歴史秘話ヒストリア「ご存じですか?観応の擾乱 武士の世をつくった兄弟ゲンカ」★2
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
室町時代初め、日本中を巻き込んだ大乱「観応の擾乱」。室町幕府をつくった将軍足利尊氏と弟・直義、重臣・高師直、彼らの戦いは、なんと日本の歴史を変えた!
歴史秘話ヒストリア「ご存じですか?観応の擾乱 武士の世をつくった兄弟ゲンカ」★1
https://nhk2.5ch.net/test/read.cgi/livenhk/1526466824/ >>27
最近のコナンの映画の主題歌歌っていた気がする >>19
今、西郷どんのせいで、過去の西郷特集をユーチューブで見まくってるんだけど
幕末よりこっちの方が面白い? >>3
非情になりきれないカリスマ性のある君主のめんどくささ >>18
ラスボスは実の息子の直冬というのが狙いすましたかのようなドラマチックさだよね 負けるのを待つような大将に数万もの味方がつくかいな >>1
暗いと不平を言うよりも進んで明かりを付けましょう。 日本人は昔から天皇を錦の御旗に掲げると有難いメンタルがあったんだな >>13
廃嫡されたけど結局直ぐに崇光天皇の弟の後光厳天皇が即位 ドラマの太平記はここら辺かなりはしょってたな
まあ、ここらはこんがりまくりでどうしょうもないところだが >>37
破軍の星で行けそうだな
最年少でなくなっちゃうけど >>48
こういう歴史があるから戦国時代とか江戸時代は朝廷が動かなかったのかな この時代に入る前にちょうど天皇の血筋も分裂してたって話がよくできてるな >>51
歴史に爽快感とか、読後の清涼感とか、
「あーおもしろかった」を求める人にとっては面白くない。
善意が地獄に直行してるような史実が好きな人にとっては面白い。 >>51
この時代は武士のモラルも形成されていないしから、皆我欲むき出しで面白いよ >>17
意気込んで天皇親政やったけど、新しい事をやり過ぎたり部下に実務能力が欠けてたりして、振り回された多くの武家がキレた。 >>76
荘園否定されて権力なくなって権威だけ残った朝廷には何もできなかった >>53
織田信長が徹底して鬼畜に振舞ったのも
こういうふにゃふにゃの積み重ねから学習してたのかもねぇ >>62
正当性を朝廷に委ねるというメリットが大きいからね
易姓革命と決定的に違うのがこの点 直義が死んだのは高師直の死んだちょうど1年後の同日でおなじく1年前に病死した1人息子の命日の翌日 日本3大弟ちゅちゅみー
のぶなが
たかうじ
まさむね >>17
北条家残党「鎌倉占領したったwwwww」
尊氏「あいつら討伐したいから命令ください!」
後醍醐「君を大将にするの怖いから無理」
尊氏「しょうがねえから無断で出陣だ!」
後醍醐「反乱者だ!殺せ!」 禁断の手を使うくらいなら
いっそのこと
禁断の関係になった方が幸せになれたんじゃね >>17
北条家残党「鎌倉占領したったwwwww」
尊氏「あいつら討伐したいから命令ください!」
後醍醐「君を大将にするの怖いから無理」
尊氏「しょうがねえから無断で出陣だ!」
後醍醐「反乱者だ!殺せ!」 >>89
納得しねえからその後も戦乱が続いたんじゃねえか(´・ω・`) >>87
みんなが良い方向にと思って各々動いてるのに誰も望んでない方向に行くのって見てる分には楽しいよな .∩_∩
( ´)
( つ◇.
∴∵ パラパラ
▽
┴
..∩_∩ お飲み物をどうぞ
( ・(エ)・)▽
( つ┴ 尊氏が京を不在にしている間に南朝方との和睦は破られた。
宗良親王・新田義興・義宗・北条時行などの南朝方から襲撃された尊氏は武蔵国へ退却するが、すぐさま反撃し関東の南朝勢力を破って鎌倉を奪還した(武蔵野合戦)。
一方、畿内でも南朝勢力が義詮を破って京を占拠し、北朝の光厳・光明・崇光の三上皇と皇太子直仁親王を拉致し、足利政権の正当性は失なわれるという危機が発生する。
しかし近江へ逃れた義詮はすぐに京を奪還し(八幡の戦い)、佐々木道誉が後光厳天皇擁立に成功した為北朝が復活、足利政権も正当性を取り戻した。
しかし今度は、佐々木道誉と対立して南朝に下った山名時氏と楠木正儀が京を襲撃して、義詮を破り京を占拠した。
尊氏は義詮の救援要請をうけ京へ戻り義詮とともに京を奪還した。
正平9年/文和3年(1354年)には直冬を奉じた旧直義派による京への大攻勢を受ける。翌年には尊氏は京を放棄するが、結局直冬を撃退して京を奪還した。
この一連の合戦では神南での山名氏勢力との決戦から洛中の戦に到るまで道誉と則祐の補佐をうけた義詮の活躍が非常に大きかったが、最終的には東寺の直冬の本陣に尊氏の軍が自ら突撃して直冬を敗走させた。
尊氏はこの際自ら直冬の首実検をしているが結局討ち漏らしている。
尊氏は島津師久の要請に応じて自ら直冬や畠山直顕、懐良親王の征西府の討伐を行なうために九州下向を企てるが、義詮に制止され果せなかった[4]。
正平13年/延文3年(1358年)4月30日、先の直冬との合戦で受けた矢傷による背中の腫れ物がもとで、京都二条万里小路第(現在の京都市下京区)にて死去した[4]。 観応の擾乱なんて日本史の受験勉強では全くやらなかったなあ >>87
けど、幕末も見てよくよく見ると清涼感がないんだよな
三英傑も良かったなと思えないし、慶喜もはっきりしないし、井伊直弼はやっぱり嫌な奴だし ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています