鎌倉殿の13人感想あらすじレビュー第44回「審判の日」
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【今年はさしずめ老子の「天地不仁」からこう言いたくもなります。
   天地は仁ならず、万物を持って芻狗(すうく)と為す。『老子』
  【意訳】仁ある者に敵はないっていうけど、そもそも天地に仁なんてないんだよなァ~~残念でした!
 この芻狗(すうく)とは、儀式で使う藁でできた犬人形なのですが……頼朝が死んだあと、義時はこの藁人形になってしまったと思えます。義時は不気味です。空っぽです。・・・(中略)・・・
 北条義時は空っぽだ。前半は散々「全部大泉のせい=頼朝が悪い」と言われていましたが、後半になると「主役は泰時ではない」と言われてしまう。
  ◆ NHK大河「鎌倉殿の13人」いつの間にか主人公交代…小栗旬「義時」→坂口健太郎「泰時」へ(→link)
・・・(中略)・・・
 そしてもうひとつ。義時には思想がない。空っぽゆえに歴史上、果たすべき役割が入り込んでくる。ゆえに本人は空洞。】
→ 武者氏は「万物を持って芻狗と為す」と引用するが「以て」の間違い。「和を持って貴しと為す」とは書かない。
→ 「芻狗」が「儀式で使う藁でできた犬人形」というそのとおりだが、『老子』では【祭礼に用いられるもので、祭りのあいだは手厚く並べられるが、祭りがすむとわらくずとして棄てられる。】(金谷治『老子』29-30頁)というもの。
  小川環樹はこの一句を【天と地に仁み(いつくしみ)はない。(それらにあっては)万物は、わらでつくった狗のようなものだ。】(小川『老子』16頁)と、金谷前掲書は【無為自然のはたらきが、人情や徳目をこえた非情なものであることを述べようとする喩え】と述べている。
  おそらく武者氏は「義時には仁や慈しみの心などの思想性はない。空っぽだ。用済後の人物を無慈悲に棄てる。」と言いたいのだろう。
  しかし、『老子』引用直後に武者氏は「頼朝が死んだあと、義時はこの藁人形になってしまったと思えます。義時は不気味です。空っぽです。」と続け「藁人形だから空っぽだ」と主張する。
  しかし『老子』では、仁や慈悲などの観念を持たず「空っぽ」なのは天地の方で、その天地によって「芻狗」のように弄ばれるのは万物である。
  義時を「用済みになった芻狗」を棄てる「天地」のような人物というならともかく、「空っぽの藁の犬」自体に例えてしまっては、義時が棄てられて生き残れない側になってしまう。
  武者氏は『老子』の意味を理解しないまま頓珍漢な比喩を用いているわけで、これでは「漢籍マウントをとること自体が目的だ」と言われても仕方がないだろう。
→ 【後半になると「主役は泰時ではない」と言われてしまう。】と述べた直後に『小栗旬「義時」→坂口健太郎「泰時」へ』という記事へのリンクを貼ってしまう武者氏。お約束のケアレスミス。