【第四十八回】太平記part.48『果てしなき戦い』
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>42
一瞬、高氏殺して尊氏に憎まれるって、
何の話をしてるのかと思ったら、高氏は師直・師泰のことねw
ここにきてる人たちは間違えないでしょうけど、
やはり「高氏」表示は一瞬ややこしいw >>108
鎌倉幕府では滅亡までの4代が親王将軍
当時は将軍と言えば源氏がなるものではなく親王がなるものだったんだよね
だから護良親王が征夷大将軍を望むのはある意味普通のことだった
足利尊氏が鎌倉幕府のごく初期だけ源氏将軍だったことをもって
征夷大将軍を望むほうがある意味無謀
後醍醐天皇が尊氏の征夷大将軍を認めないのも一理ある
まあ異母兄が征夷大将軍では幼い皇太子を軽んじるのではないかという阿野廉子と
護良親王ではお飾りの将軍にならないから自分が将軍になりたい尊氏の利害が一致したのはそうだろうが ちなみに護良親王
小学館の漫画日本の歴史では
足利と阿野廉子の計略で逮捕され
鎌倉に送られる時に
何故父上は私の言い分を信じてくれなかったのだ?
今となっては足利よりも父上の方が憎い
と後醍醐の方を憎んでいたけどね
こりゃ相当に親子の仲が悪くなっていたと思われ
後醍醐の方にせよ何故足利直義に護良親王を預けたのかがわからん
まさか足利に護良親王を殺させるつもりは無かっただろうが
護良親王を足利に対する人質のつもりだったんだろうかね?
後醍醐は自分の息子を足利に預けるので足利と敵対する気は無い
と言うアピールのつもりだったのかね? >>96
あの描き方で、雑魚にしか見えない。
あんたの脳みそ、やばいと思う。 昔は征夷大将軍は源氏しかなれないというガセ説がまことしやかに
流れてたんだよね
直義のセリフ見てその時代に作られた作品なんだと実感した 堤大二郎、竹本孝之、沖田浩之、新田純一らは
ジャニーズによって消されたな 当時は頼朝以下三代ぐらいじゃね?そんな先例
むしろ親王将軍が直前までいたわけだから・・・
脚本のミスっちゃあミス
足利が鎌倉倒したんだから当然我らが、ぐらいよな >>121
そして忘れ去られる旭将軍w
まぁあの時代に征夷大将軍が源氏だけって意識は無いよね
中の人繋がりで豊臣秀長が言う分にはまだ分かるけどw 何とか将軍って、基本1人しか任命されないのかな
征夷大将軍って
頼朝が東国にいたから任命されて、その後鎌倉幕府の長の象徴になった
摂家将軍や親王将軍いたけど実権は北条が握ってたから
ありがたみはないってのは違うのかな 頼朝公がはじめた鎌倉幕府が北条に乗っ取られた
頼朝公の血筋が絶えたなら、源氏の系統が継ぐべき
宗家に最も近い足利氏こそ、その資格があるはず
腐敗堕落した北条を倒して、世をあるべき姿に戻そう
ってのは、ドラマ的にはわかりやすいかなあ
実際は色んな無理があって、正統性を主張する者も乱立したけど BSプレニアムで再放送中だから、そっちの話題にどうしてもなるな
スレタイの「果てしなき戦い」(48回)の話もしようぜ 中先代の乱で、直義が護良を殺さなければ
鎌倉を落とした北条時行に護良が担がれて
フランケンシュタインみたいな新鎌倉幕府誕生
なんてことは本当にありえたんだろうか 実際は頼朝の庶子が寺にいたんだがね
実朝死んで血筋たえたと思ってる人も昔は結構いたな
将軍がそこで終わったと思ってた人もw >>129
実朝以後
源氏の関係者、頼朝の庶子は何人か粛正されたらしいですね
承久の変は、北条政権対朝廷(と源氏関係者)って言ってる史家がいたような
子供の頃、「3代将軍後はどうなった?」って本読んでみたら
摂家将軍や親王将軍が継承していて驚いたな 頼朝の庶子は粛清されてないよ
ずっと寺にいた
ただ無視されて藤原氏迎えられただけ
殺されたのは頼家の子供と全成の子供だよ
北条は頼朝とは仲良くて頼家とバトルしたから >>128
誕生してても数日で尊氏に滅ぼされる運命は変わらないと思う。 >>127
単に連番なだけだしな、話題にしたかったら話振ってよいのよ 頼朝の庶子って還俗拒否したんじゃ無かったっけ?
長兄は金玉取られて暗殺、次兄も暗殺されて首持って行かれたけど跡継ぎ居ないから還俗して将軍やってくれない?って打診来て戻る奴いないよね・・・
だからと言って籤引きやると万民恐怖w 結局北条が天下人になりたいがために
頼朝の庶子は無視されたのかね?
考えてみたら頼朝直系が滅んでも
足利を将軍にしたら良かったのに
それをしなかったという事は
やはり北条が天下人になりたかったんだろうね 頼経と竹御所の子供が死産しなければ5代将軍は頼朝直系に戻ったと思う
歴史のifだけどね >>136
鎌倉幕府が成立した頃は
頼朝の近い源氏は
吉見や阿野や新田や足利、大内や平賀とか
結構いたらしい
北条に近かったから(取り入ったから?)
足利氏が正統扱いされるようになったって解説読んだけど
御家人の間から祭り上げるよりは
京都から迎えるほうが色々都合よかったよかな いくさの賞罰の儀は、古来征夷大将軍が断を下すもの いくさの賞罰の儀 許す許さぬの儀は将軍が決める
そなたは、高師直の首を取り、それで将軍になるつもりであったのか
では将軍はこの尊氏と認めるのか 皆もそうか では話を元に戻す こたびのいくさの
恩賞の儀は、将軍たるこの尊氏が決める それが筋であろう それでよいな
頼房!わしはそなたを許さぬ とく下がれ
さて、こたびのいくさの恩賞の儀じゃが、第一の功には、終始わしにつき従ごうた42人の武将をあげたい これらの者の領地を安堵し、しかる後に、他の武将の賞罰を決したいと存ずるがいかが
今後師直に代わってそなたが義詮を助け、まつりごとを行うことは認めよう それを認めた上の話じゃ >>126
二代将軍の頼家は比企の娘を嫁にもらったため
その一族が政治に口を出すようになって
北条氏と対立した
三代将軍になった実朝は足利氏の娘を嫁にもらうようすすめられたが
嫁は京の都からもらいたい
政治に口を出すこともないでしょうからと
これを断っている まあその辺りは三谷の大河で出てくるだろうが
実朝夫人に足利氏をてのは政子の考えくさい
足利義兼の妻は政子の同母妹だから
で実朝が断ったとなってるが本当に子供の実朝が断ったかなあ
時政や義時の差し金ではないかと怪しんでる
義時は外戚との合戦で妻と離別することになって懲りたろうし
時政は自分の娘婿の縁者の坊門から迎えるようにしたし
政子ってあんま考えずに感情で動くから呑気に足利から嫁をーて言いそうなんだよなw
公暁を実朝養子にして京から呼び戻したのも政子だし
この呑気さだと頼朝直系途絶えるって 頼朝の長男といえば郷ひろみのイメージ強い
相手役の女優が好みだったな 源頼朝や北条政子は「太平記」に登場しないから、スレ違い
草燃えるのスレか、鎌倉殿の21人のスレへGO いざ鎌倉と言えば、みんな仲間じゃないか
細かい事言うなよ 実朝の次も源氏将軍でずっと行っとけば、最後に持明院統の皇族将軍を担いで容赦なく鎌倉を攻められるような事は無かったのかもなと思った >>110
平家の滅亡もそうだがこの時代の戦争は時の勢いみたいなもので決まってしまうから
仮に戦線を離脱して一時的に行き長らえても一度権力から転落していまうと
結局のところ先はないのが目に見えている
特に鎌倉北条氏はもともと統治者としての権威・正統性に乏しいから
実際の権力がほとんどすべてでこれを失ったまま逃げ回っても悲惨な末路になるしかない
この鎌倉を失うて・・・いずくにか我らの立つべきところやある! >>116
直近の約80年間親王将軍をトップとして武家政権が存在していた事実がある以上
武家政権の存在を否定したい後醍醐帝本人にとっても
征夷大将軍の地位を要求した護良の振る舞いは看過できないものになっていただろう
いくら廉子派と足利が結託したところで後醍醐帝が承認しなければ護良の逮捕はできない
>>117
護良を京都には置いておけないし破れた政争の当事者は勝った側に引き渡すのが道理 足利貞氏の代に武家の源氏将軍を立てようってことで貞氏を擁立する動きがあったらしいな >>123
義仲が就任したのは征東大将軍っていうのが最近の通説じゃないか?
そして頼朝は不吉な義仲の先例を避けて征夷大将軍を選んだと
>>126
頼朝死後に有力御家人たちが頼家の権力を制限する目的で
13人の合議制(評定衆の起源)を始めたことからしても
当時の鎌倉武士は大きな実権を持つ武家の棟梁たる将軍の存在をそもそも望んでない
>>137
一応頼経以降の将軍も宗尊以外はすべて坊門姫(頼朝の同母妹)の生物学的子孫だよ 北条が絶大な権力持ってるのは分かるが
なんでフランキー堺が
緒形拳や勝野洋やアタックチャンスよりも
強いのか理解できん 北条が政権握って以降は
幕府上層部が北条ばかりになって
本家が執権職を世襲すれば、本家が絶対君主化するよなあ
幕府の評定を本家の屋敷で行うようになったり
本家の執事と分家の当主とで釣り合いがとれるようになったり 元寇を撃退して日本を救った北条時宗公がいるだけでもうすべて赦そう
孫である北条高時も祖父の業績を以て赦してあげようよ 頼朝以降の征夷大将軍って知行宛外の権限があるから、天皇親政の後醍醐からみたら関白以上に認可出来ない官職だろ 北条が執権職についたから権力握ったんではないんだよな
その逆で北条当主が権力握ったから当主がついてた執権職が偉いポジに
途中から執権にならない時期も増えたんで執権職が今度はお飾りポジに
そういう意味では鎌倉初期からあんま変わってないとも言える >>96
他の人も何度か書いてるけど、一つの時代が終わる時はあっけなく終わったりする。
現代でもね。
太平記の初回はベルリンの壁崩壊の映像が出てたよな。
ベルリンの壁が崩壊するのは時間の問題だったろうけど、直接の崩壊のきっかけは東ドイツ政府の誤った発表から。
とんでもない大騒ぎになって、ベルリン壁崩壊まで流れで行ってしまった。
長くなるから書かないけどね。
さらに、太平記が放送された年は、もっと驚くことがあった。
ソビエト連邦で8月にクーデター未遂があった。
夏の休暇中に別荘で幽閉されてたゴルバチョフ大統領は、無事戻ってきた。
助かったものの大統領とソビエト共産党の権威は失墜して、あちこちで離反が起きたよ。
特に大事なロシアとウクライナが離反したのが決定的だった。
太平記が終わった頃にソビエト連邦があっさり崩壊しちゃったんだな。
太平記の初回放送の時は、年末にベルリンの壁崩壊と同等か、それ以上の事が起こるとは誰も思わなかっただろうな。 鎌倉幕府が合議なのはごく初期からの話
名目上のトップが、
初期は将軍(源氏)で、有力御家人の評定衆で物事を決めていた。事実上の最高権力者は頼朝または執権
中期は名目上のトップは執権で、評定衆から御内人に合議が変遷していった、事実上の最高権力者は徳宗
後期は名目上のトップは徳宗、御内人の合議で、事実上の最高権力者は内管領(徳宗の家令)
最高権力者が次の時代には名目上になっていくのは
日本の権力機構では良くある話だなあ >>159
いや、最初に鎌倉殿の家司「筆頭」となって、いわゆる執権扱いされたのはでかい。 日本ではトップは付き合いだの儀式だのが多くて「実務」から遠ざかりがちなんだよね
でわ実務を部下に任せるうちに権力がそちらに移ってしまう
大きなくくりだと公家と武家もそうだし
天皇と関白
鎌倉将軍と執権
徳宗と内管領
室町将軍と管領
徳川将軍と老中
全部同じパターン >>162
それはあんまり意味がない
頼家の時は?
家司のポジなんてあやふやなもんだよ
将軍の外戚なんで若い将軍の後見人とみなされただけで職とは関係ない たまたま、義時泰時がべらぼうに有能だったってだけだよね
あんな怪物が二代続いたらそりゃ最高権力者になるわ 泰時、重時、政村その他有能な子供を排出した義時は鎌倉時代のサンデーサイレンス
ただインブリードが濃くなりすぎて孫の代辺りから体質が弱くなったのが残念 >>158
知行宛行か?
