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■富士川の戦い
詳細は「富士川の戦い」を参照

東国での状況を受けて平氏政権は平維盛、平忠度らが率いる追討軍を派遣した。
追討軍は東海道を下り、10月18日、駿河国富士川で反乱軍と対峙する[注釈 2]。
大軍を見て平氏軍からは脱落者が相次ぎ、目立った交戦もないまま平氏軍は敗走することとなった(富士川の戦い)。
これにより駿河・遠江は甲斐源氏の勢力下に入った。
一方頼朝はこの機を捉えて上洛を検討するが、坂東経営を優先すべきという上総氏らの意見を受け入れ、
まずは上総氏千葉氏の利害の対立者である佐竹氏と交戦する(金砂城の戦い)。
その後鎌倉に帰還した頼朝は侍所を新設し、和田義盛を別当、後に梶原景時を所司に任じる。

東国以外でも反平氏勢力の動向は活発となっていった。
土佐の源希義をはじめ、河内源氏のかつての本拠地だった河内石川の源義基・義兼父子、美濃の土岐氏、
近江の佐々木氏、山本義経、熊野の湛増、伊予の河野氏、肥後の菊地隆直らのほか、
若狭・越前・加賀の在庁官人など、多くの勢力による挙兵があった。

■清盛の死

畿内においても寺社勢力を中心に反平氏勢力の動きが活発化していた。
それに対抗するため清盛は遷都していた福原から平安京に都を戻し、軍事制圧に乗り出す。
まずは近江の反平氏勢力を制圧し(近江攻防)、
ついで治承4年(1180年)12月、平重衡は畿内最大の反平氏勢力・興福寺を焼き討ちにする(南都焼討)。
治承5年(1181年)正月には、紀伊の熊野三山勢力が挙兵して、伊勢や志摩で平氏側勢力と交戦するという動きもあった。
治承5年(1181年)初頭には美濃源氏を撃破し(美濃源氏の挙兵)平氏は畿内制圧に成功する。
一連の軍事行動の中で清盛は平宗盛を惣官に任じてもらうなど反乱勢力に対抗する体制を整えていく。

そうした中で院政をとっていた高倉上皇が崩御したため、平氏は停止していた後白河院政の復活を余儀なくされる。
さらに閏2月に、清盛が熱病で没して平氏政権は強力な指導者を失った。
直後の3月、平氏は再び東海道へ追討軍を派遣し、尾張墨俣川で源行家と会戦して勝利を収める(墨俣川の戦い)。
この勝利の後平氏は東国への進軍を中止し、奥州藤原氏、越後城氏と提携して東国反乱勢力にあたる方針をとろうとした。