>>663 より続き

山形商業会(山形商工会議所のことか?)のボスについては分からなかったが、義光を嫌った研究者と言うのは、いや、探
すのに苦労した。小檜山氏(武者氏)が名前を書いてくれればいいのに、思わせぶりな書き方をしてくれたので、検索に手
間がかかってしまった。YAHOO!知恵袋で「1960-70年代において最上義光研究をリードしていた研究していた方が、個人
的に義光嫌いであったようで〜」とあり、「多分これだー!」と思ってそこから誉田慶恩氏(読みが分からないのだが、
「こんだけいおん」でいいのだろうか)と佐々木銀弥氏らしいと分かった。

最上義光歴史館 最上氏研究前進のために(一) 執筆者粟野俊之
http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&;l=87187

【引用】
義光が16歳のとき、義守・義光父子が高湯(蔵王温泉)に湯治に行き、鹿狩りをして眠りについたところ、近辺の盗賊数
十人が来襲した。義光は近習の者たちの先頭に立って防戦し、二人に深手を負わせ、一人と組み合って刺し殺した。こ
の武勇に義守は喜び、笹刀と称した家宝の名刀を授けたという(最上義光物語)。この真偽のほどは明らかではないが、
よく知られたエピソードである。義光が16歳といえば永禄4年(1561)にあたり、『最上義光物語』の作者は、義光が少
年の頃から武勇に優れていたことを示したかったものであろう。しかし、誉田氏は「大名親子ともあろうものが野盗の
襲撃をうけたとは、最上氏の権勢も疑わしいものである」「当時の最上氏は、まだ豪族の域を脱しない小大名で、近隣
の大大名伊達氏の権勢の下に屏息し、辛うじて命脈を保っていた程度であったのであろう」と述べている。
(『義光』・『市史』上)。義守の伊達氏天文の乱における戦歴やその後の義光の活躍をみれば、このような評価が当
たらないことは明白である。戦国大名に組織されていない野盗の存在は、戦国時代には一般的であり、これをもって小
大名と評価することは出来ない。ただし、最上氏側の警備体制に問題があったことは確かである。 
     〜中略〜
そして、誉田氏による義光の人物像については、末娘の駒姫の悲劇と長男義康の死、そして最終的な最上氏の改易とい
う事実とともに、積極的評価はされていないと思われる。これが地元の人々に与えた影響は大きい。そして、これが全
国的な広がりをみせ、一例を示せば、「秀吉の勢力が天下を支配したところ、その威を借りた義光のずるがしこいやり
かたは、まさに虎の威を借る『最上のきつね』とでもいうべきであろう」などという記述もみられることになった(佐
々木銀弥著、日本の歴史文庫?『戦国の武将』講談社、1975年5月)。このような評価の見直しが必要なことは言うまで
もない。
【引用終了】

続きます