【1991年 大河ドラマ】太平記part.58
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・2020年BSプレミアムにて再放送
https://www.nhk.jp/p/ts/DNY5MGP1V4/
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歴史談議はほどほどに致しましょう
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前スレ
【1991年 大河ドラマ】太平記part.57
https://nhk2.5ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1615089372/ 判官殿がうろたえてると本当に危ないんだと伝わってくる >>99
その前回の、
尊氏と高師直のやり取りも
名シーン
というか、本当なら、
尊氏の人間の深さを感じる 尊氏の優柔不断さを前面的に描いたのって、当時は画期的だったような記憶ある
ついでに、従来尊氏像とされていた絵が、実は直義じゃないかと言われだしたのも
太平記放送の前後くらいだったんじゃないかな >>101
長崎から刺客を差し向けられたときとか? >>103
神護寺三像が足利兄弟&義詮ではないかという説なら初出は1994年だったかと思う
つまりこのドラマの放送より後 優柔不断だろうがポンコツだろうが
下の者が従うほうが本物 >>101
師直軍が尊氏亭を囲んだのはかなりやばかったんだな。桃井の野郎めw シリアスな顔でこんなこと二度とやるなと尊氏に忠告している描写はあったが
狼狽しているような雰囲気のシーンは見当たらない この間、萩原朔太郎の著作読んでたら唐突に昭和13年ごろの女学生の話に尊氏が出てきたわ。
京都の等持院の木像前にて、
女学生1「こいつが尊氏よ」
女学生2「まあ、義満もいるわ」
女学生3「朝敵よ」
女学生4「逆賊だわ」
女学生1「唾を吐きかけてやろうかしらね」
女学生2「本当よ、こいつめ、こいつめ」
本放送当時に65〜70くらいかなこの女学生一団 道誉と桃井が敵方に交渉に行って
桃井だけが帰って来て、道誉はどうしたと訊かれて
「あやつは裏切った」って場面好き。 宮を害し奉ったと聞いた時はさすがの判官殿もしばらく呆然としてたような気がする 判官どのってしょっちゅう狼狽えてるよね
見た目強がるけどビビりで退き所を知ってるから長生きしてる感がある BSの再放送は終わっちゃったけど次は来年の鎌倉大河が楽しみだな
時代考証は応仁の乱の呉座先生みたいだしこれは期待していいかな? 優秀で目立つから揚げ足とられて潰されただけなのでは?
出る杭は打たれるの典型例 お前ゴザが長年やらかしてきた擁護の余地ゼロのツイ見たことあんのか いや、いま擁護してる奴はむしろあれを読んでんだろ
「よう言うた」ぐらい思ってんだろうな みんな録画って何モードでした?
最高画質でBlu-rayに残す必要あるかどうか迷ってる mepg4 320×180 でスマホに全話入れてる 今日は、高氏が北条を裏切り、六波羅探題を攻めた日じゃないかな
元弘3年 外付けHDD(USB接続)に録画した番組を
新たに、ブルーレイレコーダー買って
もう一つのUSB端子につなげば
録画できる? 我より後の子に託す
我が意を継げよかし
我に代わりて天下を取れ >>131
東大コンプレックスの低学歴がここぞとばかりに僻みで叩いてんだろ? 9日というと西では六波羅探題の北条仲時が番場峠で自害
東では新田義貞が生品神社から上野国府を襲撃して寺尾城に入った頃 >>139
あそこで高氏が討たれていたらその後の歴史が大分違うだろうな >>138
録画は出来たような気がするが、再生は無理なんじゃないかな? >>145
高師直が、塩冶判官の奥さんの風呂場を、のぞいた話も
古典太平記の作り話らしいし 塩冶女房を追いかけてる時の師直の中の人は、
同じ年の「ふぞろいの林檎たち」のストーカー男とキャラがまったく同じになってるw ドラマですからあれはあれでみれてよかったし、一騎討ちで雌雄を決するのは鎌倉武士の伝統やから絶対にあり得ないとも言えない
戦国時代の上杉謙信と武田信玄の一騎打ちすら今でも語られるくらいやから、南北朝時代にもしもそんな展開があってもポエムやろとは言い切れない
まあ、それくらいのロマンは尊氏も義貞も持ってると妄想しながら見たほうが大河ドラマは楽しいわ あれは古典太平記に義貞が挑むところまでは元ネタあるし。
それを郷土史家の著作で知った根津さんがスタッフに提案したところ、
「やっちゃえやっちゃえ」になって実現した。
なお、東寺東大門には「伝新田義貞の放った矢の跡」だけは残っている。
慶長の大修理のときに豊臣秀頼が義貞に敬意を表して残したらしい。 生きるのがヘタだった
新田義貞
に、思い入れしてしまう 中央政界でのドロドロ駆け引きとかは苦手な素朴な坂東武者 新田義貞は旧時代を終わらせ新時代に後一歩まで迫りながら京の政治に敗れた男
もしも義貞に尊氏と同様の政治的、経済的基盤があれば天下を制したのは新田義貞だった
by 新田次郎 政治的、経済的基盤って天下人になるには必須なことやからな
新田義貞はその両方がないということは、天下人になる可能性はなかったことになる 新田でベストな選択は鎌倉に義助を置いておき義貞は上洛する。または両者逆か? 公家を優先する
後醍醐の下についたのなら、たとえ
その時は優勢でも
いづれ武家の多くを敵に回すのでは 政治的な駆け引きは苦手だけど本来なら自分が源家の嫡流という歪なプライドだけあるのだから仕方ない >>159
新田次郎の本名は藤原だってのは息子が藤原正彦だってので知ったけど
新田姓をペンネームに選んだのは新田義貞の影響もあったんだろうな 生まれの地名(読みを変えた)だな。
中世の名前の付け方みたいに、新田の次男で新田二郎。 >>165
wikiにはそう書かれてるけど絶対それだけではなくて
新田義貞への尊崇の念というか憧れが現れて選んでるんだって思うんだよね。 あるブログにも>>165みたいなことが書いてあった。
逆にその苗字をつけてから憧れたかもしれない。
同じ苗字は応援したくなるみたいな。
まあスレ違いなのでスマヌ。 今年の大河ドラマでは結局スルーされてしまったけど、
渋沢栄一の近傍の村でやはり横浜襲撃を計画して露見して獄死した儒者・桃井可堂。
この桃井の一味で結局裏切って、桃井を公儀に密告した岩松俊純は新田の子孫とのこと。
それはいいとして、桃井はあの桃井とは関係ないのかね? wikiでは桃井可堂も桃井氏の子孫になってるけど、渋沢栄一の書によれば新田氏の後裔。 青天と言えば、前回の栄一たちが関東でのいざこざから逃れるために伊勢神宮行きを口実に京に上る展開がまんま「太平記」序盤の高氏だったので、陣内さん演じる華道の家元(第一声「渋沢殿は花はお好きか!?」)が芸者を使って仕掛けるハニートラップにはまるのではないかとヒヤヒヤしてしまったw 信長、秀吉の時代はもう飽きたから
尊氏、新田義貞らのこの時代は
個人的に
いろいろ発見がある 今年の大河は戦国マニアの関心をつなぎとめるために北大路欣也の徳川家康を引っ張り出してるんだろう
まあ主人公の出身地が利根川はさんで世良田と近接しているという縁もあるが。 青天の橋本左内は小池徹平だった
あの鼻の穴のデカい高橋悦史とは結びつかんw 血縁、家とかに拘泥するのは
老人だからかな
自分もだけど >>166
『新田義貞』作中の取材記によると生地が新田(しんでん)で次男坊だったが、「しんでんじろう」ではペンネームにならず、
「にったじろう」にした。
もうひとつ、気象庁職員時代に新田町に派遣されて生品神社に間借りして生活したらしいのだが、
「群馬なんて馬鹿野郎ばかりだ。俺が英雄に光を当ててやるよ」と怒っていたと、太平記本放送中に未亡人が語っていた。
そんなわけか新田次郎は新田町、太田市には辛辣で、作中で義貞をわざわざ里見郷育ちにしている。
でも、別にあの一帯では義貞は郷土の名将として見られているし、生品神社なんて戦前から石碑だらけだ。銅像もある。
多分、地元の英雄像と新田次郎の英雄像が違っていたんだろうと思う。 >>180
南北朝時代の桃井氏って拠点は越中じゃないか?
