【第二十八回】太平記 part.28『公家か武家か』 [無断転載禁止]©2ch.net
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二十八回 【開戦前夜】 http://www2s.biglobe.ne.jp/ ~tetuya/REKISI/taiheiki/taiheiki28.html 前スレ 【第二十七回】太平記 part.27『公家か武家か』 http://nhk.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1463725409/ >>178 確かに顕子の父が六波羅で死んだことは、数少ない顕子自身のセリフのなかで語られているな。 但しドラマにおいて顕子自身の素性・身分は明かされていないからな。 高時の正室なのか側室なのかも含めて・・・。 あとこのドラマの役名で少々一貫性に欠けるという印象を受けるのは、北条一族の名前だな。 例えば赤橋守時・金沢貞顕・大仏貞直などのように、 北条氏の庶流の人物を北条以外の苗字(家号)で呼んでいるケースもあれば、 六波羅探題北方の仲時は、「普恩寺仲時」ではなく「北条仲時」だったりする。 しかし元弘の乱勃発時に、上方へ派遣する軍勢のリストを高時が読み上げる場面では、 「普恩寺相模守」(仲時の父基時?)という名前があったりもする。 あと貞顕については、最初の2回だけ「北条貞顕」で、その後「金沢貞顕」に変えているから、 ここにどういう意図があったのかは不思議というほかない。 得宗家嫡流以外が北条を名乗るのは制限があったともいうね 得宗様からはやっぱり家名で呼ばれるのが自然かも >>183 最初のときは連署だったからでは? 連署降りたら金沢にとか 六波羅探題にしろ役職つくと北条名乗れるとか とうこ、高時、日野様がテレビ東京のドラマ出てるw 太平記の人が群れてるとニヤニヤしちまうね >>184 その手の制限は、室町幕府が足利一門庶家に対してやっていたのは聞くが、北条はどうだろう? 家格的には赤橋流より下のはずの政村流には、北条以外の家号みたいなものがなさそうだし。 >>186 初登場の時点での貞顕は、連署どころか評定衆にも未だなっていない段階だよ。 初回の貞氏との会話のなかで、 「自分がなかなか評定衆になれないのは、長崎殿への付け届けが足りないから・・・」 みたいな会話をしている。 たぶん尊氏が誕生した頃だと、執権は師時、連署は後に執権になる大仏宗宣だろう。 >>180 そんな逸話あったんだ!高時って実際は暗愚じゃなかったのかもね。 >>189 暗愚かどうか以前に、実際の高時は病弱で表に出てくること自体があまりなかった人物というが。 そういえば、このドラマの「妖霊星」の回での嘉暦の政変の描写は、 無理やりカラス天狗を絡めようとした雰囲気もあるがw トップが有能でなくても幕府は機能していたので 高時の時期の鎌倉幕府はある意味完成形に近かったのかもしれない でも完成形になったら滅びちゃった、と 原典太平記だと、あの崇徳院を始めとした大天狗たちが多数現れて 政変は概ね「天狗の仕業ぢゃ!」 しかし大河版も吉川版太平記も天狗はいないからね 組織が完成されると 「トップが誰であっても組織は動く」ようになるのかな(?) 源頼朝→御家人合議制(→執権制)→得宗専制(執権より身分は下?)→御内人専制 →崩壊 史実は知らないけど フランキー堺(長崎殿)は「公平な政治」を口にしていたが、実際はどうだったのかな 息子のほうは賄賂政治家だったようだけど 今日BS−TBSで昭和63年元日に放送された家康ドラマを放送していた 真田さんが三成役だった うまいねえ 今の俳優にあのレベルはいない 緒形拳さんも出てた >>191 >>193 むしろ逆のような気がする。 得宗専制は、トップである得宗に大きな権力が集中する体制だが、これは裏を返せば、 大きな権力が集中する得宗は有能であることが前提の体制。 しかしそこに政治能力の微妙なトップが生まれてしまったから、 そのトップの持つ権力に周囲の人が群がって政治を振り回し、 政権の混乱・崩壊に繋がったというイメージだと思うよ。 あと、これと似たようなパターンとしては、足利義教の時期の室町幕府の将軍専制体制と、 義教死後の幕府の迷走が挙げられるような気がする。 >>156 追加 高師泰、高師直に姉妹で、とーちゃんが創建した深恩院総持寺で尼をやって奴がいたらしい まとめ @高師重(三河国額田郡菅生郷郷司、足利貞氏、足利尊氏執事) ・高師泰(尾張守、幕府執事) →Aへ ・高師直(三河守、幕府執事) →Bへ ・貞円(三河国滝山寺大勧進) ・満目尼(三河国深恩院総持寺開基尼) ・女子(高師春室)→高師兼(三河守護) A高師泰(尾張守、幕府執事) ・高師世→いち(三河国総持寺初代住持) ・明阿(三河国総持寺開基、高師冬室) B高師直(三河守、幕府執事) ・高師兼(猶子、三河守護) ・高師冬(猶子、三河守、関東執事、室は明阿) ・高師夏 ・高師詮 ・女子(渋川直頼室) 直義がなまじ能力があったのが不運だったな いや、でも直義がいたからこそ足利があそこまでなったってのもあるから何とも言えんな >>197 史実もドラマも直義ありきでしょう 直義あっての尊氏 直義あっての室町幕府 その直義を自らの手で殺したときの想い 筆舌に尽くしがたいよな まあ結局直義の政治手法はその後の室町幕府には踏襲されていかない部分も大きいが、 一方で後々まで武家社会に直義信奉者が多い理由だな。 >>198 まあドラマではあんなだったけど実際はもう愛は完全になくなっていたんじゃないかな・・ 直義が北へ逃げていったあとの尊氏、今までとは別人格レベルで行動早いし北朝捨てる剛腕ぶりだし 直義死んだ直後の3月に宇都宮さんか誰かに出してる感状で直義反心によって起きた戦いのときに〜みたいな書き方してるのを見て ああもはや尊氏にとって直義は謀叛人でしかなかったのかあ・・と悲しくなったのよ(´・ω・`) そんな感情的な直義への憎しみなんて、尊氏にあったのかなあ 師直殺害の罪をあれだけ上杉に厳しく問うたのに 弟である直義だけ赦免してしまったら、部下たちは反感を持つだろう >>200 その時期だと旧直義派が各地で蜂起している状況があるから、個人的な思いはどうであれ、 直義派が反乱軍で、自分の側が正統であることを強調せざるを得ないでしょう。 嘉元の乱でしくじって以降、政治への興味を失った貞時 嘉暦の政変でしくじって以降、政治への興味を失った高時 やっぱり親子は似ているねw >>203 実際歴史でもそうかもしればいけど、大河って親と子の関係を軸にするよね。 俺ら程度でも親とは色々難しいもん。 でも貞時は平頼綱誅殺に成功して得宗独裁体制を固めたらからね。 そこは円喜暗殺に失敗した高時とは違う。 でも貞時はそれで調子に乗って一門の中で面倒くさいやつを殺しちゃったら 思いのほか反発が大きすぎて引きこもっちゃったけどw その負の遺産を息子が背負っちゃったんだよな 直義も師直も右馬介もみ〜んないなくなって、 最後に残った判官殿に、幕府と息子を頼んで、 「ずっと友だと思ってきた」と言われた判官殿が、 一瞬うるっと来た感じで、「先に行っておりまするぞ」と 照れ隠しのように去っていくシーンはやっぱり良い。 ドラマのなかでも言っていたが、道誉は尊氏という人物が個人的にも好きだったというのは、 何となく当たっているような気がするね。 道誉は当人の立場や生い立ちからすれば、得宗専制体制のもとでも、 後醍醐天皇の取り巻きのなかでも、直義派の武士たちの間でも、 どこにあっても上手くやっていける要素を持っていたのに、 結局ずっと尊氏に近侍しているわけで。 そういえば先程やっていたNHKニュースで、来年の大河の新たな配役発表の話が出ていたが、 今川義元役に決まった春風亭昇太が、 「今川家が大好きで普段から今川の家紋を使っている」と発言していた。 で、てっきり足利一族の二引両の紋かと思ったら、違う紋が出てきてちょっと残念だったw 何でも、源氏の白旗は嫡流の鎌倉幕府だけが使えたのに対して、 区別するために新田の旗は一本、足利の旗は日本の横線を引いたというのが大中黒と二引両の由来だとか 六波羅攻略で尊氏が源氏の白旗を掲げたのは、我こそが源氏の嫡流って宣言なんだろうな >>209 あれを尊氏に与えたのは高時だから、 高時が足利を源氏の嫡流と認めたということか >>210 迂闊ですな、太守もw 忠臣尊氏を見習って、諸国の源氏も幕府に従えという意味だったのかもしれないけど 赤松氏も名和氏も源氏を自称していたからね >>210 鎌倉幕府は霜月騒動後の貞時の時代、 一時臣籍降下して源惟康と名乗っていた将軍惟康を皇族籍に戻して惟康親王とした頃から、 足利氏に対して、鎌倉幕府への忠誠と引き換えに、 源氏嫡流と公認するような政策を取るようになったという説があるな。 >>211 ただ赤松や名和は源氏を名乗っているといっても村上源氏だからなぁ。 名和はなぜ村上源氏なのかよく分からんが、赤松に関しては、 建武政権期の大塔宮派に北畠など村上源氏が多く、赤松もそれにあやかったためらしいね。 >>211-212 つうか武士の系図の仮冒なんて日常茶飯事だよね だいたい執権北条氏自体も本当に平氏の流れか怪しいもんだし でも赤松と名和ってどっちも自称村上源氏なのは単なる偶然? 系図を調べるとどっちも村上源氏雅兼流で鎌倉初期の公卿源師季の子孫らしいのだが しかも赤松則村も名和長年も師季から8代目になってるんだが 鎌倉初期の人物から則村・長年まで途中に7世代もあるわけないし 系図捏造するにももう少し上手くやれよと言う気がするね 今日の、ニュースで、生前退位の意向を示された天皇陛下ですが、太平記の時代の、後醍醐帝は、建武のね >>216 んごうを、付けられようとした時に、取り巻きの公家が、不吉だから、考え直して下さいと、言ったとか、話で、聞いた事があるのですが、詳しい情報を知っている人がいたら、教えて下さい。 ねんごうを、変換する時に、通信状態が、悪くて、変換する前に、書き込み完了を、押した事になりました。読みにくくて、申し訳ありません。 >>219 江戸時代まではね。明治時代以降は、初めてです。 いっそのこと、木や金で作った帝でもよいのではありませぬかな? >>214 それは何ともいえない。 ただ武家で村上源氏というのが、そもそも割りと珍しい気がする。 >>219 後醍醐帝が今上帝のように生前譲位を考える度量を持っていれば、 南北朝の内乱も起こらずに・・・。 ただそれをやったら後醍醐帝じゃなくなってしまうがw >>223 師直、言葉を慎め! http://www.ashikagatakauji.jp/ashikaga/acity05.html このサイト、足利家時が文保元年に三十五歳で自害したとあるんだが、 家時が文保元年=1317年に三十五歳だと、貞氏より年下になってしまって おかしくね? >>226 足利家時の没年月日は、文保元年という説もかつてあったが、 現在では弘安7年(1284年)6月25日で決着している。 文保元年説は、尊氏の異母兄高義の没年と混同された可能性が高いと言われる。 あと、その「足利尊氏のホームページ」ってサイト、前にも話題になったことがあるが、 人物の生没年なんかの前後関係は、結構いい加減だよ。 例えば若くして死んだはずの義康(足利氏初代)が、 嫡子義兼が成人するまで生きているような話になっていたりするし。 まあ、あくまで個人が趣味で作った妄想ストーリーなんだろうけど。 >>227 なるほど。確かに個人の妄想話として楽しむのがよいかも知れませんね 足利義康でいうなら、自分個人は2013年の大河平清盛に足利義康が登場 しなかったのが太平記ヲタとしてすごく残念だった 史実じゃ保元の乱で大活躍してるんだし、足利氏のご先祖さま出して 欲しかったな 足利=関東の設定だから、色々と無理矛盾が生じるとボキは思うな >>228 その気持ちは分からぬでもないが、要は話を単純化したんだろう。 「草燃える」には足利義氏が出てきたらしいから、それで我慢するしかないかなw >>229 ドラマでは「凱旋」の回で師直に「木の帝、金の帝」発言をさせているね。 完全版DVDは「足利決起」から「凱旋」までが一つの巻になっているから、 「足利決起」「京都攻略」「鎌倉炎上」の神3回を見たついでに、 「凱旋」の回もついつい見てしまうな。 昔は良かったーの爺さまたちまたやり始めたのかよ 義康省略は単純化でも何でもない、要らないから省略しただけのこと 保元の乱への起動要因から見れば何一つ重要性をもたない義康は 乱に至るまでの息の長いプロセス描写をみっちりやった平清盛においてフォーカスされるべき人物では到底ない 平清盛はいきなりとってつけたように人物を登場させ大活躍させるようなお目出度い大河ではなく 常に仕込みとタンドリに意を配っていた 平治の乱ではどうでもよい???二条親政派にフォーカスしたのはナンセンス 一方で保元の乱における大ヒーロー義康をオミットしたのは犯罪的 こういうとんちんかんを偉ぶって喚くあんたらが太平記を大河史上に冠たる作品と讃え もって昨今の大河は屑なる妄言の拠り所としている現状は 名作太平記にとっても不幸な事態と言わざるをえない >>232 読みにくい! せめて句読点くらい書いてくれ。 何が言いたいのかサッパリ分からんw 清盛エリートは鼻つまみものだな こいつの文章みて清盛に興味を持つものが一人もいないだろう まあ、逆賊ってことだなw >太平記スレの活性化のために、 勘違いキチガイの連投が止まらない 社会からの落伍者 >>232 何で突然こっちの大河に遠征してきたんだアンタw 拙者が御供仕りまする故、福原に帰りましょう。入道相国様がお待ちです >>232 別に歴史談義そのものは否定しないけど、お前の存在だけは全力で否定させてもらうよ スレタイも間違える臭いスレだから変なのが寄ってくる 都知事になったら真っ先に 韓国人学校つくるニダ! http://goo.gl/KVTaS8 >>226 家時の後見人、足利家氏が三河で出家して以降、事実上菩提寺は滝山寺だから、鑁阿寺の記録が不正確 三河で出家した貞氏は、妾がいた三河には鎌倉から頻繁に行き来しただろうがが、恐らく足利荘には殆ど行っていない 尊氏直義が生まれただろう、上杉氏の日名屋敷 ■上杉氏 上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。 丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。 『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。 その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か ■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷) 鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。 足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、 翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。 頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。 日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。 【生前退位】政府 極秘に皇室典範の改正を準備(映像ニュース)©2ch.net daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1468471395/ 【生前退位】恣意的な退位排除、「称号」など課題 皇室典範改正©2ch.net daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1468448828/ 保元の乱のときに清盛と頼朝の父と足利の祖先を 3人並べて登場させなかった脚本はセンス悪いと思う 多少の史実は曲げても昇殿できる3人の武士として出すべき そんなことよりもっと大きな問題点は摂津源氏の頼政が河内源氏の義朝を様付けで呼んでいたこと。 あの時点で摂津源氏と河内源氏の間に上下関係なんてないだろうに。 草燃えるでも足利は影薄かったしな 義兼は頼朝の相婿でもあるのに扱いが悪い 天皇機関説事件(Wikipedia) ・・・1935年(昭和10年)2月18日、貴族院本会議の演説において、菊池武夫議員(男爵議員・陸軍中将・在郷軍人議員)が、美濃部達吉議員(東京帝国大学名誉教授・帝国学士院会員議員)の天皇機関説を国体に背く学説であるとして 「緩慢なる謀叛であり、明らかなる叛逆になる」とし、美濃部を「学匪」「謀叛人」と非難、井田磐楠らと貴衆両院有志懇談会をつくり機関説排撃を決議した。 菊池議員はこの前年にも足利尊氏を評価する記事を10年以上前の同人誌に書いた中島久万吉商工大臣を「日本の国体を弁えない!」と非難して辞任に追い込んでいる。 菊池議員はそもそも、南北朝時代に南朝方に従った菊池氏の出身で、天皇を神聖視する陸軍の幹部でもあり、また、右翼団体の国本社とも関係があった。 この菊池議員の演説をきっかけに軍部と右翼による機関説への攻撃が激化する。同年2月25日、美濃部議員が「一身上の弁明」として天皇機関説を平易明瞭に解説する釈明演説を行い、議場からは拍手が起こり、菊池議員までもがこれならば問題なしと語るに至った。 それでも議会の外では右翼団体や在郷軍人会が上げた抗議の怒号が収まらなかった。 しかしそうした者の中にはそもそも機関説とは何たるかということすら理解しない者も多く、「畏れ多くも天皇陛下を機関車・機関銃に喩えるとは何事か!!」と激昂する者までいるという始末だった。 大逆転の回の、北畠軍の上洛の事だけれど、奥州から、駆けつけたとあったが、その間は、城を、あまり攻めず、一気に、上洛したのかな? >>243 ここの爺様の罵倒に従って、二条親政派を省いて平治の乱をやっていたら、センス以前に この脚本家バカ?乱の基本構図すらわかってないじゃんかと、ふつうに知識と常識のある層からは嘲笑されていただろう。 もちろん怜悧な頭脳をもつ脚本家ゆえ、そのようなヘマと野暮とは無縁。 他方、保元の乱への過程で1秒でも出す理由を見い出せない義康はまた、王家と並ぶ対抗軸として設定した 平氏vs源氏のストーリーライン上でも出る幕がない。出しても話に絡めようがない。出したら焦点がボケる。 足利のご先祖様なのでストーリ上の必然性がないのにとりあえず出しました、みたいなセンスのないことはやらなかった。 清盛は、通常整理対象となるような人物まで多数とりあげかつ有意に動かしていたが(たとえば忠度)、 残念ながら、義康は平清盛物語において、顔見世以上のとりあげる意味をもたなかったということだ (おそらくPの判断に脚本家が従ったのだろう、。オリキャラの意味づけと動かし方についても抜群で、 ましらの石みたいな?がつくのは清盛にはいなかった)。 >>243 「清盛」の保元のくだりは、軍事的活躍の源氏軍団よりも本来院側に近かった清盛の後白河へのくら替えによる政略的インパクトを強調したかった。 足利省略はやむおえんでしょう。 なるほどこの時足利が登場してれば、鎌倉以前からの武門の家として視聴者にうったえることもできたでしょうに。 権力者を憚って気が狂ったフリをしてきた歴史なのか それとも血統的にガチだったのか・・・ >>250 清盛はもともと鳥羽法皇の院の近臣にして北面の武士という経歴なのだから、 彼が保元の乱で崇徳上皇方につくという選択肢なんて最初からあり得ない気がするが。 >>248 この当時の戦の仕方ってどんな感じだったんだろうね?判官殿はガンガン刀振るって戦って寝返り御免!みたいに叫んでるけど大将も乱戦の中に突っ込むスタイルだったとか? 思い返せば義貞も西岡徳馬も最前線で刀持って戦ってたよなwアグレッシブな武将が多かったのか? 映画版クレしんの戦国時代物の城攻め描写は当時の戦法をかなり忠実に再現してるって聞いたことある。戦国時代なのに石投げてたりするのにはびっくりした。楠木軍かよって思ったw ほら長文清盛がきた......なんでわざわざ他の作品をdisらないと自分が好きな作品語れないんだろ? 素晴らしい!面白い!って思ってるもん同士スレで愉快に語ればいいのに >>254 今、武田信玄の再放送で、村上弘明さん演じる源助、つまり、高坂昌信の若い頃に、石を、投げているね。 >>255 太平記は清盛の次ぐらいに好きな大河だよ。 お前らがケチョンケチョンに清盛を言うほどには、太平記に不満は抱かなかった。 それでもいくつかアレっていうのは当然ある。そういうのがない大河は存在しない。 >>254 追伸、元寇があってから、一対一の戦いから、騎馬武者は、騎馬武者の集団の戦いに変わったと思う。 歴史漫画の武具紹介で ナギナタとか、騎馬武者を引き倒す熊手とか みた覚えがあるな 古典太平記はまだ一騎打ちシーンとか豊富に出てくるね 室町時代は応仁の乱を境に足軽による集団戦メインに変わったという >>260 足軽って、言うけれど、あれだけの鎧を着て 動くのは、大変だと思う。それでも、応仁の乱の絵図を見ると、足軽は、兜は、付けて無い ようなので、ある程度軽いから、足軽と名付けたのかな? 清盛は至上最高の大河であり、これへの批判中傷は許され得ないといふこと。 清盛スレでいくらでも賛美してください スレ違いは、とく退がれ(^ー^)ノ 何年か前にNHKが行ったアンケートでは 大河ベスト1が「義経」だったはず いくら組織票でも、それはないだろ・・・と思った 北条得宗家が平家の赤旗を掲げる以上、清盛が無關係とは言はせぬ。 単に中世大河ファン同士で喧嘩させたい釣り師でしょ 予想スレにいるよ、中世大河絶対阻止するマン >>267 何で中世ダメなんじゃ?NHKの刺客が工作してんのかね?金が掛かるからw >>268 戦国以外作んなとか言っていた気がする。まあ、大河化して欲しいお気に入り武将でもいるのだろうw 武将って単なる今で言う権力振りかざしまくりの政治家みたいなもんなのに アイドル的にもてはやす奴がいるのがよくわからん かっちょいい逸話もどうせ家臣に自己宣伝で書かせてるんだろ >>263 いい加減その戯言やめろよ。 清盛スレでの批判大歓迎だといつもお願いしているではないか? んでもって、たまに王家がー等のアホウヨ的誹謗中傷以外の何かしかの批判が書き込まれ、 それに対して反論を述べるや、即刻捨て台詞のうえ逃亡の繰り返し。 主張反論再反論のサイクルをこちらが望んでも拒んでいるのはお前らだ。 >>272 お前の言ってる事やマナーがすべてひっくるめて取るに足らないってことだよw なんで自覚できないのかね ブログでもやればいいのに ブログのやり方もツイのやり方も知らないね。どうでもよい。 俺は基本アナログ紙人間だから。 たかが2ちゃんされど2ちゃんということだ。これオンリー。 そろそろまともに清盛の中身を語ってみたらどうだアホウヨども。 だいたい、このスレで目を疑うような頓珍漢な清盛バッシングをおっぱじめたお前らの 醜態は棚にあげて、それに対して心ならずも反論した俺が「一切の批判を許さない」 だのよう言えたもんだ。ほんとこんつらもんたちが太平記マンセーの主力とは、 尊敬する永原慶二先生も泉下で泣いてるわ。 おやぬみ。 >>273 きっちり釣られてるなあ 清盛スレに叩きに来いと言ってる時点で対立厨だと自白してるじゃん、 そもそもこの長文厨は、居着いている清盛スレでも相手にされない荒らしだぞ、スルーしとけ お蔭で最近の太平記スレにゃ、史学者の皆さんもドラマ評論家の皆さんも来やしねえ 俺たちゃ大人だー、本物の批評家だー、史学舎だー 勝利宣言ですか? で、何も語らない、語れない まあいいですけど >>271 江戸時代の大名やその家臣たちは全然人気ない訳で(幕末除く)何やかんやで、戦争という狂気を戦い抜いた人間が一定の人気を得るのだと思う 島左近なんて壮年まで何やってたのか良く分かってないんだけど、関ヶ原の戦いぶり(たった半日くらいだけど)が凄まじかったから現代まで名前は伝わってるワケで 西軍は負け戦だったから、敵方の東軍側に残った記録だからホントにヤバかったんだと思う。 島左近さんは最近本人の名前の入った古文書が見つかったとニュースがあったねえ しかしあの時代は語るとき江戸時代の講談が強すぎて残念 おれ南北朝は初心者だけどこっちはみんな当たり前に1次史料オンリーですげーなーと思うわ 直義の八朔の話なんて完全に講談の類いだと思ってたけどこれも元ネタあること知ってビックリ >>275 連休中はスレを見ていなかったが、今日久々に見てみたら、案の定まだ清盛ヲタが暴れているw まあ>>274 のような危痴害清盛ヲタが暴れまわっている間は、 歴史談義もドラマ評論もまともに出来ないからねぇw >>279 ただ古典『太平記』や『梅松論』は一次史料なのか、という問題はあるけどね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる