【第三十二回】太平記 part.32『藤夜叉死す』
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新田宗家が世良田と岩松に分割相続されるあたり泣けるわ… 義重が鎌倉殿に色々不興を買って
嫁の実家北条にも疎まれたんだっけ >>433
それ以前に、足利荘を継承している時点で源義国系の嫡流は足利氏でしょう・・・。 義国の正室の子が足利義康、側室の子が新田義重。嫡流は足利ですぜ そもそも足利荘を鳥羽法皇(あるいは美福門院)に寄進して荘園化したのも義康だよな。
後世に足利荘が八条院領となり、足利氏と大覚寺統の間に接点が生じる背景 頼朝挙兵の折、足利義兼はいち早く頼朝の下に馳せ参じ、一方の新田義重は平家に加担する。頼朝の母と足利義兼の母は姉妹、なおかつ義兼の正室は北条政子の妹時子。頼朝と義兼は二重の姻戚関係である 足利氏と新田氏その5
http://www.bekkoame.ne.jp/ha/toutushou/a_n05.html
幕府の安堵状があるのだが「新田孫太郎貞義」と誤記されている。 これも当時の新田の状況を現していると思う。 北条氏とって名前もろくに覚えてもらってないのだ。 (正しく書かれていれば「新田小太郎義貞」となる)
新田の没落っぷりに涙が出るぜ… >>438
義兼はいち早く頼朝に馳せ参じたと言えるのか?
最初の挙兵や石橋山の戦い、房総半島への逃避行なんかの段階では、義兼が頼朝の近辺に
いるわけではないし、実際は頼朝が鎌倉に入った後に馳せ参じているはず。
もっとも敵対行動をとったり大幅な遅参をしたわけでもないから、血縁の近さと父親同士が
盟友であった誼で、そこそこの厚遇はされているが。 新田は、頼朝が挙兵した頃は結構な勢力だったんじゃなかったかな
足利系の方が優遇されたのは、武田を分割したのと同じ理由かな
って思えなくもない 面白い話だが頼朝の時代まで遡っちゃうとスレ違いでは.....
と、言う事であの場面で石の前に出ていく藤夜叉を観て無理があると思ったのはオレだけでは無いはず >>423
難太平記読んだ事無いのか?
思いっきり決意しとるがな >>431
源義重は重鎮としてリスペクトされていたぞ
やらかしたのは政義だ >>434
足利荘は源氏の所領じゃないぞ
源氏累代の所領は八幡荘だ >>435
正室、側室の区別はついていないぞ
分かっているのは義康のかーちゃんは二号さんだけだ
あと、足利義康ではない源義康だ
義康を足利と書いた資料は一切ない(江戸期に書かれた資料はある)
気を付けろ >>436
義国と義康は寄進される院側の代理人で、寄進する秀郷流足利氏側の人間ではない
史実かどうかは知らんが、義康の母方の曽祖父さんは信西で、父方の曽祖父は美福門院と従兄弟だ
寄進云々、八条院云々で接点で糞もないわ >>438
頼朝の母と義兼の母が従兄弟は結構だが、カッコして但し書きをしっかりつけよ
事実は、義兼の母親は頼朝の母親の兄の娘だ >>438
平氏に加担なんかしてないぞ、新田荘でふんぞり返って、眺めていただけだ
以仁王の令旨を行家から、義兼は三河で、範頼は遠江、頼朝は伊豆で見せられたんだが、そりゃタイムラグはあるだろう >>436
追記だが
信西のダチが家成でその息子が、新田荘の領家の忠雅だ
また一つマニアックに賢くなったな でもなんか三河っちよりもすんなり読めるというか。
芸風変わったのか? 三河屋だろw張り切ってんなw今年の大河は絡み難いからなw >>444
北条を打倒する決意はしても、倒幕を決意したと言えるかな? なんだ三河屋だったのかw
まあ確かに三河も中世も関係ない今年の大河には絡みようがないな・・・。
しかし、だからといって暫く平穏だったこのスレで、また暴れられてもなぁ 戦国時代の三河に西郷氏がいたよね。菅沼新八郎と行動を共にした人 >>459
隆盛の家系は、三河西郷氏(一色氏が三河守護だった時代の守護代の家系)が三河に
移住してくる前の、肥前西郷氏だった時代に、頼母の家系とは分かれているんじゃないかな? >>446
(足利貞氏)
一兵たりとも、この足利荘から三河勢を生かして帰すな!! >>461
まあ西郷隆盛の先祖が三河にいるわけないってことだな。 頼朝も足利義兼も半分尾張人だからなw
尾張の底力は凄い! いや、これは文観の淫謀、もとい関東調伏の由縁だろう 新田は自前の新田荘に八幡荘まで持っててデカい勢力だったのに子孫は世渡り下手すぎるだろう 遥か後には、あの東照大権現が出るのだから、ヨシとしようじゃないかw 上野などどうでもよい!
それよりもまずこのスレに現れた三河屋をまず討つべきであろう
足元に火がついておるのじゃ〜 そろそろ足利殿が御出陣なされるころと思いましてな。ニヤニヤ 八条院領に感謝とか意味不明なんだがw
三河屋さんかな? 三十四話まで観たが面白いのう。全話観てないのに個人的に大河トップ3に入るわ
尊氏って割りと流されるタイプだなあと思うが、あんだけアンチが多いのもかわいそうではある 優柔不断に天下の政を任せてはいけないという典型例だな尊氏は >>486
湊川の戦後処理時に直義が実権持ってたら後醍醐の処遇が適切だっただろ(害し奉る) >>491
赤いミツ鱗を知ってるか〜
白い二つ引き両を知ってるか〜 >>478
長谷部信連を巡って 第2章 以仁王令旨
http://www.ne.jp/asahi/kibono/sumika/kibo/note/nob/nob-2.htm
八条院領を中心に以仁王の令旨が伝えられたから?
それだと河内源氏の棟梁っていうより、源平合戦時の源氏全体じゃないかな。 この大河はクレジット順がコロコロ変わるのが面白いな
鶴太郎の北条高時や楠木の武田鉄矢はトップ3番手やら中盤1番手にトメGまで行ったり来たり
宮沢りえは藤夜叉死すの回だけトメGに入ってた(10代女優でトメG入りは唯一?) 三河馬鹿ではないと思うけどな。あの馬鹿なら長文コピペを嬉々として張り付けるだろうし。
あと以仁王の令旨は「東国」の八条院領にばら蒔かれたが正解かな。 >>460
一色氏じゃないぞ、西郷は仁木義長の家来だ
一色氏の守護代は幡豆小笠原氏で、この幡豆小笠原氏は、霜月騒動の際、安達氏の本貫たる三河国小野田荘に逃げてきた伴野氏だ
口答えするわりに、知識が乏しいよな >>497
長谷部氏は、実は三河の古族、長谷部氏(三河国碧海郡長谷部)だろうか
長谷部信連の親父は、三河国長馬に住んでいて、長馬新大夫と名乗っていたらしいな
親父は北面武士だったから、同じく北面武士だった、三河の藤姓大宮司家、ま足利義兼の祖父、藤原範忠との縁故だろう 信連の子孫は姓を長氏に変えたんだが、三河国富永保に所領を持っていた
何故かと言うと、貞氏に能登の荘園を寄進して被官(地頭代)となり、貞氏からは三河の所領を貰ったらしい
寄進した能登の荘園は、元は賀茂社領で、三河の賀茂社領と言えば安達氏本貫たる小野田荘だ
色々繋がっているよね >>481
何が分かるかは知らんが
この3点だけ頭に入れておけばいい
最大の八条院領は三河国高橋荘高橋新荘
三河屋高橋荘高橋新荘を開発したのは、源頼朝、足利義兼(系図上)の曽祖父
三河国高橋新荘から松平家が発祥し、高橋荘からはトヨタ自動車が発祥した
■三河国高橋荘・高橋新荘
豊田市ほぼ全域とみよし市は源頼朝の曽祖父が開発し、後に皇室に寄進された最大の皇室領荘園
高橋新荘から松平家が、高橋荘からはトヨタ自動車が発祥した
・開発者は源頼朝の曽祖父、藤原季兼か?
・寄進者は藤原季兼の妹の子供、高橋惟康(藤原伊周の孫)か?
・平安末期〜戦国期に見える荘園名
・矢作川中流域の低地と山間部、豊田市(旧上郷町・高岡町を除く)・三好町・藤岡町・小原村にまたがる大荘園
・八条院領目録に院分御荘として「参河国高橋荘」「参河国高橋新荘」とあり、鳥羽院政期の院領寄進系荘園の一例とみられる
・寄進者は藤原(高橋)惟康か←藤原伊周の孫、源頼朝曽祖父の妹の息子
・八条院没後、春華門院昇子ー順徳天皇ー後高倉院→安嘉門院邦子ー亀山天皇ー後宇多天皇ー昭慶門院憙子と相伝される
・昭慶門院目録に、高橋荘は亀山院の時石清水八幡宮に寄進、新荘は冨小路前大納言(小倉実教)とあるのは領家職とみられる >>496
ttps://m.youtube.com/watch?v=1f-oASal95Y#
これ。
くそレスすまん 三河屋さあ、三河の藤姓熱田大宮司家はさすがに無理があるだろ。きっちり訂正しとけよ それをもし訂正したなら、三河屋が三河屋でなくなっちゃうよw 何故付けるか知りたいか?
答えは、ウザい名古屋が勘違いせんようにだわな
源頼朝の母親は熱田大宮司の娘
↓
源頼朝は名古屋生まれた
↓
武家政権の起源は名古屋だぎゃ〜
↓
宇宙の名古屋だぎゃ〜
最近の勘違いの具体的事例はコレだ
嘘だぎゃ〜(震え声)
トヨタは名古屋だぎゃ〜(震え声)
http://detail.chiebu..._detail/q12125423152
>何故東京の人達はトヨタ自動車というと三河にこじつけるのでしょうか?
>どうして東海銀行(三井銀行と同様にトヨタ自動車へ融資をしている)を三河銀行などとしたのか?
>またドラマの冒頭で佐藤浩市が乗っていた船の名前も「三河丸」という名前になっており、どうしてここまで三河にこだわるのかわかりません。 承久の乱で京方に付いた三河の熱田大宮司家の三河と尾張の所領は、幕府に殆ど没収された
つまり義氏は、三河と尾張のどちらの守護も選ぶ事が出来たが、義氏は三河を選択した
何故、三河だったのかは、これ見りゃ一目瞭然
源姓足利氏は、源頼朝が藤姓足利氏を滅ぼし足利荘を従兄弟の源義兼に安堵した事で初めて誕生した
京の公家社会からあぶれて、父の受領国である三河に土着し、領主化武士化した一族から鎌倉将軍家と足利将軍家が輩出され
同じく三河から、徳川将軍家とトヨグループを排出したわな
三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)
系図
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女→源頼朝(初代鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女→源義兼(足利義兼)(初代源姓足利氏)
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、三河県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(三河県豊田市)に土着する
・季兼は、三河国加茂郡(三河県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(三河県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(三河県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(三河県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪) ←乗っ取られる(笑)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝(初代鎌倉将軍
鎌倉将軍)を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼(初代源姓足利氏)を生む 承久の乱後に足利義氏が尾張守護になれた可能性は限りなく低かったと思うが。
尾張はもともと横山党小野氏が守護だったわけだから、乱後もその一族の中条氏が守護となったのは理の当然というべきだろう。 越前の雪やばいな。新田義貞も金ヶ崎城で雪に埋まってたのかな親王と共に 義氏が希望すりゃ譲るつーの、史実、安達氏は三河守護を足利氏に譲った
しかも中条氏にしてみりゃ、自分の所領である高橋荘は三河なんだからよ
願ったり叶ったりだ なんの説得力も無いから長文でごまかすわけか
いやそんな自覚はないか 日本三大炎上
・鎌倉炎上
・吉原炎上
・三河屋炎上 幕府の許可なく勝手に当事者間で守護職の譲渡なんて出来るのかね? もう馬鹿に構うな。俺たちにできることはただ一つ、徹底的にスルーするだけだ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています