【2012年大河ドラマ】平清盛 Part179©2ch.net
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【2012年大河ドラマ】平清盛 Part178
http://nhk2.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1492092790/
●荒らしと思われるレスには各自スルー またはNGで対応
●>>950以降の有志が次スレを立てる
●スレ立て宣言と誘導は必ず行い 無理な場合はすぐに申告すること
●スレを立てられない人は 次スレが立つまでレスを控えるように
【2012年大河ドラマ】平清盛アンチスレPart28
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1356934811/ >>474
それは不勉強の言い訳のようにも聞こえるな。
演じる人物や時代背景に興味を持って掘り下げていく
杏ちゃんタイプの方が長い目で見たら大成すると思いたい。
朝ドラは黒田家三人衆がワチャワチャやってるだけでも楽しい。 ごめん。レス番間違えた。>>528 は >>527へ。 いわば原典主義だね。美術批評におけるイコノロジー分析の賛否。スコア聖書主義の指揮者に行間を読みアレンジまでしてしまう指揮者。
作者の意図を離れてテクストをモノと見做して構造分析すべしとする文学批評の方法論争等々、いろんな場面で顔を出す対立だ。
社会的・文化的背景まで踏み込んで台本というテクストを解釈するか否かと、役者が勉強家かそうではないかとは別次元の話だろう。
外部からの余計な情報を遮断して、台本を徹底的に読み込むことで、内側から人物イメージやストーリーの構成、流れを掴んでいく。
こちらも立派な役作りに対する姿勢となりうるよ。台本もろくすっぽ読まずに適当に演ずるのとはまったく異なる。
まあ、二者択一の問題ではないと思うが、余計な外部情報が台本の内部構造に対する整合的な理解を歪めるということもありうるだろうし、
歴史的文脈に対する理解があって初めて台本の真意を掴めることもあるだろう。このような意味で優劣はつけられないと述べた。 都市伝説っぽい話ながら
セリフ覚えずに現れカンペ見ながら圧巻の演技をしてしまう
丹波哲郎のような人もいる 勝新太郎のようなのめり込み方をする松ケンも見たかったな。
彼のドラマづくりで特に目立つのが、特異なカット割り。 ストーリー同様、キャラもギチギチに組み立てられているので、俳優の自由度は少ないよ。
勝新なら、その場で好き勝手変えてアドリブしまくっても、誰も文句言えなかったかもしれないけどw >>530
スコア聖書主義がなんなんか知らないけど
単純な中身をこれだけわかりにくく長く書ける才能には脱帽 大河板でトスカニーニvsフルトヴェングラー とか書くのはNGでしょ。ドイツ後期ロマン主義のプリズムを通さない原ベートーベン
(もっともトスカニーニがよりベートーベンのスコアと様式に忠実だというのは、古楽器勢の台頭によりとっくの昔に過去のもの)。
ちょうど500年前ということで盛り上がっている、ルターさんの「聖書へ帰れ」を念頭に入れたものだ(教会の教えを媒介としない)。
また荻生徂徠は、朱子学という「粉飾」を取り去って、古の聖典に書かれた中国の聖人の教えに直接立ち戻れと説いた。
つまりここでは、役者が役作りするにあたって、さまざまなコンテクストよりもオリジナルな原典=台本を何よりも重視して
解釈根拠とすべしとする姿勢の比喩。長いどころか長く書けないので舌足らずとなってしまった。
で、おたくはこの「単純な問題」をどう考えてるの?俺は日和見ぎみに正解はないと書いた。
すまんが寝るのでよかったら書いといて。役者のタイプ論として結構興味深い問題でしょ。 >>533
勝新太郎は好き勝手というより、作り込んだ上で、完全に役に入り込んで区別がつかなくなる(狭い意味での役者バカ)という流れでドラマを組む。
そして、役者バカの自身を、これまた監督バカの勝新が観てやっている。
役の上で必然的に出てくるものを細かく淡々となして、決して無茶なことはしない。 松ケンは単に頭わるいボンクラ
勝新のような芸もないしな
台本読んで分からなかったんで
マンガの顔真似したとか言ってたな マツケンは初期の外見(太り気味、極端な汚しーこれは演出)が問題ありだったのと、
もう一つ発声がイマイチだった気がする。
しかし何度も言うように、トータルでこの清盛を演じきれる俳優は、おそらく彼以外にほとんどいない。
のめり込んだ、なり切ったといった表現は自分にはよくわからないけど(演ずる役を客観的に
突き放して眺めることも必要だろうし)、変わらぬ清盛と変わっていった清盛に対する理解は
高い水準に達していたと思う。この清盛像に対してマツケンは、時代背景や人物像について
資料を博捜して学ぶよりも、台本読み一本から直感的に掴んでいくアプローチをとったようだ、
というのが直近の話題。
勝新と比べるのは畏れ多いが、天才棋士役でも言われたように、マツケンは「のめり込む」
タイプではないだろうか。
一方、パパ盛が担当する青年頼朝の入りは、サラ飯のナレみたいな声とノリで楽しい。
しかし、都人にして孤独な貴種という流人頼朝像からは、好評とは言えなかった岡田マは
自分にはよりらしく見える。もっとも、その後挙兵し鎌倉殿となっていくにつれ、パパ盛の方が
よりらしい頼朝となっていく。野生児政子によって生命力を注入された以降、どんどん精悍さを
増していった岡田マであったが(逆に杏政子はグッと落ち着きを増していく)、線の細さは否めなかった。
でも最後まで良くやったと思う。 サラメシって、女経営者、女社長って出てくるかな?
俺が見た限りない。
たまに極端に偏食の男サラリーマンがいるくらい。 でアホウヨ運営にスカスカババアども、中には双方を兼務する成れの果てもいらっしゃいますが(爆
いじけて泣きべそ、恨み辛みばかり晒してないで、たまには再び、大河の清盛でわろてんか!
お笑い振り撒いてくれよ!
・時代考証デタラメ、歴史無視の捏造ファンタジーー他大河のトンデモは目に入らなくても、
歴史と人物の核心に迫り、あるいはストーリーの論理展開上に現れたエア矢、ホモ、歌もどき、一騎討ち
怨霊、巻き毛は許せない
・無意味で下らない史上最低オリキャラ兎丸ー海賊討伐すら捏造と言い出す始末なので、海賊家人化が
その後の平家にもたらした意味の理解なんぞ夢のまた夢
・(かと思えば)史実を並べることで精一杯の年表大河ー確かに昔は良かったーは俗説を並べて因果連関を
欠く場合が多いが・・
・海賊王がーの漫画パクリ大河ー海賊王の2秒でオツムがパンク。以来オウムのように鳴き続けるのみ
・王家がー、汚盛がー、さらに塵一つ落ちてない王朝絵巻さながらの平安京を行き倒れの病者貧者と埃で汚して
貶めた反日大河ーいやいや古の日本の歴史と文化とそれらを担った人々への愛に満ちていました
・季節感一切無しー平治の乱での雪、鹿ケ谷での蝉・・・
・合戦がショボいー平安の戦いは戦国のそれでもましてや近代戦ではないんですけどぉ
・歴史に無知なためどうでも良い小ネタのシークエンスで誤魔化したーこんなに質量共に歴史情報豊かで
論理的に構造化された大河が他にどこにあるねん?
・真の歴史好きとコアな大河ヲタを激怒させた虚仮威しのサブカル大河ークオリティ高すぎる「王道大河」
ですんませんでした
・清盛と平氏に関心ないので???朝廷昼ドラに逃げたー確かに鳥羽たまなり劇場には魅力されましたけどさ
・線で歴史を繋げることが出来ずすべてが点のチマチマ大河???ー一言で言えばタテヨコ「リンクの鬼大河」ですた
・主人公良い人ヨイショで小さくまとめた小河???ーお点前が生きた平清盛の一生眩いばかりのダイナミックレンジ
でござりますby西行
・登場人物がたちが感情だけで動く女脚本???ードラマを動かしたのは歴史の動態そのものでした
・奇を衒った清盛と頼朝で大失敗ー無頼ではなくお行儀の良い清盛、孤独なシティボーイではなく、
娘御とイチャイチャしつつ復讐心満々の頼朝が「正統」なんだって!
・とってつけた常盤側室話ー脱線恋バナしかオツムにないため、本質のみをむんずと掴み出した描写を腐す一方で、
同じ口でルソン助左衛門と真田十勇士の凄まじくとってつけた顔見世出演なんかを礼賛
・時代劇なのに身分の違いを完全無視ー「身分外」兎丸のタメ口は許せないが、武家の娘きりのタメ口は「斬新」
・女のくせして女性描写がなってない特に時子ーミタニンのきり梅松稲春スゲーには分かるまい
・真田丸は真摯に歴史と向き合ったギリギリの緊張感があったが、清盛はそんな緊張感はゼロー痛快真逆言説!
・役者が若すぎる。学芸会ー役者が年寄りすぎるとたまには他大河に物申してくらはい
まだまだあったヨロシク!さすがにスイーツ、戦は嫌じゃ、主人公美化といった「昨今の大河はー」
に不可欠のお気楽批判はなかったと言いたいところが、結構あったんですよこれが(苦笑。 義経でそれこそとってつけたように経ケ島人柱拒絶伝説が出てきた(「工事遅れてます。人柱立てますか?
バカヤロウそんなもんいらん」)
義経大河なので悪くはないが、清盛では、長年に及ぶ盟友兎丸との交流、決別と兎丸の無残な死、
そして功労者兎丸への供養ーこうした息の長いドラマ展開の終点にこの著名エピが巧みに摂取されていた
(「人柱を立てずとも兎丸の名を刻んだ経文を書いた石を沈めれば良い。兎丸の志と共に」)。
偽髭切創作エピも悪くない。ただ、頼朝は初めから心の奥底で復讐を誓っていたというのでは、池禅尼が浮かばれない
(上西門院殿上始めの際に、目の前の清盛に圧倒された中川頼朝のような経験をもたない池松頼朝が、
渡頼朝を恐れなかったことは理解できるが)。
さらに、仮に頼朝の心に期するものがあったとしても、それは清盛平家への一方通行にすぎず、
絶頂期にあった平家の公達たちが、清盛を騙した事実を知って挙兵の10年以上も前から強い警戒心を抱き、
加えて存在すら忘れていそうな都の義経の動向にもピリピリし始めたという創作は、義経主人公ならではの
「あり得ない平家物語」だろう。
そういう無理はあっても、どうしても必要な清盛平家ー頼朝ー義経の関係性を導くためのエピとして、
偽髭切の創作は理解できる。 劇場には魅力→劇場には魅惑
渡頼朝→渡清盛
他に
・終盤迷走してやる気をなくして回想を垂れ流すだけとなったーうむ49話は回想で清盛の人生を
振り返ることでドラマは起承転結の結に入った(「清盛物語」は清盛の肉体的死では終わらない。
それが最終回)。しかも、後白河との「最後の双六」はいよいよ平安の終わりが近づいたことを告げ、
しかも、そのことは頼朝との決戦の時がついに訪れたことを意味した点で、助命回いや殿上闇討ち回
にまで因果をもつ源平物語をさらに先に進める回想だった(回顧即展望)。
・ペース配分をしくじり、因果応報、輪廻転生の世界観を打ち出せないまま終わったー躍動する平安、
未来への礎を築いた清盛をコンセプトとする清盛でやりたかったのは、平家物語的仏教思想だったのか???
・とっちらかった挙句、最終回はジャンプの打ち切りpgr(おんなネトウヨ)ー○○先生助けてえー
・自分探しがないと話し作れないのは二流。武士の世?何をトンチキな目標をpgrー冬眠した清盛が
起きたらそこには武士の世の世界が広がっていたのだそうです
・情念のドラマ?昔の信玄を見習ったらpgrー別に義信を殺したように重盛を殺してませんがね >>536
役者論としては興味深いが
いちいち知識ふりかざして長々書かなきゃ気が済まんのかね
クラシック好きの高校生程度の知識はあるらしいが知性は感じられん
例えはわかりやすくするためのものなのに
誤用かも知れんが引喩失義の典型 >> 548
まあまあわたしゃクラヲタ高校生ですので、高校生に噛んで含めるようなご見識をご教授くださいよ。
もしかしてルター派の主張も古文辞学派もフルヴェンも知らない大先生。
ずーっと不思議に思ってるんだけど何で自分の意見を述べないのかねこの連中。
俺みたいな闖入者を呼び込んでしまい、平清盛は駄作ということで決着つけたところがそうはなってない状況に
怒り心頭なのはご愁傷様なんだけど、「長文(の)批評」しかないなんて寂し過ぎないかおたく? 普通にまったりと清盛について語りたいだけなのに
なんでこのスレはこうも荒れるのか >>550
高校生というか小五くらいに見える
指揮者ならビューローくらいの名前は知ってるし
徂徠先生なら思想大系で政談読んだよ
関係ないからいちいち言わないだけ
それほど博識の大先生なら愚管抄ぐらいは読んだのかね 大先生、わかったから高校生の僕に役者のアプローチ論おせえて
清盛が駄作たる所以をもう一度ご教授いただければなお幸いです >> 549
マッタリ会話が成立しているところにシャシャリ出ることはございませんので
大いにやってくださいませ この展開も歴史は繰り返すなのだけど
おばさん、2ちゃん大河板しかも過去最大級で激しい誹謗中傷に晒された
清盛関連スレで、同人誌のようにファンたちの麗しい交流が成り立つことを
見せてください
幸い連中は俺を忌み嫌ったのかもはやほとんどダンマリを決め込んでますから
僕はそのための露払いで結構です。 >>553
貴殿が高校生とは思えんがこちらの質問に答えてくれるか
愚管抄は読んだのかね
なぜ私が清盛駄作と判断したのかね
なぜダンマリ決め込んでる連中に露払いが必要なのかね ただいま
大河をほとんど見たことがなかった、他のドラマに至っては今でも滅多にみない俺。
何しろ、次やる大河が清盛と知ったのは年が明けてからのこと。役者で知っていたのは深キョンほか2,3人。
そんな俺がなんでこうなってしまったかといえば、2ちゃん大河スレを見て唖然としたから。
トンデモない卑劣な誹謗中傷と根拠を欠く言いがかりが支配する世界に愕然としてしてしまった。
しかもそれらは組織的に行われており、おまけにこいつらがリードする「ネット世論」にマスコミが飛びつく結果、
あたかも一般世論のように高められ、かくして作品の評価が定められていく。
マスコミのバッシングもそれはそれは酷かったが、ネタ元が2ちゃんであることが何と多いことか。
しかも2ちゃん与党たちは、ツイやらブログでも「活躍」する連中だ。
こう頭に血が昇り防戦しているうちに、すっかり清盛に魅せられてしまった。
そういう次第で、義憤にかられて闖入した何もかも素人の俺は、連中にとって鬱陶しい虻、薄汚いゴキブリとなった。
そーゆーことだ。 なんで俺が愚管抄読んだかどうかこだわるの?んなこと何の関係があるんだ。
大隅先生の解説つきのやつを電子書籍化して持ち歩き、必要に応じて参照しているが?
よろしい?では答えてね。聞いているのは役者のアプローチ論。 ついでに駄作でも傑作でも良いから、上に箇条書きした連中がやってきた批判についてのご意見はどう?
それらは、ほとんどがとんでもない誹謗中傷を除いたもので(ほんとは読むに耐えないたぐいのもたくさんあった)、
内容面についてのものだから論評に値する。 中でも2人のリーダーによる大傑作
2ちゃん大河軍司令官でもあられる北の将軍様が自らの大発見を太字赤書で記した
・なぜ清盛は変わっていったのか、そのプロセスがすっぽりと抜け落ちていた
2ちゃん情報担当取締役として日々優雅に研究しておられるザ・執念のおじさん作
・和歌もどきは平安文化に対する脚本家の教養の無さを露呈した
こちらは即刻2ちゃんへ投下され愉快な仲間たちに共有されました
あまりの傑作ゆえ、御本人さまからも是非コメント欲しいなー、頼んますよ
おばさんたちのマッタリ楽しいお話始まらないし・・・ >・真田丸は真摯に歴史と向き合ったギリギリの緊張感があったが
今日一番笑ったギャグだわw
お前センスあるよwww ツイ見たら、非常にこの時代に詳しそうな女性清盛ファンが義経への違和感を。一番のそれは女君の髪ということ。
自分はこの手のことには不案内なので気にならない、というか気がつかない。
人によって見る視角が異なるなーと感心した。
むしろ、美術・映像面では、内容的に心理ドラマの色合いを深めつつも、決して歴史劇からは離れていなかったのに、
映像面で福原と大輪田泊のイメージを表現することをほぼ放棄してしまい、狭苦しい「四畳半大河」となってしまったことが、
予算上の制約があったとはいえ残念だった(もちろん厳島ロケなどは頑張った).。
このことを、義経のロケを多用した拡がりのある映像から再認識した。大河清盛の大きな弱点を一つあげろと言われれば、
自分は開放感と拡がりに欠け、海が出てこない福原・大輪田泊の描写をあげる(始まったばかりの義経はここに金を投入できた)。
違和感といえば、義経が目指す「新しい世」」とは清盛が夢描いたそれを継承するもので、憧れの福原を見学に訪れ、辞去の際には
清盛と面談に及ぶ。平家一同、12、3歳で超人ぶりを発揮するガキ義経の動向にピリピリ。うつぼ他オリキャラ大集合・・・
みたいなファンタジーには目を瞑っても、何年に何があったという基本中の基本がどうにも大雑把なこと。
徳子入内とほぼ同時に3年後の義経出奔が出来したり、、鹿ケ谷の事件の頃結ばれた頼朝と政子のラブアフェアが既に始まっていたり
(清盛はまさに鹿ケ谷回で結ばれた)、時政がずいぶん前に大番役であったり、70年代初頭から清盛の福原構想がすでに現実化して
都建設が始まっており、貴族たちが不満を抱いていたり、時系列どうなってんだろうとイライラしてしまう。 「義経」のラスト、弁慶に防ぎ矢を頼むシーンはBGMと相俟って、冷徹な俺でも泣きそうになる。
松平健の顔合成のハリネズミはちゃちなんであれだが。 >>1
義経千本桜で、弁慶が義経をそのまま撲殺したのと同じ程度の演出だった大河ですな。 平清盛vs真田丸w
平治の乱>>>関ヶ原の戦いw
保元の乱>>>>>大阪の陣wwwww >>559
貴殿が清盛と無関係な指揮者などひけらかすような物知りなので愚管抄ぐらい読んだのかと思っただけ
誰にでもきくわけではないよ
愚管抄はあれ見てて原文も読んでみたいと思わなかったの?
伊豆の頼朝と都の遮那王が組めばことは剣呑、にはあっけにとられたな
さすが伊勢の平氏は心も過敏て思ったよ いつまでもヨタってんなよ
指揮者の名まで出してやるのはNGだから挙げずに
しかし原典に集中するか社会的文化的歴史的文脈を重視するかのアプローチの違いは
いろいろな分野で見てとれる広がりをもつ問題であることを指摘した
おたくが絡んで来たのでしょうがないので出して説明しただけ
あと言っとくけど俺は歴史素人で原文を精読するほど熱心な学習者ではない
だから愚管抄にしても長崎浩の政治哲学的読解本(平凡社新書)持ち歩いており
こちらを見ることの方が多い
歴史に詳しくないと愚管抄を原文で全文読んでないと清盛を語ってはならないのか
でいつになったら自分の意見を言うのだ?ハンス・フォン・ビューローさんよ そうそう、昼間視聴率スレで汚盛がーが、今注目の最終回延長なしネタに絡めて、
ザ定番「清盛最終回ジャンプの打ち切り説」をご開陳していたので一筆差し上げた。
地下鉄内でコピペできないので、拙文読んで「私の清盛最終回」を語ってくれ。 この問題は、役作りに関するマツケンvs杏の対照から派生したものだ。
なぜそこから提起されたアプローチ論について語らず(マツケン不勉強の証拠というレスがあったので、一般化して問題提起した)、
愚管抄を原文で読めなんて話にもっていくのだ。それこそスレチではないか。全文原文で精読していない以上読んだことにならない
というのなら、読んでない。
頼朝挙兵は清盛にとって青天の霹靂であったことがキモだと思うのだが、10年も前から頼朝のみならず少年義経の動向にまで
ピリピリして常時監視、圧力を加えていた大河義経は、そうなりそうもない設定。
実際どうだったか忘れてしまったので、この機会に確認したい。 清盛と花燃ゆは、ふつうの不評ではない、最低評価を下す視聴者が圧倒的に多かったため延長なしとなった・・・
なる珍妙なご意見を直虎スレで読んだので、昨日レスした↓(一部修正)。
NHKは延長あるなしを視聴者のアンケート調査とやらから判断してるのか?
何年も準備して総力を結集した渾身の作品。NHKの事後の総括でも高評価を受け(素晴らしかったが時代の先を行きすぎた)、
将来Pは記念すべき100作目の朝ドラを担当することになる作品について、
ドラマ部門自身の評価ではなく、またドラマの質だけの力学からは決まらない編成の都合でもなく(最低視聴率では冷遇されても仕方ない)、
王家がー海賊王がー汚盛がーで大騒ぎした声のデカいお前らのような特殊ネット人種や、昔は良かったーから一歩も抜け出ない
これまたお前らのような大河保守層たちが、クレーマーよろしく皆さまのNHKに寄せた「圧倒的低評価=とても不満」の声により、
延長なしかを決めるのか?そうではないだろう。
ちなみに花燃ゆの内部評価は知らんが、おそらく高くない。また、関心をもたない層、失った層は分厚くても、
(それでも後半の鹿鳴館ダンスへ向けたセレブ物語は直虎より視聴率は高い)、冷笑記事は多数あっても、
とても不満だとする熱心なアンチ層は、清盛の特大アンチ層と比べれば一桁少ないだろう。
だから、花燃ゆについては、単純に「とても不満だ」とか、終盤大失速したので早く閉じたい、とかいった理由では説明できない面がある。
そこで個人的な印象論にすぎないが、年末押し迫った編成の圧力が一番の要素であるような気がしている(著しく低視聴率の場合は、
この圧力に抗して枠延長を勝ち取ることが困難)。
もちろん、延長なしと最終回のクオリティとはまったく別問題であるし、そもそもすべての作品が延長するに相応しいかと
いえばそんなことはない。作品の特性ごとに判断すべき問題だ(清盛は延長に値するが、結果的に無くても良かった)。 ビューローのファーストネーム紹介してくれてありがとう
この場にふさわしくないわかりにくい表現で書いておきながら
絡まれたらもっとわかりにくいこと書いて相手を威圧するのが貴殿のやり方か
そういう衒学で相手を黙らせるのが常套手段か
貴殿は虻やゴキブリなんてかわいげのあるものじゃなくてスカンクだな >拡大ではなくても【主役の死後を適当にまとめて】最終回1ケタなんてダサい最後もあったからな
清盛物語を締めるべくギリギリまで厳選された素材〜
挽歌となった後白河最後の「遊びをせんとや」、清盛無念の熱病死、宗教者西行からの慰撫と餞の言葉
(お点前が生きてこられた《面白き※》平清盛の一生、眩いばかりの《美しさ》にござります)、
一門との感動の別れ、壇ノ浦までのダイジェスト(平家メンバーの退場させるための舞台装置、
見せ場は碇知盛と時子&安徳入水に特化)、武士の世造りは頼朝へ襷渡し〜志の承継と髭切を手にした
頼朝の力強い決意表明(23話為義→義朝のリフレインでもある)、
頼朝覇権確立のため避けて通れなかった義経抹殺、武家政権を樹立した頼朝は久々の上洛と後白河謁見、
交易への志は同志兎丸の遺児小兎丸に受け継がれ、民間の手によって連綿と担われたことが示唆され、
他方、国家間貿易再開は義満を待たねばならない旨解説された。
こうして波乱の人生を「面白く」駆け抜けて(遊びをせんとや生まれけん)、武士の世と交易国家の礎を築いた
高平太清盛は、一門が待つ海の底の都へ降りて行く・・・
45分の尺で、これらの素材を軽重考え抜かれた一分の隙もない構成とハイテクで配し(西行が肝)、
ロングパスとパラドックス、アイロニーを駆使して一つ一つのシーンの意味を充填させ
(助命時の「見ておれ、眺めてろ」から敗者となった「継承式」での「見せて見よ」。さらに
母池禅尼の願い通り平家の血脈を継いだ、平家内離反分子頼盛が認めた「一連托生」を凝視しつつ、
弟義経討伐を決意する頼朝。)、
最後は、哀れ盲人の琵琶法師に身をやつした禿のリーダーが語る諸行無常・盛者必衰の族滅物語から、
一気に希望の物語へとトーンを転調させて(サバサバとした表情で頼朝へバトン、大海に漕ぎ出す小兎丸、
そして笑顔の一門との再会)、ついに清盛物語は大団円を迎え、そして冒頭へと回帰した
〜平清盛なくして武士の世はなかった〜
以上、御影石のような硬質な密度と構成、驚異的な完成度を誇る最終回が、アホウヨたちや漫画脳たちには
ジャンプの打ち切り!に見えたのだそうだ。 清盛見て少しでもググったらいろいろ文献踏まえているのがわかるはずだし
より理解を深めようと原典にあたるのも十分あり得る話だ
実際俺は清盛見てから愚管抄が気になって初めて読んだよ
古文そのものは難しくないから(別の意味で難解だったが)苦労しながらなんとか読めた
貴殿は真摯に清盛に挑むのではなく
稚拙な長文に衒学趣味をちらすというなんとも臭い屁を放つ
相手が逃げ出すのは当然だな
あらためて言うがもちろん清盛論に愚管抄は必須ではない
貴殿の衒学に一言いいたくなっただけ
大河はほとんど見たことないが義経は見たのか
どういう人物設定かよくわからん 最終回にはただただ圧倒された
兎丸のオリキャラとしての意義もよく理解できた
しかしドラマの最終回として面白いとは感じられなかった
清盛は総じてそういうドラマだったな ※≪面白き≫は付加したもの。しかし、直前の西行の賛辞は、遊びをせんとやの歌に関する「母舞子自身による解説」(1話)を
ほぼそのまま援用したものであり、これこそが「面白き人生」の中身である。これもまた得意のリフレイン。
【舞子】
「子どもが遊ぶときは、時のたつのも忘れて、目の前のことに無心になっておりまする。生きるとは、ほんとうはそういうことに
ござりましょう。うれしいとき、楽しいときも。また、つらいとき、苦しいときさえも。子どもが遊ぶみたいに夢中になって生きたい。
そういう歌だと思って、私は歌うておりまする」
【西行】
「うれしいとき、楽しいときも。つらいとき、苦しいときさえも―いついなかるときも、子どもが遊ぶようにお手前は生きた。
生き尽した。お手前の生きてこられた平清盛の一生。まばゆいばかりの美しさにござります」
また、23話義朝に対する為義の「それがお前の選んだ道。源氏の栄華へと続く道じゃ」を受けたフレーズが、頼朝の
「これが私の選んだ道。武士の栄華へと続く道じゃ」。これもまたスーパーロングパス。
零落から武士の頂点へ上り詰めた源氏三代の帰し方を、たったこれだけで総括してみせた。 だから何で中身を語らないの?少なくともおれは中身に即して具体的に論じてるんだけどさ。
面白いとかつまらないとかそんなの勝手だし文句ないし興味ないよ。 またぞろオッチャンが流して話題となってる長瀬清盛流産咄し
しかし清盛よりスケボーに夢中のジャニーズさんが片手間でやれる役ではありません
役の幅がどんだけある人なのかは知りませんがそれ以前の姿勢の問題として
ただ当時30代前半であったスター長瀬に白羽の矢が立ったことはありうる(清盛役最適齢)
しかし長瀬だったら清盛息子たちが若手だらけとなる「弊害」は免れたとする批判は
彼が不惑を超えた中堅役者であって初めて成り立つもので単なる思い込みにすぎない 歴史鑑定ゴッシー録画し忘れたΣ(-᷅_-᷄๑) 最後頼朝との双六では、わざわざナレ朝から「やる気なし」と言われてしまうほど
精気を失ってしまったゴッシー。
双六の相手はあくまでも清盛でないと、「ゾクゾクするぜー」とならないのだろう。
ライバル清盛が生きているうちはさして歳を取らなかったゴッシーだが、清盛死後は
急速に老けていったのだろう。最後の老醜は単なる加齢によるものではない。
このように清盛役者陣の老けメイクは、自然のエイジングよりもその時の精神状況を
反映させる場合が多かった(公達から時代遅れの老兵となったことを告げられて以降
一気に老けた忠清、壇ノ浦船上で早生ける屍状態の清盛股肱の臣盛国など。幽霊聖子は
特殊。時子など女性陣は大河のお約束通り最後ちょこっとだけ老けメイク)。
もっとも、このゴッシー像はあくまで大河清盛が設定した「40年に渡る宿命のライバル」
によるものであり、歴史上の後白河が大天狗の本領を発揮するのは清盛死後のことだから、
後白河を主人公としてトータルに描く別の大河は十分成り立つ。
しかし、若き雅仁から綿密に人物造型された清盛の後白河を超えるのは至難の技だろう。 なんと言ってもトップモデルだったという堀河リョウさんが大敢闘賞
完全老婆姿で再登場した西行とのシーンのおかげで
黄昏れ感を深めていった雅な平安の世がいよいよ終焉を迎えることを
視聴者はひしひしと実感することができ、堀河さんと共に去り逝く平安に
オマージュを捧げたのだった スッキリしたわーと丸めた頭を照れ臭そうに撫でた入道に、老いの陰はまだない。
それが闇落ちして祇王祇女、仏御前を嬲る辺りになると、沁みだらけの老醜を無残にも晒す
清盛へと変わり果ててしまった。表情もだらしなく弛緩していく。
清盛については、自然のエイジングも頑張ったが、ここでも外貌の変化は清盛の内面を写す鏡
の役割をもたされていた(出家後は非情・冷酷、そして精神の荒廃。立ち直った後は再び引き締まる)。 ググれ何とかとは言わないけど、ふつうわかるでしょ。
オマージュの意味ではなく、何へ向けてのオマージュということかな?
それだったら、王朝文化ないし王朝文化を花咲かせた平安という時代また時代精神
と言ったところ。
堀河「西行殿。こうして恋の歌など読み交わす世は、もう長くは続かぬかも
しれませぬな。雅の花開いた平安の都はもはや・・・」
そして、この御歳うん十歳の貴婦人を生臭坊主西行が口説くw
言うまでもなく、堀河局は王朝文化を代表する女性歌人だ。
王朝文化を体現したその人とともに去り逝く平安を感慨を込めて愛惜する
そのようなシーンがアレ。 日本語にピッタリ移せる語彙がないのでふつうそのまま使うので
どう化けて出そうな堀河さんの再登場? 清盛は、個別でみるといいとこたくさんあるけど、ドラマ全体でみると、バランスがいびつな作品なんだよね。
帝と女官のハナシに尺さき過ぎたり、源氏に比重おいて、後半戦の平家の公達が稀薄だったり。開き直った群像劇かと言われるとそこまで舵を切ってないっツーか
源平モノの大河なんて、次作ってもらえるのが、何年先かわかんねえし、むりくり、あれもこれも、ぶっこみすぎた感は否めないし、
作り手も上からそういう指示がくりゃ、そのオーダーに合わせなきゃいけないし、色々、苦しい部分はあったんだろうと、推察はする。
恐らく後半戦で回収するつもりだったんだろうなって伏線が、広げ過ぎた大風呂敷みたいになってしまい、竜頭蛇尾なチッポケな収め方にとどまっちゃったのは、
アイツも出せコイツも出せって、上からの要請に抗いきれず、尺使っちゃったからなのかなと邪推してる。
「平清盛」って、タイトルにしてんだし、いっそのこと、源氏サイドは、ほとんど出さないぐらいの思い切った英断をしてほしかったよな。
ただただ、純粋に平家とそのファミリーとプリンスに焦点を当ててほしかったよ。藤原とか源氏とか諸勢力がわちゃわちゃいるのは、よくわかるんだけど。
戦国ものなら知名度高いから、本筋とかかわりの薄い秀吉一切出さない!とか許されるけど、源平じゃ、そうもいかねえんだろうな
脇役に魅力的なヤツ多すぎて、中盤以降、主人公の清盛のキャラが薄くなってったし、タイトル的にもまずいんじゃねえか?とは思った。
「平清盛」って、タイトルにしてんだし、いっそのこと、源氏サイドは、ほとんど出さないぐらいの思い切った英断をしてほしかった
恐らく後半戦で回収するつもりだったんだろうなって伏線が、広げ過ぎた大風呂敷みたいになってしまい、竜頭蛇尾なチッポケな収め方にとどまっちゃったのは、
アイツも出せコイツも出せって、上からの要請に抗いきれず、尺使っちゃったからなのかなと邪推してる。
壇ノ浦とか、清盛死後の出来事こそ、最終回初登場の琵琶法師が語っておしまい。ぐらいの唐突さの方が、諸行無常感あるし。
源氏の御曹司が来るぞ来るぞって台詞の中で出てきても、その姿は出さないほうが、怖さが引き立ったと思うんだよ。
「驕る平家」やカムロの話だけでも、じっくり話数使って、描いてほしかったなあと思うし、惜しい気がしてならない
親、妻、子供、部下、ライバルから見た、それぞれの清盛像のズレみたいなところから、人間の評価っていったいなんだろうね。見たいなのをやってほしかった気もする。
清盛も、番組発表のときは「平安のゴッドファーザーやるで!」ってぶち上げてた割りには、ファミリー間の相克やグダグダ愛憎劇とかじゃなかったしな。
フタあけてみたら、やっぱ、できませんでした。って感じが、したんだよ。
★いやはやいやはや、タグまでつけて突如発狂してやした。たぶん、とりあげてもらいたいのでしょう。2ちゃんでたらふく見たことがあるものばかりですがww
かわいそうなので、ご紹介だけに止めます。しかしこんな眩暈がしそうなバカでも凄いフォロワー数がいるのね。。。 見えぬ!見えぬ!
860年の昔に哀れを誘った近衛帝が大がつきそうなブレイクの気配
今度
子作り方面では夫婦憂い無し、なかなか授からない娘徳子の方に頭を痛めてた
清盛と時子の妊活ドラマに出るんだな
しかもミカドが妻帯坊主(官兵衛の顕如)と今世はゲイで同性カップルとか
全然関係ないのにどちらも変テコな因縁を感じる 若かりし頃、日がな一日歌いまくって帝王教育すらろくすっぽ受けていなかった方とはぜんぜん違いますよw
平和を愛し人権尊重の理念を貫く責任感の強い今上陛下は、政敵に謀略を仕掛けたり、その息子を虐待したり、
都合悪くなると臣下に罪をなすりつけてトンずらしたり、アハハハハハと悪魔的に咆哮したり、双六盤ひっくり返したり、
ダダ捏ねたり、鐘太鼓鳴らして息子の葬儀に現れたり・・・そんな無茶なこと間違ってもしませんよ。。。
しかしそんなゴッシーであっても、芸道精進に関しては真摯かつ粘り強かった。大河清盛の功績の一つに、天皇をかくも
(歴史上の後白河に近づけて・・・)エキソントリックな人物とすることに躊躇なかった一方で、後白河の真摯と偏執が生み出した
+の価値創造をきちんとフォローしていたこと。それが、執念でやり遂げた梁塵秘抄編纂のシーン。
何度か紹介したが、「わしは清盛のような(形をもつ有益で後世に残る)泊は作れない。だが、わしは(無益な流行歌)今様が好きじゃ」と、
やや自虐的となって滋子にしんみり語りかけるシーンは、マイ・フェイバリットの一つ(「はかなき歌」回)。
今日まで伝わる貴重な文化財産である今様の編纂は、我々が敬意をもって語り継がなければならない、後白河畢生の文化事業である。 あ、書き込んでよく見たら白河院化か??!
これはいよいよ難しい論点だ!w ああ、もしかして「院政」の弊害というか懸念「ここはわしの世じゃ」化のことね(現役天皇であったゴッシーは、鳥羽に対して
「法皇よここは私の世じゃ」と冷酷に言い放ち鳥羽を葬り去った〜いったん統治意欲を成人となった天皇が示すと「院政」は危うくなる。
そして、ドラマでもっとも強烈かつ重要だったのが、言うまでもなく、闇討ち清盛が発した「ここはわしの世じゃーーー」(白河の再帰)である)。
賢明なお方なので、平城太政天皇の変を教訓に、賢慮に満ちた振る舞いをされた嵯峨太政天皇のように
「存在感を発揮しつつも国政上(今でいえば「象徴」)の邪魔はしない」上皇様となられるだろうから、大丈夫だと思うぞ。
ただし、個人の意思や振る舞いだけではどうにもならない事態も生じうる(権力による政治利用など)。
民主主義の世にそんなことがありうるのか疑問であっても、制度的措置をきちんと整える必要がある。
偉い人たちが加わって政府が今やってることは、「二所朝廷」が生じないような制度設計だろうね。 「平清盛」って、タイトルにしてんだし
「平清盛」って、タイトルにしてんだし
言いたいことはわかりました(藁) 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) 40話「はかなき歌」(ノベでは「儚き歌声」)
このサブタイは、もちろん『梁塵秘抄』からとったもの。
・梁に積もる塵の如し〜取るに足らない、吹けば飛ぶ、役に立たない、後世に遺らないby後白河
これを
・清盛の偉業である大輪田泊建設〜今に伝わる有形固定公共インフラ〜と対比し、
さらに
・まもなく訪れる滋子の死がもった喪失感、空洞感〜清盛と後白河との間を取り持った滋子の存在は大きく、
したがって、滋子の死は直ちに両者の決裂をもたらした。時代は雪崩をうったように鹿ケ谷の破局へと
突き進んでいく〜
を込めたものだ。
オーソドックスにして含蓄に富むセンス溢れるサブタイ んー・・・今様は最初から流れていたでそ
♪遊びをせんと生まれけむ
聖子ちゃんに歌って欲しかったがあのダミ声では興醒めだな んん何のこと?
以下、「遊びをせんとや」を歌った人(opの少女除く)
・舞子→忠盛に歌の極意を語り生き方を教え、さらに海賊船のピンチから清盛を救った。
(乙前=舞子師匠から伝授された雅仁が超美声で歌うそれを聴いた清盛は、
「あの時、母が歌うこの歌が聞こえてこなんだったら俺は生きてなかった」とシミジミと述懐)
・女御=乙前→白拍子界のスーパースターにして白河寵姫の歌姫。舞子に伝授。青墓では美声で歌う
この歌により要らぬ皇子雅仁はボーンアゲイン、帝位を手繰り寄せた。
さらに、生死の境を彷徨う清盛の枕元で歌って生還を誘った。出番は少なくても決定的な役割を
果たし続けた聖子ちゃん。清盛と後白河双方を等距離で見守り続けた集大成が、
あの忘れがたいリフレイン「いかがでござりますかそこからの眺めは」であったというのは悲しい。
・パパ盛→想い出アイテムである鹿爪露見と同時にこれを歌う場を押さえられ、正妻宗子を苦しめた。
忠盛にとっても舞子が語る極意は人生の指針となったが、最終段階で迷いを生じてしまった
(舞子はあの歌に関してああ言ったけど俺は何をしてきたのだろう)。迷える自分に変わって平氏がなすべき
決断を下した清盛によって太刀を振るう目的を諭され(武士の世を目指す)、名実共に平氏の棟梁は
清盛に引き継がれることとなった(「さらば父上」回)。
・ゴッシー→即位直前で歌った言わば決意表面〜生まれたこと自体既にバクチだ、面白く生きてやろう!
その後もしばしば口ずさみ、返歌のように歌う滋子とフォーリンラブ。乙前から免許皆伝。
最後となった朗唱は、「生命の歌」でありながら、あたかも死にゆく宿命のライバル清盛に対する
エレジーのように響いた。
・清盛→実はほとんど歌ってない。和歌下手同様、清盛はあくまでもガサツなところがある
散文的な男だった(私は和歌も舞もダメだが、その代わり息子たち、孫たちには仕込んでおるゆえ
ご披露いたします、とのスタンス)。保元か平治の乱後の宴席で確か一度、洗練されてないそれを
披露しただけのような。
しかしながら、最後西行が慰撫したように、志半ばで死なざるを得ない清盛の人生を突き動かし、
西行をして「生き尽くした」と評価させた(美しい!)のは、まさに母舞子から受け継いだ「遊びをせんとや」
の精神と生き様ゆえであった。
清盛が貫いた「面白き人生」は、明確に意識されていたというよりも(したがって積極的に歌うことはない)、
いわば母舞子からのDNAとして清盛に深く刻印されたものだろう(父白河の血の支配に相当する)。 こうやって見ると、少なくとも祇園女御=乙前と雅仁=後白河の2人については、
歌手か歌手並みの力量をもつ俳優が必須であったと改めて痛感する。
白拍子という芸能民から専制君主の寵姫まで上り詰めた女性に、
現代の代表的なセレブ芸能人であり歌姫である聖子は、これ以上ない適性をもっていた。
どんなに上手い女優でも歌で魅せることが出来なければ、この祇園女御=乙前は務まらない。
また、マツケンと松田翔太はチェンジした方が良かったという意見を読んだことがある。
しかし、ほろ酔い気分で下手な「遊びをせんとや」を歌うのがせいぜいっぽいマツケンが、
「誕生後白河帝」回において、高貴でエロチックな表情と歌手さながらの歌唱力と美声により、
視聴者のみならず清盛をも魅了した翔太後白河に取って代わる姿を想像することは、
ほとんど不可能に近い。マツケンの顔、表情、声に置き換えてあのシーンを再現してみてね・・
つまるところ、マツケンはゴッシー無理だし、役の幅が広くない翔太も清盛の一生をやるのは無理。
結局、キャスティングに関する磯Pの並々ならぬ鑑識能力と選択眼に感服してしまうのだった。 最終回何で清盛は幽体離脱してワープしたの?
理由は至ってシンプル
・ここで死ぬわけにはいかないと死を拒む清盛に、運命を受け入れさせきちんと成仏させなければならなかった。
・その役目を担える人間は、北面以来の友人であり宗教者である西行をおいて他にいない。
しかし
・源平争乱が始まり西行は高野山から伊勢に移っていたため、京の清盛を訪ねる時間的余裕はもはやなかった
(清盛は熱病で急死)。
そこで
・(無意識で救いを求める)清盛の方から、伊勢で庵を結ぶ西行を「訪問」する必要があった。
こうして、厳しい審美眼を誇る、当代一の歌人にして宗教者西行による気高くも優しい餞の言葉〜
「平清盛の一生まばゆいばかりの美しさでござります」が、伊勢の地で生まれた。
大河清盛は、誰がいつ何処にあったかといった基本的な史実を安易に取り扱ったりはしなかった。
伊勢にいる〈人間〉西行が京にやってくるのではなく、京にいる人間清盛から幽体離脱した〈霊魂〉が
伊勢の西行のもとにやってくる形をとったのは、大方の見方(あり得ないファンタジー)に反して、
そちらの方が「史実に反しない」からだろう。
1181年のその時、西行の肉体が京にあったとしたら、明確に史実に反することとなってしまうのに対して、
その時、清盛の霊魂が肉体から離れ伊勢へ飛んでいったとしても、清盛の肉体は京にちゃんとあったのである。
西行を最終回のキーマンに据えたドラマならではの優れた設定であった(もう一つの「超常現象」は、
イタコとなって清盛を召喚して頼朝との対面をセッティングしたこと。このシーン無くして清盛物語は
完結しないと断言できるほど重要なミッションを、東大寺勧進僧西行〜鎌倉入りは史実〜は最後の最後で遂行した)。 よく◯◯のムダ遣いと言われ方をする。
モノとカネに関しては、どうしても費用対効果の点で疑問符がついた海賊船を挙げざるをえない。
しかし、この高くついた船はその後、おんな城主に精霊にと大活躍するレガシーとなっている。
昔の大河の合戦は凄かったーなる嘘っぱちにあって、『葵三代』が関ヶ原に異例とも言える
資金を集中的に投下したのは、この合戦シーンをその後「使い回し」する意図があったからだ。
清盛の海賊船も、当初から「使い回し」を前提とする物的インフラ造りだったのだろう。
人的に良い意味で「ムダ遣い」されたのは、相撲節会に駆り出された長門こと豊真将。
当時現役力士だった豊真将が、信西による古儀復興政策の主要イベントに参加してくれたのは
大変有り難いことだ。
ただ、『清盛の大一番』で最も重要だったのは、和歌よりも今様、古典よりも流行歌が好きな後白河が、
清盛の狙い通り、途中から関心を相撲=古典ではなく、宋伝来の高級茶器(新しいモノ、珍しいモノ)
に向けてしまったことにあった。
途中から相撲はどうでもよくなってしまったゴッシーは、信頼の「勝者にお言葉を」をガン無視して、
このパーフォーマーは誰かを訪ね、待ってましたとばかりに清盛をプッシュした信西に応えるかのように、
清盛を念願の太宰大弐に任命した。
「組まずにゴシラに勝ちおった(by信西)」清盛の作戦勝ち。保元の乱後の政治の有り様を見る場合に
重要となる信西の新政策と、西国並びに博多交易支配を目論む清盛にとって決定的な意味をもった
太宰大弐職ゲットという重要史実が、驚くべき精度でドラマ化された回こそ、神回『叔父を斬る』
に続く「箸休め回」ならぬ相撲節会回であった。
かくも意味で充満した相撲節会において、ゴッシーからシカトされる役回りでありながら、渾身の
取り組みを披露されたお相撲さんたちに、心からのお詫びと敬意を表したいと思います。 市川海老蔵による清盛が見たい。
今やっている信長はなかなかよい。セリフが少ないからだろうけれども。
相撲好き、美丈夫好き。冷徹。
こんな清盛がみたい。 良い胸毛の平清盛
1167年 平清盛が太政大臣となる 海老蔵信長は、歴代でも屈指の所作だけで周囲を圧する怖ーーーい存在感と、
指摘されているセリフの(失礼ながら)棒読み感のギャップに困惑してしまう。
一つ言えるのは、清盛は怖いところ(少年頼朝を圧倒し、原田を黙らせ、祐親をビビらせた)
もあったけれど、また晩年激しく逸脱堕落した権力者の面も見せたけれど、
根本的には生涯情感豊かで人懐こく優しい人だった(高橋先生の指摘する人物像にほぼ添う)。
この「活動的で情感豊かそして人懐こい」清盛を海老蔵でイメージするのは甚だ困難です。
スンマセン。 そう言えば本郷先生も
「清盛が悪人のわけないじゃないですか。あの頼朝を助命しちゃった人ですよ」
言うてはった。 バルトが俳優でNHKデビューだと!
豊真将さんも大人しくしてないでゴッシーに
「あんたのために汗流したのにその態度はなんだ!
一言勝者にお祝いの言葉をくれよ、あんた主催したミカドなんだろ!!!」
と激オコしてもらって異議なーーーしでしたw 思えば
・「侮辱」された悔しさで面を上げたその先にあったのは、ニッコリ微笑む清盛さん
・原田恫喝は品行方正であるはずの盛国と本領発揮兎丸と共に演じたまさにヤクザ「芝居」
・祐親は親しげに声をかけた清盛に勝手にビビったうえ、今流行りの「忖度」を
伊豆に持ち込んで千鶴丸を殺めてしまった。清盛のせいでも何でもない
ほんと出家以前の清盛殿はイイ人オーラに満ち溢れていた 大晦日の朝って、朝ドラの総集編を流すのが通例だったような。
ところが今年は、新枠土曜時代ドラマ第1作の光栄に浴した『みを尽くし料理帖』。
たぶん、時間帯から推測するに視聴率は5、6%。いつもの藤本作品同様、はなはだ
芳しくない視聴率だっただろうに、この優遇措置。
どれだけこの作品に対する内部評価が高いかがわかるだろう(原作の世界観を崩さず、
短い尺に切り詰めて再構成する方面でも半端でない力量をもつことを、
このオリジナル得意の天才は証明した)。
ここから先はただの妄想ながら、引き続き清盛BS再放送、みを尽くし続編、
そして大本命たる朝ドラ、大河再登板という流れを期待してしまう。 しかしいつも通り、アホウヨとババアたちが押しかけて
・テレ朝版に遥かに劣る
・愛する草刈昌幸さんが出てる武士メシを見習え
・ただの江戸料理バラエティへと原作を貶めた
大変お元気で何よりでした。。。 同じ歴史場面を源平正反対の立場から描いたシーンの比較は興味深い。
富士川の戦いなんかもそう。
どちらも「大軍が対峙した状況」描写はたいしたことなく、とくに清盛はスタジオ感満載で終わってしまった。
しかし、たとえ予算的に余裕が残っていたとしても、清盛不在かつ寄せ集めの軍隊らしく脱走兵が相次いで寡兵と相成り、
ついには合戦を回避して逃げ帰ったことが核心であった「富士川の戦い」を、誇張された軍記物よろしく
壮大な合戦絵巻へとでっち上げることはなかっただろう。
この富士川を「ショボかった」と貶すことはそもそもナンセンスなのである。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています