【第三十八回】太平記part.38『一天両帝』
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◇内容◇
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…雪の降る尊氏本陣に、足利直義が駆けつけてきた。尊氏は母にもらった手本をもとに地蔵尊の絵を描く日課を行っていた。 「兄上もすっかり抹香臭くなられたものよ…」 と直義は嘆く。そして尊氏が直義に一言の断りもなく和議の使者を送ったことに怒りを示した。
尊氏は謝りつつ
「今が戦をやめるよい潮時じゃ…」と言い、形式上は持明院統と後醍醐の和議ということにして向こうの体面を保ち、義 貞を朝廷から引き離すという考えを述べ、徹底的に帝の権勢を潰そうとする直義をなだめた。
やがて東坂本の義貞の陣に洞院実世からの使者が来て、帝が尊氏と和睦し、京へ戻ることになったと知らせてきた。義貞にはまったく寝耳に水で、「帝が…尊氏と和睦!?」と義貞は愕然とする。
比叡山の行在所では京へ戻るべく帝が立ち上がったところだった。そこへ義貞の家臣・堀口貞満が 「しばらく!」と駆け込んでくる。
「無礼者!」と叱る公家を尻目に、貞満は「本日のにわかな御動座に異議がござります!」と訴え、義貞に何の断りも無く尊氏と和議とは何事と不満を述べる。
公家達は「これは持明院との和議」と諭すが、貞満は「どう名分をつけようとそれでは我が殿が逆賊の汚名を着ること にっ!…」と反駁する。
「我らが殿を見殺しになされるおつもりか!?」と貞満が叫んでいるところへ、「堀口ッ!控えよっ!」と義貞がやってきた。
義貞は帝の前にかしこつつ、「この義貞すらも、これへ参るまでは全く逆上気味でござりました」と言う。帝は「早まるな義貞。京へ戻るは一時の策に過ぎぬ…。なんの私心あって新田を見捨てようぞ…」と宥めた。
帝は自分が京へ戻るのは考えあっての こと、と諭し、北畠親房、四条隆資、懐良親王らを各地に派遣して官軍が立つのを待つのだとの考えを明かす。そして義貞には皇太子の恒良親王と尊良親王を奉じて越前へ向かうよう命じた。
そして恒良親王に帝位を譲っておくから逆賊の汚名を着る心配はないと義貞を安心させる。「義貞、そちが頼りぞ!」との一言に、義貞は平伏する。
間もなく義貞は親王らを奉じて、雪の中、北陸へと向かった。 堅田に陣を張った時、思わぬ人が義貞を訪ねてきた。義貞は陣屋に駆け込むと「内侍どの…!」と声を上げた。「義貞さま…!」どうしても会いたいと追いかけてきた勾当内侍だった。
寝所で二人は抱き合いながら語り合う。
「内侍は…あなたさまにお会いして、初めて人を愛する喜びを知りました…それまでの私はただ人形のように待つばかり…あてもない気まぐれな心を…でも、左中将殿の愛は確かっ!こうして触れ、確かめることが出来る…」
「儂とて、焦がれることがどういうことか、そなたと会うて初めて…」
内侍はどうか連れていってほしいと義貞に頼むが、義貞は冬の厳しい北陸の暮らしは都育ちの内侍には無理と諭し、春になり体勢が整ったらすぐにも呼ぶと約束する。それでもすがりつく内侍を義貞はなだめながら抱きしめるのだった。
…結局これが、勾当内侍と義貞の永遠の別れとなったのである。
義貞軍は木芽峠を越え、敦賀入りを目指す。しかしこの建武三年は異常な寒冷気候に見舞われた年で、義貞軍は極寒の中の行軍に加え、度重なる敵の奇襲にもさらされる。散々な苦労をした末に義貞らはようやく越前敦賀の金ヶ崎城に入った。
一方、京に戻った後醍醐天皇であったが花山院に幽閉された。そこへ見舞いと称して尊氏が訪ねてきた。
「さぞやこの尊氏にお怒りのことと…幾重にもお詫び申し上げまする…」
と言う尊氏に、帝は
「飾る言葉は要らぬ。まことを申せ。まことのそちの思いを…」
と応じつつ「天下を率いて立とうとは思わぬ」と言っていたのは偽りだったのか? と尊氏を糺す。尊氏は、この一年天下のうねりに乗って関東から九州まで駆けめぐり世相をよく見てきた今の自分は、すでに一年前の尊氏とは違うと答える。
建武の新政は失政多く、武士だけでなく庶民も批判を高めているのを自分は見てきた、と語る尊氏に後醍醐は「新政はまだ緒に着いたばかりじゃ…」と反論する。
しかし尊氏は後醍醐が理想とした延喜・天暦の時代とは「世が変わり過ぎており申した……」と鋭く突く。
武士の数も多くなり、庶民の生活も複雑化し、 何より人の考えが変わっている。昔の官制ではとうてい天下の統治は無理であると尊氏は言う。
「どうあっても、幕府を認めよと申すか?」
と言う後醍醐天皇。尊氏は旧北条とは違い公武力を合わせて政治を行うと力説する。
…すると帝も
「武士がそのようなものなれば、朕とは永久(とわ)に相容れぬものぞ!」
と言い切った。
「無念にござりまする…」と尊氏は言った。 引き上げようとする尊氏を、阿野廉子が呼び止めた。廉子は尊氏を一室に招き、
「わらわは早くから足利殿には肩入れしていたつもりじゃ!」
と尊氏に取り入ろうとする。尊氏は今後は持明院統・大覚寺統の両方から交互に天皇を出す鎌倉以来の合意に戻したいとして、現在の光明天皇の皇太子に廉子の子である成良親王を立てたいとの意向を伝える。
これを聞いた廉子は喜び、尊氏はその代わりとして三種の神器を後醍醐帝から光明に引き渡すしてもらえるよう廉子に頼む。廉子も尊氏の手を握り、
「これからは何事も足利殿におすがりいたしまする!」
と言うのだった。 11月2日。三種の神器が後醍醐天皇から光明天皇へと引き渡された。そして尊氏は権大納言に任じられる。かつて源頼朝が幕府を開いた、まさにその時の官位であった。
11月7日。17ヶ条からなる「建武式目」が発表され、尊氏が京に幕府を開くことが正式に宣言された。尊氏は重臣達を集めて「今から後は全て直義に任せたいと思う」との意向を告げる。
高師直が「隠居する気か」と尊氏に聞くが、尊氏は「そうしたいが、そうもまいるまい」と答え、一同に直義を補佐してやって欲しいと頼む。一同は礼をするが、師直はなぜか最後にゆっくりと頭を下げた。そんな師直を直義は厳しい目で見つめていた。
丹波に身を寄せていた母・清子、妻・登子、子の千寿王がそろって京へとやって来た。久々の一家団欒にみな喜び、談笑にふける。清子が「政はみな直義どのに任せているとか?」と聞くと尊氏は「直義はわしより筋の通った政をする」と答え、
直義は「いや、いざというときは兄上にも出ていただかねば(笑)」と謙遜する。そんな息子達を見て「兄弟力を合わせて、いつまでも仲良う頼みまするぞえ…なにしろ、お二人は父上もかなわなんだ夢を見事に果たされたのじゃから」と清子は微笑む。
談笑のなか、直義は尊氏に後醍醐天皇のいる花山院の警備を緩めるのは問題がある、と議論し始める。北畠親房らの活動も活発で、油断がならないと言うのだ。しかし尊氏は自分達にとって特別な先帝であり神器を譲ってくれた前君に滅多な扱いは出来ぬ、と答える。
「兄上は先帝のこととなるといつも甘い…」と直義はぼやく。そんな声をよそに尊氏は千寿王に「琵琶湖を見せてやる」などと言って笑っているのだった。
12月21日。都を震撼させる異変が起こった。花山院に幽閉されていたはずの先帝・後醍醐天皇が姿をくらましたのである。直義は警護の兵士を怒鳴りつけ、畿内各地に追っ手を手配させる。
幕府にも師直や高師泰、細川顕氏などが続々と駆け付け、大騒ぎとなっていた。師直は警備を任されていた直義の責任を問いただす。直義は尊氏が警備を緩めるよう言ってきたのだと弁解し、
「大御所の恩が仇になってしもうた…」と無念そうにつぶやく。師直が直義に顔を寄せ、「もっと早く、しかるべきご沙汰をなさるべきでしたな?」と密かに囁く。
そこへ尊氏がやって来た。直義が尊氏に謝罪していると、佐々木道誉も笑いながら姿を現した。後醍醐は女装までして逃げたらしいと道誉は言い、「さすが先帝はただ者ではござらぬわ(w)」と大笑いする。
尊氏は言う。「こたびの事は、先帝の御意のままに出でしこと。されば、以後の責めは我らにはない」考えてもみよ、と尊氏は一同に説明する。
先帝ご一身のために幕府が費やす警備の負担は大変なものであり、しかも期限というものが無い。かといって遠くの国に 流すというわけにもいかず、悩んでいたら此度の出来事。むしろ「不幸中の幸い」というべきである、と尊氏は言うのだ。
これを聞いて道誉も「さすが足利殿、我らには思いも及ばぬお考えじゃ(w)」と感心したように言う。
直義や師直が手引きしたと思われる北畠など畿内勢力が気にかかると意見するが、尊氏は「何もすることはないのじゃ」と言い、いずれ事態は収まるところに収まる、と楽観的な見方を示すのだった。道誉は「果たして足利殿の申されるように参りますかな?」と口を挟んだ。
大和国・吉野。京を脱出した後醍醐天皇は北畠親房らの手引きで12月28日に吉野の金峯山寺に入った。そして
「すみやかに延元の年号を復し、足利を討伐するのじゃ!」
と宣言する。ここに吉野と京に二つの朝廷が開かれることとなった。世の人はこれを「一天両帝・南北京」と称した。南北朝動乱の始まりである。
…後醍醐天皇は足利討伐の命を各地に発した。陸奥・霊山城にあった北畠顕家のもとにも後醍醐の呼び出しの命が届く。
顕家は足利方の常陸国・佐竹氏など周囲の敵を破った上でただちに西上する決意を固める。
「なんとしても公家一統の火を絶やしてはならぬ。帝の御心を忘れてはならぬぞ!」
顕家は結城の家臣達に言い渡した。
「そうやって絵筆をとっていられるのも長くはあるまいの」道誉が地蔵尊の絵を描く尊氏に言う。各地の吉野勢も挙兵し、いよいよ正面から戦わねばならなくなったのだ。
「むつかしい世になってしもうた…」とつぶやく尊氏に、「それもこれも足利どのの曖昧な態度ゆえぞ」と道誉は言う。
「一度墨につけた筆は白くはならぬ…もはや引き返すことはできぬ…さようなことは…」そう尊氏は道誉につぶやくのだった。
◇太平記のふるさと◇
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福島県・霊山町。北畠顕家が義良親王を奉じて立てこもった天然の要害・霊山城を紹介。ふもとにある北畠父子を祭った霊山神社とそこに納められた顕家二十歳の肖像画、直筆の書状などを映す。
日本史板に「太平記」のスレが立ってる
なぜ日本史板に?と思うが 少し昔に安徳と後鳥羽が一天両帝だったから今さらって感じよね 一天両帝の言葉は『大乗院日記目録』の記事にある「一天両帝、南北京」だからな・・・。
ちなみに同じ史料の南北朝合一の日の記事は「南北御合体、一天平安」となっている。 両統並立状態は、安徳&後鳥羽以前にも、弘文&天武とか、安閑・宣化&欽明とか、いろいろあるよな >>5
覗いてないから分からないけれど
そこで三河屋封印してくれるならいいんじゃね? 前スレ985
藤村志保は、BSTBSでやってる「温泉へ行こう」に出てる
再放送だから意味がないかもしれんが 一天平安。素晴らしい響きの言葉だ。
うんこ尊氏は孫に頭が上がらないだろうな。
この回の最後で判官殿も直諫している。尊氏の曖昧な態度が天下を乱しているとな。 >>13
それから100年もしないうちに応仁の乱が起こるのは皮肉だけどなw >>13
この孫の代の大河が見たいんだよね
陣内、沢口を使うなら賞味期限はあと数年でしょうし 「すみやかに延元の年号を復し、足利を討伐するのじゃ!」
と宣言する。ここに吉野と京に二つの朝廷が開かれることとなった。世の人はこれを「一天両帝・南北京」と称した。南北朝動乱の始まりである。 吉宗の時で良かったが
2年連続足利避けるなら利家まつあたりだったか >>18
徳川は家康、吉宗、葵、慶喜など大河で沢山放映されてるのに足利は尊氏と義政のみ
この差はなんなのか?
室町時代好きにとっては残念 >>20
>>19は足利将軍が主人公の大河、と言いたかったのだと思う
義輝、義昭は来年の「麒麟がくる」にも登場するしね 山名宗全細川勝元以外に佐野史郎の足利義視とか
草刈正雄の日野勝光とかよかったんだけどな
ラストが悲惨すぎるけど ちょっとひねって一休さんこと一休宗純を大河の主人公にすれば、
ちょうど義満、義持のころがカバーできるな。 >>24
それはいい、一休宗純なら義政の頃が晩年だから赤松満祐により暗殺された義教もクローズアップされるね >>24
皇族出身でしかも宗教家という人物を主人公にするのは少々難しくないか? 「呼び捨て失礼書き足した」 武光パネルに「公」 菊池市文化財保護委の会長落書き「やった」
2019/11/29 14:00 (JST)
11/29 14:23 (JST)updated
https://this.kiji.is/572983155336234081 親王が東夷よばわりしていたけど
この時代 東国の人は 蔑んでみられていたんですか >>27
黒衣の宰相といわれた三宝院満済なら義満の晩年から義教まで描けるからいいのでは?
もしくは世阿弥あたりか 道誉の子孫って何で「高」の字を通字にしてんの?
「高」って元々道誉が高時から貰ったものだと思うけど実は鎌倉滅亡後も密かに北条を敬愛していたとか? 後を継いだ高秀は三男(兄は秀綱、秀宗)だから偶々にも見えるしどうなんだろうね。
室町後期の「高」は足利義高(義澄)からみたいだけど。 しかし道誉(高氏)以前の佐々木京極氏の当主には諱に「高」を持つ者はいないから
「高」が道誉に由来することは間違いないんじゃないかな? >>38
だからその「高」の字は北条高時の「高」じゃないかと32は言ってるんでしょ 名和長高とか足利高国とかは改名してるね
道誉も嶺方とかネタ改名はあるがw >>42
名和は高時の偏諱の可能性はないだろう・・・ 当主ではなかったが
頼朝時代の兄弟に佐々木高綱が…
奇しくも円喜と同じ諱だ しかし、リアル版アシュラの世界だった室町時代が好きとか不思議だなw
現代から見たら単なる地獄だろ >>45
円喜の諱が「高綱」というのは俗説
実際には円喜が出家した段階でも高時は元服前なので「高」の偏諱を与えられることはあり得ない
彼の本当の諱については近年では「盛宗」という説が有力(「宗」は時宗からの偏諱) 北条早雲の諱も昔は「長氏」だったが今は「盛時」が有力 ここの皆は完全版DVDは持ってるの?
総集編しか出てない作品もあるから、完全版出てるのはいいことだ 歴代の足利当主も得宗から偏諱をもらっていたけど時宗だけはないな
宗尊親王の偏諱は不吉だったのかしらw >>51
足利家時(1260年生まれ)は、恐らく烏帽子親は時宗で、「時」が与えられた字なんじゃないかな?
他の足利宗家歴代のように「得宗の偏諱+氏」になっていないことから、尊氏のように
早世した嫡兄(諱は「宗氏」)がいた可能性があるという話を聞いたことがある。
仮にその場合、「時+氏」だと時宗の祖父と同名になってしまうので、変則的になるが
家時という名乗りになったとか。
「宗」の字を貰ったとおぼしき人物自体は同時代にいくらでもいるから、「宗」の字が
忌避されていたというのは考えにくいし・・・。 スレとは離れてきたな…
昨日の道誉の偏諱とか、henkipediaで考察してるよ まぁでも面白いからいいんじゃね?
家時は伯父の(斯波)家氏からと思っていたが時宗の時か、なるほど >>56
「家」は斯波家氏に由来している可能性あり YouTubeに上がっとるがな。いつでも好きな時に見れる。
しかし北条時宗がつべから消えた。誰か上げてくれ。 本放送時のキャプチャならカオス部屋に紛れ込んだHDDに保存されてた筈だが
一部回のOP曲がテープ痛みの乱映像に… 完全版DVDには「太平記のふるさと」が収録されていなかった
もしかして、現存しないのか? 紀行ホント覚えとらん、
信長や炎にあったかどうかも…
葵はあったから時宗にはある筈だが
CS秀吉や元就でも無かったような >>63
紀行は太平記から始まって、それ以降の大河はすべてあるはず
最寄り駅情報は新撰組以降 我が子晴信は〜
今宵はこれまでにいたしとうぞんじます
のナレーションはよかった 独眼竜正宗・武田信玄・春日局・翔ぶがごとく・太平記で五賢帝 執権どのに、なんのお願い、じゃ?
( ̄ー ̄)ノペチッ 小笠原氏は源氏の一門として遇されていた。また、平賀氏が滅ぼされた後は、その遺領も入手した。
ならば小笠原氏は(2)であると考えるべきでしょう。
重ねて推論するなら、小笠原氏と足利氏はともに(2)の一員である。
そこに規模の大小はあっても、本質に違いはない。ということは、足利氏は北条氏の滅亡後に将軍になったわけですから、小笠原氏も将軍になることは可能だったと見るべきではないか
足利氏が一頭地を抜く存在であったことは否めません。
ですから、足利尊(高)氏がよほどのヘマをして、その時に巧みに立ち回っていたならば、という条件は付随するのですが、武田や佐竹、小笠原といった源氏一門が将軍となり、幕府を開く可能性は「あり」だった、とぼくは思うのです。
コレは本郷和人とやらが言っているんだが
まさに間抜け部外者らしいと言うしかない
高野山に大塔の鐘と言う大鐘があるが、三河で作られたらしい
計画立案は三河の源頼朝、製作は三河の寛伝、高野山で受け入れたのは三河の足利義兼らしい
三河で源頼朝と繋がる足利氏を乗り越えられなったのは、北条だけでなく他の御家人も同じなのである
分からない事があれば当事者たる三河人に意見を求める癖をつけよ
源頼朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫→伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡)→娘(由良御前)→源頼朝(初代鎌倉将軍)
寛伝(三河国滝山寺僧)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→藤原範忠→寛伝
足利義兼
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女→足利義兼(初代源姓足利氏) これをじっくり見て、武田や佐竹や小笠原が将軍になれる器だったのか、じっくり考えよ
源頼朝と三河で繋がる、三河の王しか無理なんだよ
三河政権たる鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、三河県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、三河県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田) 余談だが
最近、ヤマトタケル関連に凝っていて、山梨の武田はヤマトタケルと尾張氏の娘の子供、武田王に由来するらしいな
武田王の同母弟である佐伯王は三河で暮らしたらしい
興味深く感じた 本郷氏>>>>>>>>>>(越えられない壁)>>>>>>>>>>三河屋 本郷和人って、頼朝像を頼朝と言ってるんでしょ
いまいち信用できない >>85
亀田俊和は伝・頼朝像は足利直義という、新説支持 信用できる まぁ直義といえども、頼朝と比べたら格も知名度も随分と落ちるから
所持者としてはあんまり認めたくないんだろう でも、もう一方の伝平重盛像のほうなら、知名度的に尊氏>>>>>重盛じゃないか? 足利殿、まだ執権どのへの
ご挨拶承っておりませぬぞ
( *`ω´) 焦点は源頼朝なのか否か、ただそれだけ
他の二つは神護寺も興味なし 直義と確定するまでは頼朝だという主張は変えないだろうな
推定無罪みたいなもんやね(´・ω・`) >>これまで書状の存在自体は知られていたが、現物の行方は分かっていなかった。 足利氏は、徳川家康が新田流源氏を自称したせいで、割りを食ったな >>103
有名で内容もよく知られているけど現物の行方が分からなくなっている史料って、
結構普通にあるし、そこまで取り立てて騒ぐことか? ぼくはずっと、執権・北条氏はなぜ鎌倉幕府の将軍にならなかったのか、もしくはなれなかったのか、を考えてきました。
この問題を考えだしてもう20年になるのですが、ここへ来て、ようやくぼくなりの答えに到達しました。
それは「将軍になることは可能だった。けれどもならなかった。それは北条氏が賢明だったから」というものです。
本郷和人とらやらが20年も考えて出した結論らしい
ボキは、野心はあったが、三河の源頼朝が構築した三河システム(三河縁者の武士が武家社会を牛耳るシステム)を破壊できなかったからと考える
鎌倉将軍家断絶後、その三河システムの最高責任者は足利であり、北条は足利を恐れていたからこそ、足利氏との姻戚関係を求めたわけだな 東国と西国との境は何処かと聞かれて、関ヶ原ガー、箱根ガーとか言う奴がいるが
出来る奴はこう考える
東国と西国を楕円で囲んで、その円が交わる場所がある、そこは三河
東国の一番西の国は三河であり、西国の一番東の国も三河
三河の源頼朝は、三河を自らの縁者で固める事で東国と西国の緩衝地帯としたわけだな
足利氏は、三河の源頼朝の親戚として三河守護になれ、なったあとは京方の親戚の下司でもあった
これは北条も手が出せない
三河国主、三河守について
1184年06月:源範頼(三河守)
1191年07年:九条兼実(知行国主)
1193年08年:吉田資経(三河守)、吉田経房(初代関東申次)の孫、室に藤原範季の娘
1199年02年:吉田経房(知行国主)、初代関東申次、母の兄弟に藤原俊成(三河守)
1200年02年:藤原親輔(三河守)、藤原顕季の息、姉妹に九条兼実室
1200年03月:七条院(分国主)
1207年01月:忠輔(姓不詳)(三河守)、三河の藤姓熱田大宮司家か?
1212年12月:実茂(姓不詳)(三河守)、三河の藤姓熱田大宮司家か?
1225年01月:藤原為綱(三河守)
1227年11月:七条院(分国主)
1228年12月:藤原経季(三河守)
1229年10月:藤原範房(三河守)、藤原範季の孫、叔母は吉田資経(三河守)室、姉妹に四条隆親室、忠成王(母親は三河の藤姓熱田大宮司、藤原清季の娘)妃
1234年01年:四条隆親(知行国主)、室に足利能子(足利義氏(三河守護)の娘)
1235年01年:藤原隆朝(三河守)、藤原隆季(四条家の祖)の曾孫、息が四条房名(三河守)に養子入り
1238年10年:卜部兼直(三河守)、兄弟の孫に吉田兼好
1240年12月:葉室資頼(知行国主)、藤原顕頼(三河守、正室は藤原季範従兄弟)の5世孫
1240年12月:四条隆親(知行国主)、室に足利能子(足利義氏(三河守護)の娘)
1200年12月:四条房名(三河守)、四条隆親(三河国知行国主)の息
1241年03月:清原教隆(三河守)、九条頼嗣の侍講
1242年03年:藤原定親(三河守)
1244年08年:世良田頼氏(三河守)、室は足利義氏(三河守護)の娘)
1248年01年:四条房名(三河守)、四条隆親(三河国知行国主)の息 >>101
物を知らない尾張の田舎猿、間抜け猿吉らしいな
徳川家臣団の元を作ったのは足利将軍家の認識が無かったわけだな
結果、徳川の関東転封で、三河の足利将軍家家臣団と関東の関東公方家臣団を合体させ、強靭化した
足利尊氏と徳川家康の生誕地は目と鼻の先
おそらく足利尊氏直義は、足利氏の大門屋敷の南方すぐ近くにあった上杉氏の日名屋敷で生まれた
■上杉氏
太田亮
上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
足利尊氏、直義が生まれただろう日名屋敷
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。 三河屋って消えたかな?と思っても一度沸いてくると暫くスレに居着くよね・・・ キチガイを相手にするのもキチガイ。荒らしを相手にするのも荒らし。
おかしな書き込みは即NG登録して存在を抹消し、
完全に無視するのが賢い大人の対応。 >>97
お取り調べなどとは、いやはや(^◇^;)
足利殿といえば幕府を開いた源頼朝公に
連なる縁戚のお家柄…そのような方を
お取り調べとは…ハッハッハ( ̄∀ ̄) 「幕府」という言葉は明治以後にできたらしい
だから>>114のようなセリフは出てこないはず >>95
こは長崎円喜にあらず
北条得宗の名代ぞ…控えよ!
( *`ω´) 貞氏の代に源氏将軍を擁立する動きがあったってのは本当かね?
これが事実ならば、母が北条でない尊氏がゴミのような扱いを受けたのも理解できるんだが >>115
幕府という「言葉」自体は遥か昔から存在してますが >>118
源久明絡みじゃないかしら
後に皇籍復帰して親王宣下されているけど >>115
>>119
将軍の居所という一般名詞的な意味ではなく、征夷大将軍が主宰する武家政権の意味で
「幕府」という言葉が使われるのは、確かにもっと後の時代、中世段階ではない用法。
ただ新井白石の『読史余論』とかに、この意味での「幕府」の語が普通に出てくるので、
遅くとも江戸中期には、この意味の「幕府」は言葉として存在するよ。 あとドラマはドラマなんだし、劇中のセリフにこんなことで一々突っ込みを入れても、
生産的じゃないよ。 >>114
よって官位の従五位の下
そのような御方を取り調べるなどと…
ハッ…ハッハッハ…ε-(´∀`; ) >>120
臣籍降下は1つ前の惟康親王じゃない?
なるほど、源氏将軍の意図は元寇対策か >>110
お前は早く石塔氏の由来調べてこいよ
答えないのは分からなかったから?
しばらくいなかったのは悔しかった? >>120
そっちの源氏将軍でもいいんかいw
俺は武家源氏、ようするに河内源氏の系統を推戴するのかと思った。
貞氏の代の前後に足利と斯波の嫡流争いがあったのも見逃せないな >>131
斯波は尊氏代の高経らも不遜だったらしいしね >>129
惟康の名前は、惟康王→源惟康→惟康親王と変化しているな。
惟康を源姓で臣籍降下させて、源氏将軍の復活を主導したのは安達泰盛だっけか?
で、霜月騒動の後、惟康は親王宣下を経て皇籍に戻される。 霜月騒動の余波で斯波が得宗によって庶流に転落したんだよな。
足利も得宗の機嫌次第ってこった。
大覚寺統と同じ。
後醍醐と尊氏は反北条で利害は一致していたのな。 父貞時もそのようなことを申しておった。
執権たるもの、天下の安泰・万民の幸せを我が喜びとしなければならぬ。
そのためには何事も公平でなくてはならぬ。
公平が肝要じゃと。 来年の「麒麟がくる」は池端が書くけど、「太平記」以降、池端が書いた大河ドラマってあるのかな? 第1話を久々に見た
尊氏のことを「嫡男」と言ってるんだが、高義はどうなる? >>144
たしか私本太平記では言及がある
ドラマはわかりやすさ重視だろう
道誉は近江源氏の棟梁で近江守護扱いだし >>145
ドラマでも、序盤に尊氏が道誉の館へ行くシーンで、「近江守護佐々木道誉」って字幕が出ているね。
今だったら、史実と異なるというようなクレームが殺到しそうだけど、当時はおおらかな良い時代だっということだな。 >>146
杓子定規に史実にこだわるなら道誉も高時も若くして出家しているのだから、
坊主頭でなければおかしいことになる。 史実通りにやったら尊氏と貞氏はドラマみたいに仲良くないわな
貞氏は死ぬまで家督を譲らなかったし そこはまあ尊氏も死ぬまで義詮に将軍職を譲らないけどね。 国際情報社の学習まんがじゃ1ページで済まされたが僧体だったな高時 本来なら二階堂道蘊くらいの貫禄がないといけないのにな高時入道 高時って享年31歳で病弱な人物だったらしいし、そこまで貫禄がありすぎてもアレじゃないか? ちなみに、新田義貞の年齢はいろいろな説があって確定できないらしい
ミネルヴァ書房の「新田義貞」では、39歳説を採用してる 義貞の烏帽子親は足利高義説があるから
ドラマで高義の存在を加えたらややこしくなってたかな >>148
貞氏は尊氏に(この屋敷から)「出ていけ!」と言ったりしていた
親子の仲は、それほど良くはなかったのは もう少し待てば高義の息子に継げるし
高氏はまともに習字もできない遊び人だったから仕方ない
親の苦労がしのばれます >>143
大河じゃないけど聖徳太子の単発やってたような
最近のそろばん侍の池端バージョンはえぐいストーリーだった
ジャンキーの女官が出て来るんだけど太平記の最初にも裸の女官が出て来るね >>161
女官でなく巫女だね
裸の巫女は鎌倉炎上にも出てくる 義貞て貞氏からの偏諱じゃないのん?宗家の当主からの偏諱だから高義でもいいけどさ。
貞氏は高義が死んでかなり落胆したんジャマイカ?母が北条でない父の家時と尊氏の未来が鮮烈にダブったと思うぜ…。 正確には高時が1304年1月生まれだから
幕府滅亡時で満29才6ヶ月弱。
高氏は1305年8月生まれで
満27才11ヶ月弱。
数え年なら高時30で高氏29だが… ユリウス暦と和暦でも別途ズレるのでそれも適切でないかもしれません >>167
高時は幕府滅亡時に享年31歳だろ。
当時の人物の生没年や年齢をユリウス暦や満年齢でいうことは普通しないと思うが?
勝手に必要のない西暦換算しているウィキペディアのコピペか何かかね? >>163
貞を後ろに持っていく事が不自然日暮里なる >>170
偏諱は前に付けるというルールが確立するのは義満期以降だから、この時代なら問題なし
ただ得宗から貰った偏諱を、さらに一族の別の人物に与えるのがアリなのかどうかは知らない 後醍醐尊治
足利尊氏
このドラマの主人公の偏諱を見よ 高氏(たかうじ)と高氏(こうし)って紛らわしいな
混同を避けるため、尊氏は最初から尊氏と書いた方がいい 連投スマン
第12回を見ていたら、羽場裕一という人が出ているのだが、俳優の羽場裕一?
