>>456
幾つかの要素があって、最も主導的だった松平慶永は
後年水戸斉昭の野望に乗せられたみたいな事を言ってるけど、

水戸斉昭は元々当時の将軍家斉の子と争って水戸家を相続した、言い換えると
紀州系の徳川宗家に水戸家を乗っ取られかけた経緯があって、
当主就任の後に水戸領内の改革と共に海外脅威に対しても積極的に建言している最中に
幕府から隠居を命じられてる。その後、懇意の阿部正弘の尽力で
藩政への関与を許可され幕府にも参与として参加してるけど、
その政治的な熱情も相まっていっそトップを取ろうと言う事になっても不思議はない

別の要素として、ドラマでも描かれていた様に当時の将軍家慶が
一橋家に養子に入った七郎麿を非常に可愛がっていて、異例な頻度での一橋訪問を行ったり
朝廷に鶴を献上する鶴御成供奉に慶喜を同行しようとして、やはり一橋派ではある阿部正弘から
表立ってそんな事をしたら譜代や大奥から決定的に潰されかねないと反対したと言う
更には、家慶から家祥の宗家相続を決定付けたのは、家祥つまり家定の祖父である家斉であり
それまで家慶は健康聡明な慶喜への後継を本気で考えていたと言う家康・家光じみた逸話すらあって、
この父家慶の態度が、家定が祖父家斉の血筋継承を重視し慶喜に強い敵意を向けた一因とも言われてる

松平慶永と言う人は田安家から越前松平家に養子に入った徳川一門意識の非常に強い人で、
大御所家斉時代から水野忠邦政権を経て徳川の治政が危うくなる中、
特にペリー以降の欧米列強の脅威が現実的に迫る状況下に於いて「一門衆」の松平慶永は
家定をこき下ろす一方で、まず副将軍的海防総裁としての水戸斉昭の様擁立を図り、
その延長で、既に当時高齢の域の水戸斉昭に加えてその息子で英明かつ壮年の慶喜こそが
この内憂外患時のリーダーに相応しいと言う方針をとった