>>141
源義家

郎党NO1
兵藤大夫正経
三河国の住人
後三年の役の際に、正経は源義家軍の先手の将として戦功をたてたので、三河国渥美郡一円を賜わり、子孫代々この地を領して住んだという。
それから約100年後の治承4年(1180年)、正経から5代目に当たる刑部太夫正職は、源頼政の軍に従い平家軍と戦って宇治の合戦で戦死した。
正職の孫に当たる治部太夫正之は文治元年(1185年、正しくは寿永3年(1184年)か)、源範頼の軍に従い生田(神戸市)で戦死したという。子孫は肥前国佐保村(現川上村佐保)に移住した。


郎党NO2
伴次郎兼仗助兼
三河国の住人
平安時代後期の武士。後に資兼に改名。通称は伴次郎、設楽大夫。姓は朝臣。伴助高の子。三河設楽氏・富永氏の祖。位階は従五位下。八幡太郎義家郎党で一の勇士として知られる
兵藤大夫正経の婿で、ともに行動していた。兼仗の「兼」は正確には「人べんに兼」であり、武官の官職であった。例えば鎮守府将軍の場合は、将軍判授(将軍が選んで朝廷に申請)の従者として兼仗を置くことが出来た。