
困難であるのも確かで、これが自称大河コアヲタで歴史クラスタらしい連中をイラつかせ、
頓珍漢な言いがかりに終始させた要因の一つだろう(大根じゃないが、よっぽど「善男善女」
のシロートの方が確かな理解を示した)。これぞ確かな長編叙事詩かつ叙情詩の証だろう。
(最後まで見ても、さらに7年経って解説されても、無知で無能な制作側がーのこいつらに
理解を求めてみてもムダ) >>827
詳しくないし、大名でもないけど室町幕府の奉公衆の大館や
関東の岩松あたりは使ってたようだ
だから家紋としては存在していたはず
ただ、室町からしばらくは大中黒は朝敵の家紋だし
新田一門は足利一門だから普通なら二引両使う
江戸になると徳川が自称新田だから逆に使いにくいかもしれない
岩松は一応新田本家だし、大舘は幕府になびかず逼塞してたところを
道誉に拾われたという特殊な状況。 >>833
近世には、十八松平の一つで上級旗本の竹谷松平氏が大中黒の家紋を使っていたはず。 >>828
古典の太平記の瓜生城のところ、新田足利北条比較しているくだりで「大中黒の紋」と記述あったはずです。
829さんの話は紋じゃなくて旗かなと。
室町時代は新田は討伐対象、江戸時代は徳川独占紋で、使用はかなり限られたはず。
ところで、それどこの新田神社ですか? >>829
>>833
>>834
>>835
ありがとうございます。
古典太平記の記述も確認しました。確かに「大中黒の紋」で存在ていますね。
室町時代は足利に、江戸時代は徳川に遠慮なりで岩松も由良も使用していなようです。
どっちも復活は幕末〜明治からですかね。
竹谷松平氏もみましたがあれは「中黒」とした方がいいのかな?
835さん福井の新田神社(藤島神社)です。 さる程に、細川刑部大輔、七千余騎の勢にて千町原へ打ち出て、敵の陣を見給えば、
渺々(びょうびょう)たる野原に、中黒の旗ただ一流れ差し揚げて、
わづかに三百騎ばかりひかへたり。(古典太平記) 俺が中学生の頃は執権は習ったけど得宗は教わらんかった
高校では習ったけど
今の中学の教科書はどうなんだろう
北条氏系図で数字は得宗の代数を表すとか、それぐらいかな >>842
40のおっさんだけど普通に中学で習ったぞ 「峠の群像」に樋口可南子が出てるけど、「太平記」の頃とは別人みたい 八千草薫といえば源氏物語の藤壺
沢田研二演じる光源氏との濡れ場 >>842>>843
一般的な中学の教科書に「得宗」は出て来ないよ。
ただ中学の歴史の教科書なんて、与えられている時間数に対して内容はスカスカ。
だから、教師の興味・関心や熱意の有無によって、やろうと思えばいくらでも詳しく
掘り下げることが可能だし、逆にいくらでも端折ることも可能。
あと偏差値の高い中高一貫校とかだと、中学の授業でも、当たり前のように高校レベルの
内容に踏み込むことも多い。
だから中学の授業って、科目名は同じ「歴史」でも、どういう授業を受けたかの記憶は、
人によって結構違いがあると思われる。 大半の中高生にとっては、源氏や枕のような難解の平安古典よりも、太平記のような
軍記物のほうが、流れも分かりやすいし、テンポよくストーリーが展開していくから、
楽しく古典を勉強するには、いいと思うのだけどな・・・。
平安古典こそが古典だ、みたいな感じでやり過ぎると、かえって古典嫌いを増やすだけ。 赤穂浪士関係のスレがないからここに書くけど、
「峠の群像」総集編を見てる
樋口可南子綺麗だな >>853
まあそう言うなよ
樋口可南子、「太平記」にも出てる
だからまったくのスレ違いでもない 顕家が率いた奥州軍って、実際にはどの位の兵力だったんだろう。 >>858
湊川の前か、自分が死ぬ時か、どっちよ? >>827
片山さつきが新田の子孫で家紋も大中黒とかどっかで言っていた。
自称だろうけど。 >>856
朝廷公認の合法的な略奪ツアーということで、奥州の武士が喜び勇んで参加したって話では? >>861
徳川家のおかげで新田の子孫というだけで胡散臭さが漂ってしまう。 真田広之ってイケメンだね
昔見てたイメージと別に変ってないんだけど
自分が小さかったのと高校教師のイメージしかなくて
今、太平記繰り返し見ててこんなにじっくり顔を見ることなかったから >>864
しかもアクション俳優の出身だから、馬の乗りこなしとかも美しく、時代劇に映える。
惜しむらくは身長だね。 >>866
コメディの病院へ行こうもおもしろかった
京都序盤の大地さん右馬介との関係性が垣間見えた これはおたわむれを
アプリとは何を指してのお言葉か ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています