本丸の小檜山氏の記事の魚拓です(「○」を削除して「//」の後の半角スペースに「a」を挿入してください)。
【参考記事】「実は流れた血も多かった江戸城無血開城の真実〜助かったのは慶喜だけ?」(by 小檜山青)(@2021/09/28)
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 → 1ページ目に【殿中自殺を遂げる者も出てきました】との記述はあるものの、記事タイトル中の「流れた血も多かった」は【彰義隊、新選組、諸生党、奥羽越列藩同盟】(2ページ目)【川路聖謨】(4ページ目)ともっぱら無血開城後の話である(川路は少し違うが自決だし)。

 【そもそも京都にいて大奥に足を踏み入れてもいない。そのくせ、予算削減だけはしつこかった!大奥は仕返しをします。布団を欲しいと言った慶喜にこう言ったのです。「予算削減で余った夜具なぞありません、毛布で寝てください」
  歴代徳川将軍の中でも、毛布に包まって眠る羽目になったのは、それこそ慶喜だけでしょう。】(1ページ目)
 → 慶喜はそもそも遠征中に将軍になったわけだし、その後の政局からして江戸に戻ることもできなかったのだから「大奥に足を踏み入れ」ないのは当たり前。それでも大奥の経費節減を目指したのならそれも一つの見識といえるのでは?
  また、出典は知らないが、大奥が拒否しても江戸城に布団一式もないとは思えず「毛布に包まって眠る羽目になった」とするなら、武人として評価されるべきことなのではないか?

 【和宮が当時残した書状には本音が書かれていました。
   「夫であった家茂のために苦労をするならばわかる。しかし、よりにもよって朝敵・慶喜ごときのために身命を捨てるなぞ、父である帝を穢すことになる。残念でなりません――。」
  ここまで慶喜に冷えきった心だったとはいえ、和宮は己の役割を果たしました。朝廷との交渉を引き受けているのです。】(1ページ目)
 → 「父である帝」とは誰のこと?無血開城時点では和宮の甥である明治帝だし、降嫁の時点でも兄である孝明帝。わざわざ仁孝帝のことを述べたのか?
  また、小檜山氏は和宮が慶喜を嫌っていた(それ自体は史実のようだが)証拠としてこの手紙を引用しているのだが、これによれば和宮は朝敵であるがゆえに慶喜を嫌っていたということになり、小檜山氏の論旨と微妙に齟齬を来している。
  この手紙の出典及び正確な内容を確認したいのだが・・・

 【遡ることおよそ一世紀前、フランス革命を目にしたイギリス人はこう言いました。「フランス人は野蛮だ! 国王に王妃をギロチンにかけ、平然としているとは!」
  イギリスでは、国王斬首抜きで革命を成し遂げたという誇りもあります。
  この時代のイギリスでは、あの名君であるエリザベス1世が嫌われてすらいます。スコットランド女王メアリ・スチュアート斬首があまりに酷いとされました。】(2ページ目)
 → チャールズ1世のことは無視ですか?