そんな権限は将軍に限らず誰だって自分の部下に自分が持つものを与えることは自由だろ
逆に鎌倉期の場合だと非御家人は別に将軍から所領所職も貰っているわけじゃないし >>143
政子ちゃんが、そんな呑気な事言うわけないだろう
三河の縁故で、鎌倉将軍家と足利氏の秘密の繋がりを熟知していたからこそ、義兼の娘との結論になる
承久の乱の時に政子の檄文を読み上げたのは三河武士の安達景盛 
三河縁故の武士が、裏でガッチリタッグを組んでいたわけだ
北条が乗り越えられなかったのは、頼朝が構築した三河システム(三河縁者が武家社会を牛耳るシステム)  
男系、女系共に源頼朝に近い足利氏が使命感をもって、武家社会を源頼朝の三河システム(三河縁者が武家社会を牛耳るシステム)に戻したのさ 
その三河システムの存在は政子ちゃんは周知の事だ  
頼朝やその息子孫がいなくなって、政子が頼りにしたのは三河で繋がる人々だったのは明白だろう、政子の葬儀奉行は三河守護の足利義氏だった 
金剛三昧院(本尊、愛染明王は北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏として作成) 
・建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建する 
・承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰する 
・貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立する 
・嘉禎4年(1238年)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納める 
・源実朝 
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝 
葛山景倫(願性) 
藤原実範(三河守)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性) 
・安達景盛 
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?) 
・足利義氏 
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護)  >>146
太平記を語るには、頼朝どころか義家まで遡らな、見えてこんぞ
センゴク(笑)も義家まで遡らなら見えてこない
【三河最強伝説】
■源義家軍
総大将:源義家
本体:三河武士(郎党1 兵藤正経 三河国住人、郎党2 伴助兼 三河伴氏 三河国住人)
■源頼朝軍
総大将:源範頼(三河守)
本体:三河武士
■足利尊氏軍
総大将:足利尊氏(三河守護(但し当時は喪中))
本体:三河武士
■徳川家康軍
総大将:徳川家康(三河守)
本体:三河武士
■トヨタグループ
総大将:トヨタ自動車
本体:三河武士 最近、吉良長氏の娘が土御門顕方(中院顕方)の妾だったの知ったが
顕方の叔母さんは後鳥羽天皇の嫁の承明門院であり、その息子が土御門天皇、吉良長氏の娘は天皇と従兄弟の嫁になったわけだ
顕方は宗尊親王の近臣として、鎌倉に在住し、記録も多く残されている
すると、同じ宗尊親王の近臣として下向してきたと伝える上杉重房の記録が全く残っていないのは、益々不可思議
上杉重房は、系図によると土御門天皇とはハトコになる要監視人物 オラたち在地領主の権益を保護してくれるヤツなら誰でも良かったんだか、次から次と糞みたいなのばっかで、お人好しの又太郎君で手をうちました。 仕事できる奴の発言はみんな聞く
古今東西変わらない
現に俺の指示はみんな聞き流す 鎌倉幕府の末期は宮将軍が4人続いたのに
次の将軍が大塔宮であれほど驚くのかね >>150
それでも後醍醐天皇は何回も京都や隠岐から逃げてたけどね
南朝も吉野から何回か移動してるし
北条高時は余りにも諦めが早すぎたな
逃げ回るのは恥ずかしいと言うプライドも有ったのかも知れないが >>174
そのころの征夷大将軍はただのお飾りで
天皇に近い血筋の男子を連れてきて将軍にして
成人して言いなりにならなくなったら
京に送り返して新しい将軍を迎えていた
後醍醐天皇は自分の息子の堤大二郎を征夷大将軍に任命
足利高氏は
「俺たちだって命がけで戦ったのにご褒美もらえないの?
そんなら後醍醐天皇を追放して自分が征夷大将軍になってやるわい!」と
キレてしまって
ぐじゃぐじゃなことに… >>175
今の贅沢を普通に考えてる若者に、戦中の生活は耐えられない。
平家も北条も同じようなもんだろう。 >>151
調べたら護良親王は帝への謀反の罪で
鎌倉へ流罪と言う事らしいな
流罪と言っても逃走する可能性もゼロじゃ無かったので
逃げられたら対立してた足利も困るので
足利自身に見張らせて足利自身を安心させると言う意味合いが有ったんじゃね? >>151
征夷大将軍は坂上田村麻呂やらの頃は帝の忠実な家臣だったし護良親王に幕府を開く意図はない
征夷大将軍を望む足利尊氏に対抗するために武家のトップは親王でなければならないとして
後醍醐天皇もこれを了承し護良親王を征夷大将軍とした
古典「太平記」によれば護良親王は後醍醐天皇に尊氏討つべしと奏上するも後醍醐は難色を示すため
護良親王自ら武力で足利尊氏を排除するべく兵を集める令旨を出した
この令旨が阿野廉子の手に渡り廉子は尊氏を呼んで共謀
護良親王は後醍醐天皇を殺して自分が天皇になろうとして兵を集めていると
廉子が後醍醐天皇に奏上した
そのため後醍醐天皇の命令で護良親王は追放、足利直義に預けられた
足利に預けた時点で実質、護良親王を見殺しにしたも同然 このスレでは「もし義貞役が最後までショーケンだったら」というのはよく話題になるが、逆に最初から根津甚八さんだったらどういう事になってたのだろうか
(こんなので鎌倉を落とす事ができるのか?とか) >>175
鎌倉北条氏には権威や正統性が決定的にない
これは大きい
>>179
> 護良親王に幕府を開く意図はない
自らの支持基盤として畿内の悪党(新興武士)勢力を束ねている護良を将軍にすることの危険性は大きいだろう >>182
その件でいつも思うのは、ショーケンだとこうとうのないしと恋に落ちる田舎大名っていうより
女に惚れさせて引きずり回すという感じになりそうな。
まあ演出しだいっちゃそうだが >>183
後醍醐天皇は護良親王から征夷大将軍を取り上げた後は
廉子腹の自身の皇子、成良親王に征夷大将軍を与えていたこともあり
親王が将軍になるべきだという考えは一致している
成良親王が鎌倉府将軍、尊良親王が上将軍、懐良将軍が鎮西将軍など
後醍醐天皇は自らの皇子に兵を率いさせている
鎌倉幕府滅亡時には護良親王の令旨に応じた楠木などの新興武士も
護良親王追放時には後醍醐天皇に従っており混乱はない >>182
子どもの頃から高氏とケンカしなさそうだし貞氏に謀略しかけなさそう
出る度に自虐的に新田は貧乏御家人…と繰り返して自分で勝手に傷ついて… ショーケン義貞なら生意気な千寿王を蹴り飛ばすな
ショーケンは裏声で演説する明智光秀が妙に印象に残ってる
映画だと足利義政もやってるね 左兵衛督は在京しとかなきゃいけないからな
右大将を3日で退いた頼朝公は神だわ >>186
真逆に思う
闘犬の時か、無表情で、人と話す時さえ遠くを見てるような実体のない感じ
あのままだったらかなり無気味なキャラになったと推測してる 根津義貞のイメージだったら一話でエンカウントしないでそのまま川の向こうから眺めてスルー
高氏との因縁が発生せず、金に困って暴発して鎌倉幕府滅ぼすという流れになりそう >>154
内閣官房長官とかアメリカ大統領首席秘書官とか?
総理や大統領の意向のだわね
あと徳川幕府の老中とか?
御三家より実権あるんじゃね >>193
このスレ住人なら
高氏(たかうじ)だろ、高時が烏帽子親やぞ >>189
>>186はもし最初から根津義貞だったらという話をしているように思うが >>191
徳川幕府だと側用人が近いな
公的には何の地位もないあたり
ただ側用人だろうが老中だろうが御三家より
偉そうな態度は取らないが長崎は北条一門や
足利よりはるかに偉そうだったw 平家の末裔だから長崎氏
偉そうな態度とるのもそういう意識ありそう 平家じゃなくて坂東平氏だろ
平家は平清盛の一族郎党を指す 坂東平氏だと偉そうじゃないだろw
平家の末裔だよ長崎氏 Wikipediaだったか忘れたが
平頼綱とか長崎氏って
平家の一門の末裔って書いてある本あったような
歴史に興味ない人が「平氏が滅んだ」だと言うのは
平清盛の系統(平家)が滅んだってことで
鎌倉御家人が坂東平氏の子孫が多いって言われると
驚くらしいけど 北条高時がまだ子供だったので長崎親子に政治をまかしたんだよ
それが北条高時が大人になっても長崎親子に政治をまかしたまんまだった
北条高時が長崎親子に頼りぱなしだったので
長崎親子が実質幕府ナンバー1となってしまったんだよ >>206
源平や公家、戦国大名のほとんどが元を辿ると天皇家の親戚になるということを
小中高生に教えるのは皇族への不敬になるとして禁忌されている
日本史というものは、多くが天皇親戚権力闘争史なのに >>208
女がみな旦那の子を産んでると
素直に信じてる童貞? むしろ戦国大名には由緒正しい源平藤橘の方が少ないだろ
どんな武士でもそれなりの地位になると源平藤が先祖であると自称するのが日本史の不思議なところでもある
大内氏みたいな変わり種もいるにはいるけど >>211
私の先祖は百済の王族です>大内氏
これっていざとなれば、天皇や将軍の言う事も聞かないよ
くらいの意味もあるんだろうかね 文字通り百済王という一族が天皇の臣下になってるから、それは無理筋だろうね
商売をしやすくするためとか言われてるけど 戦国時代の武将も鎌倉や南北朝時代のどこかで先祖の名前が出てること多いからのし上がるにも基盤が無いときついんだろうな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています