もう一つ、おかしな言い方となるが、「史実・エピとロジック・解釈との乖離」というのをあげたい。
格好の例が頼朝助命シーン。
ここは表面的に見るかぎり、〈「家盛に似ているから助けてあげて」との池禅尼からの嘆願に抗することができずに、
清盛は頼朝の命を助け伊豆へ流刑とした〉という、従来通りのある意味何の変哲もない展開にすぎなかった
(清盛をこのレベルで命題化していくとオーソドックスな通史ができてしまうくらい、いわゆる「年表大河」でもあった)。
しかし、このお馴染みの展開の背後には、最初から最後までドラマ全体を貫くロジックが支配していたことについて、もはや説明は不要だろう。
なにしろ、頼朝助命時に「眺めておれ、見ておれ」と突き放した清盛の真意は、「今度こそ正々堂々戦おう。伊豆で成長しろよ」であったのだから。
そして、闇落ちした清盛が頼朝挙兵によって救われ、武士の魂を再点火させたのは、源平合戦本戦ラウンド(武士長者決定戦)を渇望した
この助命シーンを思い出したからに違いないのだから。
以上を、「多彩な歴史展開の背後を貫通する一つの物語性」と言い換えてもよい。
こうしたところが、エピを並べていく大河には見られない大河清盛の一番難しかったところであり、大河としてこういうのアリ?
と批判されても仕方ない部分でもあった。