【1991年 大河ドラマ】太平記part.59
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【1991年 大河ドラマ】太平記part.58
https://nhk2.5ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1618258586/ >>590
でも師直のセリフからは東国国家的な雰囲気も感じ取れたけどな
「かつて頼朝公が都を離れ東国に武家だけの国を作ったのにはそれなりの理があったのです」 後醍醐の高笑いシーンはあまりに長くて、何がそんなにおかしいの?になったわ >>592
尊氏が知らない、そして認めなかった後醍醐の姿がこれだった。
裏表のない人間の多い太平記ではめずらしい場面。 >>594
そりゃおかしいよ
六波羅が落ちてさあ官軍あげて鎌倉に進撃だ、承久の乱の逆バージョンだってところに鎌倉が陥落しましたーって報告があったんだから笑いが止まらないっつーのw >>595
親房とかも結構裏表がありそうな感じだったけど? >>598
京都は真ん中では
西海道とか鎮西とかが西では そもそも国家の体になったのは明治から
それまでは江戸幕府の幕末でさえ
国家と言う認識さえなかった >>600
それは近代的な意味での「国家」でしょう?
ここでの話はそういうことではないと思うが >>598
>>599
この時代だと「東国」と「畿内・西国」が対になっている言葉のようなイメージもある
>>593
富士川の戦い後の頼朝と箱根竹之下の戦い後の尊氏はどちらも
「東国に留まるか?」それとも「都に攻め上るか?」という究極の選択に直面したが
頼朝は前者を選んだのに対し尊氏は後者を選んだわけだな
もっとも頼朝のときと尊氏のときでは状況が大きく変わっているわけだけど 権門体制論と東国国家論は議論しても平行線になるだけだ というか挙兵直後の単なる反乱軍であった時期の頼朝や東国武士団は
確かに東国国家的なものをめざしていた面もあったかも知れない
しかし寿永二年十月宣旨以降朝廷からの統治権の委譲という形で折り合いをつけたことで
結局は権門体制的な枠組みのなかに取り込まれたような感じでは? 頼朝としては反乱のつもりはない
以仁王の令旨もあれば、幽閉されている後白河法皇の奪還という大義名分もある >>601
では古代や中世的な意味での「国家」とは何?
国家の定義をよろしくお願いいたします。 だから、最初から頼朝は反乱ではなくてあくまで朝廷が認めた武家の地方政権を目指しただけ 現実の足利尊氏が構想していたのは鎌倉幕府の再興で、幕府の場所も可能なら鎌倉に置きたかった。
実際に足利将軍家は義満のころまで「鎌倉大納言家」と呼ばれていたので、その頃まで東国志向だったのだろう。
このドラマでは挙兵時点に「これからは京」と鎌倉に何の未練もない。
一方で尊氏が鎌倉を任せた義貞も、尊氏と別の意味で中央志向で鎌倉をさっくり捨てた。
義貞は「皇家の守護神」たる、ある意味で武家のひとつの理想形を望んでいたが、
不思議なことに尊氏にも北畠顕家にも「野心がある」と決めつけられていた。尊氏は右馬助を通じて義貞の本心を知っているのだが。
後醍醐がひとり義貞を信じてくれたのが唯一の救いか。 後醍醐には使える駒が少ないから
生存中に北条が南朝に降ってたら許してたと思う >>608
頼朝本人の挙兵当初の意識は東国政権を目指したというよりは
軍事貴族として朝廷での平家のポジションに自らが成り代わることだったように思う
一方彼の元に集まった東国武士たちのなかには東国の自立を求める意識も強かったはず
結局は養和の飢饉による戦線の膠着もあって頼朝は長らく鎌倉から動かず
やがて後白河との交渉のなかで自らの勢力を朝廷公認の存在にするという形の
ソフトランディングに結果的に落ち着いたイメージだな 太平記の時代背景や前提知識そのものだからでしょ
そんな当たり前のことを何でとかいう奴こそバカすぎる >>613
奥州藤原氏って基本的には奥六郡・山北三郡の在地領主で
それに陸奥・出羽押領使や鎮守府将軍の立場が付加されている程度だな
そういえば奥六郡の一つの紫波(斯波)郡は頼朝の奥州平定後に足利義兼が地頭職になり
後に斯波氏に伝領されたことが斯波の苗字の由来だったかな? >>591
ドラマ太平記は、3部構成とみている。
1,挙兵前、
2,挙兵、
3,権力闘争、
1部の緒形拳の迫力と持ち味は魅力だったなあ。
緒形貞氏が有っったから、
真田尊氏の青春物語も輝いた。 >>612
当時の関東武士たちは
東国と統一された共同体意識すらなかった
個々の領地安堵
それ一転だけだろ バカなの?
と書かれてすぐに反応する奴って何なんだろうね >>613
関東よりも東北の方が共同体意識や独立思考が強かったのでは?
突如現れた関東の一部地域で短命政権に終わった将門よりも
古くは蝦夷(関東含まず)・阿弖流為などより独立思考の土壌は出来たいたのでは? というか坂東よりも奥羽のほうが遥かにバラバラ感は強いような気もするが
平安初期のアテルイにしても前九年の安倍氏にしても
せいぜい胆沢・江刺などの奥六郡エリアを押さえているだけの勢力であって
奥羽全体に大きな影響力を持つ存在であったとはとても思えない
というか白河関周辺の住民と津軽外ヶ浜の住民との間には恐らく何の交流もないだろうし
当然同じ地域で暮らしているなんて認識もお互い全くなかったはず
その点では地理的に奥羽よりも遥かに狭く地形的に遮るもののない平野で
互いに日常的な交流のある坂東のほうが遥かに同じ坂東であるという意識はあったはず
同じ一族から派生した武士団が坂東各地に広く分布するということも普通にあるし なんか最近は「バカなの?」からレスを書き始める構ってちゃんが流行っているのかな? >>618
大河「太平記」は総集編では4部構成になっていた(各タイトルは以下の通り)
第1部「青春」(1〜5話に相当)
第2部「倒幕」(6〜22話に相当)
第3部「建武の新政」(23〜37話に相当)
第4部「南北朝の動乱」(38〜49話に相当) おまいら、鎌倉末期の新田は足利の一門扱いだったと思う?それとも家人?やっぱり岩松と同格くらいの扱いなのかしら? 山名とか大館とかは後に室町幕府で足利一門扱いされているよね 北畠顕家は男優に演じて欲しかったな
ゴクミって当時そんな人気あったのか 認識上のポジションとして、"幕府での有力者である足利の縁者"
くらいじゃないのかな
「源義貞ト云者アリ。高氏ガ一族也」 てのも
新田?誰?実はあの足利の遠縁で、という説明が必要だっただけとか
仁木細川あたりの親類衆の家来筋と比べても遠すぎて分家という感じがしない
勢力下にある遠縁の豪族くらい
倒幕も尊氏の命令受けてた気配がないし、尊氏の上奏文でも
六波羅攻略に便乗して挙兵したという主張で、立場的に指示したり
命令を受けるような関係では無かった >>621
>>622
源氏や平家が多い関東は権門体制
天皇家と縁がない奥州は東国国家
だと思う。 >>630
家人扱いだったのかな?
一応歴代の誰かが足利から正室迎えてたけど
じゃあ岩松って手柄横取りされたのかな?
やはり後醍醐帝が尊氏の対抗馬として立てた説が有力だね
源義貞と云う〜のところで通称間違って書かれてるよねw
太平記史観は結構危ういんだと感じた >>631
東北地方にも天皇家の荘園とか普通にあるぞ
ただ鎌倉期の東北地方は実態としては鎌倉武士たちの植民地みたいなものだと思う >>630
岩松の主張では鎌倉攻めの総大将は義詮(千寿王)で新田と岩松がその陣代らしいけどね
>>632
自由出家によって所領を召し上げられた新田政義が足利義氏(北条時政の外孫)の娘婿
そして新田政氏(義貞の曾祖父)は足利義氏の外孫になる >>625
岩松の主張は鎌倉攻めで義貞と岩松経家が「両大将」としたもの。
千寿王は5月12日(義貞から4日遅れ)で世良田で旗揚げしている。ただし、以後の本人の所在は不明。
岩松経家に関しては極楽寺方面の日大将(指揮官)を担当していたが、稲村ヶ崎突入前日に、
ドラマでも22話だけ登場した新田氏義と交替させられている。 >>632
少なくとも家人扱いではないかな。
幕府成立後の『梅松論』で「新田一流氏族」と書いており「山名、里見、堀口、大舘、岩松、桃井」の
名を記しているので、そこは「新田一族」という認識ではあるのだろう。
あとは尊氏と義貞の個人的な関係がどうだったか。
戦死後に供養料を新田氏の菩提寺に与える、その書状にもう延元なのにわざわざ建武を使うなど……
ある程度はドラマと近い関係があったかも知れない。 >>634
東北地方には奥州藤原氏滅亡までは
皇室荘園は 普通に はない
陸奥や出羽の極稀にある程度で大半は摂関領 >>638
北朝方の人間が南朝の元号である「延元」は使わないだろ >>636
岩松も無視できないほど新田の功績は抜群だったのかな そりゃ抜群だったろう
この速さはおかしい
(5/7 京都陥落 )
5/8 新田義貞挙兵
(5/9 六波羅脱出勢 近江番場にて全滅)
5/11・12 小手指・久米川にて義貞連勝
5/15 ● 義貞、分倍河原にて大敗
5/16 義貞、分倍河原・関戸にて連勝
5/18 鎌倉包囲戦開始 執権守時戦死
5/21 義貞、稲村ケ崎を突破
5/22 鎌倉炎上・高時自刃・幕府滅亡
お調子者はともかく、だいたいの大族は
15・16日のドタバタで、しばし様子見したはず
囲んだ後で顔出しても、たいした功績にはならない で、格下新田に持っていかれて面白くなかった小山結城佐竹あたりが
足利万歳、千寿王万歳とか言い出したとかどうだろう >>643
北畠顕家の快進撃や、前の時代の義仲もだが、
田舎から都市へ攻める方が強いのよ
略奪期待が有るからね
東から千葉氏が鎌倉攻撃に入ったのも大きい 岩松は岩松で単なる新田の庶家という位置付けではなかったのだろうね
建武政権下では足利とも新田とも別に岩松経家が飛騨国の守護に任命されているし 岩松は父系は足利だから
足利が天下を取ったらしれっと足利の顔をする 岩松は便利な家系だなw
畠山も源姓足利で存続しててよかったな
確か新田娘との間に出来た子を絶縁してまで足利と繋がってたようなw じゃあ畠山は足利の天下になったら血統では足利だって言い出したの?
やっぱ時の権力者におもねるんだな 家時が自害したのは嫁の実家の反乱には加担しませんよ、得宗を裏切りませんよっていう決意表明だろうな
置文とはまったく正反対というw >>652
家時正室(貞氏生母)は常盤流北条時茂の娘だったと思うけど??? >>643
新田は宗家と義貞に従った家がほとんど滅んでいるからはっきりしたことが分からないが、
つまり義重の時代の勢力圏が生きていて、挙兵前に工作したこともあり新田軍に加わったんだろう。
新田荘から赤城南面を通過して上野国府襲撃、沼田越後の一族と合流、寺尾(八幡荘)で勢揃い……となる。
八幡荘は頼義義家以来の源氏の拠点だったし。 >>648
そして明治時代に新田の名で男爵に……
今は女性当主だけど時代はいるんだろうか? >>651
>>じゃあ畠山は足利の天下になったら血統では足利だって言い出したの?
さすがにそれは違うぞw 畠山重忠討ち死に後、足利義純が後家(北条の娘)を
娶って畠山の継いだ。 >>650の「鎌倉期は平姓を名乗ってる」が、
畠山の名跡を継いでからも平姓畠山を名乗ってたか?ってことでは。
聞いたことないけど。 >>656
岩松の当主って女なんだ。今は何してるの? wikiに名前だけ載ってるね。
太田市に新田家のお墓や新田ゆかりの資料を寄贈されたそうで。 >>660
文献などは群馬大学に寄贈して「新田文庫」になっている。
江戸時代の屋敷は現在太田フレックス高になっているが貸しているのか売ったのかは不明 >>655
まあ岩松・山名・里見・大館あたりが新田宗家の働きかけだけで動いたかどうかは微妙
分倍河原・関戸の合戦以前に新田軍に合流している諸氏は新田一族もそれ以外も
4月下旬頃から尊氏がやった呼び掛けに応じた面が強いと思われる 山名や里見は頼朝の頃から新田宗家とは別行動をしていた >>664
足利殿、そのようなこと、この座の者は既に皆存じておるのじゃ! >>667
コピペ荒らしだろ
各所に貼られてるから放置が一番 >>663
そこで義貞里見家出生説だと話が大分変る。 世良田とかマイナーなのを出されてもね
徳川贔屓なのかなw 聾唖障害者だと濁音と半濁音の誤りを矯正するのに苦労するという話を思い出した
これは読唇術だと濁音(゙)と半濁音(゚)の見分けが困難だからなんだけど
老化で耳が聞こえなくなるのと違い若いうちから障害を起こすと理解不能になるとか
いやごめん何で拘ってるのかと考えたらそんな話を思い出しただけで深い意味はないよ 自分は中世は広く許容範囲だと思っているけど徳川ネタは近世だからアウトだと思う >>673
徳川の先祖が世良田、そのまた先祖が得川 >>677
新田の流れ作ったの>>655だろうにw
そもそも世良田一族は
義貞方と山名とともに尊氏方に分かれて戦ったし
岩松や鎌倉公方基氏とも深い関係にある
脊髄反射でレッテル貼りするのは滑稽だぞ 徳川はダメとかいう奴らも自治厨となんら変わらんなw 歌手で俳優の武田鉄矢(72)が13日に放送されたフジテレビ系情報バラエティー「ワイドナショー」にゲスト出演。不倫騒動
からの復帰を発表したお笑いコンビ「アンジャッシュ」渡部建(48)の報道について「俺たちが若い頃の芸能界って結構、
乱暴でルーズで、不倫だらけの人は逆に尊敬されていた」などとエピソードを語った。
https://news.yahoo.co.jp/articles/03b458579588ce1553763cbfddaad969d61328a7
楠木正成はクズの老害だなあ 明治維新前の元号で最長期間は戦国時代の天文だと思ってたら義満在世中の応永だったとは… >>686
応永が前近代で最長の元号なのは室町ヲタには結構知られている話だと思うけどなぁ
ただ応永がやたらと長くなったのは義満よりもむしろ義持に原因がある
天皇が後小松から称光に代替わりしたときに義持が面倒臭がって改元を渋った 興国、正平、建徳、文中、天授・・・南朝の元号は神頼み的に
弘和になり講和したくなったんだろうか。 >>682
どうせ大胆にやるなら農家のおっちゃん的にするのではなくって、
女遊びと裏切りと謀略を繰り返して建武の世を散々に謳歌して、最後は尊氏に内通しようとしたので、
義貞に湊川の戦場に置き去りにされた正成、、とかにすれば良かったのに。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています