【1991年 大河ドラマ】太平記part.59
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歴史談議はほどほどに致しましょう
・次スレは>>980を踏んだものが立てること
前スレ
【1991年 大河ドラマ】太平記part.58
https://nhk2.5ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1618258586/ 何が国家論だよ
アスぺじじいが一生懸命考えてこの程度なんだから、哀れなことだわ>>550 権門体制論か東国国家論かというのは日本中世の歴史全体を考える上でも極めて重要だし
太平記ヲタにとってもかなり重要なテーマだと思うぞw
まあ実は太平記にも中世史にも何の興味もない荒らしには言っても無駄か 太平記の時代考証って永原慶二だけど
このドラマの政治史の描き方って明らかに佐藤進一の学説の影響を受けている感じだよな
尊氏・直義の二頭政治を主従制的支配権と統治権的支配権の分割と見るような描き方とか
観応の擾乱序盤での師直の将軍邸包囲と直義失脚を尊氏の自作自演とする描き方とか この大河ドラマは真田広之の殺陣や馬さばきを堪能し、旬の頃の沢口靖子の美しさを愛でることを視聴目的とするドラマです 千葉真一亡き後、真田広之以上の殺陣と馬術ができる俳優はもしかしたら世界レベルでもいないかもしれないからな 負けて逃げる時に、敵が去ったら
馬起こしてさっと走るのはかっこよかった 尊氏の落ち着いた対処ぶり
真田の身体能力に裏打ちされた演技にも見せられたが
馬もすごかった
あの人馬一体のすごさは不世出だろな 馬だって馬術のレベルの高い者が乗っていれば安心して指示に従うやろな
生き物やから この手の話で他人のどうでもいい論評なんて披露されても正直興味ない >>562
「察するに、そちは戦場へ発つのを厭うておるな。足利来たるの風評におびえ、逃げ隠れたい一心なのじゃ」 >>555
大河太平記をベースにしつつ
太平記&中世史ヲタが太平記の世界や日本中世史について
いろんなことを幅広く語り合うスレというのがこのスレの昔からの趣旨だが
むしろお前は生産的なレスをすることは一切なく他人のレスに噛みつくだけで何がしたい?
スレ雰囲気を悪くすることが目的の荒らしそのものにみえるのだが まあ自分は太平記や中世に関連のある話なら個人的にさほど興味のない話題が続いても特に何とも思わないけど
このスレには自分が興味を持てない話はすべてスレ違いということにして排除しようと噛みつく面倒な奴がいるからなぁ >>556
美しさなんて見る人の主観でかなり基準が変わるあやふやなもの
それに太平記出演当時の沢口は演技力という点では正直かなり大根だと思う
まあ周囲のベテランにかなりフォローされて大根が際立たないようにはなっているようだが >>565
そして気に入らないレスを排除しようとするやつは自分は一切太平記の話をすることはなく
ただスレチだの日本史板で相手にされないだのとイチャモンを付けるだけというね
さておき、直冬の母は詳細不明で、私本太平記では旅一座の藤夜叉だが、
義詮と比較して幼少期から待遇が悪いため相当身分の低い女性と言われてるね
ついでに義詮の中のひと当時は若くして貫禄あったのに「白い巨塔」の時はガッカリ >>566
台詞が大根だからこそ容姿や所作の美しさが際立つ
沢口に限らず宮沢りえにしろ陣内にしろ若いのも所作か綺麗なんだよ >>567
直冬に関しては尊氏があれほど認知を嫌がって逃げ回ったという事実からして
実際に生母の身分はかなり怪しげなレベルだったのだろうと思う
もっともそうは言っても直冬が尊氏の実子であること自体は間違いなさそうだけど 筒井も沢口もプロデューサーやスタッフ受けがいいんだろうな
芸能の世界も人間関係で結びついてるわけで >>571
「本当にわしの子か?」
「わしの子でないとは言ってない」
「認知はするつもりだ。しかし今ではない」
と散々尊氏が渋り、SMプレイの末に認知を勝ち取った原作を忠実に再現して欲しかった。 赤井の棒が最強だろう。見てるこちらが恥ずかしくなったのは初めてだったw >>564
>大河太平記をベースにしつつ
>太平記&中世史ヲタが太平記の世界や日本中世史について
>いろんなことを幅広く語り合うスレというのがこのスレの昔からの趣旨だが
独善バカが勝手に決めた以外にあり得ない
歪んだ性格自慢か
いつどこで合意形成されたのか明示できないだろ
大河ドラマ板だ
覚えておけ この太平記や中世史と全く関係ないことを矢鱈と攻撃的な口調で捲し立てる奴は何なの?
もうスレ違いかどうかとかいう以前にあまりに粘着質でキモいし
どういう奴がレスしているのか人格や人間性を疑いたくなるレベルだな >>575
まあ教養レベルも大して高くなさそうな南河内の田舎のオッサンというキャラなら
あれでもよかったのではないか? まず君たちはスルースキルを身につけよう
構うと荒らしの思うつぼ 当面は再放送のない過去ドラマスレなので
そんなものは犬に食わせたw 太平記とも中世史とも全く関係ないことのみ書いてるのは自治厨だけじゃない?
太平記スレにくる以上このドラマを視聴してるわけで、中世の話や太平記出演者の話しかしてないのに
現れる不思議な存在
あと自治厨は自治的なことを書くのみで、作品の話を一切しないのでそれこそスレチじゃね
唐突だけど太平記で一番感動したシーンってどこ?
個人的には桜井の別れ。次に「弟を殺したー!」だな。名シーンが多いドラマだけど、この二つは忘れられない
あと印象に残ってるのは、父貞氏の「美しいものでは長崎殿は倒せん」 鎌倉炎上のラストで、円喜が数珠を握りしめて突き出すところは
印象に残っている
最初と最後の木切れの神の話も好きだ
感動というか印象だと、道誉の「かかる不思議のあることよww」だな 中世から現代まで日本国家の成り立ちは
権門体制論が正論だろ
東国国家論が日本の根幹だとしたら天皇家はとっくに滅亡している
石井進や高柳光寿の論調は矛盾ばかりだ >>581
中先代の乱で帝の許可のないまま出陣する意志を尊氏がちょうど固めたところに鎧姿で現れ
「そろそろ足利殿が立たれる頃かと思いましてな!」
と得意気に言う道誉 >>584
権門体制vs東国国家って詰まるところ邪馬台国論争なんかと同じで
東大系研究者vs京大系研究者という要素を多分に含んでいたからなぁ
相手に対抗するために少々無理を承知で捻り出した議論という感じもしなくはない
奇しくもどちらも京大系が推していた説のほうが現状支持者が多い感じだが 東国国家とは国家の二元性の事を意味する
つまり古代からの日本史をないがしろにした考えにすぎない
しかし権門体制論を称えると一定の政治的な学者が
それこそが日本の問題点だと異を唱えるらしい 東国国家論(二つの国家論)は敢えて「国家」という言葉を使うからややこしくなる
鎌倉時代の朝廷と幕府はいずれも程度の差こそあれ全国政権の体裁であり
その意味でこの時代の日本が公武二元支配の状態にあることは誰も否定しないわけで >>582
>>585
ハッキリ言って道誉の登場シーンは序盤から終盤まで悉く強烈な印象を残したと思う
ただ尊氏の道誉に対する認識が最初は明らかに「ブッ飛んでるヤベー奴」だったのに
徐々に「実は頼りになる心強い味方」という感じに変わっていったのも面白かったが この大河「太平記」も描き方としては権門体制論的なイメージで中世社会を捉えている気がする >>581
貞氏の名場面なら5話
「幕府で長崎殿におうた。手をついて慈悲を乞えば、道が開けたかもしれん。
それが出来なかった。20年やってきたことが…出来なかった…
あとも振り向かず一目散に帰ってきた。愚かじゃのぅ…一生手をついて…慈悲を乞うて
それで安穏に暮らせるなら、それで安穏に暮らせるなら。なぜ手をつかん!」
そういえば、麒麟放送時の本木雅弘と太平記の緒形拳は年齢一緒らしいな
なぜ緒形拳はあの貫禄や迫力が出せるんだろ 鎌倉陥落の報を受けて高笑いをする後醍醐天皇も印象的
それまで美しいものであったはずの帝が大いなる俗物に変わった瞬間でもある >>590
でも師直のセリフからは東国国家的な雰囲気も感じ取れたけどな
「かつて頼朝公が都を離れ東国に武家だけの国を作ったのにはそれなりの理があったのです」 後醍醐の高笑いシーンはあまりに長くて、何がそんなにおかしいの?になったわ >>592
尊氏が知らない、そして認めなかった後醍醐の姿がこれだった。
裏表のない人間の多い太平記ではめずらしい場面。 >>594
そりゃおかしいよ
六波羅が落ちてさあ官軍あげて鎌倉に進撃だ、承久の乱の逆バージョンだってところに鎌倉が陥落しましたーって報告があったんだから笑いが止まらないっつーのw >>595
親房とかも結構裏表がありそうな感じだったけど? >>598
京都は真ん中では
西海道とか鎮西とかが西では そもそも国家の体になったのは明治から
それまでは江戸幕府の幕末でさえ
国家と言う認識さえなかった >>600
それは近代的な意味での「国家」でしょう?
ここでの話はそういうことではないと思うが >>598
>>599
この時代だと「東国」と「畿内・西国」が対になっている言葉のようなイメージもある
>>593
富士川の戦い後の頼朝と箱根竹之下の戦い後の尊氏はどちらも
「東国に留まるか?」それとも「都に攻め上るか?」という究極の選択に直面したが
頼朝は前者を選んだのに対し尊氏は後者を選んだわけだな
もっとも頼朝のときと尊氏のときでは状況が大きく変わっているわけだけど 権門体制論と東国国家論は議論しても平行線になるだけだ というか挙兵直後の単なる反乱軍であった時期の頼朝や東国武士団は
確かに東国国家的なものをめざしていた面もあったかも知れない
しかし寿永二年十月宣旨以降朝廷からの統治権の委譲という形で折り合いをつけたことで
結局は権門体制的な枠組みのなかに取り込まれたような感じでは? 頼朝としては反乱のつもりはない
以仁王の令旨もあれば、幽閉されている後白河法皇の奪還という大義名分もある >>601
では古代や中世的な意味での「国家」とは何?
国家の定義をよろしくお願いいたします。 だから、最初から頼朝は反乱ではなくてあくまで朝廷が認めた武家の地方政権を目指しただけ 現実の足利尊氏が構想していたのは鎌倉幕府の再興で、幕府の場所も可能なら鎌倉に置きたかった。
実際に足利将軍家は義満のころまで「鎌倉大納言家」と呼ばれていたので、その頃まで東国志向だったのだろう。
このドラマでは挙兵時点に「これからは京」と鎌倉に何の未練もない。
一方で尊氏が鎌倉を任せた義貞も、尊氏と別の意味で中央志向で鎌倉をさっくり捨てた。
義貞は「皇家の守護神」たる、ある意味で武家のひとつの理想形を望んでいたが、
不思議なことに尊氏にも北畠顕家にも「野心がある」と決めつけられていた。尊氏は右馬助を通じて義貞の本心を知っているのだが。
後醍醐がひとり義貞を信じてくれたのが唯一の救いか。 後醍醐には使える駒が少ないから
生存中に北条が南朝に降ってたら許してたと思う >>608
頼朝本人の挙兵当初の意識は東国政権を目指したというよりは
軍事貴族として朝廷での平家のポジションに自らが成り代わることだったように思う
一方彼の元に集まった東国武士たちのなかには東国の自立を求める意識も強かったはず
結局は養和の飢饉による戦線の膠着もあって頼朝は長らく鎌倉から動かず
やがて後白河との交渉のなかで自らの勢力を朝廷公認の存在にするという形の
ソフトランディングに結果的に落ち着いたイメージだな 太平記の時代背景や前提知識そのものだからでしょ
そんな当たり前のことを何でとかいう奴こそバカすぎる >>613
奥州藤原氏って基本的には奥六郡・山北三郡の在地領主で
それに陸奥・出羽押領使や鎮守府将軍の立場が付加されている程度だな
そういえば奥六郡の一つの紫波(斯波)郡は頼朝の奥州平定後に足利義兼が地頭職になり
後に斯波氏に伝領されたことが斯波の苗字の由来だったかな? >>591
ドラマ太平記は、3部構成とみている。
1,挙兵前、
2,挙兵、
3,権力闘争、
1部の緒形拳の迫力と持ち味は魅力だったなあ。
緒形貞氏が有っったから、
真田尊氏の青春物語も輝いた。 >>612
当時の関東武士たちは
東国と統一された共同体意識すらなかった
個々の領地安堵
それ一転だけだろ バカなの?
と書かれてすぐに反応する奴って何なんだろうね >>613
関東よりも東北の方が共同体意識や独立思考が強かったのでは?
突如現れた関東の一部地域で短命政権に終わった将門よりも
古くは蝦夷(関東含まず)・阿弖流為などより独立思考の土壌は出来たいたのでは? というか坂東よりも奥羽のほうが遥かにバラバラ感は強いような気もするが
平安初期のアテルイにしても前九年の安倍氏にしても
せいぜい胆沢・江刺などの奥六郡エリアを押さえているだけの勢力であって
奥羽全体に大きな影響力を持つ存在であったとはとても思えない
というか白河関周辺の住民と津軽外ヶ浜の住民との間には恐らく何の交流もないだろうし
当然同じ地域で暮らしているなんて認識もお互い全くなかったはず
その点では地理的に奥羽よりも遥かに狭く地形的に遮るもののない平野で
互いに日常的な交流のある坂東のほうが遥かに同じ坂東であるという意識はあったはず
同じ一族から派生した武士団が坂東各地に広く分布するということも普通にあるし なんか最近は「バカなの?」からレスを書き始める構ってちゃんが流行っているのかな? >>618
大河「太平記」は総集編では4部構成になっていた(各タイトルは以下の通り)
第1部「青春」(1〜5話に相当)
第2部「倒幕」(6〜22話に相当)
第3部「建武の新政」(23〜37話に相当)
第4部「南北朝の動乱」(38〜49話に相当) おまいら、鎌倉末期の新田は足利の一門扱いだったと思う?それとも家人?やっぱり岩松と同格くらいの扱いなのかしら? 山名とか大館とかは後に室町幕府で足利一門扱いされているよね 北畠顕家は男優に演じて欲しかったな
ゴクミって当時そんな人気あったのか 認識上のポジションとして、"幕府での有力者である足利の縁者"
くらいじゃないのかな
「源義貞ト云者アリ。高氏ガ一族也」 てのも
新田?誰?実はあの足利の遠縁で、という説明が必要だっただけとか
仁木細川あたりの親類衆の家来筋と比べても遠すぎて分家という感じがしない
勢力下にある遠縁の豪族くらい
倒幕も尊氏の命令受けてた気配がないし、尊氏の上奏文でも
六波羅攻略に便乗して挙兵したという主張で、立場的に指示したり
命令を受けるような関係では無かった >>621
>>622
源氏や平家が多い関東は権門体制
天皇家と縁がない奥州は東国国家
だと思う。 >>630
家人扱いだったのかな?
一応歴代の誰かが足利から正室迎えてたけど
じゃあ岩松って手柄横取りされたのかな?
やはり後醍醐帝が尊氏の対抗馬として立てた説が有力だね
源義貞と云う〜のところで通称間違って書かれてるよねw
太平記史観は結構危ういんだと感じた >>631
東北地方にも天皇家の荘園とか普通にあるぞ
ただ鎌倉期の東北地方は実態としては鎌倉武士たちの植民地みたいなものだと思う >>630
岩松の主張では鎌倉攻めの総大将は義詮(千寿王)で新田と岩松がその陣代らしいけどね
>>632
自由出家によって所領を召し上げられた新田政義が足利義氏(北条時政の外孫)の娘婿
そして新田政氏(義貞の曾祖父)は足利義氏の外孫になる >>625
岩松の主張は鎌倉攻めで義貞と岩松経家が「両大将」としたもの。
千寿王は5月12日(義貞から4日遅れ)で世良田で旗揚げしている。ただし、以後の本人の所在は不明。
岩松経家に関しては極楽寺方面の日大将(指揮官)を担当していたが、稲村ヶ崎突入前日に、
ドラマでも22話だけ登場した新田氏義と交替させられている。 >>632
少なくとも家人扱いではないかな。
幕府成立後の『梅松論』で「新田一流氏族」と書いており「山名、里見、堀口、大舘、岩松、桃井」の
名を記しているので、そこは「新田一族」という認識ではあるのだろう。
あとは尊氏と義貞の個人的な関係がどうだったか。
戦死後に供養料を新田氏の菩提寺に与える、その書状にもう延元なのにわざわざ建武を使うなど……
ある程度はドラマと近い関係があったかも知れない。 >>634
東北地方には奥州藤原氏滅亡までは
皇室荘園は 普通に はない
陸奥や出羽の極稀にある程度で大半は摂関領 >>638
北朝方の人間が南朝の元号である「延元」は使わないだろ >>636
岩松も無視できないほど新田の功績は抜群だったのかな そりゃ抜群だったろう
この速さはおかしい
(5/7 京都陥落 )
5/8 新田義貞挙兵
(5/9 六波羅脱出勢 近江番場にて全滅)
5/11・12 小手指・久米川にて義貞連勝
5/15 ● 義貞、分倍河原にて大敗
5/16 義貞、分倍河原・関戸にて連勝
5/18 鎌倉包囲戦開始 執権守時戦死
5/21 義貞、稲村ケ崎を突破
5/22 鎌倉炎上・高時自刃・幕府滅亡
お調子者はともかく、だいたいの大族は
15・16日のドタバタで、しばし様子見したはず
囲んだ後で顔出しても、たいした功績にはならない で、格下新田に持っていかれて面白くなかった小山結城佐竹あたりが
足利万歳、千寿王万歳とか言い出したとかどうだろう >>643
北畠顕家の快進撃や、前の時代の義仲もだが、
田舎から都市へ攻める方が強いのよ
略奪期待が有るからね
東から千葉氏が鎌倉攻撃に入ったのも大きい 岩松は岩松で単なる新田の庶家という位置付けではなかったのだろうね
建武政権下では足利とも新田とも別に岩松経家が飛騨国の守護に任命されているし 岩松は父系は足利だから
足利が天下を取ったらしれっと足利の顔をする 岩松は便利な家系だなw
畠山も源姓足利で存続しててよかったな
確か新田娘との間に出来た子を絶縁してまで足利と繋がってたようなw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています