日本もそろそろ古墳時代を大河ドラマにするべきだと思う
主人公は事実上の初代天皇とされるミマキイリビコこと崇神天皇で良いでしょう
国興る疾風迅雷のとき
これは面白くなるぞ! >>22
見たいけど
四道将軍がミマキイリビコの命で蛮族を征服する覇業見たいが? >>16
記紀を神話と否定するリベラルも何故か存在すると認める継体天皇ホンマ草生える >>24
倭の五王までは実在ほぼ確定だから
考古学的に確実なのは雄略帝 とにかく石運んでりゃ良いんだよ
で後はオリキャラの恋愛と別れと死 卑弥呼の時代から聖徳太子の時代までにどんな紆余曲折があったのか全く知らんな。
歴史家は知ってんのかな。 >>27
中国が戦乱時代で日本の記録がないからな。日本には記録する文字が無かったんだから何も知りようがない。 皆さん、大河ドラマがなぜ戦国時代の中央政局ばかりやるのか知らないようですね。その理由は単純です。確かにNHK制作局は視聴率に囚われていないので、好きな題材を選べます。だがフリーランスの脚本家は外したくないのです。大河ドラマで視聴率が取れるかどうかは、脚本家の今後を左右するからです。 仁徳天皇主人公で。
142歳まで生きてたらしいし、
まぁまぁ話ひろげられそう。 >>32
途中くらいまで半年で1歳だったらしいけどな
まあそれでも71で長命だけど もしかして、今やっている光る君が大河で一番古い時代とか?炎立つの第一部は少しあと?
平安時代以前は無理なのか? 火の鳥で生け贄か何かで埋められる話しがあった気がするが、
古墳というか陵墓だったかな? 昔大河が近代三部作をやってた裏で水曜時代劇という枠があったのだが、そんな枠で古墳時代をやってもらいたいな。歴史考証が難しいかもしれんが、できる範囲でよいと思う。知らない時代、知らない人物が出ると調べたくなるしな。 米倉主演で卑弥呼やって
「私占い外しませんから」
の決め台詞とかやれば
いだてんより視聴率とるかも 推古や舒明は飛鳥時代だろ
古墳時代は武烈以前、継体からは飛鳥だ じゃぁ神武から武烈までの25代を古事記と日本書紀を基にドラマ化するというのはどうよ。 神武〜武烈(神代)
継体〜天武(飛鳥)
持統〜桓武(奈良)
桓武〜後白河(平安) ドラマ的区分 卑弥呼が三国時代の大陸を裏で牛耳るフィクサーだったという話にすればネトウヨが喜ぶんじゃね? >>48
>>48
はずれ
古墳時代の終わりは薄葬令が出された646年ですよ それに飛鳥時代は推古天皇が即位した593年からですよ?
これは教科書にも載ってますよね?大丈夫ですか? 金官加羅からやってきた傭兵隊長だった応神大王
義慈元年に倭国にやってきた男らしい舒明こと大王田村王子 >>51
ネトウヨって自分の主張を持たない屑じゃね。
韓国叩いときゃ自分が支持されると思ってる。
って、こんなこと書くと、おまえはチョンだろと言いがかりをつけてくる ネトウヨは敵か味方しか無いデジタル思考だからな
全面的に賛成する奴のみ味方。批判する奴はすべて敵で問答無用で抹殺すべしって考え方 そもそも古墳時代を舞台にした小説や漫画がほとんどない だって文献が残ってないもん。
未開な土人には書き残す文字がありませんでしたし。 新羅や百済を従えたって書いた時点でリベラルな人たち卒倒して死ぬでしょ >>53
すまんな、ワシら年寄りは、そんな新しい教科書なんか、
全然知らんのじゃよ! ワシらの世代ははコフンもアスカも何も
ただヤマト時代としか習っとらんじゃったもんでのう。
え? ヤマト時代は、いったいいつからいつまでかじゃと?
もちろん、地球を出てからイスカンダルに着くまでじゃよ! >>60
そこはそういう脚本にしなくても。実際、百済の王族と大王皇女との婚姻とかは何件もあるからね >>61
おじいちゃん宇宙戦艦ヤマトはもう終わったのよ >>59
古墳時代後期~終末期には日本語の音に漢字を当てて文字とすることもありましたよ >>60
別にいいよ
だってどっちも今の韓国や北朝鮮と関係ない王朝じゃん 保守とかリベラルとか言ってる時点で糞だわ。
二者択一思考は野蛮人のすることだよ >>64
万葉仮名(真名)のことを言ってんの?
現在まで出土しているソレら全ての木簡を掻き集めたところでいったいドンな大河ドラマができると言うのか? >>67
ちげーよばか
もうちょっと古墳時代を勉強しろ 日本武尊とか神功皇后とか仁徳天皇とかネタはいろいろある
史料が少ないぶん、脚本家の創作部分が増えて力量が問われるが、やりがいもある。
くれぐれも「戦はイヤでございますぅ」などと現代の価値観を持ち込むのはやめていただきたい。 >>69
馬鹿か?戦乱の時代ならいざしらず戦いは嫌に決まってんだろ
当時の日本人は農業や交易で儲けたいだろうから戦いは嫌に決まってる
戦って武功をあげたり略奪が一般的になった武士の世の中と一緒にするほうが浅いよはっきりいって >>70
白村江の戦いは、勝ちにいって負けたんだけどね。つまりそれまではイケイケ >>70
戦いは人類が誕生した時から存在したよ。倭国大乱など戦わなければ自分が殺されるという状況はいくらでもあった。闘争本能は人間のサガみたいなもんだから無政府状態なら戦いは頻繁に起きる。アフリカのように。 戦争が不可避だとしても戦場に立たされる兵卒は好き好んでやってるわけじゃないと言ってるんだよ >>61
パキスタン国イスカンダル・ミルザ大統領「なにか用か?」 渡来人温羅が持ち込んだ技術で栄えた古代吉備国。
それを侵略するためにヤマト王権から派遣された吉備津彦命。
こんな物語を希望します。 北九州、出雲、吉備、近畿に勢力があって、それが近畿勢力に吸収合併されて大和朝廷が成立したという理解でいいのかな? 西国の連合国家が邪馬台国で、それに対抗した狗奴国という構図か。
卑弥呼とヤマト朝廷の関係が如何なるものか?だな。
それについては次回の倭の五王に乞うご期待 NHKスペシャル面白かったな
大河がクソなだけに尚更 倭の五王は400年代だし、仁徳天皇の息子3人と孫2人と推定されている。ってことは卑弥呼の死んだ250年頃からの100年間が日本史の暗黒時代と言うことか? 「該当する人物は今のところ1人しか居ない。ズバリ卑弥呼だ」
いかにもミスリード的で引っかかったな 応神大王は金官加羅からやってきた傭兵隊長。
舒明こと大王田村王子は義慈元年に倭国にやってきた男らしい。 箸墓古墳の内部調査ができればいろんなことが分かるのに。
なぜ宮内庁は許可しない。なんか不味いことでもあるのか? >>85
天皇家が朝鮮系という証拠が出るんだろうな 大陸系、半島系(百済?)でも別に驚かないけどね。
地球外生命体なら驚くけど。 >>85
長頭骨とかでてきたら面倒いことになるからね
金髪みたいにコーカソイド系だったらなおさら面倒 >>80
三国志がからんでたから
大河よりおもしろかった 邪馬台国がどこにあったかで喧嘩になっちゃうんじゃないの 誰の墓か分からない古墳も参考地としてけっこうな予算が出てるのに誰も文句を言わない不思議 畿内を中心に発展した邪馬台国だけど、九州・出雲・吉備などの勢力を完全に抑えきれない状態だった。そこで親魏倭王の称号を得てとりあえず他の勢力からは一歩抜けん出た存在になった。男の王を立てても治まらなかったのは権力をかさに着ても他の勢力の反発を受けるためだったため。ところがシャーマン的女王を立てたら上手くいった。邪馬台国が他の勢力を完全に支配したというよりも何かを決める際には田勢力の代表者も会議に参加させますよヨロピクネということだったんだろ。そういう意味で邪馬台国連合と言うのは理解できる。だけど、西国の諸勢力が集まって邪馬台国を作りましょうというのはあまりにも非現実的すぎる。もともと争ってた勢力同士がどうして連合できるのか?やっぱ、まずは中心的な勢力がありその周辺が緩やかに結びついていくものだろうよ >>89
日本人は異星人の血を濃く引き継いでいる可能性が
あるんだっけ
そう考えないと辻褄が合わないのもあるとか…
日本人しかもちあわせていないものもあるしな NHKで日本人は何処から来た的な番組なかった?
DNA分析して北東?アジアから来てるとか。 >>97
タイの何とかって部族のDNAが縄文人に似てるってやつな。
でも、今の日本人のDNAは古墳時代の人とほぼ同じ構造だそうだ。 朝鮮征伐で高句麗との戦いで初めて騎馬を目にしたヤマト王権は、馬産を招致し東国に牧を作った。
元々高句麗の馬産が多かった信濃と大陸交易を望んでいた上野の毛野氏を引き入れたのが大きい。
4世紀の朝鮮征伐を主導した毛野氏以降は群馬が東国の中心になり積極的な大陸外交と共に栄えるようになる。
4世紀からはヤマト王権によって伊那盆地が馬の生産管理拠点に定められたことが想定される。
また、そのような馬の導入によって内陸交通網の整備が進み地域間交流が発展したことが、各古墳の多様な様相の背景として想定される。
このように本古墳群は飯田地域がヤマト王権の東国経営拠点かつ東西交通の結節点として機能したことを表象する遺跡であり、
内陸交通網の整備による王権の国づくりの一面を表すとして重要視される遺跡になる。 4世紀、倭王権の一翼を担った上毛野勢力が対外活動のために結集するに当たって,それまでの経済圏を越えて,
「外交・軍事指揮者」を共立したのがその歴史的背景であったと考えたい[若狭 2017]。
上毛野全域の集団は,外来文化という果実を手にするために大団結したのである。
その結果として5世紀中葉以降の上毛野地域に現出したのが,後述するような「渡来人と多様な技術群」であった[若狭 2011,亀田修一 2012]。
『日本書紀』神功〜仁徳紀には,上毛野氏祖による朝鮮半島での度重なる軍事・外交活動(荒田別・鹿我別の新羅征討[神功49年],
荒田別・巫別による百済からの王仁の招聘[応神15年],竹葉瀬・田道による新羅征討と四邑民の連れ帰り[仁徳53年])が記されているが,
この文献上の記述と,実際に上毛野地域で確認される考古学的事実(渡来文物の多出)との間には,整合する部分が認められる。
したがって,『日本書紀』の記事には5世紀の地域史の実態が埋め込まれていると考えられる[若狭 2015]。 古墳と祭祀遺跡は、いずれも古墳時代を考える上で重要な要素である。
石製模造品は、その両者を共通して分析できる数少ない遺物の一つであり、古墳時代中期を代表する祭祀遺物である。
畿内を発祥の地とし関東地方まで盛行することから、大和政権の東国に対する勢力伸長を反映するものと理解されてきた。
この考えは、今日にいたるまで基本的な視点として受け継がれている。
倭の五王の時代、律令制国家以前
赤線は内陸部主要交通ルート
https://i.imgur.com/hoHEdkE.png
https://i.imgur.com/TA3rE0o.png これまでの長野県の弥生時代像を大幅に変える大集落・松原遺跡の中心部分が発見された。
最盛期の紀元前1世紀ごろには大きな溝で居住域をいくつかに分かち、その一つ一つに数多くの建物跡を持ち近畿地方の標準的な環濠を持つ集落が4つ入る程の規模である。
同時に日本海側から千曲川を遡り関東平野に抜ける交流ルートの要であったことを出土した大量の土器や石器が示している。
根塚遺跡からは鉄剣が出土しているが、同様の鉄剣は朝鮮半島の蔚山下垡遺跡からも発見されており、渡来人との関連性が指摘されている。
紀元前の遺跡としては伊勢宮遺跡と篠ノ井遺跡が発見されているが、この遺跡から発見された人骨は渡来人の特徴が見られた。
北信では、北は木島平村、南は千曲市までの領域に約900程の積石塚古墳が見られ、大量の高句麗系渡来人が善光寺平に至ったと考えられている。
八丁鎧塚古墳の後には、大室古墳群や安坂古墳群などが形成された。
南信の伊那谷では特に宮垣外遺跡・新井原12号墳4号土壌・茶柄山古墳群・ 物見塚古墳などには、
馬や馬具の埋葬の仕方や埋葬品の形式から、朝鮮半島南部のあたりから渡来人が至ったとされている。
伊那市の手良地区には「大百済毛・小百済毛」という地域があり、この地名の由来はその名の通り百済からの渡来人によって開発されたからである。 三陸河北新報社2022年8月24日
【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】
宮城県は弥生時代の集団遺跡がとにかく少ない。人類の集落や生活の痕跡が見えない中、古墳時代前期(4世紀)になって突然、蛇田の新金沼遺跡に集落が出現する。
石巻地方に古墳時代人が登場したのである。
突然、大集落が出現しただけでも驚きなのに、さらに驚いたのは住居から出土した土器である。関東・東海地方の特徴を持つ弥生土器よりも装飾のない「土師器(はじき)」と呼ばれる土器である。
東北地方の古墳時代は関東・東海地方の人々の移住から始まったのである。
ともかくも、こうして東北各地に移民による拠点集落ができていった。
岩手奥州の中半入遺跡、石巻の新金沼遺跡、大崎の名生館遺跡、多賀城の山王遺跡、仙台平野の南小泉遺跡、名取の清水遺跡などが有名だ。
いずれも結構な数の須恵器の出土が見られる。
宮城県大崎市青山横穴古墳群、大崎市混内山横穴古墳群、塩竈市清水洞窟
山形県米沢市戸塚山古墳、福島県喜多方市灰塚山古墳、福島県郡山市正直古墳群
いずれの古墳人も、縄文人の特性は見られず渡来系の特徴を持つ
当然、さまざまな道も生まれていった。
仙台平野から大崎平野をへて北上盆地に向かっては「山道」(さんどう)と呼ばれた幹線道路があったことも知られている。
「道奥」は道がなかったわけではなく、中央ヤマトがそのようにみなしただけだった。 3〜4世紀、近畿勢力・東海勢力の関東・東北への集団移住 日本考古学協会 西川寿勝 2022 年 12 月 17 日
関東平野では東海の土器をもつ集落と近畿の土器をもつ集落がモザイク状に分布。
https://i.imgur.com/JjWfCJd.png
https://i.imgur.com/xN1nfOC.png 5世紀の仙台平野に朝鮮から伝わった大規模な須恵器窯跡群が置かれ一大生産地になったのも、この頃外交を担っていた上毛野氏などが先進技術を積極的に取り入れた功績、ではなかろうか。
北東北の古墳時代の開始期には、古墳文化圏から北上してきた土師器が加わり、5世紀になると多くの土師器に須恵器が加わるようになる。7世紀以降には土師器・須恵器のみとなるのである。
土師器は、西日本における弥生土器の製作・焼成技術がほとんどそのまま受け継がれて成立した土器である。器種は壺・甕・台付甕・坏・高坏・甑・器台・小型器台・小型丸底坩などで構成され、文様は基本的に施されない。
東北における古墳時代の土師器の変遷は、塩釜式→南小泉式→引田式→住社式とされ、これらの各型式は現在さらに細分されつつある。
青森県内では塩釜式に並行する土師器が五所川原市隠川遺跡で出土している。
須恵器は5世紀の初頭頃、朝鮮半島南部の陶工の渡来により製作され始めたもので、今のところ大阪府堺市大庭寺遺跡から出土した須恵器が日本最古のものとして知られている。
同市に所在する陶邑古窯群は日本の須恵器生産を一手に担っていたが、須恵器の生産技術はそこから徐々に各地へ広がり、東北地方南部にも及んだ。
東北最古の須恵器窯跡は、5世紀中頃の宮城県仙台市大蓮寺窯跡である。その後、仙台市金山窯跡や福島県泉崎村泉崎古窯跡などでも生産された。この頃の須恵器の器種は壺・甕・埦・高坏・甑・器台などが一般的である。
青森県における古墳時代の須恵器は、十和田湖町長根遺跡や天間林村森ヶ沢遺跡、八戸市市子林遺跡・田向冷水遺跡・八戸城跡、東通村浜尻屋遺跡の出土例が知られている。
長根遺跡の須恵器は大蓮寺窯製品の胎土と類似し、森ヶ沢遺跡の須恵器は畿内産のものと推定されている。 遠賀川系土器は東日本最古、紀元前6世紀の青森に伝わり、津軽垂柳遺跡で656面の水田跡、
弘前砂沢遺跡においても弥生文化が受容されていた
特に弘前砂沢遺跡112面の水田跡からは渡来系弥生人の足跡も発見され、形質人類学的にも注目をあつめた
https://i.imgur.com/d3ScV29.jpg
https://i.imgur.com/CtOEXtK.jpg
垂柳遺跡、砂沢遺跡の水田はその灌漑水路や農耕具、出土した石包丁など技術的には西日本の稲作技術と大差がない
つまり弥生前期、中期に西日本で既に完成された農耕技術が東北にも到達しているのである
その後続々と関東・東北での出土例が相次ぎ、西日本各地とそう時間的な差が無くコメ或いは稲作が東北地方にまで伝わっていた可能性をもはや誰も否定できなくなった
垂柳遺跡、砂沢遺跡の水田はそれを証明したのである 秋田地蔵田遺跡(紀元前4世紀)はこの地方一帯の当時の一般的な住居構造である環濠集落、遠賀川系土器集団である。
渡来系弥生人コロニーを形成していた。
初期の稲作農耕文化を携えた人々が他所から移り住んでできた弥生集落と考えられるが、東北地方北部における稲作農耕文化の受容、成立過程とその地域的特質を考えるうえで、
ひいてはわが国の稲作農耕文化成立の過程を具体的に知るうえで特に重要であり、その歴史的意義はきわめて大きい。
新潟の下谷地遺跡(紀元前3世紀)は土器の9割を畿内系が占めており、畿内から東山ルートの陸路はこの頃から使われていたと考えられる。
その後、弥生期に東北地方や関東地方東北部を中心として急速に普及した管玉の大多数は、並行する側面をもつ朝鮮半島製の管玉である。
遠賀川系土器は日本海側を伝播、庄内式土器は弥生末期の布留式土器と変遷を辿りながら同時に岩手まで和人集落と共に太平洋側を北上する。 西暦150〜280年、宮城県石巻市の梨木畑弥生人骨について
https://i.imgur.com/7xAiJAh.png
頭骨の観察的所見では、顔面が面長で、眼窩も高く、鼻骨は狭長で、現代的な印象が強い
上顎切歯に明らかなシャベル状形質が認められる
四肢骨では、脛骨骨体が扁平でない、脛骨大腿骨示数が78.5程度であること
縄文人やアイヌを想わせる特徴はまったくと言ってよいほど認められない
ミトコンドリアDNAはD5b2
結論としては、梨木畑人骨は明らかに和人であり、現代化した特徴を有していた
アテルイの本拠地である奥州胆沢でも常磐広町遺跡など紀元前後の高度な渡来系灌漑水稲集落が見つかっている
東日本古墳時代人の遺伝的特徴は東北地方縄文時代人とは大きく異なる一方、現代人には非常に近かった。
この結果は、古墳時代には既に、渡来型弥生人の遺伝的影響が東日本において集団の主体をなすほど大きくなっていた可能性を示していると考えられた。
https://i.imgur.com/0uLa3a5.png
エミシとは誰だったのか-学際的研究で探る東北古代人の人類学的・考古学的実像- エミシ・ユルマズは突厥系の経済評論家
大和言葉が使える 名前や文化すら意味不明な古代時代なんかドラマにできる訳ねーじゃんw 飛鳥~奈良時代でいいからやって欲しい
聖徳太子とか天智・天武天皇とか 4世紀末、倭国は馬産を高句麗から招致して「牧」を取り入れた
高句麗の馬具副葬古墳が最も多いのが牧が置かれた長野県、次いで群馬県となっている
https://i.imgur.com/2ftQetH.png 前半は卑弥子で後半は倭の五王ならネタはつきないんじゃね? 陳寿「邪馬台国?卑弥呼?ネタですよネタ。何、真に受けてるのw」 狗奴国王「*卑彌弖呼」pimete(k)[o,a] (日の本の子の意味)の陵墓と見られる静岡県の高尾山古墳って、本当に破壊されて道路にされる寸前だったんですね。
静岡県は知事含め人間の質が低いねえ