【第三十八回】太平記part.38『一天両帝』
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山名宗全細川勝元以外に佐野史郎の足利義視とか
草刈正雄の日野勝光とかよかったんだけどな
ラストが悲惨すぎるけど ちょっとひねって一休さんこと一休宗純を大河の主人公にすれば、
ちょうど義満、義持のころがカバーできるな。 >>24
それはいい、一休宗純なら義政の頃が晩年だから赤松満祐により暗殺された義教もクローズアップされるね >>24
皇族出身でしかも宗教家という人物を主人公にするのは少々難しくないか? 「呼び捨て失礼書き足した」 武光パネルに「公」 菊池市文化財保護委の会長落書き「やった」
2019/11/29 14:00 (JST)
11/29 14:23 (JST)updated
https://this.kiji.is/572983155336234081 親王が東夷よばわりしていたけど
この時代 東国の人は 蔑んでみられていたんですか >>27
黒衣の宰相といわれた三宝院満済なら義満の晩年から義教まで描けるからいいのでは?
もしくは世阿弥あたりか 道誉の子孫って何で「高」の字を通字にしてんの?
「高」って元々道誉が高時から貰ったものだと思うけど実は鎌倉滅亡後も密かに北条を敬愛していたとか? 後を継いだ高秀は三男(兄は秀綱、秀宗)だから偶々にも見えるしどうなんだろうね。
室町後期の「高」は足利義高(義澄)からみたいだけど。 しかし道誉(高氏)以前の佐々木京極氏の当主には諱に「高」を持つ者はいないから
「高」が道誉に由来することは間違いないんじゃないかな? >>38
だからその「高」の字は北条高時の「高」じゃないかと32は言ってるんでしょ 名和長高とか足利高国とかは改名してるね
道誉も嶺方とかネタ改名はあるがw >>42
名和は高時の偏諱の可能性はないだろう・・・ 当主ではなかったが
頼朝時代の兄弟に佐々木高綱が…
奇しくも円喜と同じ諱だ しかし、リアル版アシュラの世界だった室町時代が好きとか不思議だなw
現代から見たら単なる地獄だろ >>45
円喜の諱が「高綱」というのは俗説
実際には円喜が出家した段階でも高時は元服前なので「高」の偏諱を与えられることはあり得ない
彼の本当の諱については近年では「盛宗」という説が有力(「宗」は時宗からの偏諱) 北条早雲の諱も昔は「長氏」だったが今は「盛時」が有力 ここの皆は完全版DVDは持ってるの?
総集編しか出てない作品もあるから、完全版出てるのはいいことだ 歴代の足利当主も得宗から偏諱をもらっていたけど時宗だけはないな
宗尊親王の偏諱は不吉だったのかしらw >>51
足利家時(1260年生まれ)は、恐らく烏帽子親は時宗で、「時」が与えられた字なんじゃないかな?
他の足利宗家歴代のように「得宗の偏諱+氏」になっていないことから、尊氏のように
早世した嫡兄(諱は「宗氏」)がいた可能性があるという話を聞いたことがある。
仮にその場合、「時+氏」だと時宗の祖父と同名になってしまうので、変則的になるが
家時という名乗りになったとか。
「宗」の字を貰ったとおぼしき人物自体は同時代にいくらでもいるから、「宗」の字が
忌避されていたというのは考えにくいし・・・。 スレとは離れてきたな…
昨日の道誉の偏諱とか、henkipediaで考察してるよ まぁでも面白いからいいんじゃね?
家時は伯父の(斯波)家氏からと思っていたが時宗の時か、なるほど >>56
「家」は斯波家氏に由来している可能性あり YouTubeに上がっとるがな。いつでも好きな時に見れる。
しかし北条時宗がつべから消えた。誰か上げてくれ。 本放送時のキャプチャならカオス部屋に紛れ込んだHDDに保存されてた筈だが
一部回のOP曲がテープ痛みの乱映像に… 完全版DVDには「太平記のふるさと」が収録されていなかった
もしかして、現存しないのか? 紀行ホント覚えとらん、
信長や炎にあったかどうかも…
葵はあったから時宗にはある筈だが
CS秀吉や元就でも無かったような >>63
紀行は太平記から始まって、それ以降の大河はすべてあるはず
最寄り駅情報は新撰組以降 我が子晴信は〜
今宵はこれまでにいたしとうぞんじます
のナレーションはよかった 独眼竜正宗・武田信玄・春日局・翔ぶがごとく・太平記で五賢帝 執権どのに、なんのお願い、じゃ?
( ̄ー ̄)ノペチッ 小笠原氏は源氏の一門として遇されていた。また、平賀氏が滅ぼされた後は、その遺領も入手した。
ならば小笠原氏は(2)であると考えるべきでしょう。
重ねて推論するなら、小笠原氏と足利氏はともに(2)の一員である。
そこに規模の大小はあっても、本質に違いはない。ということは、足利氏は北条氏の滅亡後に将軍になったわけですから、小笠原氏も将軍になることは可能だったと見るべきではないか
足利氏が一頭地を抜く存在であったことは否めません。
ですから、足利尊(高)氏がよほどのヘマをして、その時に巧みに立ち回っていたならば、という条件は付随するのですが、武田や佐竹、小笠原といった源氏一門が将軍となり、幕府を開く可能性は「あり」だった、とぼくは思うのです。
コレは本郷和人とやらが言っているんだが
まさに間抜け部外者らしいと言うしかない
高野山に大塔の鐘と言う大鐘があるが、三河で作られたらしい
計画立案は三河の源頼朝、製作は三河の寛伝、高野山で受け入れたのは三河の足利義兼らしい
三河で源頼朝と繋がる足利氏を乗り越えられなったのは、北条だけでなく他の御家人も同じなのである
分からない事があれば当事者たる三河人に意見を求める癖をつけよ
源頼朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫→伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡)→娘(由良御前)→源頼朝(初代鎌倉将軍)
寛伝(三河国滝山寺僧)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→藤原範忠→寛伝
足利義兼
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女→足利義兼(初代源姓足利氏) これをじっくり見て、武田や佐竹や小笠原が将軍になれる器だったのか、じっくり考えよ
源頼朝と三河で繋がる、三河の王しか無理なんだよ
三河政権たる鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、三河県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、三河県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田) 余談だが
最近、ヤマトタケル関連に凝っていて、山梨の武田はヤマトタケルと尾張氏の娘の子供、武田王に由来するらしいな
武田王の同母弟である佐伯王は三河で暮らしたらしい
興味深く感じた 本郷氏>>>>>>>>>>(越えられない壁)>>>>>>>>>>三河屋 本郷和人って、頼朝像を頼朝と言ってるんでしょ
いまいち信用できない >>85
亀田俊和は伝・頼朝像は足利直義という、新説支持 信用できる まぁ直義といえども、頼朝と比べたら格も知名度も随分と落ちるから
所持者としてはあんまり認めたくないんだろう でも、もう一方の伝平重盛像のほうなら、知名度的に尊氏>>>>>重盛じゃないか? 足利殿、まだ執権どのへの
ご挨拶承っておりませぬぞ
( *`ω´) 焦点は源頼朝なのか否か、ただそれだけ
他の二つは神護寺も興味なし 直義と確定するまでは頼朝だという主張は変えないだろうな
推定無罪みたいなもんやね(´・ω・`) >>これまで書状の存在自体は知られていたが、現物の行方は分かっていなかった。 足利氏は、徳川家康が新田流源氏を自称したせいで、割りを食ったな >>103
有名で内容もよく知られているけど現物の行方が分からなくなっている史料って、
結構普通にあるし、そこまで取り立てて騒ぐことか? ぼくはずっと、執権・北条氏はなぜ鎌倉幕府の将軍にならなかったのか、もしくはなれなかったのか、を考えてきました。
この問題を考えだしてもう20年になるのですが、ここへ来て、ようやくぼくなりの答えに到達しました。
それは「将軍になることは可能だった。けれどもならなかった。それは北条氏が賢明だったから」というものです。
本郷和人とらやらが20年も考えて出した結論らしい
ボキは、野心はあったが、三河の源頼朝が構築した三河システム(三河縁者の武士が武家社会を牛耳るシステム)を破壊できなかったからと考える
鎌倉将軍家断絶後、その三河システムの最高責任者は足利であり、北条は足利を恐れていたからこそ、足利氏との姻戚関係を求めたわけだな 東国と西国との境は何処かと聞かれて、関ヶ原ガー、箱根ガーとか言う奴がいるが
出来る奴はこう考える
東国と西国を楕円で囲んで、その円が交わる場所がある、そこは三河
東国の一番西の国は三河であり、西国の一番東の国も三河
三河の源頼朝は、三河を自らの縁者で固める事で東国と西国の緩衝地帯としたわけだな
足利氏は、三河の源頼朝の親戚として三河守護になれ、なったあとは京方の親戚の下司でもあった
これは北条も手が出せない
三河国主、三河守について
1184年06月:源範頼(三河守)
1191年07年:九条兼実(知行国主)
1193年08年:吉田資経(三河守)、吉田経房(初代関東申次)の孫、室に藤原範季の娘
1199年02年:吉田経房(知行国主)、初代関東申次、母の兄弟に藤原俊成(三河守)
1200年02年:藤原親輔(三河守)、藤原顕季の息、姉妹に九条兼実室
1200年03月:七条院(分国主)
1207年01月:忠輔(姓不詳)(三河守)、三河の藤姓熱田大宮司家か?
1212年12月:実茂(姓不詳)(三河守)、三河の藤姓熱田大宮司家か?
1225年01月:藤原為綱(三河守)
1227年11月:七条院(分国主)
1228年12月:藤原経季(三河守)
1229年10月:藤原範房(三河守)、藤原範季の孫、叔母は吉田資経(三河守)室、姉妹に四条隆親室、忠成王(母親は三河の藤姓熱田大宮司、藤原清季の娘)妃
1234年01年:四条隆親(知行国主)、室に足利能子(足利義氏(三河守護)の娘)
1235年01年:藤原隆朝(三河守)、藤原隆季(四条家の祖)の曾孫、息が四条房名(三河守)に養子入り
1238年10年:卜部兼直(三河守)、兄弟の孫に吉田兼好
1240年12月:葉室資頼(知行国主)、藤原顕頼(三河守、正室は藤原季範従兄弟)の5世孫
1240年12月:四条隆親(知行国主)、室に足利能子(足利義氏(三河守護)の娘)
1200年12月:四条房名(三河守)、四条隆親(三河国知行国主)の息
1241年03月:清原教隆(三河守)、九条頼嗣の侍講
1242年03年:藤原定親(三河守)
1244年08年:世良田頼氏(三河守)、室は足利義氏(三河守護)の娘)
1248年01年:四条房名(三河守)、四条隆親(三河国知行国主)の息 >>101
物を知らない尾張の田舎猿、間抜け猿吉らしいな
徳川家臣団の元を作ったのは足利将軍家の認識が無かったわけだな
結果、徳川の関東転封で、三河の足利将軍家家臣団と関東の関東公方家臣団を合体させ、強靭化した
足利尊氏と徳川家康の生誕地は目と鼻の先
おそらく足利尊氏直義は、足利氏の大門屋敷の南方すぐ近くにあった上杉氏の日名屋敷で生まれた
■上杉氏
太田亮
上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
足利尊氏、直義が生まれただろう日名屋敷
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。 三河屋って消えたかな?と思っても一度沸いてくると暫くスレに居着くよね・・・ キチガイを相手にするのもキチガイ。荒らしを相手にするのも荒らし。
おかしな書き込みは即NG登録して存在を抹消し、
完全に無視するのが賢い大人の対応。 >>97
お取り調べなどとは、いやはや(^◇^;)
足利殿といえば幕府を開いた源頼朝公に
連なる縁戚のお家柄…そのような方を
お取り調べとは…ハッハッハ( ̄∀ ̄) 「幕府」という言葉は明治以後にできたらしい
だから>>114のようなセリフは出てこないはず >>95
こは長崎円喜にあらず
北条得宗の名代ぞ…控えよ!
( *`ω´) 貞氏の代に源氏将軍を擁立する動きがあったってのは本当かね?
これが事実ならば、母が北条でない尊氏がゴミのような扱いを受けたのも理解できるんだが >>115
幕府という「言葉」自体は遥か昔から存在してますが >>118
源久明絡みじゃないかしら
後に皇籍復帰して親王宣下されているけど ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています