【第三十二回】太平記 part.32『藤夜叉死す』
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>>478
長谷部信連を巡って 第2章 以仁王令旨
http://www.ne.jp/asahi/kibono/sumika/kibo/note/nob/nob-2.htm
八条院領を中心に以仁王の令旨が伝えられたから?
それだと河内源氏の棟梁っていうより、源平合戦時の源氏全体じゃないかな。 この大河はクレジット順がコロコロ変わるのが面白いな
鶴太郎の北条高時や楠木の武田鉄矢はトップ3番手やら中盤1番手にトメGまで行ったり来たり
宮沢りえは藤夜叉死すの回だけトメGに入ってた(10代女優でトメG入りは唯一?) 三河馬鹿ではないと思うけどな。あの馬鹿なら長文コピペを嬉々として張り付けるだろうし。
あと以仁王の令旨は「東国」の八条院領にばら蒔かれたが正解かな。 >>460
一色氏じゃないぞ、西郷は仁木義長の家来だ
一色氏の守護代は幡豆小笠原氏で、この幡豆小笠原氏は、霜月騒動の際、安達氏の本貫たる三河国小野田荘に逃げてきた伴野氏だ
口答えするわりに、知識が乏しいよな >>497
長谷部氏は、実は三河の古族、長谷部氏(三河国碧海郡長谷部)だろうか
長谷部信連の親父は、三河国長馬に住んでいて、長馬新大夫と名乗っていたらしいな
親父は北面武士だったから、同じく北面武士だった、三河の藤姓大宮司家、ま足利義兼の祖父、藤原範忠との縁故だろう 信連の子孫は姓を長氏に変えたんだが、三河国富永保に所領を持っていた
何故かと言うと、貞氏に能登の荘園を寄進して被官(地頭代)となり、貞氏からは三河の所領を貰ったらしい
寄進した能登の荘園は、元は賀茂社領で、三河の賀茂社領と言えば安達氏本貫たる小野田荘だ
色々繋がっているよね >>481
何が分かるかは知らんが
この3点だけ頭に入れておけばいい
最大の八条院領は三河国高橋荘高橋新荘
三河屋高橋荘高橋新荘を開発したのは、源頼朝、足利義兼(系図上)の曽祖父
三河国高橋新荘から松平家が発祥し、高橋荘からはトヨタ自動車が発祥した
■三河国高橋荘・高橋新荘
豊田市ほぼ全域とみよし市は源頼朝の曽祖父が開発し、後に皇室に寄進された最大の皇室領荘園
高橋新荘から松平家が、高橋荘からはトヨタ自動車が発祥した
・開発者は源頼朝の曽祖父、藤原季兼か?
・寄進者は藤原季兼の妹の子供、高橋惟康(藤原伊周の孫)か?
・平安末期〜戦国期に見える荘園名
・矢作川中流域の低地と山間部、豊田市(旧上郷町・高岡町を除く)・三好町・藤岡町・小原村にまたがる大荘園
・八条院領目録に院分御荘として「参河国高橋荘」「参河国高橋新荘」とあり、鳥羽院政期の院領寄進系荘園の一例とみられる
・寄進者は藤原(高橋)惟康か←藤原伊周の孫、源頼朝曽祖父の妹の息子
・八条院没後、春華門院昇子ー順徳天皇ー後高倉院→安嘉門院邦子ー亀山天皇ー後宇多天皇ー昭慶門院憙子と相伝される
・昭慶門院目録に、高橋荘は亀山院の時石清水八幡宮に寄進、新荘は冨小路前大納言(小倉実教)とあるのは領家職とみられる >>496
ttps://m.youtube.com/watch?v=1f-oASal95Y#
これ。
くそレスすまん 三河屋さあ、三河の藤姓熱田大宮司家はさすがに無理があるだろ。きっちり訂正しとけよ それをもし訂正したなら、三河屋が三河屋でなくなっちゃうよw 何故付けるか知りたいか?
答えは、ウザい名古屋が勘違いせんようにだわな
源頼朝の母親は熱田大宮司の娘
↓
源頼朝は名古屋生まれた
↓
武家政権の起源は名古屋だぎゃ〜
↓
宇宙の名古屋だぎゃ〜
最近の勘違いの具体的事例はコレだ
嘘だぎゃ〜(震え声)
トヨタは名古屋だぎゃ〜(震え声)
http://detail.chiebu..._detail/q12125423152
>何故東京の人達はトヨタ自動車というと三河にこじつけるのでしょうか?
>どうして東海銀行(三井銀行と同様にトヨタ自動車へ融資をしている)を三河銀行などとしたのか?
>またドラマの冒頭で佐藤浩市が乗っていた船の名前も「三河丸」という名前になっており、どうしてここまで三河にこだわるのかわかりません。 承久の乱で京方に付いた三河の熱田大宮司家の三河と尾張の所領は、幕府に殆ど没収された
つまり義氏は、三河と尾張のどちらの守護も選ぶ事が出来たが、義氏は三河を選択した
何故、三河だったのかは、これ見りゃ一目瞭然
源姓足利氏は、源頼朝が藤姓足利氏を滅ぼし足利荘を従兄弟の源義兼に安堵した事で初めて誕生した
京の公家社会からあぶれて、父の受領国である三河に土着し、領主化武士化した一族から鎌倉将軍家と足利将軍家が輩出され
同じく三河から、徳川将軍家とトヨグループを排出したわな
三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)
系図
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女→源頼朝(初代鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女→源義兼(足利義兼)(初代源姓足利氏)
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、三河県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(三河県豊田市)に土着する
・季兼は、三河国加茂郡(三河県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(三河県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(三河県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(三河県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪) ←乗っ取られる(笑)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝(初代鎌倉将軍
鎌倉将軍)を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼(初代源姓足利氏)を生む 承久の乱後に足利義氏が尾張守護になれた可能性は限りなく低かったと思うが。
尾張はもともと横山党小野氏が守護だったわけだから、乱後もその一族の中条氏が守護となったのは理の当然というべきだろう。 越前の雪やばいな。新田義貞も金ヶ崎城で雪に埋まってたのかな親王と共に 義氏が希望すりゃ譲るつーの、史実、安達氏は三河守護を足利氏に譲った
しかも中条氏にしてみりゃ、自分の所領である高橋荘は三河なんだからよ
願ったり叶ったりだ なんの説得力も無いから長文でごまかすわけか
いやそんな自覚はないか 日本三大炎上
・鎌倉炎上
・吉原炎上
・三河屋炎上 幕府の許可なく勝手に当事者間で守護職の譲渡なんて出来るのかね? もう馬鹿に構うな。俺たちにできることはただ一つ、徹底的にスルーするだけだ (桃井直常)
その方たち、今まで殿の側にいて何をしていたのじゃ?何故、あの三河の味噌侍ごときに遅れをとっておるのじゃ!!……ええぃ、儂がおらねばこの様よ……! >>523
誤魔化しているのはお前だろ
何も見えにゃ〜だぎゃ〜、何も聞こえにゃ〜だぎゃ〜
源頼朝は名古屋だぎゃ〜、とな >>526
誰が当事者同士と言った
現代社会においても、デカい組織なら、冗長化から前もって人事の打診があるだろうが
北条から足利に、お前の親戚の三河と尾張の所領を没収したが、二つは駄目だ、どっちか選べと打診するだろうな
仮に尾張を選べば、その調整も北条がやるわけだ そして、そもそも親戚がいない尾張を選ぶわけない
三河の王になればこその、この華麗な人脈だ
三河の藤姓熱田大宮司家
・家祖:藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)
・系図:藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女→源頼朝(初代鎌倉将軍)
・系図:藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女→足利義兼(初代源姓足利氏)
☆源頼朝、★足利義兼
藤原実範
・藤原成季
・藤原季綱(三河守)→@へ
・藤原季重
・藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→Cへ
・藤原行綱
・興義
・実慶
・三位女→高橋惟康(伊勢新二郎大夫、三河国加茂郡高橋庄(八条院領目録にあり)領主)
@藤原季綱
・藤原友実→Aへ
★藤原実兼→藤原通憲(信西)
・藤原悦子(鳥羽天皇乳母)→葉室顕頼(三河守)→藤原俊成(養子、三河守)→定家→為家→冷泉為相(初代冷泉家)
・他多数
A藤原友実
・藤原能兼→藤原範季(後白河院近臣、順徳天皇の外祖父、源範頼養父)→Bへ
・女子→源頼政(上西門院に出仕、伊豆守、源三位)→C
・他多数 >>532
続き
B藤原範季
・源範頼(養子、三河守)→源範円(正法寺(三河国宝飯郡)僧)→吉見為頼(初代吉見氏)
・藤原範時(八条院蔵人)
・藤原範茂(子孫は高倉家(羽林家))
・藤原重子(修明門院、順徳天皇母)→順徳天皇
・藤原範光(養子(実父は藤原範兼)、後鳥羽院近臣)
:藤原範子(養女(実父は藤原範兼)、後鳥羽天皇乳母、土御門天皇外祖母)→源在子→土御門天皇
・藤原兼子(養女(実父は藤原範兼)、後鳥羽天皇乳母)
・他多数
C源頼政
・源仲綱(大内守護)→有綱(伊豆守)→女子(源義経室)
・源国政(初代山県氏)
・源兼綱(実父は頼政兄の頼行)→大河内顕綱(初代大河内氏(三河国額田郡大河内)か?)
・源頼兼(大内守護)
・源広綱(実兄の仲綱に養子入り、駿河守)
・二条院讃岐
D藤原季兼
・藤原季範(蔵人所雑色、初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→Eへ
・藤原憲実(法眼)→藤原仲経(九条院蔵人、玄番助大夫、美濃国土岐多良庄地頭)
・女子→二階堂行政(鎌倉幕府の政所令・後に別当、初代二階堂氏) >>533
続き
E藤原季範
・藤原範忠(後白河院上北面、大宮司、三河国滝山寺大檀那、室は美福門院女房上総)→Fへ
・藤原範信(式部丞、上野介、大宮司(星野大宮司)、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野))→Gへ
・藤原範雅(後白河院上北面、大宮司)→Hへ
・藤原範綱(大学助大夫)
・藤原範智 (法眼、園城寺)→三位局(源実朝御所縫殿別当)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)→任憲(三河国滝山寺)
・粟田口長暹(法眼、三河国滝山寺、仁和寺、守覚法親王近習)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
・女子(源師経(三河権守)室)→女子(崇徳院妾)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女子(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人、上総介)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)
F藤原範忠
・藤原忠季(大宮司、刑部丞、蔵人所雑色)→藤原忠兼(備中守、大宮司)→海東忠成(猶子、大江広元の四男、初代海東氏、大宮司)
・野田清季(大宮司(野田二郎大宮司)、三河国野田城主、初代野田氏(三河国設楽郡野田))→鷹司朝季(鷹司冠者)→野田朝氏(大宮司、室は足利義兼の娘)
・藤原能季(相模守)
・藤原範高(検非違使、蔵人所、大宮司)
・寛伝(額田僧都、日光山満願寺19世座主、三河国滝山寺)
・任暁(仁和寺)
★女子→足利義兼(八条院蔵人)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)
G藤原範信
・藤原範清(検非違使、上西門院蔵人、星野左衛門大夫、頼朝右大将拝賀先駆)
・藤原憲朝(八条院判官代、駿河守、初代千秋氏(三河国設楽郡千秋))→藤原範俊(左馬助、大学助、源実朝近習)
・藤原信綱(駿河守、尾張国海東郡地頭)
・藤原信雅(高松院蔵人)
・藤原憲行
・藤原実豪(延暦寺権僧正) 追記だが
女子(源師経(三河権守)室)→女子(崇徳院妾)
源頼朝の母親の姉妹の子供、頼朝の従兄弟が崇徳院の妾になっている
もう一人の妾、兵衛佐局も三河の藤姓熱田大宮司家出身説があるそうだが、その子供の重仁親王の乳母は池禅尼
そして吉良荘は崇徳院の正室、皇嘉門院領で、寄進したのは三河の藤姓熱田大宮司家ではないかと言われている
気が狂って尾張を選んでいたら、室町幕府は無い そもそも我らは帝のために戦ったのでございましょうか
我々が北条を倒したのは足利と、武士の行く末を
思ってのこと。かつげる帝であればどんな帝でも
よろしかったのではありますまいか。
例えば木の帝であれ、金の帝であれ。 桃井直常ってドラマでは狂暴だったよな。直義も少し遠慮する尊氏に猛然と喰ってかかってたし。 >>527
申し訳ありません。構ってしまいました。今後は自重します。 >>537
でも、あの直義が重用したんだし、それなりに政務能力はあったのでは?
少なくとも単なる筋肉バカとかではないと思う。 >>537
人を悪く言うことのないない尊氏が唯一Disってた相手だからな
「あれは己の栄達しか眼中にない男ぞ」 桃井直常は戦に強かったんじゃなかった?師直みたいに >>532
訂正
義康の曽祖父が信西とするなら、こうなる
安楽寿院が建てられた鳥羽殿は、季綱
が自身の別荘を寄進した
足利荘は、義康の先祖の別荘に建てられた寺に寄進されたわけだな
藤原実範(三河守)→藤原季綱(三河守)→藤原実兼→藤原通憲(信西)→女→女→源義康?→足利義兼(初代源姓足利氏)→義氏(足利氏として初めて三河守護)
義兼は実範の息子2人の血を引くわけだが、これでみると一世代ズレている
信西の娘と同年代の女が、養女として入ったんだろうか?
藤原実範→季綱→実兼→信西→女→女→源義康?→足利義兼(初代源姓足利氏)
藤原実範→季兼→季範→女→女→足利義兼(初代源姓足利氏) イジメられ馬鹿にされても必死にしがみつく、惨めな田舎者と言うしかない
パゴヤ君はよ
303 :名無しさん@京都板じゃないよ:2012/03/23(金) 09:35:38.83
尾張國造家は、単なる外戚の三河の藤原南家に「天皇の夢」というワケのわからんムチャクチャで大宮司職を奪われるも、神宮寺の愛染院(真言系)とスクラムを組んで対抗し、
藤原季範を締め上げた。季範の息子の代には、館を社僧に取り囲まれて外に出ることもできなくなり、頼朝に泣きつき、頼朝の発案で天台系の神宮寺を作って愛染院に対抗させやがる
>「天皇の夢」というワケのわからんムチャクチャで大宮司職を奪われる(笑)
>頼朝の発案で天台系の神宮寺を作って愛染院に対抗させやがる(笑)
三河(源頼朝、三河の藤姓熱田大宮司一族、天台宗系神宮寺) vs 尾張(尾張氏(田島氏、馬場氏)、宗徒、真言宗系神宮寺)
当時、殺伐とした内部対立があった中、源頼朝が尾張で生まれるわけないだろうがw 昨晩のザ・プロファイラーで
武田鉄矢が楠木正成を熱く語っていた 正成尊氏義貞と有能な弟たちがいたのも太平記を彩ったよな。正季は違うとかいう野暮な反論はなしな。義詮直冬もいい味だしてる >>544
確かに勝ち戦もあるんだが、顕家との戦いのトラウマで以後粘りがなくなった
口先では最強硬派だけど、戦場では肝心所であっさり負けてあっさり逃げる人
桃井直常
「戦の時、どちらも退かなければ身をまっとうすることはできない。敵が先手を取ったらまず少し退いて、味方をまた立て直して攻めかかれば敵も退くものだ。」
今川範国
「桃井は、強そうな敵には何度も負け戦をするような人だ。人の天命は、そのように故実によって逃れることはできない。まず戦って、どうしようもなくなって力尽きた時に退くものである。」
・観応の擾乱で近江八相山の戦いで負けて直義優勢の空気が一変する。そのまま関東落ち。
・観応の擾乱で最初勝った宇都宮に次戦惨敗。そのまま関東は尊氏方優勢となって直義軍崩壊
・文和四年東寺合戦で主力が七条で奮戦したのに桃井が守る戒光寺をサクッと突破されて全軍敗退 >>554
本作の高兄弟に関しては、師直のほうが弟キャラだったな ??「敵は足利尊氏ただ一人!命を惜しむな!名こそ惜しめ!」 >>560
桃井はヤな奴だけど行家みたいな節操無しではなかったかと
あと「義経」で行家役だった大杉漣、端役で太平記にも出ているね
顔は全く写っていないけど声で丸わかりだった 桃井の名前の読みって、ドラマでは「なおつね」と言っているが、本当は「ただつね」だよな? 足利直義は「ただよし」なのに、登場人物のセリフで桃井直常は「なおつね」読みだったから放送当時、少し変な感じがしてた まじで大杉漣でてるな。昔の大河に若い頃の稲垣吾郎やくりぃむ上田がでてたな。
行家に似てるといったのは最初勝って後は連戦連敗ってのを言いたかったんだ
>>563
大杉漣→道誉の華麗な裏切り→坊門清忠→忍者右馬介で焼酎吹き出したわwwwwwwwwww 若殿はいかが…?
父上をお恨みいたすその一念はいかが…?
若殿の恨みが、この都を焼き払うておるのじゃ!!
これを鬼の執念と申しませぬか!? つべで久々に見たが、判官殿が足利殿の曖昧な態度が南北朝の動乱につながっているとはっきり言われているな。
サンキュー道誉 後醍醐帝が吉野にトンズラした後に尊氏が「なるようになる、何とかなるさ、Let it be〜♪」て言って、道誉直義師直が「なにいってだこいつ」って顔で呆れてるのが滑稽だったわ 鎌倉幕府が開かれてから130年、政治のひずみが到るところに噴出していた。正中ノ変はその典型的な例である。そして公武の亀裂はますます拡大し、乱世の微候が顕然となった。
「天皇御むほん」さえ囁かれるである。当時は両統迭立(てつりつ)の世、後醍醐天皇が英邁におわすほど、紛擾のもととなった。この間、足利高氏が権門の一翼として擡頭し、再度の叛乱に敗れた日野俊基とは明暗を大きく分ける。 >>579
(佐々木道誉)
ここに居並ぶ御歴々も御存知の如く、某は執権の君より内々の命を受け、長らく都の謀反に目を光らせてまいった。日野は、某の網に掛かった愚かな友でござる!! 原作では、狂言回し的な存在だった吉田兼好がキャスティングされなかったんだよな。
新平家は西行が蜷川幸雄だった。 >>581
(佐々木道誉)
円喜殿、勘違いをなされては困る。某は円喜殿と同心故、出たわけではない。
執権殿の命により出たまでの事。儂に指図が出来るのは…執権殿のみぞ…! 日野資朝の実弟賢俊が持明院統の光厳上皇の院宣を尊氏に届けるのはなんとも皮肉よな でも日野一族の大半は北朝方だし、そうじゃなければ室町期に日野家が足利将軍家の
外戚にはなれない。
それに仮に日野資朝・俊基が建武期まで生きていたとしても、史実における万里小路卿の
ように、やがて建武政権に失望して後醍醐から距離を置くようになったかも知れない。 資朝卿は後醍醐帝とウマが合うような変人だったらしいね 判官殿の家系って一度も他家から養子を取らずに版籍奉還まで大名として生き残ったんだな 凄いわ 伊達や島津だって普通に同一家系で続いているけど・・・? 大杉漣が急逝だとな…>>563は何かの暗示だったのだろうか。
ゴチとかどうすんだろうな >>593
どちらでもいいんだぞ。新しい政で新政でもあるし、天皇が自ら政治を摂った親政でもあるし 敵は、たれぞ
足利尊氏にござりまする!
このシーン音楽も良かったし記憶に残ってる
(この後判官…) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています