【1991年 大河ドラマ】太平記part.61
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>350
なにも言い返せないミジメな犬くん、臭いからあっちへ逝きなさい >>351
アホ過ぎワロタ
ドラマの話題も振らずに歴史談義をスレ違いなどと吠えるから皆から白眼視されるのじゃよ
カッカッカッ >>342
義氏から先が平均寿命ぐっと下がるからなあ
北条との血縁婚と過度なストレスが原因か
>>341
逃げ若の尊氏はあれはあれで好き >>352
ドラマの話題がないなら板違いの歴史談義でも問題ないのか
どれほど劣悪な環境で育つとお前みたいにお粗末な自己中心な人間が育つのだろう???? >>354
畜生に道理を説いても詮なきことではあるが
スレ違いなどと喚きたてておるのはお前だけじゃ
自己中心的とはまさにお前のこと
知恵の至らない者は自分のもつ性分を以て悪口となすと言うが、まさにその通りじゃのお
ほほほ 大河ドラマってそもそも歴史をネタにしたドラマなのだから
ある程度題材としている歴史自体に話が及ぶのは当然の流れ
それをどこまでは良くてどこからはダメか誰もが納得する明確な線引きなんてない
というか別にこのスレの流れに特に何の違和感も持ってない人がほとんどなのに
約一匹これについて執拗に横槍を入れようとする変な自治厨がいるように思われる
そしてこいつは執拗に話題の規制はしても自ら盛り上がる話題を提供することはない 徳川は吉良氏に家系図を借りてそこから新田源氏に繋げていったようだね どこの板でも自治厨がクソレスしないのは事実だけど
古いネタのスレで雑談化するとどこまでも滑ったりするから多少の軌道修正は必要だとも思う 誰も納得しない独り善がりな基準でグズグズいう奴さえ出てこなければ
正直スレでどんな話題が展開されていてもそれで腹を立てたりしないよ普通は 太平記の尊氏は魅力的なキャラだけど戦の天才という描写は少しわかりにくかった
六波羅攻める時に判官を説得する箇所くらいかな 中世の場合、カリスマ性がある→味方が集まってくる→戦に強い
というのが基本的な構造のように思える 英雄たちの選択誰も観てないのか。高師直だったのに
まあ再放送あるだろうけど 将軍尊氏と執権師直なら最悪でも御家人系武士と新興武士の争いで済んだのに。間に直義を挟んだことで武士たちもどっちについたらいいかわからなくなって観応の擾乱に… 足利宗家の家人に過ぎない師直が執権とか当時の武家社会の意識からしてあり得ないよ 高一族が第二の北条になっても困るしな
結局足利は一門同士で争うんだけど 執権直義、内管領師直で内紛が起きた
内管領の長崎円喜は得宗高時を殺そうとはしなかった。なぜなら北条の権勢の源泉が得宗家だったから。足利幕府草創期では直義にまだその格や実力が無かった 長崎氏は元々得宗家の家人
師直は足利宗家(尊氏)の家人であって直義の配下というわけではないし >>376
発給文書の印象からすると鎌倉期の執権より二頭政治期の直義のほうが偉そうだけどな
鎌倉期の執権が出した文書は形式的であれ「依仰下知如件」「依仰執達如件」のように
鎌倉殿の仰せを承って出したという形の奉書文言が必ず入る
しかも執権単独ではなく連署との連名で出されていることが多い
一方直義が出したこの種の文書は単に「下知如件」「執達如件」のように書かれていて
将軍尊氏の仰せを承ったという形になっていない上に基本的に直義単独署名のものしかない >>379
そりゃ頼朝の姻戚でしかない北条氏に比べて将軍の実弟だもんな
しかも尊氏は鎌倉後期の宮将軍の時代に育った訳だから将軍が政治を率先してやるのは変だと思ってたんだろ
観応の擾乱で二頭政治の危うさを知ってからは将軍親政を強め義詮以降に受け継がれていくけど 尊氏と直義は戦で離れてる時も多かったから実務上いちいち尊氏に尋ねるより自分一人で裁いていい権限を持ってたのかもな 直義は征夷副将軍宣下されてるんだろ?
尊氏直義は両将軍 英雄たちの選択で師直は足利一門から反感と妬みを受けていた、という分析は目から鱗だったな。
最近では人妻に横恋慕してたっていう太平記の記述は否定されてるのかね。確証があるのだろうか? ドラマでは反感妬みはあまり感じなかったけどな。それよりは師直の傍若無人ぶりが際立っていて、それが許せないって感じだったような。相当な悪人として描かれていたから。
優秀で新しいことを始め戦も強くて権力を掴んだ師直に対して、足利家の家人ごときが足利一族よりも繁栄してるんじゃねえっ、ていう反感、妬みって感じではなかった。 亀田先生の本「高師直」でも足利一族の妬みを要因として指摘してないようなんだよね。直義派と師直の対立を。青学の谷口先生は番組内で指摘してた。 足利一族からしたら高師直が平盛綱や長崎円喜みたくなっても困るからな >>381
二頭政治期においては尊氏と直義は基本的にどちらも京都にいる
湊川の戦い以降、観応の擾乱序盤に直冬討伐のための西国親征に出るまで
尊氏は基本的に自ら軍を率いて京都を離れるようなことはなかったし
同様に直義も幕府成立以降、観応の擾乱が始まるまでは基本京都にいる
ドラマでもそういう描き方になっていた
二頭政治期の権限分割はあくまで鎌倉期の将軍と執権の関係を踏襲しているからで
尊氏・直義間の連絡が大変だからとかいうわけではないよ
ただ直義自身の自己認識としては基本は執権の立場の継承ではありつつ
鎌倉期の執権よりも自分は立場が上みたいな意識はありそうだけど あと連絡が大変だからという意味での権限分割ならばむしろ
観応の擾乱後、尊氏が関東に長期滞在している時期がそんな感じなんだよな
この時期は幕府に関するすべての権限を
尊氏=東国、義詮=畿内・西国で分けてしまっているイメージ
尊氏が義詮に対して
「これは西国に関する案件なのでそちらで宜しく」みたいな内容の書状を出している実例もあるし 尊氏と直義兄弟と宋の太祖と太宗兄弟
どちらも弟が兄の創業に大きく貢献したけど直義は甥の義詮をちゃんと立てて取って代わる気もなくそこが太宗と大きく違うな 尊氏・師直派の新興武士勢力が潰滅して
幕府が鎌倉系御家人と足利一門の有力者のみで運営されるようになれば満足なのでは? 足利一門でも桃井とか石橋とか浮上しなかったのはいくらもいるな
渋川ですら戦国期になるといつの間にか没落したし 三河屋まだ生きとったんか
とっくに灰になっとるかと思うてた >>395
石橋(塩松)氏は一応奥州で戦国期まで残っている
桃井は奉公衆のなかに一応いる 直義派が勝利してたとしても桃井は次は直義と衝突して争ってただろうな いい感じに民から見放される傀儡の成れ果てにて候
尊氏からここまで来ちゃったかぁ 三河屋が戻ってこないように推奨設定置いとくね
ありがとう、ど家康スレの賢人
https://i.imgur.com/0zB3jmV.png ここ数年の大河スレには三河屋より変なのが居座ってるよ。 そういや山野野衾って消えたな
梅毒が頭に回って死んだかな 今川義元をバカ殿に出来なかった代わりに足利義昭は白塗りマロとして徹底的に貶めるということなんだろう >>406
ミラボーのようにパンテオンに葬られたか 今川というか萬斎は花の乱で主役カップルを食う存在感だったから、初回で殺めたのは最適解だと思うんだよね
(なお以降は松重や大森の存在感をバランスよく使えてないような気がする、イッセーはかなり上手くやってる)
大河太平記は様々な人物がいれど突き詰めれば、吉見一族の特攻から尊氏晩年までを右馬助が見届ける話だったと思える 細川顕氏の人は太平記の少し後にあった大型時代劇・風林火山で今川義元やっていた デブ麿か鋭い目つきで辣腕を振るうか、世代で印象がうんと変わるところかと
なお今のジャンプ読んでる層には尊氏は妖怪に見えてると思うw 今出川は初期必殺シリーズの不幸な女のイメージが...w >>413
でも御舎弟殿が戦が弱いというイメージは変わらずに安心したw あれ義視だけでなく義材も「今出川殿」って呼ばれたみたいだね 秀吉が小弓公方家の足利頼淳から小田原合戦戦勝の使者を送ってもらった返書に「鎌倉左衛門督殿」と宛名があるから中世を通じて「鎌倉殿」という呼び名が生きてたと言っていいかもな >>423
上杉謙信が「京都公方・鎌倉公方の双方に忠節を尽くす」という願文を書いた事例もあり
まあしかし実際には鎌倉どころか古河からも既に追われている奴をあえて鎌倉呼びするのは
新たに関東の支配者となった時宗僧徳阿弥の末裔某への牽制の意味合いもあろうよ 豊臣政権による関東足利家への鎌倉呼びに家康牽制の意味合いがあるのは
研究者の間では結構普通にいわれていることだよ
現実的に関東を治められるのは家康しかいないが家康に関東で自立されても困る
という豊臣政権の苦渋が見てとれると 家康が小弓公方を神輿にするかもしれないじゃん
それに秀吉の側室が小弓公方の姫だし
関東の雄、名門結城家の養子を秀康にしたのも秀吉の命令だし色々と下手打ってんな 後北条氏なき後の関東を治めるには相当程度大きな力が必要なのは否定し得ないわけで
そうすると豊臣政権にとって現実的にそれを委ねる候補になり得るのは徳川か上杉しかない
しかし上杉はそれまでの経緯から関東には負の因縁も多く統治に失敗するリスクも大きい
結局のところ豊臣政権は徳川を関東の主にするしかなかった
あからさまに中央に反抗でもしない限りは多少のことは目を瞑るというやり方しかないんだよ 建武政権の鎌倉将軍府と陸奥将軍府も似たようなものだな 秀吉は東海道の要衝の駿遠三を家康から取りあげるのは規定路線だった。移封するとこが関東くらいしかなかったんだよ 豊臣政権の中枢において徳川の関東移封が浮上するのは後北条を完全に取り潰すことが既定路線になってからだろう
もし後北条が島津のように多少勢力を削減されても一定規模の大名として存続する場合には徳川は東海地方のままだろうし そういえば、尊氏は2ヶ月で九州、四国、山陽道を平定したようだけど、
秀吉はどのくらいの期間で平定したの? 社会背景が違うから比べる意味なくね?
尊氏は京に進撃する途中途中で西国の反足利を撃破していったって感じか。だから統治はそのまま国人に任せて旗頭になる一門を置くくらい。秀吉はガチで各個に大軍を派遣して逆らう者は皆殺し、大名の配置転換とかもやったし。 中世真っ只中の戦争と近世統一政権に向かう時期の戦争を同列に語るのはナンセンスすぎる 東海道沿いは後北条に関係なく必ず取り上げてたと思う。代替地は関東じゃないと北陸あたりかな。家康が嫌と言ってたら取り潰してただろうよ。それくらい当時の秀吉にはもう逆らえなかった 家康を潰す気があるなら小牧長久手の後にあんな中途半端な和睦はしないし
大大名を完全に取り潰すなんて正直リスクのほうが大きいことを簡単にはできないよ
関ヶ原の後の家康だって大大名クラスの改易なんてほとんど行っていない 鎌倉に登子と千寿王が人質として留め置かれたのって戦国期以降だと当たり前じゃんと思うけど鎌倉時代では異例だったの?
下野や三河の国元に帰すんじゃなく京都に連れて行くってのも何か変な感じしたけど 織田有楽斎の子孫もいるらしい
織田を残したのが信雄と有楽斎とは流石というか >441
「いや無理やろ」が正論に思える
そもそも尊氏は大河だとそこまで目立たないけど、当時でも後世でも訳わかんねぇとこあるし... 有楽斎はどうでもいいんだよ、信長の弟なんだから
信長の直系子孫って点が重要なのよ
直義の子孫がいても、だから何?ってなるだろ
清盛や頼朝、秀吉の直系がいないのは寂しいもんだ >>442
織田一族で子孫が続いている家系はいくつもあるけど
大名家として明治維新を迎えたのが信雄と長益(有楽斎)の系統というだけでしょう? 大名家として明治維新を迎える=近代に華族身分になる
ということはいえるけど 登子・千寿王救出作戦は成功したけどその裏で庶長子の竹若は捕まり処刑されてるからな
鎌倉は赤橋家が手助けしてくれたのかも知れんが北条氏本貫地の伊豆の方が警戒厳重だったのかな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています