山岡荘八の「徳川家康」では築山殿は義元の実の姪
桶狭間(1560)の後、清洲同盟1562で築山殿の父が自害
人質交換で子供二人とともに岡崎城入りだったと記憶してる
wikiにある「築山殿を嫌う家康の生母・於大の方が岡崎城に入ることを許さず、
岡崎城の外れにある菅生川のほとりの惣持尼寺で、幽閉同然の生活を強いられた」
1570、ようやく岡崎城に移った」というのは何を根拠にしているんだろう?
於大の方は再縁の夫・久松俊勝1587死亡まで夫の城で共に暮らしてたんじゃないのか?
家康を産んで間もなく実家に帰された於大の方に許す許さないの権限あったの?

でも山岡の家康では第一子が亀姫だけど(築山殿は亀姫が氏真の子ではと怯える)、
wikiだと信康が先に生まれてるね
フィクションとして多少の改変があったのか、50年以上前の作品だからその後新資料が出てきたのか