意外な人が出てるもんだな 本当の貞氏はドラマと違ってかなりの親北条志向だった思う
母が北条氏なのもあるけど高義が家督を継がせたら倒幕に傾くとかなかっただろうな それはどうかな?武家の最優先事項は生き残ること。勝ち馬に乗ると思うけどな。母と嫁、その息子嫁も北条氏のトリプルだとちと苦しいが。外様では最有力御家人だから最終的には宮方につくだろう 一休さん 其の三
http://mao.5ch.net/test/read.cgi/ranime/1558854689/
327 :名無しか・・・何もかも皆懐かしい [] :2019/12/13(金) 23:02:18.86 ID:4GTciIPH
京都に住んでるのに江戸弁で会話してるなんて
328 :名無しか・・・何もかも皆懐かしい [sage] :2019/12/13(金) 23:08:19.56 ID:???
>> 327
京都弁の桔梗屋さんだったらヘイト3割増しになりそう(偏見)
はんなり新右衛門さんも想像つかない
329 :名無しか・・・何もかも皆懐かしい [sage] :2019/12/14(土) 00:03:03.14 ID:???
当時は鎌倉武士の名残りで関東弁が多かった >>177
>>178
そもそも北条一族がすべて一枚岩というわけでもないだろう
貞氏の正室は安達泰盛の外孫でもあるし貞氏の舅である金沢顕時は霜月騒動に連座して流罪になったりもしている
北条庶流の家と近い親戚関係にあるからといっても権力を持つ得宗家やその御内人に対する意識には結構複雑なものがあるんじゃないか?
無論これは足利だけでなく北条一族と姻戚関係を結んでいた佐々木など多くの有力御家人に共通していえることだが うむ。
北条時宗を視聴していれば、なおさらそう思う。
ウロコの喰い合い。 護良親王「こは、持明院統の暴挙ぞ」
持明院統、大覚寺統という言葉はいつ頃からあったのかな 持明院統は伏見上皇が持明院を相伝してから持明院殿と呼ばれ、大覚寺統は後宇多上皇が大覚寺に住み院政を行ってから大覚寺殿と呼ばれた
伏見と後宇多の暗闘も見応えがある
鎌倉幕府、持明院統、大覚寺統、この三すくみを深く理解しないと、後醍醐が討幕に執念を燃やした真意が読めない 正成が平和主義者なわけがない。でたらめをでっち上げやがって。 吉良貞義(山内明)
吉良ということは、忠臣蔵で有名な上野介義央のご先祖さまか はえ〜
オサラギ某、塩田なんとかの守、フオンジなんちゃら…
みな征くのか? 24回「新政」
あめくみちこの義貞正室、コミカルでいい
1回限りの登場なのが惜しい 1度限りの登場で価値があるものもある。
この回は堀口貞満、唯一無二の晴れ舞台だ。
太田市民も感極まっていることだろう。 吉川弘文館の人物叢書
「金沢貞顕」発売中
「北条高時」刊行予定
「北条(赤橋)守時」も読んでみたい 連投スマン
パート33のスレタイは「千寿王と不知哉丸」だったのだろうか
なんか可笑しい 35回「大逆転」
サブタイトルの意味がよくわからない
九州での戦いも省略してるし >>184
後宇多上皇が考えていた大覚寺統の正嫡は、後二条天皇の系統(後の木寺宮家)だからね。
後醍醐天皇の大覚寺統相続は、後二条の子である邦良親王が成長するまでの中継ぎで、
本来は当人一代限りのもの・・・。
まあ同様に当人一代限りで持明院統を相続した花園天皇は、自身の日記のなかでこの件に
関しては後醍醐に対して同情的なことも書いているがw >>188
その高時の発言に出てくる「普恩寺相模守」というのは、最後の六波羅探題北方になる仲時の父親基時のことなのかな? >>196
それな、当時中学生だったけど
多々良ヶ浜省略はないだろ??
とキレた 脇屋義助役の石原良純は、以前テレ朝の「Qさま!」で、この太平記に出たことを喋っていた お上 「火桶が無ければ凍えてかなわぬっッ!! 仲時参れっッ!!!
誰があるっッ!! 誰がある――――っ――ッ!!!」 >>199
つうか基時って鎌倉滅亡まで生きていたのねw
高時より前の執権だし高時のそのセリフ以外でドラマに一切出てこなかったからイメージなかった 陣内道誉がクレジットの止めって、なんか変な感じがするなあ 完全版DVDの解説書 49回「果てしなき戦い」の解説文
尊氏の詭弁に丸め込まれた直冬は、尊氏に従うほかなくなった
この「直冬」って、直義の間違いだよなあ
どうしてこんな誤植をするかね? 「果てしなき戦い」は48話だな
49話は最終回なんで 偉い人って、立て烏帽子、水干を着込めで着用しているのね。 >>202
大声出せば体も温まるとの綸言だったなw 「綸言汗の如し」だから暴れまわって大汗をかけば体も火照るということか? 最終回で、尊氏が直義を毒殺するが、
直義の死は学者・研究者の間でも意見が分かれてる
尊氏による毒殺説は清水克行など
自然死説は峰岸純夫、亀田俊和など
このドラマを見て感動したから、毒殺の方がいい気もするが >>211
物を知らん奴だな
武士のお手本と言えば、言うまでもなくトモちんだ
トモちんが頼盛を鎌倉で出迎えた際の勝負服は水干、立烏帽子だ
それが答えだ 足利義詮役の片岡孝太郎
仁左衛門の息子だよね
親子で「太平記」に出たのか >>223
「太平記」以外の具体例は?
緒形拳、直人なんかは同じ「大河」では共演してないから、違うよな >>225
元禄繚乱の勘三郎と七之助
黄金の日日の元幸四郎と元染五郎
八代将軍吉宗の小林稔侍と小林健
篤姫の平幹二朗と平岳大
がとりあえず浮かんだ 黄金の日日は元幸四郎と父親の元白鸚も共演してるな
あと古すぎるところでは赤穂浪士の山田五十鈴と嵯峨美智子w スレ汚しすまない
花の乱の松本幸四郎(現、白鸚)と松たか子
天と地と、峠の群像の中村梅之助も中村まなぶ(現、梅雀)
歌舞伎役者関係はどうしても多くなるね >>229
「花の乱」なら、先代の市川団十郎と市川新之助(現、海老蔵)もそうだな。 太平記の片岡親子に関しては、同じ場面に一緒に出てくることはなかったよね? >>231
後醍醐と義詮だからな
義詮出てきたのは後醍醐の死後だから、一緒に出ることはなかった 他も絶妙に同じ場面に出ないようになってるのが多いね。
例外は帝(柄本時生)に平伏する柄本秀吉。 ましらの石(柳葉敏郎)、成人直冬が出たあたりでフェイドアウトしてるな
花夜叉(樋口可南子)は最後まで出たのに >>237
ギバちゃんが嫌で降ろしてくれと言ったとか民放のドラマで忙しかったとか
色んな説はあるがあのフェードアウトの仕方は残念
自分はリアルタイムで見ててまさか退場したとは思わず最終回まで出てくるのを待ってたわ
樋口可南子は最終盤にいきなり再登場したな
あのシーンで尊氏を励ますセリフが好きだわ >>239
当時のスポーツ紙のエロ小説では、精液の直飲みが若さの秘訣になっていて、若き尊氏も吸われた。 名和長年役で、小松方正が出ているが、小松方正は円谷プロの「怪奇大作戦」にゲスト出演していた 昨日あたりから太平記を検索すると元禄太平記が関連ワードに上がるようになったな >>242
小松氏は「草燃える」では上総広常だったな 楠木正成役の武田鉄矢は、「草燃える」では安達盛長役だった この「太平記」では、高師直は師泰の弟になってるけど、学会では兄、弟両説があるみたい >>241
尊氏が吸われているなら、道誉も吸われているなw
二人はもしかして穴兄弟? >>251
248に尋ねてるんだが
なんでアンタが返事する? >>250
多分、そんな感じだったかな。
ずいぶん昔の安直な小説だったし。 >>253
大河便乗小説と言えば、童門冬二か津本陽? >>252
しょうもないから相手されてないじゃないw >>256
アンタにも>>252を進呈しよう
248に尋ねてるのに、なんでアンタが返事する? 楠木正成の妻・久子役の藤真利子
ストーリーブックには、「ほぼ一年間ずっと演じるようです」とあるが、
実際は、正成自害の回以降は、出番はなかったな 清子役の藤村志保
今、BSTBSで再放送中の「温泉へ行こう」に出演してる
出てるのを見ると、「太平記」思い出す >>252
当事者(三河人)に聞けよ
部外者に聞いても時間の無駄だ
答えは累代の根本所領(三河国菅生郷)を相伝したのは師泰
師泰が、に〜ちゃんれす
高階惟長(御家人、陸奥国信夫郡)→滝口惟忠→大平惟行(三河国滝山寺)
高階惟長(御家人、陸奥国信夫郡)→惟重→義定(御家人、近江国辺曾村)
高階惟長(御家人、陸奥国信夫郡)→惟重→南頼基→惟宗→宗継(備中・三河守護、侍所頭人、室は高師兼の妹)→※宗久(遠江守、高師兼猶子)
【師行流】高階惟長(御家人、陸奥国信夫郡)→惟重→高重氏(御家人、近江国辺曾村)→師行→
師秋(土佐守、家時置文保管者)→師有(関東執事)
師秋(土佐守、家時置文保管者)→三郎(三河国滝山寺)
師冬(播磨守・三河守、武蔵・伊賀守護、関東執事、室は高師泰の娘、高師直猶子)
女(高師直室)
【師氏流】高階惟長(御家人、陸奥国信夫郡)→惟重→高重氏(御家人、近江国辺曾村)→師氏(三河国菅生郷・比志賀郷)→
師重(三河国菅生郷)→※師泰(尾張守・越後守、河内・和泉・尾張・越後守護、侍所頭人)→※師世(幕府執事)→いち(三河国総持寺住持)
師重(三河国菅生郷)→※師泰(尾張守・越後守、河内・和泉・尾張・越後守護、侍所頭人)→師秀(尾張守)
師重(三河国菅生郷)→※師泰(尾張守・越後守、河内・和泉・尾張・越後守護、侍所頭人)→明阿(高師冬妻、三河国総持寺開基)
師重(三河国菅生郷)→※師泰(尾張守・越後守、河内・和泉・尾張・越後守護、侍所頭人)→師武(国司師武)?
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→※師夏
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→師詮(丹後・但馬守護)
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→師冬(播磨守・三河守、武蔵・伊賀守護、関東執事、室は高師泰の娘、高師直猶子)
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→※師兼(尾張守、三河守護、高師直猶子)
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→女(渋川直頼(姉妹に足利義詮室)室)
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→師永(秋里師永)?
師重(三河国菅生郷)→師茂→重茂(駿河守・大和権守、武蔵守護、関東執事)
師重(三河国菅生郷)→師久(豊前守)→※師景
師重(三河国菅生郷)→貞円(三河国滝山寺)
師重(三河国菅生郷)→女(高師春室)→※師兼(尾張守、三河守護、高師直猶子)
師春→※師兼(三河守護、高師直猶子)→※宗久(高師兼猶子)
師春→女(南宗継妻)
師信→※師幸(備前守)
女(稲荷女房、三河国比志賀郷)
※は武庫川で殺害された8人(師直武蔵守入道・師泰越後守入道・師兼高刑部・師夏武蔵五郎・師世越後大夫将監・高備前(師幸)・豊前五郎(師景)・高南遠江兵庫助(宗久)『園太暦』) さて、完全に口答え出来ないレベルのレスしたあとは、小ネタを一つ
菅生郷から矢作川を渡ってすぐの安城市に、鏡塚と言う中世の塚がある
この塚は高師泰が娘(明阿?)の鏡を埋めたという伝承が残っている
当事者でなければ、知る由もない小ネタだよな 今日の「徹子の部屋」は後藤久美子
太平記の話は出ないだろうな
というより、出演したこと忘れてそう >>264
さっさと質問に答えろよ
石塔氏の由来はやく、やくめでしょ >>259
正行が四條畷で戦没する直前に出たかもと思ったが親房と廉子だけだったかな… >>268
いや、出ていない
中村繁之の正行になってからは、藤真利子出てない 正行って総集編では成人後のシーン全カットなんだよな 勾当内侍役の宮崎萬純
勾当内侍は、むしろ義貞が亡くなってから、じっくり描かれるみたいですね
ストーリーブックにはそうあるけど、実際 途中送信してしまった
実際は義貞の死後は、出てこなかった 正行は顕家を亡くした親房の嫉妬で死地に向かったような感じにもなってたな 親房は、お前も討ち死にせえやと言わんばかりにネットリと絡んでた でもまあ後醍醐帝なき後の南朝が親房で持っていたことはよく分かる感じになっていたな 逆に親房をもっと早く排除できていたら一天平安だった 親房は護良親王派
最初は、廉子と仲が悪かったが、後醍醐の死後は「ジュコウさま」と呼ぶなど、すっかり仲良くなっていた >>279
北朝方で観応の擾乱の原因となる対立が顕在化するより前の時点でそれが出来たら・・・という条件付きだろうけどね ドラマは別として、
親房は南朝の中において主戦派という訳でもないんじゃないかな 親房は奥州時代から自らが推戴していた後村上(義良)との個人的な結び付きで南朝陣営にいるんじゃないかな? 32回「藤夜叉死す」を見た
ドラマではこうなってるが、史実では尊氏と直冬の母の関係ってどうなってるんだろうと
ふと思った >>286
身分の低い女(遊女とか)と遊びで寝たら、妊娠した、子供を認知しろとしつこく迫られて、
尊氏のほうがげんなりして逃げ回っていた、といったところではないかな。
「本当に俺の子か?」という疑念が最後まであったんでしょう。 >>288
ありがとう 話は変わるけど、
34回「尊氏追討」
師直「殿、お通しいたしませんぞ」
この中に大高重成もいるのだが、大高は尊氏と直義が戦って直義が勝った時に、
直義の肩を持って尊氏をこき下ろしていた 愚管抄に感化されたのかな親房は。南朝の正統性を主張しないと自分のやってきたことが否定されてしまうし。北朝にいても西園寺や五摂家を超えることはできないし。南朝にいたら源氏の長者にもなれるしね 正行の弟の正儀が進めていた北朝との和議をぶち壊したのは親房卿ら公家でないの? 楠木の一族でも講和派は少なくて、正儀は支持基盤弱かったから
もともと無理な話だったのではないかな >>293
親房の『神皇正統記』は、院政を批判する一方で、摂関家中心の公家の家格秩序には
基本的にプラス評価だから、摂関家や清華家を自らが乗り越える気はないよ
南朝に身を投じた後もずっと大納言(亜相)のままだし 記録を見ると南朝の関白もしっかり近衛と二条が務めているね。摂関家の力おそるべし。 そりゃあんた、それだけが五摂家のレーゾンデートルなんだから
五摂家以外で関白になったのって秀吉と秀次だけだろ >>290
勾当内侍は義貞の死後は登場していない
高師直との接点もない 師直が手を出したのは塩谷貞の妻 赤橋守時役の勝野洋は、「信長 キングオブジパング」には細川藤孝役で出演
2年連続で、大河に出たんだな 大河の常連だね
最近だと村上新悟の4年連続ってのもあるけど >>300
大河の太平記に塩谷貞の妻は登場しない
大河「太平記」で高師直が高貴な姫をさらってきて犯し
自分の愛人にしていたのは二条の君
関白二条道平の妹という設定の架空人物
二条の君は実は南朝方で師直と尊氏を仲違いさせようとした >>307
いや、登場してる
師直の讒言で塩谷が討伐され、妻も後を追って自害 × 塩谷
○ 塩冶
塩谷(しおや)は、初回に登場した吉見の残党の塩谷宗春。
塩冶(えんや)は、終盤に登場して師直とトラブる佐々木一族の塩冶高貞。
このドラマには佐々木(塩冶)高貞本人もその妻もしっかり登場しているし、師直が高貞の妻の入浴を覗いているようなシーンもある。 楠木正成がゲームキャラになっててワロタw
楠木の役やったことあるのは鉄矢以外にいる? 義詮が上洛と入れ替わりに、基氏が鎌倉に下っているが、
ナレーションでもそのことに触れていないのが残念
基氏自体は、1回だけとはいえ登場してるのに 塩冶に恋文をバラされて周囲の人にプークスクスされて何がおかしい!とぶち切れてたな 入間川殿か
義詮基氏と兄弟そろって早死にだったんだよな
もし基氏が義詮より長生きしていたら、その子孫みたいに将軍の座を狙ったりしたのかな 基氏の「基」の字はやっぱり清和源氏の先祖の源経基からとったのかな? Henkipediaの出番だな
経基王はさすがに遡りすぎ、かつ義経は河内源氏には不吉だからないだろう
当時どこかの摂関家から一字貰ったと考えるのが自然な流れかと でも義満の「満」も本当は源満仲の名前からでしょう?
あと基氏の名前に義経は関係ないのでは? >>305
あれはかつて大河で主役演じた光秀役のオマージュ出演だね >>318
この「太平記」では尊氏が名付けていたな、義満 摂関家の当主の諱も、奈良〜平安期の藤原北家の歴代の名前から一字拝借してくること多いよね 来月、吉川弘文館の人物叢書で「二条良基」出るけど、
二条って、この時代の人物なんだ
ドラマには出なかったけど >>324
足利基氏が?
そうか、関白からの偏諱か 田辺久子著「関東公方足利氏四代」という本では、
今川基氏という人物の名をあげてる
先祖ゆかりの「氏」の字を基氏に授けた、と書いてる
基氏の「氏」の字は父尊氏の「氏」なのは間違いなかろう >>307
おお!
都で拾ってきた!→師直愕然
あれ、二条の君か、次の登場ではすっかり奥方に収まってたからわからなかった
モヤモヤがひとつ消えた、ありがとう >>327
>>307は、塩冶貞が「太平記」に登場していないというポカやってるけどな >>322
摂関家の先祖で「基」といえば藤原基経だろ
>>324
そもそも偏諱を与えるって武家の風習なので、摂関家当主が尊氏の子供に偏諱を与えるというのは意味不明 >>326
あの今川了俊も、自分の祖父である今川基氏と、鎌倉公方の基氏が同名なのは、家門の誉れみたいなことをいってるよね
確か細川頼元の初名も「頼基」だったはずだし、足利一門に割りと使われる字なんだよな >>328
さらにいえば二条道平の妹で、師直に盗み出された女性って、
>>307のいうような完全に架空の人物というわけでもないけどな
師直の子供で美男子として尊氏に愛されたことでも有名な師夏の生母は、実際に二条関白の妹とされるわけで >>332
本名が疑問な人物よね
当初の諱は直宣であったが[1]、尊氏より偏諱を受けて尊宣を名乗る[2]。『園太暦』では氏直としている[2]。
後醍醐帝からもらった字を人にやるのはセーフなの?
前に誰か書いてたけど なんで家臣の、しかも吉良の分家の今川から偏諱受けなきゃいけないのよ、逆でしょうよ。斯波なら前例があるけどさ、これはまた別の話。事実上天下人の尊氏の息子だよ。直冬のように他に養子にやったわけでもないし。
二条良基ならなんか納得するけどな〜。当時は公家から武家への偏諱はなかったのかな?義満から公家へはあったけど。 そもそも公家に偏諱授受の慣習を持ち込んだのは義満
それ以前の公家社会にはその慣習はない
後醍醐から尊氏への偏諱は新儀を平気でやる後醍醐だからこその例外
あと偏諱は立場の上の者から下の者という意識が広まるのも義満以降
それ以前の武家社会では偏諱は単に烏帽子親と烏帽子子の連帯を示すものに過ぎない
但し今川基氏と鎌倉公方基氏が同名なのは単なる偶然
今川基氏は足利基氏が元服する遥か以前に没している 容貌当代無双の児って公式史書に書かれるって
どんだけイケメンだったんだよという そういえば、義詮の「詮」の字は、祇園社(現八坂神社)の神職である
宝寿院顕詮(『祇園執行日記』の記主として有名)の名前から来ているという説もあるよな。 人物叢書「足利直冬」読んだ
直冬の幼名は「新熊野」だそうだが、太平記では不知哉丸だったな
不知哉丸というのは作者の創作なのかな? 完全版DVD順番に見てる
鎌倉幕府滅亡後に、登子が義貞と会っているシーンがあるが、
登子にとって義貞は、実家の北条氏を滅ぼした人物
実際にそんな場面があったとしたら、登子の胸中は複雑だったろうな 字幕付きでBlu-rayBOX出れば買うんだがなー
ほんとはBSで再放送やってほしい この「太平記」では尊氏と正成は面識があるけど、実際はどうだったのかな?
湊川の戦いの前に正成は、後醍醐に尊氏と和睦するよう進言してるから、
面識あってもおかしくないが 義貞「鎌倉を攻めるぞ。我に続けぇ!」
関東御家人「………。」
千寿王「かまくらをちぇめるじょ。われにちゅぢゅけぇ!」
関東御家人「うおおおおおおおおおおおおおお千寿王さまーーーーっ!!!」
なぜなのか 毛利元就の南北朝時代の祖先毛利時親は、楠木正成の兵法の師匠という噂があり
この時代に河内に住んでたか?所領があって
幕末明治に長州閥が創作したのかもしれんが
吉川英治の原作でも登場してた記憶があり、師匠というよりペテン師みたいな存在だった
毛利時親は大河でも登場してたのかな?出てた記憶がない >>344
建武政権の時期に朝廷内で顔を合わせたことくらいは実際にあるだろ ミネルヴァ書房では、
護良親王、足利直義 発売中
後醍醐天皇、楠木正成、足利尊氏、足利義詮 刊行予定
「人物叢書」では、上記の内、刊行予定は尊氏、直義のみ
南北朝時代では、ミネルヴァ書房の方が充実しているな >>348
ミネルヴァ書房の日本評伝選からは南北朝関係では光厳天皇、新田義貞も出ている。
特に光厳天皇は一般向けの本で取り上げられることが少ないので貴重。 >>346
なんでこんなにつまらん文書けるの?
「毛利時親って出てた?」
10文字で収まるのに >>349
「新田義貞」は人物叢書も出ているね
2冊読み比べるのも面白い 連投スマン
光厳天皇の本としては、吉川弘文館から「地獄を二度も見た天皇 光厳院」が出ている 人物叢書とミネルヴァはほとんど同じタイミングで同じ人物の本を出してくること多いよね 47回「将軍の敗北」
佐々木道誉が出ていないんだが、この戦には加わってなかったのかな?
戦後に所領安堵された中に道誉もいたから、加わっていたと思うんだが 持明院の上皇・後伏見院におかせられては、これにて鎌倉殿も目を覚まし、我ら持明院の正統に帝の座を還さんかと、狂喜乱舞のお喜びとか…。
吉田定房ちゃんと出てんじゃん。 >>358
吉田定房が出ているから何だと言うのだ? ,この「太平記」には、「峠の群像」から3人出ているな
大石内蔵助役 緒形拳 足利貞氏役
大野九郎兵衛役 山内明 吉良貞義役
藤井又左衛門役 藤木悠 上杉憲房役 >>356
打出浜の戦い自体に道誉いたのか?
てっきり近江方面で防衛してて戦いには参加してなかったと思ってた
それかいつもの如く戦況が悪くなって直義方にいったん降ってたのかと
まあこの辺りは妄想だけど
ドラマ的には尊氏と師直のやり取りがメインだからあえて出さなかったか
陣内のスケジュールによるものかと 征夷大将軍は頼朝公以来、源氏の棟梁の受け継ぐべき職でござりましょうぞ >>362
でも頼朝以降に摂家将軍やら宮将軍やら、源氏の棟梁でない者が何人も征夷大将軍になっているけどな。
(と直義にまじレスしてみる) >>362
「職」を「ショク」と言わずに「シキ」と言っているのが気になるシーンだな。 360自己レス
360の3人はどれも故人だな
他に故人はフランキー堺、児玉清 他にもいるかな? 親王の大塔宮を征夷大将軍にするのは別に問題ではないんだよな。まあ還俗してからの就任は先例わからないけど。
あと源氏の棟梁だとなんか曖昧。源氏長者なら源氏の棟梁でもいいんだけど。ここでは武家の棟梁が正解だよな。 >>365
ショーケン、根津甚八、高橋悦史、小松方正 >>364
そこはたぶん時代考証的にこだわったのだろうな。
この大河は初の南北朝物ということで、揚げ足取り的な批判を受けないように相当慎重にやったらしいし。
棟梁ってそもそも武家社会の言葉だし、源氏長者と源氏の棟梁はイコールではないのでは? >>367
ありがとう
義貞は2人とも故人だったな 忘れてた >>368
いや、単なる読み間違いだろう。
「治部大輔」を「じぶのだゆう」、「補任」を「ほにん」と読んでいたのなんかと同じく。 職(しき)の話がでると、またいつぞやのように荘園の話ばかりになったりして(´・ω・`) 公卿の久我家が源氏長者なんだっけ?
北畠は親房以後に武家化した感 赤松円心役の渡辺哲
土曜ワイド劇場「京都殺人案内」の刑事役の人だな
出てるのを見ると「京都殺人案内」を思い出す >>373
義満が源氏長者になるまでは基本的に村上源氏嫡流の久我家が源氏長者
あと北畠は戦国期まで代々公卿相当の官位を維持している >>347
部外者らしい、底浅いレスだな
楠木正成の叔母は足助重範の生母
楠木正成の娘は足助重範の嫁
楠木一族は、霜月騒動の頃から三河に縁のある一族だったわけだ
ここに出自を探る鍵がある
1331年の第一回目の挙兵に失敗して三河に逃げてきたわけだが、そこの旧地名は楠村
足利尊氏と楠木正成は、幼少期から三河で顔見知りだった可能性が高い 楠正成の出自の話になるとまたスレが荒れるからヤメれ。 >>378
早く石塔氏の由来調べてこいよ
使えねぇな 三河屋って基本的に自分の言いたいことを空気読まずにダラダラ書き込むだけで
矛盾点を指摘されてもそれに答えることはないから無駄だよ 後醍醐が千種忠顕を「ただあき」と呼んでいるが、
天皇といえども臣下を実名で呼ぶことはあったのかな? >>372
年も改まったし、八条院領を再議論するか 公家社会での衆道はどうなん?
還俗した人達中心に流行るのかな
大塔宮 >>388
後醍醐は足利尊氏のことを「たかうじ」と呼んでいたな
尊氏も直義や師直を「直義」「師直」と、名前呼びしてた >>392
ドラマはそうだけど実際はわからんとしか 南朝方は後醍醐が与えた「尊」の字を認めず、足利尊氏を「高氏」と呼んでいたらしいが、
尊氏本人は「尊」の字が大事だったらしく、死ぬまで名乗りを変えていない
尊氏が後醍醐をどう思っていたかが分かる 今日の「朝日」に仁左衛門が載ってた
太平記の話はなかったみたいだけど 太平記か懐かしいな。
エキストラで鎌倉炎上の回の
鎌倉の守備部隊役で出ていたのが思い出されるわ 勉誠出版の「鎌倉北条氏人名辞典」という本によれば、長崎円喜の本名は高綱
法名円喜とある
法名ということは、出家したということだが、この「太平記」では円喜も高時も道誉も、俗体のままだったな >>389
ドラマでは北畠親房が「顕家は後醍醐に召された」とか言っていて
それがそういう意味なのか?と深読みしたが
本当はどういう意味だったのだろう >>402
そんなセリフあったっけ?
あったとしても、親房は後醍醐を「後醍醐」なんて呼ばないでしょ
お上か、ミカドと呼ぶはず >>400
最近の説では、円喜の諱は「盛宗」が有力だよ。
「高綱」は一次史料には見えないから。 21回「京都攻略」
故・深浦加奈子が出てた 意外な人が出てるもんだな
この回ではないが、大杉連も出てたし 大河は二人ともこれと「秀吉」の二作だけ出てたんだな >>407
以前このスレであの深浦加奈子の役は高時の正室だと主張するレスを見かけたが実際どうなのだろう? >>411
DVDを見る限り、それっぽかった
本当に高時の正室かどうかは不明だが >>409 >>410
大杉連は義経の叔父、源行家役だったね この頃の本木雅弘って、役者駆け出しだから、下手だね。 役名表示も「局」だったしな
正室なら「高時の正室」という風に書くだろうしね >>419
というか>>413が、深浦加奈子は高時の正室役だと主張していた本人なんじゃない? 泰時じゃなくて義時かあ
まあコメディにするには聖人君子は向いてないのかもしれないが 「花の乱」があまり視聴率良くなかったから、NHKは室町ものはやりたくないのかも 視聴率稼げなくても空白の歴史を埋めるのはNHKの使命みたいなもんだろうにな >>432
違う
詳しいことは細川重男著「執権」という本を読むといい 違うって断定すんならお前の私見を述べろよ。なに薄気味悪い本に誘導してんだよハゲ死ね 三谷幸喜によると、サザエとカツオが波平を追放する話らしい。 本の話題を書くと、過剰反応するヤツがいるな
義時の法名は「観海」であった可能性が高く、「得宗」が義時の本来の法名であったという説は否定できるであろう
これは細川重男著「執権」からの引用 信奉者か本人か?
「研究者によって義時の別称、戒名、追号など意見が異なる」ってあるように、
著者はこの研究者の一説に過ぎないのでは。
定説になってるならともかく。 >>438
義兼は頼朝と同年に死んでいるからな
ただそもそもあの13人の合議制のなかに源氏一族って含まれていたっけ? 義時→重時(平幹次郎)→赤橋長時(川崎麻世)→義宗(宮迫博之)→久時→守時(勝野洋)・登子(沢口靖子)
義時→政村(伊東四朗)
義時→泰時→時氏→時頼(ナベケン)→時宗(モトヤ)→貞時→高時(鶴太郎)
義時→実泰→実時(ピーター)→顕時→貞顕(アタックチャンス) 新しい大河のネタは北条殿じゃ
よくご決心なさいましたな そのネタなら一同奮い立ちましょう 完全版DVD、1話から順に見ている
若き日の尊氏が日野俊基と会ったとして投獄されるくだりなんかは、
吉川英治の創作と見ていいんだろうな そのことなら長崎円喜に任せてある。円喜に問うが良かろう! え〜い!もうよいもうよいっ!!!
貞顕、すぐ出せる軍勢はいかほどじゃ? 戦も政のうち。
それをこなさずして天下の得宗と申せましょうや! 護良親王「そちは源頼朝の血を引く者ぞ」
尊氏は実際は、引いていないんだが、誰がこんな事実誤認をしたのか?
原作の吉川、それとも脚本の池端? 頼朝の血統が男系女系共に絶えたのなんて常識だろ
なにを鬼の首取ったように、
単純に清和源氏の長ぐらいだろ 当時5歳だったという姫は、頼朝の同母妹で、母の里つまり
熱田大宮司藤原季範の屋敷が、六条堀川の源氏館の近く六条坊門(五条通)烏丸に
あったことから坊門姫と呼ばれ、後に一条能保(よしやす)の妻となる女性です。
アレが来ないよう祈る 坊門と烏丸ってお隣同士だったんだ。家格は雲泥の差だけど 「鎌倉殿の命により参上つかまつった!」
この鎌倉殿って、誰のことだろ
将軍なら、何の実権もないはずだが >>470
実権はなくとも名目上は鎌倉殿がトップということだろ?
鎌倉幕府の発給文書だって形式的には「依鎌倉殿仰」という文言を入れるのだし
「北条殿の仰せ」じゃ権威がないんだよ >>471
本来的には「からすまる」だったが慣用的に「からすま」と読まれるようになった 昭和50年代の子供の頃、お昼の再放送時代劇で柳生一族の陰謀観てたけど、
からずま?からずまし しょうしょう?とかに聞こえて意味わからんかった
烏丸文麿ってクレジットがそれなんて全然分からんかった
最後らへんのクレジットで少将の字が加わって初めて分かった
今の小学生ならネットでササッと分かるんだろうけど
柳生でもカラスマとカラスマル両方使ってたね >>474
鎌倉殿の仰せは将軍個人の命令というより
、鎌倉幕府の幕命の意味に近いかと >>402
帝に召された顕家が天に召されたと親房が涙ながらにいうシーンね
おそらく東北の顕家に、後醍醐が上洛を命じたことを「帝が召した」という意味で言ったかと >>482
ああ、そういう意味か!
長年の疑問がとけた
ありがとう 過去レスにあったけど、新田義貞の「貞」は足利貞氏からの偏諱なの? >>487
足利高氏の「高」は北条高時の偏諱
義貞も、北条貞時の偏諱の可能性の方が高いか? 貞時の没年1311年
義貞の生年1301年前後であり得るのかなあ おいおい、足利と新田は同列じゃないだろ。足利は有力御家人で正室は北条。一方の新田は、円喜が何か言ってたな。
個人的に義貞は足利高義から偏諱を受けたに一票。 にったぁ? あの貧乏御家人が?? 皆頭がどうかしたのではw 義貞以前の新田の当主は3代に渡って足利の当主から偏諱を受けているからなぁ 42回「母の遺言」
塩冶貞を讒言した師直が、尊氏に折檻されるが、これに近いことって実際にあったのかな 塩冶が吉野に通じてると、高師直が幕府に訴え出た
これって讒言でしょ? 新田は足利一門で間違いないな。当主から偏諱を受けているのが何よりの証拠
太平記史観から脱却せよ 師直が高貞の妻に横恋慕して・・・という話は古典太平記が出典で、史実としての真偽は
不明らしいが、“師直と高貞の間に何らか確執が実際にあった可能性はある”みたいな
ことをいう研究者もいるね。 しかし塩冶の謀反の件は、ほとぼりが冷めた後で、塩冶が持っていた出雲・隠岐の守護職を道誉がちゃっかり貰っているのがアレだなw 塩冶は佐々木一門の支流だから
当時の感覚だと普通の処理じゃね テレビ朝日の「やすらぎの郷」に、北畠親房こと近藤正臣が出てる (直義が師直、師泰の命を保証しても)上杉、畠山の一党は、師直を恨んで待ち受けていよう
直義には抑えきれまい
師直兄弟を殺したのは上杉重季 畠山は出てこなかった 親房卿は大河の常連だから今年か来年は出るんじゃない?最近は真田丸の本多正信 >>499
それはそうだが、それまで世襲の守護分国を持たなかった京極がその後は戦国期まで出雲・隠岐の守護職を保持するわけだからな。
塩冶が持つ守護職が欲しくて道誉が師直をけしかけたとか? >>503
若狭やら上総やら、あちこち臨時の守護はもらってたけど
わりとすぐ召し上げだったし、どこかに固定で与える必要はあったと思う
それが佐々木一門の領地なら周囲も損しないのでよろしいとか
そんな理由はどうだろう というか塩冶って鎌倉段階では出雲守護だけだったのに、建武以降に隠岐も加増されているのな 宮沢りえふっくらとしてて可愛いな
今は鶏ガラだもんなぁ
誰だよ、痩せてりゃ良いなんてクソみたいな世論流したやつ
子供の頃から、いしだあゆみなんて動くミイラみたいで本当にイメージ悪かったわ 93〜94シーズン
琉球の風(6ヶ月)
炎立つ(9ヶ月)
花の乱(9ヶ月)
こういう変則スケジュールもあったからな。
いだてんとかマイナーなネタは半年やれば十分だったんや。 >>509
宮沢りえが鶏ガラになったのは、世論がどうこうより当人のメンタル的な問題とかが大きいのでは? 宮沢りえは当時はアイドルがドラマ出てます〜、って感じだったのが、
今は誰もが認める大女優だから別に鶏ガラでもいいじゃないか。 しかし若年期からの長いキャリアのある大女優って、若い頃は程よいルックスの
アイドル的な雰囲気だったのが、中年以降になると、鶏ガラか、ボンレスハムか、
二極化する印象があるね。 この作品で人臣で最高家格って誰が登場したかな?
摂家は誰か出たかなあ?
清華は花山院が出てたっけ 22回「鎌倉炎上」に出てきた金沢貞将
守時が戦死した後、17代執権に就任したという説もある 将軍は武家の棟梁にあらせられる
世を平らかに治められる御方であるぞ
名台詞いただきました >>519
二条良基とかは出て来なかったのだっけ? お天気マユゲさん、萬屋錦之助に似てるな
何故このまま成長せなんだ、何故気象予報士なぞに 人物叢書の「二条良基」、今月発売
良基は、太平記には出なかったと思うが >>529
頼遠の子孫ってそもそもいるのかね?
頼遠死後の土岐惣領家は頼遠の子孫ではないはずだし、土岐明智氏も別系統じゃないか? 摂津源氏から分かれた美濃源氏の嫡流が土岐氏だな
河内源氏から分かれた甲斐源氏の嫡流が武田氏なのと似たようなものか 初期の頃の美濃源氏っていうと、平治の乱のときに二条親政派の武士として出てくる源光保とかが有名だな。
しかし「平清盛」をやったときに光保が出てきたかどうか記憶がない。 源平合戦で日蝕ってやったっけ?
平家の合戦でも指折りのベストバウトなのにやってない気がする 馬之助ェ、飯は喰うたか?
次の飯は昼頃になろうかのう、それまでは、戦じゃぁ!
佐々木判官、思うところあり、願い御免!
目茶苦茶熱すぎるな、この流れw
因みにこのシーンで大杉漣さん出てるね、声ですぐ分かった もろぼし・だん も出てたな 変身してミクロ化の上で邪魔者を消していけば天下人だったのにな 寝返り、だったんだ
願い に聞こえてたよw
この頃の塩見三省エネルギッシュだな、
この人はやっぱり怒ってる時が映えるね たまたま観た陣内氏演じる佐々木判官殿が面白過ぎてそのまま太平記にハマりましたw
歴史には疎く尊氏と後醍醐は一般常識として、あとは新田義貞と楠木正成の名前を知る程度。こんな面白い時代があったとは。
今は北畠顕家に興味あります。活躍したのが16〜21ってマジか・・映画一本できるでしょ かっこいいしもっと注目されていいと思うな〜
低レベルカキコ御容赦 右馬介の
あとおひとり、佐々木判官殿のご心底も
しかと判じかねまするの場面が笑える 道誉「はっはっはっはっは」
クセになりそうな笑いだ >>549
隠岐の判官は、師直の謀略にやられた佐々木塩冶高貞ではないよ
鎌倉末期に隠岐守護だった佐々木隠岐清高を指している
後に清高が六波羅滅亡に殉じて佐々木隠岐氏が没落したため
建武政権〜室町幕府初期には元々出雲守護だった佐々木塩冶氏が隠岐守護を兼ねた
ドラマでも円喜が道誉に対して後醍醐先帝を暗殺するように示唆するセリフのなかで
「隠岐の判官佐々木清高殿」とハッキリ言っている >>550
基本的に登場したら高笑いする道誉w
だが道誉がシリアスな時は基本かなり事態が逼迫している時 陣内は「太平記」が良かったけど、米倉涼子主演の「交渉人」も良かったよ フランキー堺、これ以降は見なくなった様な気がするなぁ >>557
ウィキで調べたら、フランキー堺が亡くなったのは1996年
大河ドラマ「太平記」の5年後だな >>557
自身のライフワーク「写楽」制作に没頭したんじゃないかな?
「太平記」出演者を大量動員しているし。
で、写楽公開の翌年に没。 知らない間に他界されてたか、残念だわ
子供の頃、よく駅で見かけたよ
大学で講師してたみたいだったから
何の変哲もないクソ田舎だったんだけど、後に漫画とかアニメとかで色々な人間が出てた
そうだったんだ、もう居ないのか >>560
大阪芸術大学の学科長まで務めたんだから、なかなかどうして大したもんだ。 もう居ないのか、良い役者なのに
僕が子供のころ、駅で回りから後ろ指さされてたんだよ、フランキー堺
「ほら、あの人首吊ろうとして失敗した人」とか言われながら
多分聞こえてたと思うよ、一度や二度じゃなかったから
何も言わずに下向いてたよ
浮き沈みのある職種だからねぇ
今でも映像でこんなに凄い姿見せてくれるけど、本人は幸せだったのかな?
なんか切ないなぁ >>562
それ、フランク永井だろ。わざとかw
彼は気にしようにも、できないような知能になったがな。
首吊り失敗で子ども返りし、禁治産者に。 この「太平記」では、光厳天皇が即位した後も年号は「元弘」を使ってるけど、
後醍醐は退位させられたのだから、年号も北朝のを使ってほしかったな 【オリーブの木 代表黒川あつひこ チャンネル】
これはつまり、官僚たちに給与の半分が毟り取られているということなんです。
皆さん給与もらってから手取り少ないですよね、なんだかんだ色々抜かれますよね。
年金とか、国民健康保険とか、あれ保険とか年金とかいってますけど、実質的に税金ですから。
そういうこと全部含めると、皆さんの給与の半分は公務員に取られているということです。
://youtu.be/QwVWgCHeao0?t=1179
【オリーブの木 代表黒川あつひこ チャンネル】
これはつまり、官僚たちに給与の半分が毟り取られているということなんです。
皆さん給与もらってから手取り少ないですよね、なんだかんだ色々抜かれますよね。
年金とか、国民健康保険とか、あれ保険とか年金とかいってますけど、実質的に税金ですから。
そういうこと全部含めると、皆さんの給与の半分は公務員に取られているということです。
://youtu.be/QwVWgCHeao0?t=1179
>>567
「元弘の乱」という言葉もあるし、最終的に鎌倉幕府滅亡後には正慶年号を廃して、
元弘に一本化している件もあるから、あれは元弘にしておいたほうが視聴者的にも
混乱しなくて良い。
それを、後醍醐による元徳から元弘への改元
→光厳即位に伴う元徳年号の復活
→光厳による元徳から正慶への改元
→光厳廃位&後醍醐復位に伴う元弘年号の復活
→後醍醐による元弘から建武への改元
なんて流れを詳細にやったところで、大半の視聴者は付いていけないよw
まあ南北朝分裂後のパートは北朝の年号に統一しているのだから、それでよくないか? 学校でもこの年号2つって覚えなきゃいけないの?そりゃ嫌われるよね室町時代 直義が護良親王を殺っちまったことを知らされ、頭をかかえてヘタヘタと座り込む道誉 >>571
元弘の乱は教科書に出てくるが、正慶の元号は教科書レベルでは出てこないのでは? 高時の正室は出て来たかな?
さだやすが高時のところへ「わるい知らせ」を持ってきた際、顕子と一緒に居たそこそこ
若くてきれいな女がそれか?? >>574
例の「局=高時正室」説を執拗に唱えていた方ですか? >>577
この時代で「さだやす」の諱を持つ人物というと、宇都宮貞泰とか? 48、49話に「侍女」役で常盤貴子が出てるけど、
49話(最終回)はどこに出てるのかわからない てか守邦親王の中の人吉川英治の孫なんだな知らなかった
守邦親王は尊氏が闘犬で噛まれてた時にいたのは覚えてるがそれ以外に出てたっけ? 吉川英治さんの孫、大麻所持容疑で逮捕
作家・吉川英治さんの孫で、長野県軽井沢町で蕎麦店を営む
吉川英資容疑者(42)が、自宅で乾燥大麻を所持していたとして
大麻取締法違反の疑いで現行犯逮捕されました。
10日昼過ぎ捜索に入った神奈川県警は、プランターや大麻を
育てるためとみられるライトなども押収していて、吉川容疑者が
店舗兼自宅で大麻を栽培していたとみて、調べています。 見終わったよ
この人の人生って全っ然幸せなんか無いね、惨いわ
戦いに戦い続きで安寧の日々なんか微塵も無いじゃん
これ考えたら信玄や秀吉って本当に凄いな
弟が敵に回ってない
身内対策なんて基本的に無理だろうに そらそうよ、優柔不断で肝心なところで非情の決断ができず天下を大乱へと導く破壊王よ
北条の政治のほうが余程ましだよ。乱も鎌倉内で収めてるし(最後以外ね)
信長や政宗は弟が邪魔になるとちゃんと粛正したんだから
それすら後回しにする無能っぷりったら目も当てられない 仲が悪かった信長や政宗と違う
仲良い信玄典厩タイプ
最後まで仲良くやれたら良かったが
信玄が武田幕府立てたとして典厩が川中島生きてたらこうなってるかも 最終回だけど、直冬との最後の戦いに道誉いないな
47回と同じく、陣内のスケジュールの関係か? まあ道誉はいたらいたでやたら存在感あるしな
直冬との最後の決戦時は右馬介との別れをフィーチャーした場面でもあるしいなくて正解
その分ラストを尊氏登子と共に締めてくれるから十分 >>594
義満の出現は、隔世遺伝というより遺伝子の突然変異じゃないか? 直冬との最後の戦いだが、細川顕氏がいた
某サイトでもツッコミがされているが、顕氏はその時すでに死んでいるはずなんだが 義貞に包囲された鎌倉で、「この鎌倉を死守いたそうぞー!」って雄叫びを挙げていた
面々のなかにいた二階堂道蘊が建武政権パートにも出てきたのと同じミスだね。 守邦の守と邦は偏諱そこそこいるけど前の代の久明や惟康の偏諱が少ないのはなぜなのか 赤橋流の久時・守時、得宗家の邦時くらいしか、そもそも思い付かんが? この「太平記」では、赤松則祐を「のりすけ」と読ませているが、
実際はのりすけは、則祐の兄の名前なんだな
則祐は「そくゆう」と読む >>546
いらっしゃい〜
このまま南北朝沼にハマってもええんやでw
顕家卿は本当に有名になってほしいよね 中世武士選書の「北畠顕家」
書店で取り寄せようとしたが、品切れだった 残念 小野妹子をいもこと呼ぶように
赤橋登子はとうことよぶ >>602
則祐も還俗後の諱としての読みは「のりすけ」で良いんじゃなかったっけ? >>600
ただの推測だが、得宗家はやがて将軍家から名前を拝領して、
将軍家の権威の下に甘んじることをよしとしない風潮が出てきたのかもしれない
平頼綱のような御内人が幕政に台頭するようになってから、その動きが顕著にみられる
まず北条時宗は息子の貞時の烏帽子親を将軍にしてもらったが、名前の拝領は断った
得宗家の当主はもともと親戚筋の御家人に自分の名前を与える立場になっていたが、時宗以降はそれも拡大傾向がみられる
そう考えると邦時は将軍から名前を拝領しているから、討幕運動の中で北条の権威が失速したため、昔のように将軍の権威にすがった現れかもしれない >>603
いやハマってますよw
顕家ファンですが、北条時行も気になります。この人もめちゃ濃い人生ですね
でもあまり資料がない…再評価される人ではないかと顕家とのつながりも興味あります >>599 高氏の二度目の畿内出兵を見送る場にも道蘊が居たけど、本当はその前に
道蘊自身が「この道蘊に兵を預けてくだされば〜」と申し出て既に出兵して
いたからその場に居ないはず。鎌倉炎上時には六波羅か河内で降参してる。 >>606
則祐に「そくゆう」「のりすけ」両方のルビを振ってる本もあるね 『麒麟がくる』は、流石に脚本が同じだけあって、登場人物のセリフに『太平記』のものと似た言い回しとかが結構ある気がする。 >>612
ただ範資との区別のために、敢えて音読みの「そくゆう」を使いたがる研究者や概説本もあるようなイメージ。 >>610
時行は最期も逃走説が当時からあったから
ドラマや小説にしても案外後味が良くなるかもよ ねこねこ日本史、よく10分少々でまとめたよなと思った。
あ、直義と尊氏の兄弟喧嘩を取りあげてたんです。 >>618
最期は描かれていない。ただ、最後の場面は、信濃での北条方残党の挙兵があったとナレーションがあった。 時行は割と長期間活動するのでそうであれば泰家の記録も残るはず >>604
中世武士選書はあんまり刷らないのかな
「限定部数の出版物です」って帯に書いてある
>>610
もうハマってましたかw
北条時行は南朝と手を結んだ時のことを考えるとどんな思いで、ってつらくなるんだけど、
許せないのは鎌倉幕府を滅亡させた張本の後醍醐天皇じゃなくて足利氏なんだという見方があるみたいだね
スレチになるのでこれ以上はやめとくけど
物心つくくらいのころから20代の若さで処刑されるまでずっと御家再興を願って戦い続けた人生って…月並みだけど壮絶だね
また南北朝大河やるなら、顕家と時行のダブル主演とかいいかも? まあそうは言っても北条残党と南朝の提携は所詮時代の主流派になれなかった負け組同士がくっついただけだけどね 当時の感覚として、外様は相手に裏切ろうがこちらに降参して来ようが許すが
身内の裏切りは許さないというのがあって、頼朝もそんな基準だったらしい
足利は北条一門から嫁をもらうことが多かったから、北条から見たら
家来よりの身内という感覚だったのだろう ただ足利は得宗の屋敷の寄合には参加していない
安達は参加していたが
だから身内といえるほど信頼は北条になかったといえる 鎌倉と六波羅陥落は足利一門の手柄だから
そりゃ北条から恨まれるよ
足利にあたえられた北条没収地で激しい抵抗があったのもそのため 貞氏の正室は貞顕の妹
尊氏の正室は守時の妹
なのに、なぜ足利は北条討伐の兵を挙げたんだろう?
嫁を貰っていない新田なら分かるが 「王様の親戚と大臣だと、どちらが偉い?」って時々思うけど
足利も新田も将軍家の親戚衆という自負があり
本家が絶えたのに番頭格に指図されてるって不満があり
北条体制を脅かすと粛清されるから時にはへりくだり・・・
新田は暴発?、足利は、北条と共に潰れたくない
なんて意識があったかも >>345
関ヶ原での石田三成と徳川家康の差
家格とか動員力、経済力の差かな だから武家の最優先事項は生き残ることだって。
北条義時も鎌倉殿であり甥っ子である源頼家、実朝を亡き者にしとるがな。足利義詮も伯父の赤橋守時にトドメを刺した。
姻戚関係なんか二の次のことよ。
それに姻戚がそんなに重要なら、北条が滅亡した後は登子を離縁して義詮を廃嫡にするよね。
それをしなかったのは、北条残党の恨みを和らげるためじゃないの?そして義詮は関東の旗頭として機能した。それは足利と北条のハイブリッドが為せる業だ。 >>625
安達は得宗家の外戚的な立場で実質的に御内人に準ずるような存在 安達は北条以上に氏素性が怪しい氏族
北条にくっついてないと権威もクソもない >>631
実朝暗殺は、公暁の単独犯という説が、近年有力みたい
頼家については、北条氏の関与があったという説には、異議がないけど 634書いた後だが、頼家暗殺は時政がやらせたんじゃないのかな
奥富敬之センセなんかは、政子と義時は仲が良い。頼家暗殺を義時がやらせたとしたら
あれほど姉弟の仲が良かったはずはない、と言ってる どいつもこいつも、あっちへフラフラこっちへふらふら。一筋だったのは桃井くらいじゃないか? 桃井も直義の死後一時期北朝に帰順してたんじゃなかったっけ >>632
当初、安達は御家人のなかでは家格が低く、盛長、景盛親子はその上昇に手段を選ばなかった。
特に景盛は、名ばかり出家で権勢欲むき出し。 >>637
桃井直常は直義死後も直冬のもとで尊氏と戦ってたよ
ただ尊氏死後になって、ようやく鎌倉公方足利基氏、そして二代将軍義詮に降伏した
義詮は桃井直常が出家していたこともあったのか、弟の直信を越中守護に任命した
しかし義詮の死後に義満が将軍になると、桃井直信は越中守護を罷免される。
怒った直常は新たに越中守護に任ぜられた斯波義将と交戦するが敗れて飛騨へ逃れ、
以後消息を絶った
ただ直信は兄直常とは違い、引き続き幕府に仕え、将軍家直属軍の奉公衆に属した 義貞統幕挙兵のくだりで、
「仮病男が何を抜かす」ワロタ 義貞統幕(統合幕僚長)挙兵
クーデターみたいでかっこいいな >>643
残った細川と京兆家って関係あったっけ? まぁ上杉も結局は長尾に乗っ取られるわけで
栄枯盛衰は世の常やね >>644
戦国時代じゃないぞ。東西の管領になったという意味の勝者だぞ 佐々木判官、申したき儀あり。しばしお控えめされよ。
と言ったのに矢を射て刃をむけた人は誰でしょう なんだ今年の大河は太平記の脚本家が担当してたのか?さすがに中々好調みたいだな。まあ一連のエリカ事件でかえって注目度が上がったといのもあるんだろうけどな。 >>651
(尊氏父) エリカ?エリカとはどのエリカだ?薬物事件で逮捕されたエリカか?それとも
よもやその方、家庭を捨て、妻を捨て、そのエリカなる女子と夢の如く生きていく……?
どのエリカだ!! 新田義貞の弟、脇屋義助は、義貞の死後は出てこなかった
「土岐は脇屋義助を破りし」セリフでは出てきたけど
義助の最後まで、描いてほしかったな いかにも、義助は端役
でも兄の義貞はサブタイトルに「義貞の最期」とあったなあ
義貞も、端役とは言わないけど脇役じゃないの?
高師直兄弟最後の回も「師直の最後」とやってほしかったな そんな喧嘩腰にいうなよ
足利、新田、楠木とみんな兄弟の仲悪いよな。義詮と直冬も。師直と師泰はウマが合ってそうだったが そもそも何で弟の師直が執事だったんだろ
師直の父親も確か弟で執事になってたはず
確かにドラマの師泰じゃ戦は強くても老獪な政治手腕は無さそうに見えるけど 直と泰はまだどちらが兄か弟かはっきりしてないからな。普通に考えたら、直が正室の子で泰が側室の子だった。生まれた順番が泰が先で直が後だったってこと
けどこの時代は悔い返しが法に明記されてるように先代や隠居の権限が強かった。祖父や父の機嫌次第で嫡庶が入れ替わる可能性もあるってことだ >>660
普通に考えて、何でそんな結論になるねん
よくそんな恥ずかしいレスが出来るな、老人
IQが20違うと話が通じない、偏差値が20違うと理解度に明確に差が出ると言われるが、偏差値50か?
俺は四谷大塚の模試で、最上位クラスに名前が載り
大学入学後、高校名を名乗ったら、みんなから名前を言われたレベルの男だ
重代の根本所領(三河国菅生郷)を相伝したのは師泰
師泰が、に〜ちゃんれす
高階惟長(御家人、陸奥国信夫郡)→滝口惟忠→大平惟行(三河国滝山寺)
高階惟長(御家人、陸奥国信夫郡)→惟重→義定(御家人、近江国辺曾村)
高階惟長(御家人、陸奥国信夫郡)→惟重→南頼基→惟宗→宗継(備中・三河守護、侍所頭人、室は高師兼の妹)→※宗久(遠江守、高師兼猶子)
【師行流】高階惟長(御家人、陸奥国信夫郡)→惟重→高重氏(御家人、近江国辺曾村)→師行→
師秋(土佐守、家時置文保管者)→師有(関東執事)
師秋(土佐守、家時置文保管者)→三郎(三河国滝山寺)
師冬(播磨守・三河守、武蔵・伊賀守護、関東執事、室は高師泰の娘、高師直猶子)
女(高師直室)
【師氏流】高階惟長(御家人、陸奥国信夫郡)→惟重→高重氏(御家人、近江国辺曾村)→師氏(三河国菅生郷・比志賀郷)→
師重(三河国菅生郷)→※師泰(尾張守・越後守、河内・和泉・尾張・越後守護、侍所頭人)→※師世(幕府執事)→いち(三河国総持寺住持)
師重(三河国菅生郷)→※師泰(尾張守・越後守、河内・和泉・尾張・越後守護、侍所頭人)→師秀(尾張守)
師重(三河国菅生郷)→※師泰(尾張守・越後守、河内・和泉・尾張・越後守護、侍所頭人)→明阿(高師冬妻、三河国総持寺開基)
師重(三河国菅生郷)→※師泰(尾張守・越後守、河内・和泉・尾張・越後守護、侍所頭人)→師武(国司師武)?
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→※師夏
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→師詮(丹後・但馬守護)
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→師冬(播磨守・三河守、武蔵・伊賀守護、関東執事、室は高師泰の娘、高師直猶子)
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→※師兼(尾張守、三河守護、高師直猶子)
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→女(渋川直頼(姉妹に足利義詮室)室)
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→師永(秋里師永)?
師重(三河国菅生郷)→師茂→重茂(駿河守・大和権守、武蔵守護、関東執事)
師重(三河国菅生郷)→師久(豊前守)→※師景
師重(三河国菅生郷)→貞円(三河国滝山寺)
師重(三河国菅生郷)→女(高師春室)→※師兼(尾張守、三河守護、高師直猶子)
師春→※師兼(三河守護、高師直猶子)→※宗久(高師兼猶子)
師春→女(南宗継妻)
師信→※師幸(備前守)
女(稲荷女房、三河国比志賀郷)
※は武庫川で殺害された8人(師直武蔵守入道・師泰越後守入道・師兼高刑部・師夏武蔵五郎・師世越後大夫将監・高備前(師幸)・豊前五郎(師景)・高南遠江兵庫助(宗久)『園太暦』) >>627
梅松論
多々良浜の戦い
この日は、御重代の御鎧の御小袖というものを勢田(熱田)の大宮司に着させていた。
熱田大宮司が一門扱いされていた貴重な記述だが
その縁故は平安時代まで遡らなければならない
源頼朝との縁故に比べれば北条との姻戚など、吹けば飛ぶようなものだったのが、まだ分からんのか
源頼朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫→伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡)→娘(由良御前)→源頼朝(初代鎌倉将軍)
足利義兼
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女→足利義兼(初代源姓足利氏) 光厳上皇と光明天皇は仲良さそうだった
一緒に拉致されたし 光厳上皇は正平一統で尊氏に裏切られたことにかなり絶望していた様子。
ようやく拉致から解放されて都に戻ってみれば、自分の知らないうちに
どさくさ紛れに後光厳天皇が即位していたりして、治天の君としてのプライドがボロボロになったようだ。
以後、世俗を断って禅宗に深く帰依するようになる。 光厳天皇は生涯で二度、尊氏に裏切られているな
なのに「新田義貞を討つ」院宣を尊氏に授けたり、尊氏にとっては都合が良かったんだろうな 「人物叢書 足利直義」執筆予定の清水克行氏は、直義は尊氏が殺した説の人
毒殺説を取ってる人は、大河の「太平記」に影響されたのか、とも思える こないだ石清水八幡宮いったんだけどみんな山のぼっていたけど
なにがあるの?俺は登らなかったけど 正平一統における北朝の三上皇と皇太子の拉致って親房卿の謀だよね
北朝の皇位継承者がいなくなるし
拉致から返す順番も、最初になんの実権もない光明上皇から返すあたり謀略の匂いがする
義詮さん、やらかしすぎですよ >>635
時政が政子&義時によって隠居させられる伏線の一つとして頼家殺害の件があったかもね
無論直接的には畠山重忠の追い落としと平賀朝雅の将軍擁立未遂だけどさ >>661
四谷大塚がブランド塾だった世代というと、お前もうかなりの年寄りなんだなw >>658
兄弟の分割相続から世継ぎの単独相続に変わっていく時期だから、全般的に兄弟仲が悪い時期だ
特に足利は、3代義満以降、将軍の弟は出家させ、結婚もさせず子孫をつくらせないようにした 48回「果てしない戦い」
冒頭の、尊氏と直義の会談が面白い
ハテ、この席にわしの許さぬ者が来ておる 頼房 追って沙汰を致すまで下がれ
直義、そなた思い違いをいたしておらぬか
頼房!わしはそなたを許さぬ とく下がれ
第一の功には、終始わしにつきしたごうた42人の武将をあげたい 石清水八幡宮といえば、義詮が南朝と死闘を繰り広げていたな
同時期に尊氏は関東の武蔵野で死闘を制した >>675
いまでは研究が進み、尊氏は敗者としての自覚が十分あったとのこと。
「降参人」の読み方、捉え方の違いという説。 >>675
そこの真田尊氏が格好良すぎて何度も見てる >>677
「人物叢書 足利尊氏」(吉川弘文館から刊行予定)では、その辺り言及あるかな? わしの命に背き、高師直を殺すようそなたにけしかけた者がおる
高師直を切った、上杉能憲は断じて許せぬ 能憲は、死罪に処すべしと存ずる
師直兄弟を殺すようけしかけたのは石堂頼房だと言ってるが、それは史実なのかなあ? 桃井はあの会議にいなかったよなw
わしがおれば大御所の好きにさせなかったものをー!と息巻いてたなw 「はて?(すっとぼけ)」からの「疾く下がれ!」が好きすぎる
その後の桃井直常の「わしがいなければこのザマよ…」も好き
「手を洗わぬ者も帰れ!」も好き 【悲報】
史上最高の「大河ドラマ」総選挙ベスト20
2/6(木) 11:00配信
主役級のキャストがずらりと揃い、緻密な脚本と豪華な演出で歴史という“大河”を1年かけて描く。
NHK大河ドラマは1963年の開始以来、「テレビドラマの最高峰」で在り続けている。
では歴代作品のうち、そのナンバーワンは?
大河ファンの本誌・週刊ポスト読者1000人が選んだ──。
https://www.news-postseven.com/archives/20200206_1538332.html/2
https://www.news-postseven.com/uploads/2020/01/post2005_P140_taiga_drama.jpg 来週、足利直義役の高嶋政伸がテレ朝の「徹子の部屋」に出演
太平記の話は、まあ出ないだろうな 太平記だけでなく、キングオブジパングも入ってないのか 太平記が入ってないとかこんなランキングありえない
2位が真田丸って時点でお察し コメントは適当に集めてランキングは記者が勝手に選んだだけだったりして >>687
刑部 誰に向こうてその口を利く?もかなりウケた 8話に豊川悦司が出てる
「炎立つ」のぶっ殺す!から2年前か 西園寺公宗は、謀反を企てたとして処刑されたが、そのシーンはなかったな
映像化してほしかった、演じているのがウルトラマン80だから そんなのをやるくらいなら多々良浜合戦をやらないとな
〜多数の裏切りを出した背景には、九州の諸豪族を軒並み味方につけて大軍を組織してはいても、その大半は宮方有利の情勢を見て是非なく菊池武敏に味方した者であったという事実が存在する。
確かな宮方と呼べるのは阿蘇惟直ぐらいで、その他のほとんどはもともと日和見、もしくはむしろ尊氏よりの武将達であった。また、圧倒的に不利な状況であっても終始積極的な戦法を取り、一度宮方に付いた者の寝返りを誘った尊氏の戦略も見逃せない。
どんなマジックを使ったんだ尊氏はw 尊氏と阿野廉子の関係が気になる人には2000年の映画「はつ恋」がオススメ この頃の戦って、オセロゲームみたいな感じやな
一見劣勢に見える状況でも、一手で一気に形勢が逆転する しかし桃井は高橋さんが適役だなぁ〜
すごい迫力だわw 「週刊ボスト」立ち読みしたが、買わなかった
太平記、麒麟がくると同じライターだから、言及あるかと思ったらなかった ただドラマを見る限りでは桃井刑部が、尊氏の言うような「己の栄達にしか目がない男」みたいには見えないんだよな 桃井、後醍醐が崩御した時は、「敵の大将が死んで、なにゆえ嘆かねばならないのか」と言ってたクセに、
後には直冬とともに南朝に帰順してる 節操なしという見方もできる それ論点がずれてるじゃん。
南朝に帰順するのは戦術。
ちなみに尊氏も直義も南朝に帰順してるぞ。
お前の妄想は浅い。浅いうえに薄い。 昨日の敵は今日の友だよ
日本の最大の同盟国も、75年前は最大の怨敵だったわけで >>707
ずっと尊氏派の道誉と対極じゃないの
ずっと直義派、いや単に尊氏嫌いかもしれんが筋は通してる >>686
尊氏って死ぬまで現職の将軍だったような気がするけど、なんで「大御所」なの? >>711
尊氏は劇中で「大殿」とも呼ばれてた
直義の「三条殿」に対して尊氏の「大御所」なんだろう 中途半端に政を直義に任せてるからだよ
前の将軍みたいに見られてたんじゃないの 直義は鎌倉幕府(特に北条得宗家による執権体制確立以後)を手本としていたから、
将軍(尊氏)はあくまで幕府の象徴というか飾り物で、実際の政は執権の役回りである自分が
主導するものという意識があったのでしょう。直義派の者たちも当然そうした意識を共有していたはず。 >>713
中途半端というか、政務の7,8割は直義に任せていた。
八割将軍直義。 建武式目の第一項には北条義時、泰時親子の政治を手本とする。とある というか「大御所」必ずしも前将軍の意味じゃないだろ。
観応の擾乱の頃なら、尊氏は既に老齢(当時の認識では)の域に達しており、跡継ぎの
義詮が既に成年に達している。
この場合、現将軍である尊氏を「大御所」、将軍継嗣である義詮を「若御所」と呼んで、
何の問題もない。
現職将軍を「大御所」、その嫡子を「若御所」と呼ぶことは、結構普通にあるぞw よくドラマなんかで見る大女将と若女将みたいなものかな そういえば幼少期のシーンでは若御寮という言い方も出てきたな 千寿王は4才の時と、5才の時で別の子役を使っていた
不知哉丸はずっと、同じ子役だったが >>724
花の乱では将軍のことを普通に御所様と言っていたな >>719
某動画サイトのコメントで
「え?なに?バカ殿?」
って突っ込まれててちょっと笑ったw
義詮、このドラマだとヘボく描写されてたしな…。 桃井暗殺に失敗してすげー尊氏に怒られてた義詮w
その理由が直冬と張り合うため、だと。
全て尊氏の撒いた種というね。因果応報。 再放送情報 大河ドラマアンコール「太平記」
【放送予定】
2020年4月5日(日)より
毎週日曜日 朝6時から6時45分まで
第1回 75分
第2回〜第48回 45分
最終回 85分
BSプレミアム
https://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/90000/420938.html マジか全話録画するぞ!
麒麟がくると朝夜池端大河なんてやばすぎる マジかーーー!!
めちゃくちゃ嬉しい!!!!
生きてて良かった!! 流れぶった切ってスマンが、
「都の守りを任せたることは、朝廷の守りを任せたることぞ 左様なことがわからんのか!」
と、義詮を叱責していた尊氏だが、尊氏自身も正平の一統時に、北朝を見捨ててるんだよな >>736
スカパー加入してないの?
太平記はファミリー劇場、時代劇専門チャンネルで放送した >>737
スカパー観られる環境だけど観てなかったw
確かにそちらの方が一気にやってくれるんだったな
まぁ週イチでのんびり観ますわ このチャンスを逃したらもう二度とNHKでの再放送はなかったと思うからよかった
CSでの再放送とBSとはいえNHKの再放送ではやはりテンションの上がり方が違うよ 「麒麟がくる」を見ている知り合いに勧めてみよう
CSと違って、BSなら誰でも見れるからな 放映が近くなったらまた教えてちょーだい
4月なんて絶対忘れる(´・ω・`) 太平記・本放送時の予告編
https://www.youtube.com/watch?v=J5UbYojI7C0&list=TLPQMTMwMjIwMjBvkFTKCfJl_g&index=1 楠木正成の生首はどうなるかな
時専は知らんが、ファミ劇ではカットされてた アバンと太平記のふるさとは入らないのかな
ぜひ入れてほしい また番組の終了後に、各回にちなんだ名所旧跡を紹介するコーナー「太平記のふるさと」が設けられた。このコーナーは
翌年以降の大河ドラマでも継承され、現在の「◯◯紀行」(「紀行」コーナー)として定着することになる。
これが最初だったのか >>755
ドラマ終了直後の時間が調整犬猫から紀行に変わったのが太平記からというのは、
大河ヲタ(とりわけ太平記ヲタ)にとって結構常識的な話では? 犬猫のころは、日曜の終わりとやってくる月曜日が憂鬱になった覚えがw >>759
その犬猫の音楽が絶妙な憂鬱感を出しているんですよねW モフモフ番組全盛の現在なら、かえって調整犬猫は受けるんじゃない?
やめてしまったの勿体ないw >>764
今なら朝ドラ番宣(最終回では次期大河&紅白番宣)だろうな BSで再放送はめでたいが、時間が早朝というのが微妙だな
録画ではなく、直に見るには時間が早すぎる 足利義詮、後に「佃将軍」と呼ばれる室町幕府二代将軍である。 >>766
それに今の葵徳川三代では常時時刻テロが
7月20日(予定)からのいだてん後番組の方が良かった
葵枠は琉球の風やればよかった
>>769
葵はそれで録画する気が無くなって止めたけど
あの時間帯のNHKは時刻字幕出さないとダメなんだろうか(´・ω・`) >>770
日曜出勤前の人達への配慮?
その割には8時からの山崎樹範ではさっさと時間消してる 完全版DVD買ったけど、「太平記のふるさと」放送されたらどうしよう?
紀行だけ録画するか >>771
今や地デジ化で、大抵のテレビの機能として時刻表示できるってのになぁ
ましてBSPなんて契約視聴なんだから、地上波のような配慮なんていらないだろうに(´・ω・`) >>773
NHK大河ドラマで、総集編が出てる作品に対して、全話収録を完全版と言っている
紀行のように未収録画像があっても、完全版と称するのは変わりないらしい あーそういうことかありがと
ちなみにDVDは字幕ないんだよね
だから今回の再放送で字幕も見れるの楽しみ 一応NHKに要望出してみるかな、時刻表示消してって
https://cgi2.nhk.or.jp/css/mailform/mail_form.cgi
BSはニュース速報は録画では消せるんだし時刻もそうしてくれればいいのに 大河再放送と聞いて懐かしくなって昔の録画引っ張り出したら
2ー4話の録画がないことに気づいてがーん
オレの沢口靖子が >>777
とりあえず要望出してみたわ
反映されるといいなぁ(´・ω・`) 落ち武者狩りにあった尼子義孝は尼子義久の弟だから
判官殿から見て 8代後の子孫か ベルリンに壁があったことを知らない世代が見るのか。 >>774
時刻表示できる機能知らない年寄りだっている
BS朝日ドラマ再放送ではご丁寧に常時番組名テロップが有る
関東テレ朝の暴れん坊将軍再放送は目立つ時刻に天気に番宣と酷い
太平記は早朝だから契約メッセージ出ない時間なので我慢できる
9時~20時は必ず出る いや契約メッセージはそもそもちゃんと金払ってりゃ出ないんだから我慢とかそういう問題じゃないだろ
むしろ金払ってないのに放送だけは見ようとする乞食精神が問題 この機会を逃さず、見た感想をTwitterにあげたり、絶賛の感想をNHKに皆で送ろう
そうすれば太平記の後の義満時代も作ってくれるかもしれん もう30年も前の大河なんだよな
若い人は見たことないという 本放送時期
1クールだけ鶴ちゃんが裏のララバイ刑事と被ってたな そりゃそうだろ
大企業のCMにも出てるわけで
それと若者に知られてるかは別問題 一時期、ワイドショーでよく見たけど今は海外メインなのか
今年60とは… 里見八犬伝で犬江親兵衛やってたな。
主役静姫の薬師丸ひろ子との激しいベッドシーンが印象的だった。 再放送おめでとう(*´ω`*ノノ☆パチパチ記念パピコ 太平記
2020年4月5日(日)より
毎週日曜日 朝6時から6時45分まで
第1回 75分
第2回〜第48回 45分
最終回 85分
BSプレミアム 宮沢りえや沢口靖子は今も知ってるよな
たまにはドラマや大河に出ないとね真田も アンコール決定おめ。
葵→太平記って名作が年次で続いたら朝っぱらからコッテリ胃もたれするから
再来年度は海老増武蔵とかでクールダウンかなw >>802
海老蔵(五月から團十郎)武蔵は黒澤プロと米倉涼子のおかげで黒歴史に
来年BS1とプレミアム統合→常時HDとSDのマルチチャンネルのになる予定なので
BS2K HD(仮称)の今年4~7月はいだてんやる月〜水夕方枠に枠統合? アベンジャーズ エンドゲームにも出てた真田は有名やろ 太平記出演者 放送時年齢
真田広之(30) 沢口靖子(25) 陣内孝則(32) 柳葉敏郎(30) 高嶋政伸(24) 宮沢りえ(17) 後藤久美子(16) 根津甚八(43) フランキー堺(61) 武田鉄矢(41) 片岡鶴太郎(36) 片岡仁左衛門(46) 樋口可南子(32) 原田美枝子(32) 藤真利子(35) 西岡徳馬(44) 本木雅弘(25) ウルトラセブン(47) ラッシュアワー3ではジャッキー・チェンと戦ってるぞ 太平記もラストサムライも今の若い子にとっては同じような大昔の作品だよw 今日はこの高時が、足利高氏・登子に馳走を致そうぞ! >>805
根津甚八が16歳に空見したwww
モックンて74歳なの?50代だと思ってた… 原田美枝子(32) ← 来たこれ 脂の乗り具合、熟れ具合 最高 武田鉄矢の正成が金八先生みたいで
説教臭くて苦手。 武田鉄矢本人も、本来は緒形拳か高倉健か…と言ってた
正成を格好いい役者が格好良く演じるのをあえて避けてオヤジ風味にしたんでしょ
武田の演技力は確かだし個人的には良いと思うけどね
赤井英和はミスキャスト以前にあの演技力で俳優やってること自体が間違いだからな
個人的には直冬も義詮もミスキャストだと思ってる 池端太平記の楠木正成は河内の気のいいオッサンていう設定だったし
戦嫌いなのに戦に出ていってしかも強いというキャラクターが魅力的だったから
武田鉄矢でいいんだよ
尊氏と盟友のような関係になるのも頷けたし 岡村隆史の演技が話題になっているが赤井英和の方がパンチあったな 日曜朝6時とか
おまいらが一番苦手な時間帯だろ
60過ぎたら苦にならなくなるだろうけど 世の中にはレコーダーという便利なものがありまして… >>815
16歳で水谷豊とベッドシーンやってた原田美枝子か 逆に政宗のときはエロかったのに
落ち着いちゃった?な樋口可南子 太平記の再放送が麒麟がくるとの相乗効果になったらいいな
逆に比べられるリスクはあるが 楠木正成が武士としては、義貞よりも尊氏を高く評価していたのは何か記録が残ってるのかな?
あれで義貞の不憫度が増したというか…。
また、その不憫さに根津甚八が合ってるんだよな〜。 >>834
梅松論
尊氏が九州落ちした後に正成が後醍醐に
武家が支持しているのは尊氏のほうだから
義貞を誅伐して尊氏と和睦するべきだと奏聞したという記述がある
まぁ梅松論は足利贔屓だから本当のことかどうかはわからん ところでもう完全版のDVDって普通に販売されてないんだっけ?
販売されてたら完全再放送なんてやるわけないよな? >>835
まあ当時の武家社会を客観的に見ることができる人なら、義貞なんか尊氏と比較にすら
ならないと思うのは、ある意味当然の発想じゃないかという気もするが 赤井の演技は不思議だよな。見てるこっちが恥ずかしくなってくるwまあ元プロボクサーだし河内千早の大阪枠だろうし、しゃーないか 新田義貞役は初回ショーケンだったのが途中で根津甚八に替わったんだよね
放映後の交代なので沢尻みたいに撮り直しが出来ないとゆう >>840
もしショーケンのままだったらどんな義貞になっていたかね
根津さんになってからえらく人のいいキャラになった気がする
ショーケン義貞は何かにつけて新田は貧乏御家人であることを
嫌味がましく言ってた記憶がw >>840
あれは病気降板だから
でも結果的に繊細で悲劇の武将色が出たから良かったと思う 途中で役者が代わるのは作品としては残念だけど、結果的に鎌倉幕府の面々の出番が増えただろうから
あの降板がなければ鎌倉炎上の評価も変わってたかもね >>842
不倫だったかも
今だったら初期東出→いつの間にか柄本時生 >>841
ショーケン義貞だと、一癖も二癖もある感じなんだよな。
大人しく後醍醐に利用されてないぞ的な。 >>843
くすりじゃありません耳の疾患が原因の途中降板です 8話見た トヨエツ出てたんだな 他に後に有名に なった役者出てますか? 原田泰造がエキストラ(死体役)で出てたらしい
あと、大杉漣だな >>851
太平記で合ってる
OPでは48話、49話(最終話)で侍女役の連名の最後に名前が出てくる
48話では細川顕氏(森次晃嗣)らが尊氏を訪ねてきた時、案内する侍女2人のうち
最初に台詞を話す左側の侍女
ただロングの映像で一応彼女だと確認は出来るがアップの映像も欲しかったな
最終話ではどこだったんだろう確認出来てない 再放送した方がDVDは売れる
民放ドラマも大抵DVD発売前には再放送される >>849
長谷川初範
当時はまだそんなに有名じゃなかったと思う そういえば麒麟にガトーの中の人出てたけどそのお父さんが太平記に出てたよね
もう亡くなってるけど ガトーって何?素でわからん
俳優名で書いてくれないか? 攻殻機動隊の「バトー」の声を当ててた大塚明夫さんのことなんじゃないの、たぶん(´・ω・`) >>832
金八先生やった人だからウヨは猛抗議だろ >>854
数年前にGEOでレンタルして全編見たのだが なにげに若手主要キャストがみなその後出世してるからな
真田、高嶋弟、良純、沢口、宮沢、ゴクミ、柳葉、陣内、樋口、鶴太郎、本木、赤井、筒井
※鶴太郎はけっこう年だけど俳優としては若手だった >>858
ガンダム0083の
主役コウ・ウラキのライバルキャラアナベル・ガトー
大塚明夫 >>856
ウルトラマン80だけど
101回目のプロポーズで武田鉄矢の恋敵役って
同じ年 >>868
人
∧_∧ ( 0 )
< `∀´> л シュボッ
 ̄ \ ( E)
フ /ヽ ヽ_// >>867
草萌えるって完全版は残ってないんじゃ? >>863
改めて見ると凄い面子だな
今このキャストを集めるのは不可能に近い >>873
販売はされてないが再放送の実績はあるよ 武田鉄矢は思想的には右の方の人だよ
楠正成やって、その後転生して水戸光圀もやった >>876
実際はどうか分からんが、学生運動世代の長髪の歌手というかつての雰囲気から、
反権力=左翼思想というイメージを持たれやすいのかもな。 >>876
実際はどうか分からんが、学生運動世代の長髪の歌手というかつての雰囲気から、
反権力=左翼思想というイメージを持たれやすいのかもな。 なるほど〜、矢文の車引きのところ、湊川への伏線だったんだな
やっぱ池端神 >>870
家庭用ビデオとかの素材の提供を募って
ある程度補修したものを
全話集まったかはうろ覚えだけどCS局で放送したなあ
再放送しないかなあ >>878 おっさんの俺は 鼠男かチャールズ・ブロンソン来た~ 宮沢りえ 樋口可南子 本木雅弘って室町幕府じゃなく ヘアヌード写真集時代を切り開いた三英傑やん! 再放送は今の視聴者はちょっと混乱するかもな
30年前は△△説だったが今は○○説が有力とか >>887
実際にこの10年ぐらいで、日本史学界で室町時代の研究が急速に進み、きちんと史料に裏付けされた新説が
いろいろ出ているみたいだからね。言われてみれば、一般向けの新書でも、応仁の乱、観応の擾乱、
足利義満など室町前期に関連したものが最近立て続けに出版されている。 そもそも吉川英治の執筆時点で通説だったものを元に吉川が脚色して小説にして
それを元にしたドラマ化でさらに作り変えて脚色してるんだから
最初から何重にもファンタジーが混ざった虚構の物語でしょう
今現在の通説との違いなんて誤差に過ぎないレベル 近年新説が出てるの1つに、直義の死をめぐって、があるね
ドラマ「太平記」が放送された頃には、どの本にも「毒殺」と書かれてたが、
近年では自然死説が出てる
従来通りの毒殺説を唱えてる人もいて、この問題は決着していないみたい >>888
まあでも南北朝・室町あたりの本を最近量産している人たちも、そもそもこの時代を
研究しようとした動機とか、そうした潜在的な部分で、この大河の影響を受けている人は
結構多いと思うよ。
何故なら、彼らの多くは年齢的に多感な10代の頃に、この大河をリアルタイムで
見ていた世代なわけでw >>892
自然死説を唱えてるのは峰岸純夫、亀田俊和など
峰岸、亀田は死ぬべきなの? >>882
赤坂城の戦いの後、15話で逃亡した正成らを捕らえるための北条方の関所の検分役の高氏が
花夜叉一座の車引きに身をやつした正成を見逃すとき正成に尋ねる場面がある
「戦上手といわれたお方が、なにゆえ勝ち目のない戦に立たれたのか?」と
矢文の答えが「(前略)大事なもののために死するは、負けとは申さぬものと心得おり候(後略)」
明らかに湊川での正成の敗戦を踏まえての言葉 「学研まんが人物日本史」から興味をもった人はいるかな >>898
なんで?
黒田は戦国時代の研究者じゃないの
太平記の時代の著書あったっけ? この頃の柄本明はほんと怖いキャラだったけど、
今はいいお父さんのイメージがついちゃったから、
あの高師直の怖さが伝わるかどうか。 >>900
確か「真田丸」の歴史考証者3人のうちの一人
あと小田原北条氏に関る著書も執筆してて初代宗瑞の享年を従来の88歳ではなく
二回り下の64歳を強く主張している
これらの説を採用して現在描かれているのが、ゆうきまさみの漫画「新九郎、奔る!」 >>901
東京乾電池の舞台活動も重なり、疲れ気味だと当時のインタビュー記事で読んだことがある。
実際、そんな角が出ていたのだろう。 「師直!口をつつしめ!」
あの前のセリフ、今そのまま放送していいのかな? 金沢貞顕の妹で足利貞氏の正室は、貞顕亭に出戻ってキチガイ飲んべえ扱い。
一瞬しか出てこない。
すぐ後に、上杉清子は「御台」と呼ばれていたが、側室なのにそれはありなのか? 今ではあの有名なザンバラ髪の騎馬武者像は尊氏でなく高師直ではと言われている
そしてあの有名な源頼朝の肖像画は実は尊氏弟の直義と言われている >>897
尊氏が小島法師に「尊氏はなかなかハンサムだったって書いておいてちょ」みたいに頼んでたよね >>910
「聞こえませぬなぁ〜もっと大きな声で!」
>>899
小学館版の人物日本史の南北朝時代は悪党がクローズアップされてたので
通常版&アニメ版で補完 今谷明さんの説は完全に傍流になったのかな
日本国王と土民は面白い本だったけど >>910
そう
小学生の頃、学校の図書室にあった漫画日本史(集英社版?)も読んだけど
そっちでは、足利尊氏が凄い悪人顔で驚愕したな 足利側が野心家で、護良親王が悲劇の皇子
みたいな描かれ方だったような・・・
数十年前の事だから、うろ覚えだけど 明治以後の史観では天皇に反逆した尊氏は悪だから
騎馬武者像でもわかる通り悪人顔にさせられたんだろ >>912
義満の王権簒奪計画のことなら、現在の日本史学界ではほぼ否定されている。
義満と後円融天皇の個人的ないざこざをあたかも幕府vs朝廷の全面抗争のように史料を拡大解釈してしまった。 池端御大は室町時代が好きなのかな?
麒麟も室町後期にスポットを当ててるし
麒麟や太平記が好評だったら、大河の空白である義満をやってくれるかもな >>902
北条早雲の年齢問題なら、既に定説になりつつあるんじゃないかな?
最近は歴史教科書の記述なんかでも、早雲の生没年は従来の「1432〜1519」から「1456?〜1519」といった表記に変わってきているし。 >>918
変える必要はなし
敢えてなら両説並列すべし >>912
「花の乱」の時代考証の人だね。
>>916
しかし歴史の専門家ではない奴が書いた『逆説の日本史』とか『日本国紀』とかのような
トンデモ本には、多大な影響を与えているねw >>919
そもそも早雲の生年を1432年(永享4年)とする従来説にも特に根拠がないし、
不自然さが拭えないこと自体は以前から言われていたことでもあるから、24年繰り下げた
子年というのは、それなりに説得力はあるんじゃないか? >>917
南北朝と戦国時代を室町と一括りにできるのか? 麒麟や太平記が好評だったら
麒麟は視聴率が出るけど、太平記はBSだから出ない
何をもって「好評」と見なすの? ウィキの高師直のページにはもう旧足利尊氏肖像が掲載されてるよw
そういや、兄・師泰、弟・師直ってのも実は逆だって説があるな。 再放送は大塔宮がネタになるだろうな
誰だよあの暑苦しい役者は?ってw 早朝に太平記放送するみたいだけど多分寝てるな
タイマー録画して後で観て書き込む人の方が多いのかな >>925
中世後期という意味ではそうなんじゃね? >>930
『園太暦』に「舎弟師泰」という記述があるのだっけ?
たた当時は、実際の年齢は上でも庶子だと弟にされる例もあるから、嫡子でない人物で
兄説と弟説が両方ある場合は、真相は庶兄であったという可能性は十分に考えられる。 何言ってんの。ツイのトレンドとか大した事ないから
なんだかんだでテレビの影響力は未だに強い BSの視聴率出ないとか、そもそも未だに視聴率だけで評判を測るとか>>927は感覚が古いなw
まあ日曜朝6時のBSなんて1%もないだろうからわざわざ調べないと分からないだろうけど
結局は総体でどのくらい見られるか >>937
弟説と兄説が両方ある場合
→本当は兄だけど嫡子じゃないので弟扱いされることはあり得る
→本当は弟だとすると兄説が生まれる理由がない
※ よって兄が正解である可能性が高い
似たようなケースで
兄弟説と親子説が両方ある場合
→本当は兄弟だけど弟が兄の養子になったので親子扱いされることはあり得る
→本当は親子だとすると兄弟説が生まれる理由がない
※ よって兄弟が正解である可能性が高い >>940
おじいちゃんインターネット使えるんだね
すごいね、えらいね 来週のテレ東「アド街」は府中分倍河原だそうな。
当然新田義貞祭りだろうな。 塩見師泰は特に出番は無かったけど
師直を逃がそうとして
必死に叫んでた場面だけは印象にある >>947 我慢出来なくてツベに上がってるやつ35話まで一気見した。ボタンのかけ違いなんだよな...何でこうなった~! やっぱ公家贔屓した後醍醐帝が悪いよな >>949
後醍醐帝は公家一統と口先ではいうけど実際には公家を大して優遇しているわけでもない
後醍醐帝の目指すところは詰まるところ自らを絶対君主となる独裁だから
そのためだったら低い身分のものでも平気で取り立てるし
公家の大半は後醍醐帝のこうしたやり方には付いていけない 皇位継承、統治など
(自身の系統で)天皇が皇帝的な存在になりたいだけならば
全国の武士団を抑えることはできないのかな
公家側が昔の権利書持ち出すからか
土地の権利を保証していた鎌倉が無くなったからか 後醍醐天皇の倒幕計画の始まりは
より長く皇位にいたいこと、自分の系統で皇位を独占したいこと
って聞いた事あるけど
皇位継承問題以外の施策を「現状のまま」
新しい政策はひかえるとかやれば親政は長持ちしたかな
武士団を決起させた土地問題を裁けないと無理か? 結局は軍事だ
延元の乱の東海道・東山道・奥州三方同時進撃は悪い作戦じゃなかったし
あそこで勝っていればもうちょっと続いていたかもしれない >>951
それまでの前例や公家秩序(家格身分に沿った人材登用など)を無視した後醍醐天皇の独裁的手法は
公家からも「物狂いの沙汰」と酷評されていたからね。結局、帝は公家も武家も掌握できていなかった。
みんな「打倒北条」という目的のために一時的に帝の元に結集しただけ。 >>915
だから昭和天皇が生きているうちはドラマ化することが出来ず
平成3年になってようやく描けるように
戦前生まれの人は、歴史の教科書で
足利尊氏は後醍醐天皇を裏切って追放した大悪人と教えられてきたので
このドラマは衝撃的だったらしい >>952
鎌倉幕府を全否定したいあまりに20年で時効という鎌倉期の所務沙汰関係の裁判の
基本ルールをひっくり返したことが根本的にマズかったからなぁ
これに関しては前政権のやり方を否定したいという後醍醐本人の自己満足以外には
建務政権にとっても何のメリットもなかったはず >>953
たた後醍醐が本来的には大覚寺統のなかでも傍流の中継ぎに過ぎず
本来的には後醍醐の系統による皇位独占に何の正統性もないことも皆が知っている状態
特にこういうことに拘りそうな公家たちが黙って納得したままでいるかな? アホどもが偉そうに講釈たれてやがるw
太平記の悲劇は後醍醐と尊氏が同じ時代に生まれたこと
この一言に尽きる >>943
ツイッターのトレンドが放映してるテレビの内容そのままなこと多々だが >>953
後醍醐の倒幕意欲は
自身の系統による皇位独占と
摂関・院・幕府をすべて廃した延喜・天暦への回帰の
両方が同じくらい重要なのだろうから
その選択肢はあり得ないよ >>940-941が対照的なのが興味深い
まるで楠木正成と佐々木道誉みたいだ >>941はテレビの影響力否定してなくね
単にリアルタイム視聴率のみに拘泥するのが意味ないってだけ >>954
後鳥羽と甲乙つけがたいが、後醍醐かなあ 直義が少し間抜けに描かれているのは納得できん。
曲がりなりにも幕府機構のほとんどを作り上げて運営したのは、直義とその幕僚・吏僚(直義の執事でもある師直含め)。 直義に関しては佐藤の有能聖人インテリ説よりも、亀田の
熱血陰謀ガキ説をとりたい
一部の部下に引っ張られすぎて他の人が去るタイプだから
尊氏の威光がなければもっと小さな組織でも運営できなかっただろう 関東聴取率トップのTBSラジオが評価軸として聴取率を捨てて
Twitterに切り替えたのではないかという話がある。
テレビの視聴率も早晩そうなるのではないか。 >>971
直義の有能さは尊氏自身が認めているからなぁ 故・石井進先生は最も好きな歴史上の人物として足利直義の名前を挙げてたよ >>970
直義の下文に、師直が執事施行状を添えているので、尊氏の執事であり直義の執事でもあったといえる。 >>972
Twitterしてる人は、全人口の何割?
俺の認識では、暇人しかしてない。
指標として偏りすぎ。 >>982
直義の下文って実、偽文書の可能性が高いもの以外に実例あったっけ? >>983
こういう人って自分で矛盾したこと言ってるって気づけないものなんだろうか 今はアメリカ大統領でさえツイッターでコメントを発表しているのに。ツイッターは暇人しかしてないねえw 太平記の時代にツイッターがあったら
尊氏のツイートはほのぼのしそう
直義のツイートはつまらなそう
師直のツイートは炎上しそう(´・ω・`) Twitterなんてツイートがテレビで取り上げられない限り大した影響力ない このスレッドは1000を超えました。
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