【第四十八回】太平記part.48『果てしなき戦い』
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なぜ桃井刑部を襲うた 動くなと申したはずじゃ なにゆえに軽はずみなことをするか
桃井一人を闇討ちにしてどうなる そのような姑息なやり方で、天下が治められると思うか
(義詮 桃井は許せませぬ 刑部はこの義詮をあなどり、父上を亡き者にせんと図っておりまする 刑部さえ討てば)
黙れ そなたは、桃井の挑発にウカウカと乗ったのじゃ 桃井は館に戻り兵を集めておる
この都を、いくさに巻きこむつもりか 愚か者めが! なぜ父の言うことが聞けぬのじゃ
そなたが失脚すれば、足利家は後の支えを失う わしが倒れても、そなたが倒れてはならんのじゃ
いくさをやるならわしがやる 刑部を討つならわしが討つ それがなぜ分からん
このシーンの義詮が良かったなあ 前半の敵役がフランキーさん
中盤の敵役が高橋さん
名優を配したから締まりますね 昔見た時直義派の桃井の悦史と細川顕氏のセブンが目立っていい味出してた覚えがある >>64
西郷さんは助かりたくて1人逃げようとしたところを
見苦しいと別府に切られたのが最期というのが鹿児島での定説なんだよなあ。 あと、山縣さんが西郷の名誉を守るためとか考えてたとはとても思えないしなあ。
天皇お気に入りの西郷さんに乱後も生き残られたら何かと揉め事の原因になって迷惑とは考えていたかもしれんが。 桃井直常は直義が死に、尊氏が死に義詮が死んでも
何故あそこ迄反将軍家だったのか >>68
「相模入道」なら常識的に「もともと相模守であった人物で出家している」という意味
というか「官途名+入道」は基本的にそういう意味
「八幡太郎」は官途名とは関係ない通称
尊氏の「又太郎」や義貞の「小太郎」と同じ類いのもの >>55 苗字で掃部さんとかじっさいにいるからね ながいこと「この家のひとはどうして玄関に『掃除』という表札をだしているのだろう」と思っていた うちの近所の刑部さんを思い出した。
銭形みたいな怖いおっさんが出てくるかと冷や冷やした。 「井伊掃部頭」と英語圏の外国人が言うとどうなるだろう。
「イイ、come on ノカミ」 うちの近所の『伯耆』さんの表札をみて 伯爵なんだと勘違いしていた スレ違いだけど
珍しい名字ってあるよなあ
「え?、今なんて言ったの?」「ああ、漢字で書くとこうか」
なんて
何とかの荘を開墾したから
「何とか荘を開墾した太郎さん」→「何とか太郎」が
可愛く思える 足利義満が僧形になったときは
ご機嫌とりで僧になる者が続出、皆さん袈裟着て出仕したとかきくけど
判官殿は、史実は何時から僧形なんだろ
髪をそった後は、最終回の直義みたいな感じだったのかな 鎌倉幕府では執権北条高時に御相供衆として仕え、高時が出家した際には共に出家して導誉と号した。
高時に倣っての出家だからかなり若い時 どーよの僧形は政宗の秀次失脚の回で見た
「碁盤の目はこのままにいたせ!」 近藤正臣良いよね
この頃が、真面目な所と嫌味な所のバランスが取れてて一番良かった
もうちょっと歳を取ると嫌味の方がキツくなって嫌いになるんだけど >>80
官途名が苗字化した例なら九州の少弐氏が有名だな
あとは室町幕府奉公衆の治部氏とか
>>84
実際「伯耆」は室町・戦国期には名和氏のもう一つの苗字のように使われるよな
国名がそのまま苗字として使われる例なら室町幕府奉公衆の伊勢氏や摂津氏も有名
いずれも「伊勢守」「摂津守」の官途名を代々名乗っているし
しかもこれは自称ではなく正式に任官しているはず 見れてなかった3週分を一気に見たけど北条あっさり滅んだな
北条が雑魚にしか見えなかった
もっと上手いこと描いて欲しかったなあ ちなみに山県有朋
命の恩人だった西郷隆盛を殺さなきゃいけない
のは複雑な心境で有ったとか
以前本で読んだ事が有る >>74
一応言っておくと西郷の最期を極力名誉あるものにすることは
山県だけでなく当時の明治政府全体にとっても極めて重要なことだぞ
当時の西郷は全国の不平士族たちの象徴的な存在であり
政府が西郷を意図的に辱しめたと受け取られかねないことをすれば
さらなる士族反乱など事態の悪化を招きかねないわけで >>81 今ふときづいたんだけど 銭形さんは『警部』か ぼーっとしてたわ 何の疑問もなく銭形刑部だと思っていた そもそも官途名に由来する「刑部」なら読みは「ぎょうぶ」だよな ドラマ見てもよくわからなかったが後醍醐天皇と護良親王は打倒北条の目的は同じでも
倒幕前からすでに反目してたの?
倒幕の第一功労者にいきなり坊主に戻れというのも意味わからないし北条倒して帝が京に
戻ったのに上洛命令無視で武装解除せず山に引きこもったままというのもよくわからない >>101
仲のよい親子でも
一度握った権力、自分が中心となる集団は手放したくないんじゃないかなあ
史学は詳しくないけど
後醍醐天皇と護良親王とは、別々に倒幕運動してたみたいだし
後醍醐天皇が「皇帝のごとき」体制、護良親王は皇子の1人と
護良親王が後継者、又はそれなりの地位にいる体制とは
違う気がする 護良親王
子供の頃読んだ学習漫画では
悪人顔の足利に陥れられる悲劇の貴公子だったり
武断派で、部下が度胸試しのため辻斬りやってたり
敵兵に追われて、蓋があいた箱の中に隠れたり
描かれ方が違ってて
「どんな人なんだ?」って思ったな >>101
上洛命令無視で武装解除せず山に引きこもった理由は、
足利を警戒したからと本人が説明していたな >>96
ドラマで描写されなかったけれども、存命中の執権や執権経験者までもが
最前線で鎌倉を死守しようとしていた
巨福呂坂に向かった赤橋守時は離反を疑われて抗議するように自刃したのは5月18日
普恩寺基時は金沢貞顕と化粧坂を守っていたけれども新田軍が他ルートから鎌倉入りし
5月22日基時はその場で自刃、貞明は東勝寺に向かい同日自刃
長崎円喜でさえ、子や孫を最前線に向かわせるほどの逼迫ぶりだった
それだけ北条から離反した武士が多かったとも言える 大塔宮護良親王は後継者の座を
阿野廉子の息子と争ってたみたいだが
しかもそれに加えて将軍の座を巡って足利尊氏と対立
それで足利・阿野廉子 両方から落とし入れられる事をされた
足利・阿野廉子 両方共に敵に回したのはまずかったな
政治的には自滅行為をしてしまった人だな >>107
「ドラマで描かれなかった」というレスに対し
「描かれなかったがこうだった」と言ってどうすんの? >>107
北条高時など鎌倉から逃げれば良かったんだがな
時行も逃げた信州にでも逃げれば
北条政権が存続したかも知れないのに
江戸幕府でも幕臣が東北を経て函館で亡命政権作ったし
室町幕府の足利義昭も中国地方で亡命政権作った
鎌倉幕府滅亡時の北条は本当に諦めが早かったな >>107
ワシの孫が戦っておるのじゃ
見てなかったのかよ 逃げた挙句部下に裏切られて首を手土産に降伏でもされたらカッコ悪過ぎる
藤原泰衡とかのパターン 護良親王ってなんか分からんけど
ドラマを参考にした人物王でいいのかも >>20
後醍醐帝の立場からしたら、1年も隠岐に押し込まれてた恨みもあるので、
六波羅が落ち、鎌倉が滅んだと聞いたら、そりゃ高笑いもするさ。
ただ、仁左衛門さんがあの高笑いを下品にして欲しいという
演出からの注文は間違いなくあったでしょうね。 >>42
一瞬、高氏殺して尊氏に憎まれるって、
何の話をしてるのかと思ったら、高氏は師直・師泰のことねw
ここにきてる人たちは間違えないでしょうけど、
やはり「高氏」表示は一瞬ややこしいw >>108
鎌倉幕府では滅亡までの4代が親王将軍
当時は将軍と言えば源氏がなるものではなく親王がなるものだったんだよね
だから護良親王が征夷大将軍を望むのはある意味普通のことだった
足利尊氏が鎌倉幕府のごく初期だけ源氏将軍だったことをもって
征夷大将軍を望むほうがある意味無謀
後醍醐天皇が尊氏の征夷大将軍を認めないのも一理ある
まあ異母兄が征夷大将軍では幼い皇太子を軽んじるのではないかという阿野廉子と
護良親王ではお飾りの将軍にならないから自分が将軍になりたい尊氏の利害が一致したのはそうだろうが ちなみに護良親王
小学館の漫画日本の歴史では
足利と阿野廉子の計略で逮捕され
鎌倉に送られる時に
何故父上は私の言い分を信じてくれなかったのだ?
今となっては足利よりも父上の方が憎い
と後醍醐の方を憎んでいたけどね
こりゃ相当に親子の仲が悪くなっていたと思われ
後醍醐の方にせよ何故足利直義に護良親王を預けたのかがわからん
まさか足利に護良親王を殺させるつもりは無かっただろうが
護良親王を足利に対する人質のつもりだったんだろうかね?
後醍醐は自分の息子を足利に預けるので足利と敵対する気は無い
と言うアピールのつもりだったのかね? >>96
あの描き方で、雑魚にしか見えない。
あんたの脳みそ、やばいと思う。 昔は征夷大将軍は源氏しかなれないというガセ説がまことしやかに
流れてたんだよね
直義のセリフ見てその時代に作られた作品なんだと実感した 堤大二郎、竹本孝之、沖田浩之、新田純一らは
ジャニーズによって消されたな 当時は頼朝以下三代ぐらいじゃね?そんな先例
むしろ親王将軍が直前までいたわけだから・・・
脚本のミスっちゃあミス
足利が鎌倉倒したんだから当然我らが、ぐらいよな >>121
そして忘れ去られる旭将軍w
まぁあの時代に征夷大将軍が源氏だけって意識は無いよね
中の人繋がりで豊臣秀長が言う分にはまだ分かるけどw 何とか将軍って、基本1人しか任命されないのかな
征夷大将軍って
頼朝が東国にいたから任命されて、その後鎌倉幕府の長の象徴になった
摂家将軍や親王将軍いたけど実権は北条が握ってたから
ありがたみはないってのは違うのかな 頼朝公がはじめた鎌倉幕府が北条に乗っ取られた
頼朝公の血筋が絶えたなら、源氏の系統が継ぐべき
宗家に最も近い足利氏こそ、その資格があるはず
腐敗堕落した北条を倒して、世をあるべき姿に戻そう
ってのは、ドラマ的にはわかりやすいかなあ
実際は色んな無理があって、正統性を主張する者も乱立したけど BSプレニアムで再放送中だから、そっちの話題にどうしてもなるな
スレタイの「果てしなき戦い」(48回)の話もしようぜ 中先代の乱で、直義が護良を殺さなければ
鎌倉を落とした北条時行に護良が担がれて
フランケンシュタインみたいな新鎌倉幕府誕生
なんてことは本当にありえたんだろうか 実際は頼朝の庶子が寺にいたんだがね
実朝死んで血筋たえたと思ってる人も昔は結構いたな
将軍がそこで終わったと思ってた人もw >>129
実朝以後
源氏の関係者、頼朝の庶子は何人か粛正されたらしいですね
承久の変は、北条政権対朝廷(と源氏関係者)って言ってる史家がいたような
子供の頃、「3代将軍後はどうなった?」って本読んでみたら
摂家将軍や親王将軍が継承していて驚いたな 頼朝の庶子は粛清されてないよ
ずっと寺にいた
ただ無視されて藤原氏迎えられただけ
殺されたのは頼家の子供と全成の子供だよ
北条は頼朝とは仲良くて頼家とバトルしたから >>128
誕生してても数日で尊氏に滅ぼされる運命は変わらないと思う。 >>127
単に連番なだけだしな、話題にしたかったら話振ってよいのよ 頼朝の庶子って還俗拒否したんじゃ無かったっけ?
長兄は金玉取られて暗殺、次兄も暗殺されて首持って行かれたけど跡継ぎ居ないから還俗して将軍やってくれない?って打診来て戻る奴いないよね・・・
だからと言って籤引きやると万民恐怖w 結局北条が天下人になりたいがために
頼朝の庶子は無視されたのかね?
考えてみたら頼朝直系が滅んでも
足利を将軍にしたら良かったのに
それをしなかったという事は
やはり北条が天下人になりたかったんだろうね 頼経と竹御所の子供が死産しなければ5代将軍は頼朝直系に戻ったと思う
歴史のifだけどね >>136
鎌倉幕府が成立した頃は
頼朝の近い源氏は
吉見や阿野や新田や足利、大内や平賀とか
結構いたらしい
北条に近かったから(取り入ったから?)
足利氏が正統扱いされるようになったって解説読んだけど
御家人の間から祭り上げるよりは
京都から迎えるほうが色々都合よかったよかな いくさの賞罰の儀は、古来征夷大将軍が断を下すもの いくさの賞罰の儀 許す許さぬの儀は将軍が決める
そなたは、高師直の首を取り、それで将軍になるつもりであったのか
では将軍はこの尊氏と認めるのか 皆もそうか では話を元に戻す こたびのいくさの
恩賞の儀は、将軍たるこの尊氏が決める それが筋であろう それでよいな
頼房!わしはそなたを許さぬ とく下がれ
さて、こたびのいくさの恩賞の儀じゃが、第一の功には、終始わしにつき従ごうた42人の武将をあげたい これらの者の領地を安堵し、しかる後に、他の武将の賞罰を決したいと存ずるがいかが
今後師直に代わってそなたが義詮を助け、まつりごとを行うことは認めよう それを認めた上の話じゃ >>126
二代将軍の頼家は比企の娘を嫁にもらったため
その一族が政治に口を出すようになって
北条氏と対立した
三代将軍になった実朝は足利氏の娘を嫁にもらうようすすめられたが
嫁は京の都からもらいたい
政治に口を出すこともないでしょうからと
これを断っている まあその辺りは三谷の大河で出てくるだろうが
実朝夫人に足利氏をてのは政子の考えくさい
足利義兼の妻は政子の同母妹だから
で実朝が断ったとなってるが本当に子供の実朝が断ったかなあ
時政や義時の差し金ではないかと怪しんでる
義時は外戚との合戦で妻と離別することになって懲りたろうし
時政は自分の娘婿の縁者の坊門から迎えるようにしたし
政子ってあんま考えずに感情で動くから呑気に足利から嫁をーて言いそうなんだよなw
公暁を実朝養子にして京から呼び戻したのも政子だし
この呑気さだと頼朝直系途絶えるって 頼朝の長男といえば郷ひろみのイメージ強い
相手役の女優が好みだったな 源頼朝や北条政子は「太平記」に登場しないから、スレ違い
草燃えるのスレか、鎌倉殿の21人のスレへGO いざ鎌倉と言えば、みんな仲間じゃないか
細かい事言うなよ 実朝の次も源氏将軍でずっと行っとけば、最後に持明院統の皇族将軍を担いで容赦なく鎌倉を攻められるような事は無かったのかもなと思った >>110
平家の滅亡もそうだがこの時代の戦争は時の勢いみたいなもので決まってしまうから
仮に戦線を離脱して一時的に行き長らえても一度権力から転落していまうと
結局のところ先はないのが目に見えている
特に鎌倉北条氏はもともと統治者としての権威・正統性に乏しいから
実際の権力がほとんどすべてでこれを失ったまま逃げ回っても悲惨な末路になるしかない
この鎌倉を失うて・・・いずくにか我らの立つべきところやある! >>116
直近の約80年間親王将軍をトップとして武家政権が存在していた事実がある以上
武家政権の存在を否定したい後醍醐帝本人にとっても
征夷大将軍の地位を要求した護良の振る舞いは看過できないものになっていただろう
いくら廉子派と足利が結託したところで後醍醐帝が承認しなければ護良の逮捕はできない
>>117
護良を京都には置いておけないし破れた政争の当事者は勝った側に引き渡すのが道理 足利貞氏の代に武家の源氏将軍を立てようってことで貞氏を擁立する動きがあったらしいな >>123
義仲が就任したのは征東大将軍っていうのが最近の通説じゃないか?
そして頼朝は不吉な義仲の先例を避けて征夷大将軍を選んだと
>>126
頼朝死後に有力御家人たちが頼家の権力を制限する目的で
13人の合議制(評定衆の起源)を始めたことからしても
当時の鎌倉武士は大きな実権を持つ武家の棟梁たる将軍の存在をそもそも望んでない
>>137
一応頼経以降の将軍も宗尊以外はすべて坊門姫(頼朝の同母妹)の生物学的子孫だよ 北条が絶大な権力持ってるのは分かるが
なんでフランキー堺が
緒形拳や勝野洋やアタックチャンスよりも
強いのか理解できん 北条が政権握って以降は
幕府上層部が北条ばかりになって
本家が執権職を世襲すれば、本家が絶対君主化するよなあ
幕府の評定を本家の屋敷で行うようになったり
本家の執事と分家の当主とで釣り合いがとれるようになったり 元寇を撃退して日本を救った北条時宗公がいるだけでもうすべて赦そう
孫である北条高時も祖父の業績を以て赦してあげようよ 頼朝以降の征夷大将軍って知行宛外の権限があるから、天皇親政の後醍醐からみたら関白以上に認可出来ない官職だろ 北条が執権職についたから権力握ったんではないんだよな
その逆で北条当主が権力握ったから当主がついてた執権職が偉いポジに
途中から執権にならない時期も増えたんで執権職が今度はお飾りポジに
そういう意味では鎌倉初期からあんま変わってないとも言える >>96
他の人も何度か書いてるけど、一つの時代が終わる時はあっけなく終わったりする。
現代でもね。
太平記の初回はベルリンの壁崩壊の映像が出てたよな。
ベルリンの壁が崩壊するのは時間の問題だったろうけど、直接の崩壊のきっかけは東ドイツ政府の誤った発表から。
とんでもない大騒ぎになって、ベルリン壁崩壊まで流れで行ってしまった。
長くなるから書かないけどね。
さらに、太平記が放送された年は、もっと驚くことがあった。
ソビエト連邦で8月にクーデター未遂があった。
夏の休暇中に別荘で幽閉されてたゴルバチョフ大統領は、無事戻ってきた。
助かったものの大統領とソビエト共産党の権威は失墜して、あちこちで離反が起きたよ。
特に大事なロシアとウクライナが離反したのが決定的だった。
太平記が終わった頃にソビエト連邦があっさり崩壊しちゃったんだな。
太平記の初回放送の時は、年末にベルリンの壁崩壊と同等か、それ以上の事が起こるとは誰も思わなかっただろうな。 鎌倉幕府が合議なのはごく初期からの話
名目上のトップが、
初期は将軍(源氏)で、有力御家人の評定衆で物事を決めていた。事実上の最高権力者は頼朝または執権
中期は名目上のトップは執権で、評定衆から御内人に合議が変遷していった、事実上の最高権力者は徳宗
後期は名目上のトップは徳宗、御内人の合議で、事実上の最高権力者は内管領(徳宗の家令)
最高権力者が次の時代には名目上になっていくのは
日本の権力機構では良くある話だなあ >>159
いや、最初に鎌倉殿の家司「筆頭」となって、いわゆる執権扱いされたのはでかい。 日本ではトップは付き合いだの儀式だのが多くて「実務」から遠ざかりがちなんだよね
でわ実務を部下に任せるうちに権力がそちらに移ってしまう
大きなくくりだと公家と武家もそうだし
天皇と関白
鎌倉将軍と執権
徳宗と内管領
室町将軍と管領
徳川将軍と老中
全部同じパターン >>162
それはあんまり意味がない
頼家の時は?
家司のポジなんてあやふやなもんだよ
将軍の外戚なんで若い将軍の後見人とみなされただけで職とは関係ない たまたま、義時泰時がべらぼうに有能だったってだけだよね
あんな怪物が二代続いたらそりゃ最高権力者になるわ 泰時、重時、政村その他有能な子供を排出した義時は鎌倉時代のサンデーサイレンス
ただインブリードが濃くなりすぎて孫の代辺りから体質が弱くなったのが残念 >>158
知行宛行か?
そんな権限は将軍に限らず誰だって自分の部下に自分が持つものを与えることは自由だろ
逆に鎌倉期の場合だと非御家人は別に将軍から所領所職も貰っているわけじゃないし >>143
政子ちゃんが、そんな呑気な事言うわけないだろう
三河の縁故で、鎌倉将軍家と足利氏の秘密の繋がりを熟知していたからこそ、義兼の娘との結論になる
承久の乱の時に政子の檄文を読み上げたのは三河武士の安達景盛 
三河縁故の武士が、裏でガッチリタッグを組んでいたわけだ
北条が乗り越えられなかったのは、頼朝が構築した三河システム(三河縁者が武家社会を牛耳るシステム)  
男系、女系共に源頼朝に近い足利氏が使命感をもって、武家社会を源頼朝の三河システム(三河縁者が武家社会を牛耳るシステム)に戻したのさ 
その三河システムの存在は政子ちゃんは周知の事だ  
頼朝やその息子孫がいなくなって、政子が頼りにしたのは三河で繋がる人々だったのは明白だろう、政子の葬儀奉行は三河守護の足利義氏だった 
金剛三昧院(本尊、愛染明王は北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏として作成) 
・建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建する 
・承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰する 
・貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立する 
・嘉禎4年(1238年)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納める 
・源実朝 
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝 
葛山景倫(願性) 
藤原実範(三河守)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性) 
・安達景盛 
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?) 
・足利義氏 
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護)  ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています