>>73
割と勘違いされがちで割と大事な事を一つ

島津久光は一度たりとも薩摩島津家の当主だった事は無い。
斉昭や春嶽は当主を(強制的に)退いた隠居なのでそれとも違う。
当主だったのは、久光の兄の斉彬と、斉彬の養子で久光の実子である忠義。

久光は息子の忠義が当主となった時に後見として「国父」の尊称と共に実権を掌握
兄斉彬の遺志でもある幕府・朝廷の中央政治改革に着手する。
同時期に逝った父斉興によって政敵の関係にさせられた斉彬と久光は
本人同士では互いに無い才覚を認め合う良好な兄弟関係

只、これはあくまで薩摩島津家中での話であり、「西郷どん」の松田慶喜ははっきり言ってたけど、
いわゆる幕藩体制の下、御三卿一橋家当主・将軍後見職のカウンターパートたり得るのは
本来は大名家の当主、譲ってもその隠居まで。
これは、徳川宗家が将軍として大名家を指揮、支配して、
それぞれの武家が家臣を支配すると言う支配体制上の秩序の問題だった

その将軍後見職にしても、勅使に同行すると言う形で、
大名家の当主経験すら無い久光が前面に出ての幕府への人事干渉と言う事で老中の屈辱は甚だしく、
そんな反感の中で任命された慶喜にしても厳しい立場
だから、ドラマ等でもしばしば何を恩着せがましい、と言う慶喜と久光のズレが出て来る

対外的にも、薩摩島津家としての当主はあくまで忠義である為、
久光は家中で相対的に最大実権者ではあっても
島津家を代表した意思表示にはしばしばラグが生じて、その間に京都政局が動いたり
そこに中央進出に反対する家中門閥の保守派も絡む余地があって
必ずしも久光が押し通せたものばかりではなかった