越前は新田義貞を討った斯波氏の本拠地(後に朝倉氏に下剋上される) >>183
生品神社って行ってみたら何だか凄く右翼臭の強い神社だと感じた >>184
新田の一族は、越後にいたんだよな
新田義貞が、徴税しを斬り、蜂起した後に
『合力いたす』と、鎌倉攻めに合流してきた >>185
楠木正成ほどでなくても
新田義貞も
天皇の為に戦い、死んだ忠臣として、利用されてたんだろうな 義貞は足利一門だったけど尊氏の対抗馬として後醍醐に擁立された >>186
越後にいた新田一族というと里見とかだね
しかし越前から越後にかけての北陸道の地域って
なぜだか歴史的に反主流派の拠点となる傾向があるよな
鎌倉時代における比企や名越
南北朝初期の新田義貞
観応の擾乱の際の直義派(斯波・桃井・上杉)
明応の政変の際の義材派(朝倉・神保・山内上杉)
本能寺の変後における反秀吉派(柴田・佐久間・佐々)
江戸初期における結城秀康 >>189
寒いところに住んでると段々性格が捻くれてくるからな
「温厚」とか「冷酷」とかの語源にもなっているし
今の世界でいうとロシア、中国、北朝鮮とか 北陸ってそこまで寒いか?
北海道や北東北に比べれば全然な気がするが
>>188
足利一門だが足利宗家に対して屈折した感情があるのを後醍醐に利用された感じかな 義貞が担がれた要因は鎌倉攻めの大功と血筋の良さからでしょ >>187
真面目な話になるが昭和8年が建武の中興600年だった。
そこで地元としては大々的に義貞を大宣伝して「忠臣新田公」として売り出そうとした。
目的は@皇居に正成像に相対して義貞騎馬像設置A太田の新田神社の大造営と別格官幣社昇格。
新田公会が作られ、会長は岩松なんか蹴散らして徳川家達が就任!
ところが、、活動開始直後に「昭和天皇鹵簿誤導事件」が勃発して県令が交替。
後任は栃木県出身で尊氏を朝敵にする運動に乗り気でなく、また台風が群馬を襲ってそれどころではなくなる。
そのまま戦争に突入して、銅像を造るどころか県内にあった義貞像も出征してしまった。
成果は生品神社が県社に格上げしたくらいか?結局、義貞を「国民的大英雄」に祀り上げる運動は頓挫して終わった。
義貞というのはそういうところがある。
ドラマでもショーケンで新しい義貞像を描こうとした途端、病気で降板して元の寡黙愚直な鎌倉武士に戻った。
まるで本人の意思のように祀り上げようとすると、変事が起こる。 >>185
福田や中曽根の名前の入った石碑がポンポンあるが、今の神社は特に右な感じでもない。
銅像が盗まれたときも、各地の南朝関係団体の支援を断って地元だけで再建した(出来がイマイチなのが残念だが)
……というか福井の藤島神社はややヤバい方向に向かっているかも知れない。
ただ、宮司の話聞いたのだが「大中黒は幕末にはじめて使われました」というレベルだが。 群馬の新田義貞関係モニュメントは被差別部落に多くあるという事実 >>195
藤島神社は明治期に整備されたいわゆる建武中興十五社の一つだから・・・ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています