【第三十八回】太平記part.38『一天両帝』
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我が子晴信は〜
今宵はこれまでにいたしとうぞんじます
のナレーションはよかった 独眼竜正宗・武田信玄・春日局・翔ぶがごとく・太平記で五賢帝 執権どのに、なんのお願い、じゃ?
( ̄ー ̄)ノペチッ 小笠原氏は源氏の一門として遇されていた。また、平賀氏が滅ぼされた後は、その遺領も入手した。
ならば小笠原氏は(2)であると考えるべきでしょう。
重ねて推論するなら、小笠原氏と足利氏はともに(2)の一員である。
そこに規模の大小はあっても、本質に違いはない。ということは、足利氏は北条氏の滅亡後に将軍になったわけですから、小笠原氏も将軍になることは可能だったと見るべきではないか
足利氏が一頭地を抜く存在であったことは否めません。
ですから、足利尊(高)氏がよほどのヘマをして、その時に巧みに立ち回っていたならば、という条件は付随するのですが、武田や佐竹、小笠原といった源氏一門が将軍となり、幕府を開く可能性は「あり」だった、とぼくは思うのです。
コレは本郷和人とやらが言っているんだが
まさに間抜け部外者らしいと言うしかない
高野山に大塔の鐘と言う大鐘があるが、三河で作られたらしい
計画立案は三河の源頼朝、製作は三河の寛伝、高野山で受け入れたのは三河の足利義兼らしい
三河で源頼朝と繋がる足利氏を乗り越えられなったのは、北条だけでなく他の御家人も同じなのである
分からない事があれば当事者たる三河人に意見を求める癖をつけよ
源頼朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫→伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡)→娘(由良御前)→源頼朝(初代鎌倉将軍)
寛伝(三河国滝山寺僧)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→藤原範忠→寛伝
足利義兼
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女→足利義兼(初代源姓足利氏) これをじっくり見て、武田や佐竹や小笠原が将軍になれる器だったのか、じっくり考えよ
源頼朝と三河で繋がる、三河の王しか無理なんだよ
三河政権たる鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、三河県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、三河県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田) 余談だが
最近、ヤマトタケル関連に凝っていて、山梨の武田はヤマトタケルと尾張氏の娘の子供、武田王に由来するらしいな
武田王の同母弟である佐伯王は三河で暮らしたらしい
興味深く感じた 本郷氏>>>>>>>>>>(越えられない壁)>>>>>>>>>>三河屋 本郷和人って、頼朝像を頼朝と言ってるんでしょ
いまいち信用できない >>85
亀田俊和は伝・頼朝像は足利直義という、新説支持 信用できる まぁ直義といえども、頼朝と比べたら格も知名度も随分と落ちるから
所持者としてはあんまり認めたくないんだろう でも、もう一方の伝平重盛像のほうなら、知名度的に尊氏>>>>>重盛じゃないか? 足利殿、まだ執権どのへの
ご挨拶承っておりませぬぞ
( *`ω´) 焦点は源頼朝なのか否か、ただそれだけ
他の二つは神護寺も興味なし 直義と確定するまでは頼朝だという主張は変えないだろうな
推定無罪みたいなもんやね(´・ω・`) >>これまで書状の存在自体は知られていたが、現物の行方は分かっていなかった。 足利氏は、徳川家康が新田流源氏を自称したせいで、割りを食ったな >>103
有名で内容もよく知られているけど現物の行方が分からなくなっている史料って、
結構普通にあるし、そこまで取り立てて騒ぐことか? ぼくはずっと、執権・北条氏はなぜ鎌倉幕府の将軍にならなかったのか、もしくはなれなかったのか、を考えてきました。
この問題を考えだしてもう20年になるのですが、ここへ来て、ようやくぼくなりの答えに到達しました。
それは「将軍になることは可能だった。けれどもならなかった。それは北条氏が賢明だったから」というものです。
本郷和人とらやらが20年も考えて出した結論らしい
ボキは、野心はあったが、三河の源頼朝が構築した三河システム(三河縁者の武士が武家社会を牛耳るシステム)を破壊できなかったからと考える
鎌倉将軍家断絶後、その三河システムの最高責任者は足利であり、北条は足利を恐れていたからこそ、足利氏との姻戚関係を求めたわけだな 東国と西国との境は何処かと聞かれて、関ヶ原ガー、箱根ガーとか言う奴がいるが
出来る奴はこう考える
東国と西国を楕円で囲んで、その円が交わる場所がある、そこは三河
東国の一番西の国は三河であり、西国の一番東の国も三河
三河の源頼朝は、三河を自らの縁者で固める事で東国と西国の緩衝地帯としたわけだな
足利氏は、三河の源頼朝の親戚として三河守護になれ、なったあとは京方の親戚の下司でもあった
これは北条も手が出せない
三河国主、三河守について
1184年06月:源範頼(三河守)
1191年07年:九条兼実(知行国主)
1193年08年:吉田資経(三河守)、吉田経房(初代関東申次)の孫、室に藤原範季の娘
1199年02年:吉田経房(知行国主)、初代関東申次、母の兄弟に藤原俊成(三河守)
1200年02年:藤原親輔(三河守)、藤原顕季の息、姉妹に九条兼実室
1200年03月:七条院(分国主)
1207年01月:忠輔(姓不詳)(三河守)、三河の藤姓熱田大宮司家か?
1212年12月:実茂(姓不詳)(三河守)、三河の藤姓熱田大宮司家か?
1225年01月:藤原為綱(三河守)
1227年11月:七条院(分国主)
1228年12月:藤原経季(三河守)
1229年10月:藤原範房(三河守)、藤原範季の孫、叔母は吉田資経(三河守)室、姉妹に四条隆親室、忠成王(母親は三河の藤姓熱田大宮司、藤原清季の娘)妃
1234年01年:四条隆親(知行国主)、室に足利能子(足利義氏(三河守護)の娘)
1235年01年:藤原隆朝(三河守)、藤原隆季(四条家の祖)の曾孫、息が四条房名(三河守)に養子入り
1238年10年:卜部兼直(三河守)、兄弟の孫に吉田兼好
1240年12月:葉室資頼(知行国主)、藤原顕頼(三河守、正室は藤原季範従兄弟)の5世孫
1240年12月:四条隆親(知行国主)、室に足利能子(足利義氏(三河守護)の娘)
1200年12月:四条房名(三河守)、四条隆親(三河国知行国主)の息
1241年03月:清原教隆(三河守)、九条頼嗣の侍講
1242年03年:藤原定親(三河守)
1244年08年:世良田頼氏(三河守)、室は足利義氏(三河守護)の娘)
1248年01年:四条房名(三河守)、四条隆親(三河国知行国主)の息 >>101
物を知らない尾張の田舎猿、間抜け猿吉らしいな
徳川家臣団の元を作ったのは足利将軍家の認識が無かったわけだな
結果、徳川の関東転封で、三河の足利将軍家家臣団と関東の関東公方家臣団を合体させ、強靭化した
足利尊氏と徳川家康の生誕地は目と鼻の先
おそらく足利尊氏直義は、足利氏の大門屋敷の南方すぐ近くにあった上杉氏の日名屋敷で生まれた
■上杉氏
太田亮
上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
足利尊氏、直義が生まれただろう日名屋敷
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。 三河屋って消えたかな?と思っても一度沸いてくると暫くスレに居着くよね・・・ キチガイを相手にするのもキチガイ。荒らしを相手にするのも荒らし。
おかしな書き込みは即NG登録して存在を抹消し、
完全に無視するのが賢い大人の対応。 >>97
お取り調べなどとは、いやはや(^◇^;)
足利殿といえば幕府を開いた源頼朝公に
連なる縁戚のお家柄…そのような方を
お取り調べとは…ハッハッハ( ̄∀ ̄) 「幕府」という言葉は明治以後にできたらしい
だから>>114のようなセリフは出てこないはず >>95
こは長崎円喜にあらず
北条得宗の名代ぞ…控えよ!
( *`ω´) 貞氏の代に源氏将軍を擁立する動きがあったってのは本当かね?
これが事実ならば、母が北条でない尊氏がゴミのような扱いを受けたのも理解できるんだが >>115
幕府という「言葉」自体は遥か昔から存在してますが >>118
源久明絡みじゃないかしら
後に皇籍復帰して親王宣下されているけど >>115
>>119
将軍の居所という一般名詞的な意味ではなく、征夷大将軍が主宰する武家政権の意味で
「幕府」という言葉が使われるのは、確かにもっと後の時代、中世段階ではない用法。
ただ新井白石の『読史余論』とかに、この意味での「幕府」の語が普通に出てくるので、
遅くとも江戸中期には、この意味の「幕府」は言葉として存在するよ。 あとドラマはドラマなんだし、劇中のセリフにこんなことで一々突っ込みを入れても、
生産的じゃないよ。 >>114
よって官位の従五位の下
そのような御方を取り調べるなどと…
ハッ…ハッハッハ…ε-(´∀`; ) >>120
臣籍降下は1つ前の惟康親王じゃない?
なるほど、源氏将軍の意図は元寇対策か >>110
お前は早く石塔氏の由来調べてこいよ
答えないのは分からなかったから?
しばらくいなかったのは悔しかった? >>120
そっちの源氏将軍でもいいんかいw
俺は武家源氏、ようするに河内源氏の系統を推戴するのかと思った。
貞氏の代の前後に足利と斯波の嫡流争いがあったのも見逃せないな >>131
斯波は尊氏代の高経らも不遜だったらしいしね >>129
惟康の名前は、惟康王→源惟康→惟康親王と変化しているな。
惟康を源姓で臣籍降下させて、源氏将軍の復活を主導したのは安達泰盛だっけか?
で、霜月騒動の後、惟康は親王宣下を経て皇籍に戻される。 霜月騒動の余波で斯波が得宗によって庶流に転落したんだよな。
足利も得宗の機嫌次第ってこった。
大覚寺統と同じ。
後醍醐と尊氏は反北条で利害は一致していたのな。 父貞時もそのようなことを申しておった。
執権たるもの、天下の安泰・万民の幸せを我が喜びとしなければならぬ。
そのためには何事も公平でなくてはならぬ。
公平が肝要じゃと。 来年の「麒麟がくる」は池端が書くけど、「太平記」以降、池端が書いた大河ドラマってあるのかな? 第1話を久々に見た
尊氏のことを「嫡男」と言ってるんだが、高義はどうなる? >>144
たしか私本太平記では言及がある
ドラマはわかりやすさ重視だろう
道誉は近江源氏の棟梁で近江守護扱いだし >>145
ドラマでも、序盤に尊氏が道誉の館へ行くシーンで、「近江守護佐々木道誉」って字幕が出ているね。
今だったら、史実と異なるというようなクレームが殺到しそうだけど、当時はおおらかな良い時代だっということだな。 >>146
杓子定規に史実にこだわるなら道誉も高時も若くして出家しているのだから、
坊主頭でなければおかしいことになる。 史実通りにやったら尊氏と貞氏はドラマみたいに仲良くないわな
貞氏は死ぬまで家督を譲らなかったし そこはまあ尊氏も死ぬまで義詮に将軍職を譲らないけどね。 国際情報社の学習まんがじゃ1ページで済まされたが僧体だったな高時 本来なら二階堂道蘊くらいの貫禄がないといけないのにな高時入道 高時って享年31歳で病弱な人物だったらしいし、そこまで貫禄がありすぎてもアレじゃないか? ちなみに、新田義貞の年齢はいろいろな説があって確定できないらしい
ミネルヴァ書房の「新田義貞」では、39歳説を採用してる 義貞の烏帽子親は足利高義説があるから
ドラマで高義の存在を加えたらややこしくなってたかな >>148
貞氏は尊氏に(この屋敷から)「出ていけ!」と言ったりしていた
親子の仲は、それほど良くはなかったのは もう少し待てば高義の息子に継げるし
高氏はまともに習字もできない遊び人だったから仕方ない
親の苦労がしのばれます >>143
大河じゃないけど聖徳太子の単発やってたような
最近のそろばん侍の池端バージョンはえぐいストーリーだった
ジャンキーの女官が出て来るんだけど太平記の最初にも裸の女官が出て来るね >>161
女官でなく巫女だね
裸の巫女は鎌倉炎上にも出てくる 義貞て貞氏からの偏諱じゃないのん?宗家の当主からの偏諱だから高義でもいいけどさ。
貞氏は高義が死んでかなり落胆したんジャマイカ?母が北条でない父の家時と尊氏の未来が鮮烈にダブったと思うぜ…。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています